文化の理解
人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))
「(5)人間の創造したもの――法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な ど――は、人を喜ばせたり、昂揚したり、智慧を教えるための人工的産物でもなければ、人びと を操り支配し、社会の安寧を促すために故意に作り上げた武器でもなくて、自己表現、他の人びとと、あるいは神と、意志を通ずるための自然な形式である。古代人の神話や寓話、儀式や 記念碑は、ヴィーコの時代に横行していた見解によれば、手のつけようのない原始人の荒唐な 幻想ないしは大衆を瞞着して彼らを狡猾苛烈な支配者に服従させるための意図からデッチ上げ たもの、ということであった。この解釈を彼は全くの虚妄と見なす。すべてを人間になぞらえ る原始言語の比喩と同じく、神話・寓話・祭儀も、ヴィーコにとっては、それぞれ原始の人び とが世界を見、それを解釈した、それなりに一貫した見方を伝えるための自然な方策である。 このように考えると、太古の人びとや彼らの世界を理解する道は、彼らの精神に入ってゆくこ と、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法――その神話・歌謡・舞踏・言語形式や慣用 句・結婚や葬礼の祭儀――の規則と意義とを知ること、これに頼るほかないということになる。 彼らの歴史を理解するには、彼らが生きる《よすが》としたものを理解することが必要であ る。ひとり彼らの言語・芸術・祭儀の真意を明かす鍵を持つ者のみが、よくそれを発見し得る であろう――ヴィーコの『新しき学』が提供しようとしたのは、まさにこの鍵であった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.16-17,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン (1909-1997) |