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2022年1月24日月曜日

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

文化の理解

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(5)人間の創造したもの――法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な ど――は、人を喜ばせたり、昂揚したり、智慧を教えるための人工的産物でもなければ、人びと を操り支配し、社会の安寧を促すために故意に作り上げた武器でもなくて、自己表現、他の人びとと、あるいは神と、意志を通ずるための自然な形式である。古代人の神話や寓話、儀式や 記念碑は、ヴィーコの時代に横行していた見解によれば、手のつけようのない原始人の荒唐な 幻想ないしは大衆を瞞着して彼らを狡猾苛烈な支配者に服従させるための意図からデッチ上げ たもの、ということであった。この解釈を彼は全くの虚妄と見なす。すべてを人間になぞらえ る原始言語の比喩と同じく、神話・寓話・祭儀も、ヴィーコにとっては、それぞれ原始の人び とが世界を見、それを解釈した、それなりに一貫した見方を伝えるための自然な方策である。 このように考えると、太古の人びとや彼らの世界を理解する道は、彼らの精神に入ってゆくこ と、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法――その神話・歌謡・舞踏・言語形式や慣用 句・結婚や葬礼の祭儀――の規則と意義とを知ること、これに頼るほかないということになる。 彼らの歴史を理解するには、彼らが生きる《よすが》としたものを理解することが必要であ る。ひとり彼らの言語・芸術・祭儀の真意を明かす鍵を持つ者のみが、よくそれを発見し得る であろう――ヴィーコの『新しき学』が提供しようとしたのは、まさにこの鍵であった。」 
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.16-17,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

歴史の理解

人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(4)ある所与の社会での活動には、そのすべてを特徴づける普遍的なパターンが存在す る。一つの社会全体の思想・芸術・制度・言語・生き方・動き方には、一つの共通した様式の 反映が見られる。この考えは文化という概念と等しい。必ずしも単一の文化とは限らない、多 数の文化が存在するのだ。その系として、人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならぬということにな る。この系は更に延びて、この連続は、単に因果によるものではなく、人間の理解し得るもの であることを含む。というのは、ある文化の相と次の相との関係、あるいは歴史的発展は、機 械的な原因結果の関係ではなく、人間の活動は目的をもつものゆえに、その時点での要求・欲 望・野心を満足させるべく意図された関係であり(その意図が実現されれば更に新しい要素や 目標を生む)、それゆえ十分な自意識を具えた人なら誰でも理解し得るはずである。またこの 連続の起こる順序も、出鱈目なものでも機械的に決定されたものでもなく、生活の要素、生活 の形式から、人間の目標志向的活動の白土に照らしてのみ説明可能な具合に、流れ出てくるも のであるからなのである。この社会的過程およびその順序は他の人びと、後世の社会の成員た ちにも理解できるはずである。というのはこの人びとも同様の企てに参加しているのであり、そのことが段階の違いこそあれ精神的・物質的発展の他段階における先人たちの生活を解釈す る手段を与えてくれるのだから。時代錯誤という考え自体が、この種の史的理解や順序立ての 可能であることを意味している。つまり時代錯誤と云うからには、文明や生き方のある特定の 発展段階に属しうるものと属し得ないものとを識別する能力を前提としているわけだ。そして それはまた、これらの社会における物の見方や信ずるところ(露わになったものも裡に潜んで いるものも)に、想像力を働かせて入ってゆく能力に依存している――このような探究は人間外 の世界にあてはめては全く意味をなさないであろう。一つの社会・文化・時代が、その因子や 要素においてはあるいは他の文明や他の時代と共通のものを持つとしても、それを組立てるパ ターンはおのおのの特定の他と識別しうる型を持っているがゆえに、それぞれ独自な性格を具 えるという考え、更にその系として、時代錯誤とは、右のような諸文明が従う理解可能で必然 的な連続の順序についての意識の欠如であえるという考え、わたくしはヴィーコ以前に、この ような意味での文化や歴史的変化について明確な概念を持っていた人がいたかどうかを疑 う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.14-16,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)