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2022年2月7日月曜日

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由への障害から自由意志を考える

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)選択における障害、自由の程度
 私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別する基本的な特徴であり、自由には選択行為にたいする障害がないことによって定められる程度があるということが、中心的な想定になっている。
《概念図》
 因果的変化(決定論的)
  状態1→状態2
 因果的変化(非決定論的)
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つに変化
 選択
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つを選択
  ・可能でない状態は障害がある状態
  ・障害は因果的法則の結果である

(2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 選択は、それ自体が先行する諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性、開かれた道を前提としている。


(3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 非決定論的な因果的変化のどの特定部分が人間の自由意志に相当するのかを指し示すことや、またその変化が、なぜ自らの能動、自己決定と考えられるのかの解明が困難であっても、選択肢を制限する障害は、因果的に理解することができ、これは、合理性と知識に緊密に関わる。

(4)障害の例
 障害は多様であり、充分には認識できない。物理的なもの、精神的なもの、社会的要因、個人的要因。地理的条件、牢獄の壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威。心理的であ る場合は、恐怖感、コンプレックス、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神経症、精神病など。

(5)障害からの解放手段
 道徳的自由、合理的な自己統制、すなわち何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること、確かにこれら全ては障害からの解放をもたらすであろう。



「私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別す る基本的な特徴であり、自由には程度――選択行為にたいする障害がないことによって定められ る程度があるということが、中心的な想定になっている。ここでの選択は、それ自体が先行す る諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。他の問題におけると同様、ここでも通常の感覚の方が間違っているのかもしれない。しか しそれに反駁する責任は、それに賛成しない人の側にある。通常感覚が自由の障害がどれだけ 多様であるかを充分に意識していないということもある。障害は物理的でも精神的でもある。 「内的」でもあり、「外的」でもある。あるいは両者の要素の複雑な混合でもある。社会的要 因や個人的要因、あるいはその両者のために解明が困難であり、おそらく解明は概念的に不可 能かもしれない。通常の意見は、この問題を過度に単純化しているのかもしれない。しかし私 の思うに、それは本質については――、自由とは行動にたいする障害がないということにかか わっているという点については正しい。これらの障害は、われわれの意図の実現を妨げる物理 的な力――自然のものか人間によるものかは問わず――から成る場合もある。地理的条件、牢獄の 壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威(意図的に武器として 用いられるか、意図せざるものかにかかわりなく)などがそうである。また障害が心理的であ る場合もある。恐怖感、「コムプレックス」、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神 経症、精神病など、多種多様な非合理的要因である。道徳的自由、合理的な自己統制――何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し 合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること――たしかにこれらすべては障害からの解放をもたらすであろう。その障害の一部 には、人類の進路におかれたものの中でもっとも恐るべき、かつ陰険なものも含まれているで あろう。プラトンからマルクスとショーペンハウエルにかけての道徳論者は、この障害につい て鋭い、しかし散発的な洞察を行ってきた。しかしその力が全体として充分に理解されるよう になったのは、ようやく精神分析学の登場とその哲学的含意が知覚されるようになった今世紀 のことであった。この意味での自由概念の有効性を否定し、それが合理性と知識にたいして緊 密な論理的依存関係にあることを否定するのは、愚かなことであろう。自由がすべてそうであ るように、この自由も障害の除去から成り、あるいはそれに依存している。この場合の障害と は、人間の力の全面的な行使――人がいかなる目的を選ぼうと――にたいする心理的な障害物のこ とである。しかしこの障害は、それがいかに重要で、これまでいかに不充分にしか分析されて こなかったにせよ、障害の一部分でしかない。他の部類の障害、他のよりよく認識されている 形態の自由を無視して、このような障害だけを強調すれば、問題が歪曲されていくことになる であろう。そして私の思うに、ストア派からスピノザ、ブラッドレー、スチュアート・ハムプ シャーにかけて、自由を自己決定にだけ限定してきた人々は、まさにこの歪曲を行ってきたの である。  自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性――少なくとも二つの邪魔のない「開かれた」道を前提としている。それ はまた、いくつかの道を開いておくような外的な状況にかかっているであろう。人や社会が享 受している自由の幅について語る時にわれわれの念頭にあるのは、思いにその人と社会の前に 開かれている道の広さないし幅、いわば開かれている扉の数と、その扉がどれだけ広く開かれ ているかということである。しかしこの譬喩は不完全である。実際には「数」と「幅」だけで は不充分だからである。いくつかの扉が他の扉よりもはるかに重要であることもある。個人と 社会の生活にとって、その扉の奥にある利益の方が、はるかに中心的な関心事であることもあ ろう。ある扉は他の開かれた扉に続き、ある扉は閉ざされた扉へと続いている。現実の自由が あり、また可能性としての自由もある。それは、現存ないし潜在的な力――物理的ないし精神的 な力のもと、いくつかの閉ざされた扉をどれだけ容易に開くことができるかにかかっている。 それにしても、いかにして一つの状況を他の状況に照らして測定できるのであろうか。例えば、物質的な必要と安楽さが充分に保障されているという意味で、他人によっても状況によっ ても妨害されていないが、しかし言論と結社の自由は許されていない人がいるとしよう。他方 でより大きな教育の機会、他の人々との自由な交流と結社の機会を有しているが、例えば政府 の経済政策のためにぎりぎりの生活必要物資しか入手できない人がいるとしよう。この二人の どちらがより大きく自由かをどのようにして決定できるであろうか。この種の問題は常に生じ てくるであろう。それは功利主義の著作で、むしろあらゆる形態での非全体主義的な政治の実 践で充分にお馴染みのことである。しかし、たとえ硬くしっかりした基準を提出できないとし ても、人ないし社会の自由の尺度はもっぱら選択可能な可能性の幅によって決定されていると いうことは、依然として事実である。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.285-288,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)