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2021年12月16日木曜日

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

弁証法論理学の誤り

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「弁証法論者たちは、矛盾は進歩にとって実り豊かであり、多産的であり、生産的であると いう。われわれも、これがある意味では真実であると認めた。だが、それが真実であるのは、 われわれが矛盾を許さず、矛盾を含む理論はすべてこれを変更すると――いいかえれば、矛盾を 決して容認しないと――決意する限りにおいてのみである。批判、つまり矛盾の指摘がわれわれ に理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの〔矛盾を容 認しないという〕決意に発するのである。  もしわれわれがこの態度を変え、矛盾をがまんする決心をすれば、矛盾はただちに一切の実 り豊かさを失ってしまう、ということはいくら強調しても強調したりない。矛盾はもはや知的 進歩を生み出さなくなるだろう。それというのも、われわれが矛盾をがまんする気になってし まっていれば、いくらわれわれの理論の矛盾を指摘されても、もはやわれわれを理論の変更に 向かわせることはできないからである。いいかえると、(矛盾を指摘することにある)批判 は、ことごとくすべて、その力を失ってしまうであろう。批判〔矛盾の指摘〕に対しては、 「なぜそれで悪いんだ」とか、あるいは、ひょっとすると、熱狂的に「そうだ、そうだ」とさ え、つまり指摘された矛盾を歓迎しさえする、返答がなされることになろう。  しかし、これは、われわれが矛盾をがまんする気になっていれば、批判ならびにそれととも にすべての知的進歩は終りにならざるをえない、ということを意味している。  したがって、われわれは弁証法論者にこう告げなければならぬ。君は両てんびんをかけることはできないのだ。実り豊かであるということで矛盾を重視するのであれば、君は矛盾を容認 してはならない。そうでなくて、君が矛盾を容認する気なら、そのときには矛盾は不毛であ り、合理的批判、議論、知的進歩はありえないであろう、と。  それゆえ、弁証法的発展を推進する唯一の「力」は、テーゼとアンチテーゼのあいだの矛盾 を容認しない、あるいは黙許しな、というわれわれの決意なのである。発展を推進するのは、 これら二つの観念のうちにある神秘的な力でなく、それらのあいだの神秘的な緊張関係でない ――発展を促進するのは、ひとえに、矛盾を許さないというわれわれの決意、われわれの決断で あって、それが矛盾を避けうるかもしれぬ新しい視点の探索へとわれわれを向かわせるのであ る。そして、この決意は完全に正当化できる。なぜなら、もし矛盾を容認すれば、いかなる種 類の科学的活動も断念しなければならなくなる、つまり、それは科学の全面的な崩壊を意味す るであろう、ということが簡単に論証できるからである。この点は、《もし二つの矛盾する言 明が認められるとなると、どんな言明でもすべて認めなければならなくなる》、なぜなら、一 組の矛盾する言明からはいかなる言明でも妥当に推論できるからである、ということを証明す ることによって明らかにできる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.585-586,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー(1902-1994)





批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))

批判的合理主義

批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))


「最も重要な誤解と混乱は、矛盾についての弁証法論者たちの不正確な語り方から生じる。  かれらは、矛盾が思考の歴史において最大の重要性を――まさに批判と同じくらいの重要性を ――もつことを、正しく、洞察している。それというのも、批判は例外なく何らかの矛盾、つま り、批判される理論内部の矛盾か、その理論とわれわれが受け入れる何らかの理由をもつ別の 理論とのあいだの矛盾か、あるいはその理論とある種の事実――もっと正確にいうと、その理論 と事実についてのある言明――とのあいだの矛盾、を指摘することにあるからである。批判はそ のようなある矛盾を指摘することか、さもなければおそらくは端的にその理論を否定すること (つまり、批判はただ単にアンチテーゼの言明であることがありうる)以外には決してなにも なしえない。だが、批判は、きわめて重要な意味において、あらゆる知的発展の主要原動力で ある。矛盾がなければ、批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。 そこには、いかなる知的進歩もないであろう。  こうして、もろもろの矛盾――とりわけ、いうまでもなく、ジンテーゼというかたちでの進歩 を「生み出す」ところのテーゼとアンチテーゼとのあいだの矛盾――がきわめて実り豊かなもの であり、実に思考の一切の進歩の原動力であることを正しく洞察したあげく、弁証法論者たち は――これから見るように、誤って――これらの実り多い矛盾を回避する必要はまったくないと結 論をくだす。さらにかれらは、矛盾は世界のいたるところに生じるのであるから避けることは できない、と主張しさえする。  このような主張は、伝統的論理学のいわゆる「矛盾律」(あるいは、もっと詳しくいえば 「矛盾排除律」)――二つの矛盾する言明は同時に真とは決してなりえない、あるいは、二つの 矛盾する言明の連言から成る言明は純論理的理由から常に偽として拒否されなければならない、という法則――に対する攻撃となる。矛盾の実り豊かさということを口実にして、弁証法論 者たちは、伝統的論理学のこの法則は棄て去られなければならないと主張する。このように矛 盾律を放棄することにより、結局のところ、弁証法が新しい論理学――弁証法論理学――になる、 とかれらは主張する。これまで私が単なる歴史的理論――思考の歴史的発展についての理論――と して紹介してきた弁証法は、このようにして、まったく別の理論になろうとした。つまり、弁 証法は論理学の理論であると同時に(これから見るように)世界の一般理論であろうとしたの である。  これらはとてつもなく巨大な要求であるが、しかしいささかの根拠もないものである。事 実、それは、不正確で不鮮明な語り方以上のなにものにももとづいていない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.584-585,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))

伝統主義と批判的合理主義

原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不規則性や変化への恐れ
 人間は、不規則性や変化を恐れ、逆に、斉一的になるものにしがみつく傾向があ る。

(b)予測可能な行為
 みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいる。
(c)伝統を創造し守ろうとする傾向
 人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。
(d)合理主義と伝統主義
 合理主義者の望みは、伝統主義者の不寛容さとタブー化の態度のかわりに、寛容の 伝統をおき、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くことである。
(e)社会的伝統の批判にも他の伝統が必要
 すべての社会批判やすべての社会的改良というものは、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえない。また、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえない。

「われわれは、社会生活における伝統の機能を、簡単に検討してきた。そこで見出した事柄 は、次に、伝統がどのようにして生じ、どのようにして伝えられ、どのようにして固定されて いくか――これらはすべて人間の行為の意図されざる結果なのだが――という問いに答えるのに、 役立つであろう。人々は、なぜ、自然的環境の法則を学ぼうと(し、それを他の人々に、しば しば神話の形で、教えようと)するのか。それだけでなく、なぜ、社会的環境の伝統をも、学 ぼうとするのか。その理由を、われわれは今や理解できる。人間(とくに未開人や子供)に は、なぜ、自分の生活において斉一的であるものや、斉一的になるものにしがみつく傾向があ るのか。その理由をも、われわれは今や理解できる。人間は神話にしがみつくし、みずからの 行為の斉一性にしがみつきがちである。その理由は、第一に、不規則性や変化を恐れ、した がって、不規則性や変化を起こすことを恐れるからである。第二に、みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいるからである。このように人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。これが、伝統的タ ブーが生じる有様であり、それが伝えられていく有様である。  これは、すべての伝統主義に特徴的な、極度に情緒的な不寛容さというものを、つまり、合 理主義者がつねに正当にも抵抗し続けてきた不寛容さを、部分的に、説明している。しかし、 この傾向の故に伝統そのものに攻撃を加えるようになった合理主義者は誤っていたということ が、今やわれわれにははっきり分かる。われわれは、次のように言ってもよいかもしれない。 合理主義者が本当に望んでいたことは、伝統主義者の不寛容さのかわりに新しい伝統――寛容の 伝統――を置くこと、より一般的に言えば、タブー化の態度のかわりに、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くこと、である。というのは、現存の伝統をよりよい伝統 で(あるいは、よりよい伝統であるとわれわれが信じるもので)置き換えるためには、結果と して現存の伝統を拒絶することになるにしても、われわれはつねに次の事実を意識していなけ ればならないからである。つまり、すべての社会批判やすべての社会的改良というものが、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえないということ、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえないということである。これはちょうど、科学におけるすべての進歩が、科学理論の 枠組みの中で進行せざるをえず、この科学理論の批判は他の科学理論の光のもとで行なわれ る、というのと同じである。  伝統についてここで述べたことの多くは、制度についても述べることができる。なぜなら ば、伝統と制度は、大部分の点において驚くほど似ているからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第4章 合理的な伝統論に向けて,pp.214- 216,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)