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2021年11月15日月曜日

人間の作った数学が、何故この宇宙を有効に記述可能なのかという、数学の有効性の奇蹟という問題がある。宇宙の構成原理そのものが数字的なものだとは思えないが、数学を支える脳の組織化原理が、宇宙の構造に合致するよう選択されてきたのではないだろうか。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

数学の有効性の奇跡

人間の作った数学が、何故この宇宙を有効に記述可能なのかという、数学の有効性の奇蹟という問題がある。宇宙の構成原理そのものが数字的なものだとは思えないが、数学を支える脳の組織化原理が、宇宙の構造に合致するよう選択されてきたのではないだろうか。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

  「数学が進化してきたのは事実である。科学史家は、それがゆっくりした思考錯誤の過程を 経て、より有効性を増してきたことを記録してきた。だとすると、宇宙が数学の法則に合致す るように設計されたと考える必然性はないだろう。どちらかと言うと、私たちの数学の法則、 そして、それに先立つ私たちの脳の組織化の原理こそが、宇宙の構造にどれほどよく合致して いるかによって選択されてきたのではないだろうか? 数学の有効性という奇蹟は、ユージ ン・ウィグナーにとっては大事な考えだったが、眼が奇蹟的に視覚に適応しているのと同様、 自然淘汰による進化で説明がつくのだろう。今日の数学が有効であるとすれば、それは、昨日 のあまり有効でない数学が、情け容赦なく排除され、別のものに取って代わってきたからなの だ。  純粋数学は、私がここで擁護している進化的視点に対し、もっと深刻な問題を提起する。数 学者は、数学の問題の中には、単に美のために追求しているものがあり、それは何の応用も目 的とはしていないと主張する。それでも、何十年もあとになって、その結果が、そのときには 思いもよらなかった物理学の問題に、ぴったりと合致することがある。人間の精神が純粋に生 み出したものが物理的実体に対して、驚くべき適合性を持つことを、どうやって説明すればよ いのだろう? 進化的枠組みでは、純粋数学は、未加工のダイヤモンドにたとえられるのでは ないか。自然淘汰の試練をまだ受けていない、原石だ。数学者たちは、膨大な数の純粋数学を 作りだしてきた。そのうちほんの一部しか、物理学に有効ではない。」(中略)  「数学の理論が物理的世界の規則性に部分的に適応しているという仮説は、プラトン主義者 と直感主義者との違いを取り持つ素地を提供してくれるかもしれない。プラトン主義者は、物 理的実体は、人間の心よりも先にある構造に基づいて構成されていると強調するが、そこに は、誰も否定できない真実の要素がある。しかしながら、私は、この構成が本質的に数学的だ とは思わない。そうではなくて、それを数学に変換しているのは、人間の脳なのだ。」

 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『数覚とは何か?』,第3部 神経細胞と数について,第9 章 数とは何か?,数学の非合理的な有効さ,早川書房(2010),pp.434-436,長谷川眞理子,小 林哲生,(訳))





直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるかが問題である。自由な構築と選択の試行錯誤が、その答えである。論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

自由な構築と選択

直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるかが問題である。自由な構築と選択の試行錯誤が、その答えである。論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

 「この枠組みでは、説明すべきものとして残ったのは、直感の生得的カテゴリーを基礎に、 数学者はどうやってさらに抽象的な記号の構築を洗練させていけるか、ということである。フ ランスの神経心理学者のジャン=ピエール・シャンジュの考えと同様、私は、構築があって選 択が起こるという進化のプロセスが数学に起こっていると示唆したい。数学が進化しているの は、よく立証された歴史の事実だ。数学は、堅固な知識のかたまりなどではない。その対象 も、論理展開のやり方さえも、多くの世代を経て進化してきた。数学の城は、試行錯誤で建て られてきた。もっとも高い骨組は、ときには崩れる寸前となり、それを崩しては再構築すると いう終わりのない繰り返しの中にある。どんな数学的構築の基礎も、集合、数、空間、時間、 論理の概念といった、本質的直感に基づいている。これらはほとんど疑問視されることはな く、私たちの脳が作り出す、何ものにも還元できない表象に深く根ざしている。数学は、これ らの直感の形式論理化をだんだんに進めてきたと言ってよいだろう。その目的は、そうした直 感をより矛盾なく、互いに整合性があり、外界に関する私たちの経験により適応したものにす ることである。  数学の対象に何を選び、どれを次世代に伝えていくかは、複数の基準がかかわっているよう だ。純粋数学では、矛盾のないことが一番だが、エレガンスと簡潔さも、その数学的構築を保 存するのに重要な性質である。応用数学では、もう一つ重要な基準がつけ加わる。その数学的 構築が物理的世界で妥当であることだ。毎年毎年、自己矛盾があったり、エレガントでなかっ たり、無用であったりする数学的構築が、無慈悲に見つけ出され、除去されていく。もっとも 強いものだけが、時の証明に耐えるのである。」

 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『数覚とは何か?』,第3部 神経細胞と数について,第9 章 数とは何か?,数学の構築と選択,早川書房(2010),pp.427-428,長谷川眞理子,小林哲 生,(訳))






たとえ数学が形式的な記号操作を基礎としていても、またあたかも抽象的な世界の実在物に思えたとしても、それは、私たちが世界を捉える生得的な直感を基盤に持つ。乳児は物体を個別化し、小さな集合から数を抽象する。幼児は、数の推定、比較、数えること、単純な加減算を、明確な指示なく行う。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

数学の本質

たとえ数学が形式的な記号操作を基礎としていても、またあたかも抽象的な世界の実在物に思えたとしても、それは、私たちが世界を捉える生得的な直感を基盤に持つ。乳児は物体を個別化し、小さな集合から数を抽象する。幼児は、数の推定、比較、数えること、単純な加減算を、明確な指示なく行う。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

「20世紀の数学者たちは、数学の対象の性質という根源的な問題について、大きく意見が分 かれていた。伝統的に「プラトン主義者」と呼ばれている人々にとっては、数学的現実は抽象 的な空間の中に存在し、その対象は、日常生活の対象と同じような実在である。」(中略) 「プラトン主義者は、数学者には広く見られる信念で、それは彼らの内観を正しく表現してい るのだと思う。彼らは本当に、数や図形でできた抽象的な地形の中を歩き回っている感じを抱 いており、それらは、そこを探検しようとする彼らの試みとは独立に存在するのだ。」(中 略)

 「プラトン主義に背を向けた第二のカテゴリーの数学者たちは、「形式主義者」と呼ばれて おり、彼らは、数学的対象の存在に関する議論は意味のない空論だと考える。彼らにとって は、数学は単に、厳密な論理的規則にしたがって記号を操作するゲームに過ぎない。数などの 数学的対象は、現実とはなんの関係もないのである。それらは、ある種の公理を満足させる記 号の集合に過ぎないと定義される。」(中略)  「数学の大部分が純粋に論理のゲームであるという形式主義者の考えには、確かにいくらか の真実が含まれているだろう。実際、純粋数学の数多くの問題は、一見したところ、夢のよう なアイデアから出発している。この公理をその否定形と入れ替えたらどうなるか? この「プ ラス」記号を「マイナス」記号に換えたらどうなるか? 負の数の平方根というものがあるこ とになったらどうなるのか? すべての数よりも大きな整数があったらどうなるか?

 それでも私は、数学の全体が、純粋に勝手な選択から始まる結果に還元できるとは思ってい ない。形式主義の立場は、純粋数学の最近の発展を説明できるかもしれないが、数学のそもそ もの起源に対して適切な説明を与えるものではない。もしも数学が論理ゲーム以外の何もので もないのなら、なぜ数学は、数、集合、連続量など、人間の心が普遍的に持つ固有のカテゴ リーに焦点を当てるのだろうか? なぜ数学者は、算術の法則の方がチェスのルールよりも根源的だと判断するのだろうか? なぜペアノは、勝手にいろいろな定義を作っていくのではな く、ずいぶん苦労して、適切に選びとった公理を提出したのだろう? なぜヒルベルト自身、 ある限定された、数の論理づけの部分集合だけを数学の暫定的な基礎として選んだのだろう か? そして、何よりも、なぜ物理的世界のモデル化に数学がこれほどよく適用できるのだろ うか?

  ほとんどの数学者は、純粋に任意な規則に従って記号操作をしているのではないと、私は考 えている。それとは反対に、彼らは、ある種の物理的、数的、幾何学的、論理的直感を、定理 の中にとらえこもうとしているのだ。そこで、第三のカテゴリーの数学者は、「直感主義者」 または「構築論者」と呼ばれている。彼らは、数学的対象は人間の心が生みだすものにほかな らないと考えている。彼らの見方では、数学は外の世界に存在するのではなく、それを発明す る数学者の頭の中だけに存在するのだ。」(中略)

  「数学の性質に関するこれまでの理論の中で、直感主義が、算術と人間の脳の関係につい て、もっともよい説明を与えるように私は思う。算術に関する心理学のここ数年の発見は、直 感主義を支持する、カントもポアンカレも知らなかった新しい議論をもたらした。これらの実 証的結果は、だいたいにおいて、数は「思考の自然な対象」であり、それによって私たちが世 界をとらえる生得的なカテゴリーであるとしたポアンカレの主張を確証している。実際、これ までの章は、この自然の数覚について、どんなことを明らかにしただろうか?

 ・人間の赤ちゃんは生まれながらに、物体を個別化し、小さな集合に含まれる数を抽出する メカニズムを備えていること。

   ・この「数覚」は動物にもあり、それゆえに言語とは独立で、長い進化の歴史を持っている こと。  

 ・子どもでは、数の推定、比較、数えること、単純な足し算と引き算はすべて、明確な指示 なしに自然に現われてくること。

 ・脳の両半球の下頭頂野は、数量の心的操作を司る神経回路を持っていること。

 数に関する直感はこのように、私たちの脳の深くに根を下ろしている。数は、本質的な次元 の一つで、神経系はそれによって外界を切り分けている。私たちが物体の色(V4領域を含む後 頭葉の回路によって生まれる性質)や、その正確な空間上の位置(後頭=頭頂間の神経投影経 路で再構築される表象)を見ずにはいられないのと同様に、数量も、下頭頂野の特殊な神経回 路を通して、苦もなく感じてしまうものなのだ。私たちの脳の構造がカテゴリーを定義し、そ れによって私たちは世界を数学的にとらえるのである。」

 (スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『数覚とは何か?』,第3部 神経細胞と数について,第9 章 数とは何か?,プラトン主義者、形式主義者、直感主義者,早川書房(2010),pp.420- 425,長谷川眞理子,小林哲生,(訳))