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2021年12月19日日曜日

(a)世界3の無時間性、(b)世界3を本質的に人間精神の産物である、(c)世界3の自律性、(d)世界3は実在する、(e)世界3の歴史、(f)進化論と世界3、(g)世界3の一般化。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3

(a)世界3の無時間性、(b)世界3を本質的に人間精神の産物である、(c)世界3の自律性、(d)世界3は実在する、(e)世界3の歴史、(f)進化論と世界3、(g)世界3の一般化。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)世界3の無時間性
 もしはっきり定式化された言明がいま真であるならば、それは永遠に真で あり、また常に真であった。真理は無時間的である。
(b)世界3を本質的に人間精神の産物である。
(c)世界3の自律性
 世界3の諸対象がそれ自身の固有なまたは自律的な法則をもっていて、我々の意図せ ぬ、また予期もしなかったもろもろの結果を生みだすということは、より一般的な通則、すなわち、我々のすべての行為はそのような結果を生みだすという通則の一例に過ぎない。
(d)世界3は実在する
 世界3は人間の作った他の産物と同様に実在的であり、記号体 系と同様に実在的であり、大学とか警察といった社会制度と同様に実在的である。
(e)世界3の歴史
 世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史である。
(f)進化論と世界3
 進化論においても、世界3の概念を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる動物的産物が存在する。
(g)世界3の一般化
 問題、理論、批判的 議論の世界を世界3の特殊ケース、狭義の世界3、あるいは世界3の論理的または知的領域とみ なせる。そしてより広い一般的意味での世界3に、もろもろの道具、制度、芸術作品といった 人間精神のすべての産物を含めることができる。



「自律性の問題といささか関連した、しかし私の思うに重要さに劣るものに、世界3の無時 間性の問題がある。もしはっきり定式化された言明がいま真であるならば、それは永遠に真で あり、また常に真であった。真理は無時間的である(また偽もそうである)。矛盾性とか両立 性といった論理的諸関係もまた無時間的であり、ずっとはっきりそうである。こういうわけ で、世界3の全体を、プラトンが形相またはイデアの世界についていったように、無時間的な ものとみなすのは、たいした苦労を要さないであろう。われわれはけっして理論を発明するの でなく、常に理論を発見するのである、と仮定しさえすればよいのである。そうすれば、生命 が発生する以前から存在し、すべての生命が消滅したあとにも存在し続ける無時間的な世界 3――人間がそこここでそのごく一部分を発見するところの世界――があることになろう。  このような見解をとることは可能である。だが、私はこの見解をとらない。それは世界3の 存在論的資格の問題を解決するのに失敗するだけでなく、この問題を合理的な見地から解決で きなくさせてしまう。それというのも、この見解は世界3の対象を「発見する」ことをわれわ れに許すけれども、これらの対象を発見する際にわれわれがそれらと相互作用するのか、それ ともこれらの対象がわれわれに作用しかけるだけなのか、また――特に、もしわれわれがそれら の対象に働きかけることができないのだとすれば――それらの対象はどのようにしてわれわれに働きかけることができるのか、を説明できないからである。この見解はプラトン的または新プ ラトン的直感主義にいきつき、多くの困難にぶつかることになると私は思う。それというの も、この見解は、私の思うに、世界3の諸対象の《あいだの論理的関係》の特質がこれらの対 象そのものに具備されていなければならないという誤った理解に立脚しているからである。  私はこれとは異なった考え方――驚くほど実り豊かだと私が認めたもの――を提案する。《私は 世界3を本質的に人間精神の産物だとみなす》。世界3の諸対象を創造するのはわれわれであ る。これらの諸対象がそれ自身の固有なまたは自律的な法則をもっていて、われわれの意図せ ぬ、また予期もしなかったもろもろの結果を生みだすということは、より一般的な通則――われ われのすべての行為はそのような結果を生みだすという通則――の一例(きわめて興味のある例 だが)にすぎない。  こうして私は、世界3を人間活動の産物とみなすと同時に、われわれの物理的環境と同じく らい、あるいはそれ以上に、反作用を及ぼす産物であるとみなす。すべての人間活動には一種 のフィードバックがある。行為しながら、間接的に、われわれは常にわれわれ自身に働きかけ ているのである。  もっと正確にいうと、私は問題、理論、批判的議論の世界3を人間言語の進化の諸結果の一 つと、そしてこの進化に作用し返しているものとみなす。  この見方は真理および論理的諸関係の無時間性と完全に両立する。またそれは世界3の実在 性を理解できるようにさせる。世界3は人間の作った他の産物と同様に実在的であり、記号体 系――言語――と同様に実在的であり、大学とか警察といった社会制度と同様に(おそらくはそれ よりもずっと)実在的である。  また世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史であるが、それら諸観念の発 見の歴史であるばかりでなく、どのようにしてわれわれがそれらの観念を発明したか――どのよ うにしてわれわれがそれらを作り出したか、それらがどのようにわれわれに作用し返したか、 またわれわれ自身の手になるこれらの産物にわれわれがどのように反作用したかの歴史でもあ る。  世界3のこのような見方は、人間を動物として見る進化論の領域内に世界3を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる(巣のような)動物的産物があるのだ。  そして最後に、この見方は別の方向での一般化を示唆する。われわれは問題、理論、批判的 議論の世界を世界3の特殊ケース、狭義の世界3、あるいは世界3の論理的または知的領域とみ なせる。そしてより広い一般的意味での世界3に、もろもろの道具、制度、芸術作品といった 人間精神のすべての産物を含めることができる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,38 世界3または第三世界, (下),pp.161-163,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





あるものが存在するという言明(孤立した純粋存在言明)は、反証不可能である。存在しないことは、経験では実証できないからである。しかし、その否定、あるものが存在しないという言明が反証可能であり、科学的に意味のある言明なら、もとの存在言明も意味のある言明である。(カール・ポパー(1902-1994))

存在言明について

あるものが存在するという言明(孤立した純粋存在言明)は、反証不可能である。存在しないことは、経験では実証できないからである。しかし、その否定、あるものが存在しないという言明が反証可能であり、科学的に意味のある言明なら、もとの存在言明も意味のある言明である。(カール・ポパー(1902-1994))



「ある種の言明はテスト可能なので科学に属するが、《その否定》はテスト可能でないとわ かり、したがって境界設定線の下に位置づけられなければならないといった事態が生じうる。 そしてこれは重要なケースであることが判明する。実際これは、最も重要で最も厳しくテスト 可能な言明――《科学的普遍法則》――について当てはまるのである。わたくしは『科学的発見の 論理』で次のように勧告した。すなわち、これらの法則は、ある種の目的のために、「いかな る永久機関も存在しない」(これはしばしば「熱力学の第一法則についてのプランクの定式 化」と呼ばれる)といった形で、つまり《存在言明の否定》の形で表現されるべきである、 と。これに対応する存在言明――「永久機関が存在する」――は、「海蛇が存在する」と共に、境 界設定線の下の部分に入る。これに反して「大英博物館には海蛇が展示されている」は、容易 にテストできるので、優に線上の部分に入る。しかし、孤立した純粋存在言明はテストするす べがない。  孤立した純粋存在言明がテスト不能なものとして、また科学者の関心の範囲外に落ちるもの として分類されるべきであるという見解の適切性を、ここで論証するいとまはない。ただわた くしは次の点だけは明らかにさせたいと思う。《もし》この見解が受け入れられると《すれ ば》、形而上学的言明を無意味と呼んだり、あるいはわれわれの言語から締め出したりするの は、おかしいであろう。なぜなら、もし存在言明の《否定》を有意味なものとして受け入れる ならば、われわれは存在言明そのものをも有意味なものとして受け入れなければならないからである。  わたくしがこの点を強調せざるをえなかったのは、わたくしの立場が反証可能性または反駁 可能性を(境界設定のではなく)《意味》の基準として採用する提案だと、あるいは存在言明 をわれわれの言語から、もしくは科学の言語から締め出す提案だと、繰り返しいわれてきたか らである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第11章 科学と形而上学との境界設定,第2節 この問題に対するわたくし自身の見解,pp.490-491,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳), 石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的真理の増大という価値

価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「かつて生命のない物的世界があったという推測が正しいとすれば、この世界は、私の思う に、問題なき、それゆえ価値なき世界であったろう。価値は意識とともにはじめて世界に登場 する、としばしばいわれてきた。私の見解はそうではない。価値は生命とともに世界に登場す る、と私は考える。もし意識なき生命があるとすれば(動物や人間の場合でさえ十分ありうる ことだと思う。それというのも、夢のない眠りのようなものがあるらしいからである)、意識 がなくてさえ、そこには客観的価値もあるであろう、と私はいいたい。  したがって、二種類の価値がある。生命によって、無意識的な問題によって生みだされる価 値と、人間の心によって、先の解決をふまえて、多少ともよく理解された問題を解決しようと する試みにおいて生じる価値と、である。  事実の世界において私が価値を認めるのはここのところである。そこは世界3のうちの歴史 的に生まれる問題と伝統の領域であり、この領域は事実の世界――世界1に属する事実の世界で はなく、人間の心によって部分的に生みだされた事実の世界であるけれども――の一部である。 価値の世界は、価値なき事実の世界――いわば生のままの事実の世界――を超越している。  世界3の最も奥深い中核的部分は、私の見るところでは、問題、理論、批判の世界であ る。価値はこの中核的部分には属さないが、この部分は価値によって支配されている。《客 観的真理およびその増大》という価値がそれである。世界3に他のもろもろの価値が入るのを 認めなければならないけれども、この価値はある意味で人間のこの知的な世界3の全体をつう じてすべてのうちで最高の価値であり続けるといえる。なぜなら、持ち出されるすべての価値 とともに次のような問題が生じるからである。それが価値であるというのは《真実》である か、それが価値の階層においてそれ固有の地位をもっているということは《真実》であるか、 親切が正義より価値があるというのは真実であるか、そもそも親切は正義と比較できるのか。 (それゆえ私は真理を恐れる人たち――知識の木の実を食べたのは罪であったと考える人たち―― にまったく反対する。)  広義の世界3がわれわれの知性の諸産物――それらの産物から生じる意図せぬ結果をも含めて ――だけでなく、もっとずっと広い意味でのわれわれの心の諸産物――たとえば、われわれの想像 の産物――をも包含するように、われわれは人間的た世界3の観念を一般化した。われわれの知性 の産物たる理論でさえ、われわれの想像の産物たる神話を批判することから生じる。理論は神 話なしにはありえなかったであろうし、批判は事実と虚構、真と偽との区別の発見なしには不 可能であったろう。神話と虚構が世界3から排除されるべきでない理由もここにある。それゆ え結局われわれは芸術および――われわれの観念のあるものを注入したところの、また《批判》 (単なる知的批判よりもずっと広い意味での批判)の結果を取り込んだところの――すべての人 間的産物を含めることになる。われわれは先行者たちの考えを吸収し、批判し、われわれ自身 を陶冶しようと努めているので、われわれ自身がこれに含まれうる。そしてまたわれわれの子 供や教え子、われわれの伝統や制度、われわれの生活様式、われわれの意図や目的もこれに含 まれよう。」

(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,40 諸事実の世界における諸価値の一, (下),pp.178-183,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





生命の起源とは問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか。生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において実 在的であるが、それは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

生命の起源、生命の進化

生命の起源とは問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか。生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において実 在的であるが、それは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


 (a)物理的過程との相関、累進的な単称的分析
 物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない。
(b)問題(あるいは情報)は実在的なものである
 生物体のもろもろの問題は、物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である。
(c)生命の起源
 生命の起源とは、問題の起源である。問題の発現を、物理学的に説明できるだろうか、これが問題である。
(d)自己増殖、適応、変異
 増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖に加えて正真正銘の変異性を必要と する。
(e)問題解決方法も、問題であった
 生命とは、問題を解決しつつある物理的構造体である。問題を解決するすべを、様々な種は自然淘汰によって、つまり増殖と変異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものも、同じ方法によって学びとられたも のである。

「生命の起源と《問題》の起源とは一致していると私は推測する。これは、生物学を化学 に、さらには物理学に還元しうるようになると期待できるかどうかという問題と無縁でない。 われわれがいつの日か無生物から生物を作り出せるであろうことは、単にありうるばかりでな く確からしいと私は考える。無生物から生物を作り出すことは、いうまでもなく(還元主義者 の見地からのみならず)それ自体としてきわめて興味をそそるものだが、それは生物学が物理 学または化学に「還元」できるということを《確定》しはしないであろう。なぜならば、それ は――物理的手段によって化学的化合物を作り出すわれわれの能力が、化学的結合の物理学的理 論を確立したり、あるいはそのような理論が存在するということさえ立証しないのと同様に―― 問題の発現の物理学的説明を確立しないだろうからである。  したがって、私の立場は《還元不可能性と創発》の理論を支持する立場だといえよう。そし てこの立場は次のような仕方でおそらく最もよく要約できるであろう。  (1)物理学的過程と細微にわたって相関しているとみなせないような、あるいは物理化学的 見地から累進的に分析できないような生物学的過程は存在しない、と私は推測する。しかし、 いかなる物理化学的理論も新しい問題の発現を説明できないし、またいかなる物理化学的過程 もそれ自体では《問題》を解決できない。(最小作用の原理とかフェルマの原理といった物理 学における変分原理は、おそらくこれに類したものであろうが、しかしそれらは問題への解決 にならない。アインシュタインの有神論的方法は、同じような目的のために神を用いようとす る。)  (2)もしこの推測が支持できるとすれば、この推測は多くの区別に進んでいく。われわれは 次のものを互いに区別しなければならない。
 物理学的問題=物理学者の問題
 生物学的問題=生物学者の問題  
生物体の問題=どのようにして生き残るか、どのようにして子孫を殖やすか、どのように変 化するか、どのように適応するか、といった問題  
人間の作った問題=どのようにして浪費を抑制するか、といった問題  
これらの区別から次のテーゼがもたらされる。  
《生物体のもろもろの問題は物理学的なものではない。それらの問題は物的事物でもなけれ ば物理的法則でもなく、物理的事実でもない。それらの問題は特殊な生物学的実在である。こ れらの問題は、その存在が生物学的諸効果を生みだす原因となりうるという意味において「実 在的」である》。
  (3)ある物体が自己増殖の問題を「解決」したと、つまり、それらの物体がみずからをまっ たく同じようにか、さもなければ結晶のように化学的に(あるいは機能的にさえ)《非本質 的》なわずかの欠損しかなくて、増殖できると仮定してみよう。しかしそれでもなお、これら の物体は、もし適応ができないとすれば、(十分な意味においては)「生き」てはいないであろう。これを達成するためには、それらの物体は増殖《に加えて》正真正銘の変異性を必要と する。  (4)事柄の「本質」は《問題解決》であると私はいいたい。(しかしわれわれは「本質」に ついて云々すべきでない。この言葉は、ここでは本気で使われていない。)われわれが知って いるような生命は、問題を解決しつつある物理的「物体」(より正確にいうと構造)から成り 立っている。問題を解決するすべを、さまざまな種は自然淘汰によって、つまり増殖プラス変 異の方法によって「学ん」だ。そしてこの方法そのものは、同じ方法によって学びとられたも のである。この遡及は必ずしも無限後退ではない――実際、それはかなりはっきりしたある発現 時にたどりつける。」

(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,37 形而上学としてのダーウィン主義, (下),pp.147-149,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)