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2024年4月30日火曜日

18.パッシブ・セーフティ(高木仁三郎(1938-2000)

パッシブ・セーフティ(高木仁三郎(1938-2000)




 「つまり、小さな事故はともかくとして、原発が本当に深刻な事故に至った場合に、人為的な判断で、外からダイナミックな装置を介入させてシステムを止めるとか、緊急冷却水を送り込んで原子炉を冷やすというようなことではなくて、本来的に備わった安全性―――パッシブ・セーフティと言われています―――によって暴走を止めるようなあり方のほうが望ましいのではないかということです。

つまり、危機状態が起こったときに、たとえば原子炉の温度が上がってくれば自然と反応が下がるような、あるいは反応度が上がってくればフィードバックが働いて反応度が下がるような、そういうフィードバックによって原子炉が止まる。

あるいは、安全システムも、危機状態のときにモーターなどを使って人為的で動的な介入をして安全を確保するようなことをやると、モーターが動かないときはどうするのかという問題が必ず出てきますから、

そうではなくて、危機状態になったら必ず、たとえばもっと強力な自然の法則、重力の法則が働いて、それによって制御棒が挿入されるというような、そういった本来的な安全性が働くような形のシステムであったほうがよいということです。

そのようにパッシブなセーフティーのほうが望ましいのではないでしょうか。

 結局、技術的に純粋に詰めていけば、そういうことになってくると思います。技術的な極致はパッシビズムということだと私は思うのです。

つまり、ことさら外から何か巨大なシステムや大動力を導入したり、あるいは人為的な介入をやって危機状態を乗り切ろうとしている限りにおいては、いくら安全第一をモットーとしても、やはり人間のすることですから、うまく働かなければ人為ミスが起こって必ず事故につながるので、大事故の可能性が残ってしまいます。

あらゆる場合に、自然の法則やおのずと働いているさまざまな原理によって、人為的介入がなくても、事故がおさまるようなシステム、これを基本においた設計がなされるべきでしょう。

重力によって水が高いところから低いところに流れるとか、熱も高いところから低いところに伝わるとか、そういった自然法則に十分に依拠したようなシステム、これを私はある人の考えを借りてパッシビズムの技術と呼んでいますけれども、それならばうまくいくかもしれないと思うのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第三巻 脱原発へ歩みだすⅢ』原発事故はなぜくりかえすのか 8 技術の向かうべきところ、pp.414-415)



人間-機械の「奇妙な」とでも言うしかないような、やりとりの中で拡大され、次第に大きな事態になっていく(高木仁三郎(1938-2000)

 人間-機械の「奇妙な」とでも言うしかないような、やりとりの中で拡大され、次第に大きな事態になっていく(高木仁三郎(1938-2000)



「これらの事故によって、原発の運転におけるヒューマン・ファクターが見直されるようになった。

そのこと自体は誤りではないが、通常言われるような「運転員の訓練の向上」ということによっては、困難は克服されないだろう。

というのは、TMIやチェルノブイリの事故が明らかにしたのは、きわめて微妙な機械と人間の関係だからである。

 TMIでは、機械部分の小さな異常を契機として事故が進展し、それによってもたらされた混乱が人間の判断ミスを誘い、それがさらに機械部分の異常を拡大し―――という風に、機械と人間がやりとりしながら、異常を増幅していった。

たとえば、制御室には最盛時には一分間に何十もの警報が寄せられ、温度計はクエッション・マークを出し続け、コンピュータの打出しは遅れに遅れ、各種の計器やランプの表示も適切を欠いた。

これは、単純に人間のミスが事故を誘発した(そういう種類の事故は、このシステムをフール・プルーフにすることによりかなり防ぎうる)ということでも、逆に機械の欠陥が事故を誘発した(これはフェイル・セーフ設定によりある程度防ぎうる)ということでもない。

ひとつひとつは、小さな混乱と思われることが、人間-機械の「奇妙な」とでも言うしかないような、やりとりの中で拡大され、次第に大きな事態になっていくのである。

チェルノブイリも、その点ではまったく同様で、信じられないような規則違反が連続したことじたいが、右のような奇妙なシチュエーションを考えない限り説明され得ないだろう。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』共著書の論文 核エネルギーの解放と制禦、p.524)



2024年4月29日月曜日

20.市場支配力が行使されると市場はゆがみ、社会福祉は縮小する。そして不平等を生むだけでなく、市場のレント(超過利潤)は経済・政治システムに別のゆがんだ影響をおよぼす(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 市場支配力が行使されると市場はゆがみ、社会福祉は縮小する。そして不平等を生むだけでなく、市場のレント(超過利潤)は経済・政治システムに別のゆがんだ影響をおよぼす(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「市場支配力のゆがんだ影響

 企業の市場支配力が増すと、市場支配力をもつ企業の所有者へ、顧客から富が移動する。顧客の富が減少したことは資本金会計には記録されないが、企業価値の増加は記録される。

〈フォーブズ〉誌の世界長者番付には、金融業、石油や石炭、ガス、鉱物などの資源開発にかかわる採取産業、不動産業、民営化された通信事業などにおける独占力のおかげで長者の地位を得た人々が散見される。

 市場支配力が行使されると市場はゆがみ、社会福祉は縮小する。そして不平等を生むだけでなく、市場のレント(超過利潤)は経済・政治システムに別のゆがんだ影響をおよぼす。

 第1にレントは、もし経済が最適に構築され、そのようなレントが存在しなかった場合に行なわれたはずの生産を減少させる。

 第2にレントは、過剰な営業支出やロビー活動などの非生産的なレントシーキング活動への資源配分にインセンティブをあたえる。レントが大きいほど、そのような活動に対するインセンティブも大きくなる。

たとえば、2010年、医療産業は医療費負担適正化法に反対するロビー活動に1億240万ドルを投入し、金融および不動産業は金融規制改革法であるドッド=フランク法の可決と施行に反対するロビー活動に数十億ドルを費やした。

 第3に、企業がレントを生み出したり維持したりするためにロビー活動や他の政治活動にかかわる度合に応じて、政治システムに影響をおよぼし、経済や他の社会分野に多くの有害な結果をもたらす。最初の反トラスト法は、経済システムだけでなく、政治システムのゆがみが動機となって定められた。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),第1部 世界を危機に陥れた経済学の間違い,第1章 “自由な市場”が何を引き起こしたか,pp.70-71,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


 


市場支配力を抑制すれば、より公平で、より力強いアメリカ経済を維持できるはずだ(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 市場支配力を抑制すれば、より公平で、より力強いアメリカ経済を維持できるはずだ(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「支配力が増すと、競争が減少する

 ■競争は、成功する経済には必須の特性であり、企業を効率的にし、価格を下げさせる。競争は市場関係者の力を制限し、彼らに都合のよい経済および政治成果を摘み取る。

 ■アメリカ経済のかなりの部分が、この競争の理想型からかけ離れた場所をさまよってきた。市場支配力が、人々の快適な暮らしや経済実績全体にとって重要な領域で大きな役割を演じている。

 ■テクノロジーとグローバル化における変化は、市場支配力の増大に一定の役割を担ってきた。しかし、政府が選択した明確な政策も同様だ。多くの場合、政府は市場支配力を抑制しない方向を選んできた。

 ■このような活動は経済効率を低下させ、人々の意欲を失わせうるので、市場支配力を抑制すれば、より公平で、より力強いアメリカ経済を維持できるはずだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),第1部 世界を危機に陥れた経済学の間違い,第1章 “自由な市場”が何を引き起こしたか,pp.60-61,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


自由な市場”が何を引き起こしたか(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

自由な市場”が何を引き起こしたか(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「1970年代以降、ゲームのルールは変わり、第2次世界大戦後の30年間で達成された経済力のバランスを壊した。第1部では、国民にみじめな道を歩ませることになった転換点について分析し、ここに至るまでに学んだいくつかの教訓に照らして考察する。

 ◎経済ルールの根本的な変化は不平等を拡大し、結果として経済的利益を共有する人が減っただけでなく、経済全体と企業投資まで低迷させた。

 ◎民間セクターでは、融資が経済全体に役立つものから融資そのもののためへと変わった。

企業は利害関係者全員――労働者、株主、経営陣――への奉仕から、“株主の利益”を増やすことを口実に、トップ経営陣のみに奉仕する方向へ進んだ。主要セクターで数社の市場支配力が増したことで、競争の勢いは鈍った。結果として、近視眼的な行動や、雇用や将来への投資不足、成長の鈍化、価格の上昇、不平等の拡大が生じた。

 ◎アメリカの税制は労働より投機をうながし、経済をゆがめ、上位1パーセントの人々の利益に貢献している。

 ◎金融・税制政策で、財政赤字やインフレといった脅威に重点を置きすぎた一方で、不平等の拡大と投資不足という、経済の繁栄に対する現実の脅威を無視した。その結果、失業率が上昇して、社会はますます不安定になり、成長が鈍化した。

 ◎労働市場の制度、法律、規制や規範が変わったことで弱体化された労働者は、強大な企業と市場の力に対抗するのが難しくなった。その結果、生産性と賃金のへだたりが拡大した。これは恐らく、過去3分の1世紀のアメリカの経済生活における最も著しい局面だろう。

 ◎これらの問題は、不利な立場にある人たちのあいだでますます悪化している。市場は有利な立場を何世代にもわたって永続させ、差別は多くの人々が自らの人的資本を開発して富を蓄えるのを妨げてきた。


 ここには、アメリカ社会が方向を誤ったことがはっきり示されている。しかしそのすべては選択だった。つまり、選択によってものごとのやりかたは変えられるということだ。前へと進む道については、第2部で示す。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),第1部 世界を危機に陥れた経済学の間違い,第1章 “自由な市場”が何を引き起こしたか,pp.58-60,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))


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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)










20. 『人間の間柄の諸要素』(マルティン・ブーバー(1878-1965)

『人間の間柄の諸要素』(マルティン・ブーバー(1878-1965)



「この原稿が完結した後で、アレクサンダー・フォン・ヴィレルス(Alexander von Villers)の『ある無名氏の手紙』の中の二つの箇所が私の注目を引いた。

私にとり、それはここで引用するに足る注目すべきものと考えられる。  

《ヴィーゼンハウスにて、1877年12月27日。私は「人間間にひそむ人間」(der Zwischen-mensch)の迷信をもっています。私がそれではないし、君もそれではない。しかしわれわれの間には、私には《汝》といい、他者には《私》である、あるものが生じて来ます。

このようにして、各人は相互的な二重の名称を持った彼の「人間間にひそむ人間」を持っています。

そしてすべて百人の「人間間にひそむ人間」の――われわれの各々がそれに50パーセント関与しているわけですが――誰一人として他の「人間間にひそむ人間」とは等しくありません。

だが彼は考え、感じ、そして話します。これが「人間間にひそむ人間」です。彼には諸々の思想が属しています。これがわれわれを自由にするのです。》  

《ヴィーゼンハウスにて、1879年2月28日。かくてわれわれは今や真相に達します。それは話と答え、生ける対象、軋轢、そして多分生殖の内奥です。

なぜなら私はある事物についての表象を持ちますが、それは物自体ではなく、私における、また汝における、あるものについての表象であります。

それに名前、つまり握る柄をつけるために、私はそれを「人間間にひそむ人間」(der Zwischen-mensch)と名付けます。

「人間間にひそむ人間」とは、ただ二人の特定の人間にのみ特有で、彼らにのみ属する他者の表象です。AとCの両者の中間にあるBです。AのD、E、Fへの関係にあっては、この「人間間にひそむ人間」は、たとえA自身はいつも同じであっても、決して再び現れず、彼はAのCまでへの関係にしか属さないのです。》」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『人間の間柄の諸要素』付記(集録本『ブーバー著作集〈第2〉対話的原理2』)pp.116-117、みすず書房(1968)、佐藤吉昭・佐藤令子(訳))
(索引:)

ブーバー著作集〈第2〉対話的原理2 (1968年)









2024年4月28日日曜日

25. 恐怖や他の情動的な問題が軽減され、そして、より適応的で機能的な社会的行動様式を通して社会的能力が改善されたとき、パーソナリティは変化するのか(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 恐怖や他の情動的な問題が軽減され、そして、より適応的で機能的な社会的行動様式を通して社会的能力が改善されたとき、パーソナリティは変化するのか(ウォルター・ミシェル(1930-2018),

 「恐怖や他の情動的な問題が軽減され、そして、より適応的で機能的な社会的行動様式を通して社会的能力が改善されたとき、パーソナリティは変化するのかという疑問はまだ残っている。

その答えはパーソナリティの定義によるだろう。重篤な吃音や制御できない顔面チックのような不利な行動を変化させることでも、苦痛で恐怖を発生させる情動的な反応を除去することでも、人々の自分自身や自己概念についての感じ方が改善するというかなりの証拠がある(例:Bandura,1997; Meichenbaum,1995)。

自己概念と自尊心は、少なくとも一部は個人の実際の能力や行動が他者によってどのようにみられているかを反映する傾向がある(例:Leary & Downs,1995)。

私たちの自己知覚は、私たちが自分の行動の適応適性について得る情報を含んでいる。そしてもしこれらの自己知覚がパーソナリティの一部であるなら、行動がより適応的で、満足できるものになったとき、パーソナリティは変化する。

より有能に仕事ができることを学習した人は、より多くの満足感を得て、自己に対するより肯定的な態度を発達させる可能性が高い。恐怖や不安を克服できた結果、人はさらに自信ももつようになるに違いない。」(中略)

「しかし、それはしばしば真実かもしれないが、いつでも必ず起こるわけではない。実際、行動療法を批判する人たちは、患者たちの行動が不適切だからではなく、それを不当に評価するから、苦しんでいると指摘している。つまり、遂行ではなく歪曲された自己概念の問題をもっている人たちがいる。

しばしば人は、自分のまわりやもっと遠くの社会にいる人たちよりも自分自身がたいへんに変わっているというラベルを張り、自分の行動に対したいへん変わったものであるかのように反応する。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第11章 行動の分析と変容、pp.360-361、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

2024年4月27日土曜日

25. 評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「要するに、評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。

これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。

ルイス(2000)は、こうした帰属を包括的、もしくは特定的な帰属として識別する。包括的な自己帰属は「自己全体」におよぶ。自己の総体がその評価に含まれる。恥の場合、個人は自己を「悪い人」であると識別する。

これに対して、特定的な自己帰属は自己が関与している特定の行為を指示する。「悪い人」であるよりも、むしろ人が「悪いこと」をしたと認知する。タンネイによれば、こうした強調点の相違が異なる感情と異なる行動反応をもたらす。

 恥は主として矮小感と関係する激しい否定的な感情である。個人は矮小であり、取るに足らず、無力であると感じる(Tangney,1995b)。

恥じている人は人目にさらされていると感じる。なぜなら「不完全な自己」が他人からどのように見られているかを考えるからだ。こうした他者はその状況に実際に存在し、もしくは自分の想像のなかに存在しているのかもしれない。恥を感じる人は、人目を避けたい、消えてしまいたい、あるいはその状況から逃れたいのだ。

 罪は、恥と比べると、それほど激しい否定的な感情ではない。なぜならその焦点は、自己全体でなく、むしろ自分がしでかした特定の違反とその結果につながれているからだ。罪は悪いことをしたことへの緊張感、後悔と自責の念と関係する(Tangney,1995b)。

人はその状況から逃れるよりも、むしろ自分がやってしまった過失を打ち明け、その損傷について謝罪し、また(あるいは)現状を回復することを求める。

全人格が詮索されているのではないので、賠償的な行為を行うことがある状況においてたやすく自己の指針を見つける。違反は許されるので、人は出会いを継続することが可能であり、何らかの方法で対処することができる。

 タンネイ(2002)は、罪(恥ではなく)が「道徳的感情」である一つの理由は、罪は他者ともう一度結合しようとする試みによって人を能動的に動機づける。

これに対して、恥は他者との分離と距離を広げたままである。それゆえ罪(恥ではなく)を道徳的感情として扱うための別の理由をも識別している。

 罪は他者との同情の気持ちを促進するように思われるのに対して、恥はこれらの気持ちを萎えさせる。

同情は他者の苦悩を認知し感じることをともなう。それは育成するに値する有用な感情であると考えられる。なぜなら罪は支援行動を促進し、そして攻撃的な行動を抑制しがちであるからだ。

罪は自己全体よりも、むしろ個人の行動に焦点を定めるので、個人は恥の場合のように、内面を直視することも、また自己を巻き込むことも少ない。 

外部に目を向け、他者の苦痛に注目することが同情の必要条件である。恥を感じることは同情過程への侵害である。なぜなら傷ついた他者よりも自己にいっそう焦点を定めるからだ。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第5章 精神分析的要素を用いた感情の象徴的相互作用論の理論化、pp.317-318、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月25日木曜日

30.道徳的な価値評価がまず第一に引き合いに出すのは《高級な人間》(あるいは世襲階級)《と低級なそれ》という区別である(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

道徳的な価値評価がまず第一に引き合いに出すのは《高級な人間》(あるいは世襲階級)《と低級なそれ》という区別である(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)




「道徳的な価値評価がまず第一に引き合いに出すのは《高級な人間》(あるいは世襲階級)《と低級なそれ》という区別である。

道徳はまず第一に権力のある者たちの自己賛美であり、そして権力のない者たちに関しては軽蔑である。「善」と「悪」ではなくて、「高貴」と「卑俗」が根源的な感覚である。

《次いで》ようやく、そういう区別を示す《諸行為や諸固有性》が《高貴》と呼ばれ、そしてそれらと対立する諸行為や諸固有性が《卑俗》と呼ばれる。」

 (フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七一一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.345-346、[原佑・吉沢伝三郎・1994]) (索引:世襲階級、高貴、卑俗、善、悪)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)

『ギリシャ人の祭祀』(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

『ギリシャ人の祭祀』(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)




「第二節 儀礼を形成する一般的傾向  私は、呪術および奇蹟を信仰する人々の思考にとって共通である、いくつかの特徴を挙げてきた。しかし、これらは彼らの《思考の形式》に関するものである。

ところで、彼らは、またみずからの思考の実質として、ひとつの確信を共通に有している。

それは《自然および自然との交渉》に関するものである。

すなわち、人々は自然法則については何も知らない。〔彼らにとっては〕大地にあっても、天空にあっても、必然は存しない。季節も日光も雨も、到来することもできれば、到来しないこともできるものである。

一般に、《自然的》因果性についての、いかなる概念も欠如している。

人間が漕ぐとしても、舟を動かすものは、この漕ぐことではなくして、漕ぐことは、これによって人間がデーモン〔魔神〕に舟を動かすように強制するところの呪術的儀式にすぎない。

あらゆる病気、死すらも、呪術的作用の結果である。病気になるのも死ぬのも、決して自然の出来事ではない。およそ《自然的な成り行き》という表象がまったく欠如している

(―――このような表象は、古代ギリシャ人にあっては、神々を超えて君臨するアナンケー〔宿命〕・モイラ〔運命〕の観念のうちに、次第に明け初めるのである)。 

ひとが弓をもって射るとしても、弓に常に非合理的な力が宿るからであり、泉が涸渇するとしても、恐らくは竜が水を土中に引き止めているからである。突然、雷に打たれた人間は、神が矢をもって彼を射たのである。

インド人の間にあっては(ラボックによれば)指物師は、彼の鎚や手斧やそのほかの道具に犠牲を捧げるのが常である。

そして同じように、婆羅門は彼が書くに用いる筆を、戦士は彼が戦場で用いる武器を、左官職は彼の鏝を、労働者は彼の鋤を取り扱うのである。

全自然が、意識的にして意志的な存在の行為の総計であり、《恣意》の総計である。われわれの外なる一切のものに関して、そのものはかくかくのように《なるであろう》、という推理は存しない。

ほぼ確実なもの、予測し得るものは、《われわれ》である。すなわち、人間は《規則的なもの》であるが、自然は《不規則なもの》なのである。  

ところで注意して貰いたい。人間がみずからを内面において豊かなものと感ずれば感ずるほど、すなわち人間の主体が重音的であればあるほど、ますます一層、自然の均斉は人間に畏敬の念を起こさせるものである。

そのことは、ゲーテが自然を近代人の魂の偉大な鎮静剤として見なしたとおりである。

しかし逆に、われわれは諸民族の粗野にして原始的な状態を想像したり、現在の未開人を見るならば、われわれは、彼らが極めて強力に《法》や《慣習》によって規定されているのを見るのである。

すなわち、個人はほとんど自動的に法や慣習に結びつけられている。

個人にとっては、自然は《自由の国》、恣意の国、より高き力の国として、そればかりか、いわば、《より高き人間性の段階》として、すなわち神として、現象せざるを得ない。

しかし、これによって、個人は自己の生存、自己の幸福、家族および国家の幸福、あらゆる計画の成功が、かの自然の恣意に如何に左右されるかを感得するのである。

ところで、自然の恣意のうち、あるものは然るべき時に出現しなければならないし、ほかのものは出現してはならない。とするならば、いかにしたら、ひとは自然の恣意に対して影響を及ぼし得るか、いかにしたら、ひとは自由の国を拘束することができようか? 

そこで、ひとは、つぎのように自問する。汝みずからが規則的であるのと同じように、かの自然の諸力を慣習と法とをとおして規則的ならしめる手段が存在するであろうか? 

―――すなわち、呪術および奇蹟を信ずる人々の思考は、《自然の上に法を課すること》に向うのである。そして宗教的儀礼は、これがために案出された手段なのである。  

これは、つぎのような問題と同じ問題である。すなわち、いかにしたら、《力の弱い》部族が、それにもかかわらず、《力の強い》部族に対して法を加え、彼らを規定し、(力の弱い部族に対する態度において)彼らの行動を左右し得るか? 

その最も悪意のない仕方は、ひとの《傾向性》に取り入ることによって行使するところの強制である。切願したり、祈ったり、服従したり、定期的に貢納したり、贈り物をしたり、追従の賞讃を捧げたりすること、などをとおして行なうところのものである。

つぎには、ひとは相互に一定の行為の仕方を義務づけ合い、担保を与え合い、宣誓を交わし合うことによって、《協定》を結ぶことができる。しかしまた、呪術や魔術によって、無理やりに《強制》を行使することもできる。」 
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『ギリシャ人の祭祀』緒言、第二節、ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神、pp.352-355、[上妻精・1994]) (索引:呪術、魔術、宗教的儀礼)

古典ギリシアの精神―ニーチェ全集〈1〉 (ちくま学芸文庫)

2024年4月24日水曜日

12. 人はできうるかぎりつかみどころがなく、しかも希望をもたせるような答えにとどめるように気をくばらなければならない。しかもこのばあい、可能なかぎりはっきりした約束を避けることである。」(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 人はできうるかぎりつかみどころがなく、しかも希望をもたせるような答えにとどめるように気をくばらなければならない。しかもこのばあい、可能なかぎりはっきりした約束を避けることである。」(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)


 「君が世話をするつもりもないようなことは約束しないのが誠実で男らしい態度である。

ところが、人間は理性に支配されるものではないので、たとえすじの通った理由があっての上でも、君が断わったその相手は、おおむね不満をいだくものである。

これとは反対のことが、気安く約束してやったときにもおこってくる。というのは、多くのことがおこってきて、君が約束していたことを守る必要がなくなるばあいがあるからである。

このばあいでも、君は労せずして満足を与えることができることになる。またたとえ、君が約束を実行しなければならないようなばあいでさえも、いいのがれする道はあるのだ。そして多くの人間は血のめぐりの悪いものだから、口先でだまされてしまう。

けれども、君がした約束を破ってしまうのは、醜悪なことなので、それによって君がひきだしたあらゆる利益をも台無しにしてしまう。

このようなわけなので、人はできうるかぎりつかみどころがなく、しかも希望をもたせるような答えにとどめるように気をくばらなければならない。しかもこのばあい、可能なかぎりはっきりした約束を避けることである。」

(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)、『リコルディ』B、八七 他人からの依頼、フィレンツェ名門貴族の処世術、p.220、[永井三明・1998])





索引:)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)


2024年4月23日火曜日

17. 確率評価の持つ問題点(高木仁三郎(1938-2000)

確率評価の持つ問題点(高木仁三郎(1938-2000)


 「個々の機器の故障の確率を求めるとか推定する、というのは、現実的には想像を絶する困難な作業です。

このような確率評価の持つ問題点については、すぐれた証言があるので、それを引用してみましょう。

 この証言は、一九七四年二月一日のカリフォルニア州議会におけるウィリアム・ブライアン博士によるものです。

フォールト・ツリー解析法は、かつてアメリカの航空宇宙局(NASA)が、その宇宙飛行計画の信頼性を評価するのに採用してきたものであり、実効が上がらず修正を迫られたものでした。ブライアン博士は、その作業に従事してきた技術者として、次のように証言しています。

 「サターン・ロケット原子力発電所のような複雑なシステムでこのような数のゲームをやろうとすれば、何十万という部品を考慮する必要があるのはお分かりでしょう。

そのうちのいくつかは付加的なものであり、いくつかは連続しているでしょう。

連続した一〇個の部品の故障ごとに、故障率は一桁変化します。分かりやすくいえば、仮に一〇個の部品を一続きとし、すべてが動作した時にこのシステムの故障率をたとえば一〇のマイナス三乗(一〇〇〇分の一)とすれば、部品一個当たりの故障は一〇のマイナス四乗(一万分の一)にしなければなりません。

 結局、この宇宙船の全体的な目標は一〇のマイナス三乗程度なので、ある種のサブシステム、たとえば私の担当だった第四段エンジンの部品に要求される信頼性は、現在AEC(当時のアメリカの原子力委員会)が使用している値とほぼ同じになります。

つまり故障率は一〇のマイナス九乗から一〇のマイナス一二乗です。これは一〇億回ないし一兆回の操作で一回の故障を起こすという割合です。工学に詳しい仲間達は、この要求を聞いて吹き出してしまいました。

こんな低い故障率を持つものなどありえません。私のうちにもそのようなものは何一つありません。もちろん洗濯機も掃除機も自動車エンジンも違うし、ロケットや原子力発電所のように沢山の部品を持ったシステムもそんな低い故障率でありえようはずがありません」(『技術と人間』一九七六年一月号)

 そこで、ブライアン博士やその他数多くの宇宙計画の安全解析にかかわった科学者・技術者たちが行ったのは、「NASAの要求を満足しうるということを紙の上だけで立証する」ことだったのです。

つまり、まず、NASAが受け入れてくれそうな故障率の最終値を想定し、それに合わせて、どのみち実証的に確かめようのない、個々の部品の故障率を一〇億分の一なり一兆分の一と決めてしまい、そしてその「データ」をもとに、あらためてフォールト・ツリー解析法によって、全体としての事故率を決めるというやり方です。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第七巻 市民科学者として生きるⅠ』科学は変わる Ⅱ 原子力の困難(一)、pp.60-61)



19. ルールと制度は経済を背後から支えるものであり、それらのルールをどう定め、更新し、実施するかがあらゆる人に影響をあたえる(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

ルールと制度は経済を背後から支えるものであり、それらのルールをどう定め、更新し、実施するかがあらゆる人に影響をあたえる(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),


「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。

経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。

 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。

たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。

 氷山の頂点は、わたしたちが見て経験しているものだ。有権者と政治家にとって最も重要となる、わたしたちの日常生活。しかしそれは、政治・経済のパワーバランスを決定し勝者と敗者を生む市場構築力のかたまりによって運ばれている。

海面下にある氷山のかたまりが船を沈めるのと同じように、そのルールのかたまりがアメリカの中流層を沈めているのだ。

 多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。

 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。

グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。

この考えかたに準ずれば、住宅金融の過剰融資を抑えれば、金融セクターはバブルをつくる別の方法を見つけ出し、経営幹部の給与をひとつの方法で制御すれば、企業はCEOたちに報酬をあたえるもっと巧妙な手段を見つけることになる。

 こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。

 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。

 つまり、労働法やコーポレートガバナンス、金融規制、貿易協定、体系化された差別、金融政策、課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。

 経済と権力のルールを定めるためのここでの主眼は、政府に対して“かかわるな”と要求することではない。

政府が“かかわらない”でいられることはまれだ。先に述べたように、市場は真空に存在するわけではない。市場を構築して、ルールと規制を定め、そのもとで稼働させるのは政府だ。ルールと制度は経済を背後から支えるものであり、それらのルールをどう定め、更新し、実施するかがあらゆる人に影響をあたえる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)






1990年代と2000年代には、また別のすさまじい変化があった。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

1990年代と2000年代には、また別のすさまじい変化があった。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「1990年代と2000年代には、また別のすさまじい変化があった。

この期間、規制を緩和された金融セクターは、企業にむけて“短期主義”を奨励した。結局、1990年代にみられた成長の多くは不安定で、バブルの上に築かれていたことがわかった――まずはITバブル、次に住宅バブル。

“大いなる安定”は幻影であることが判明した。もたらされたのは、よりよく制御された経済につながる新しい経済的見識(たとえば金融政策の実施にかんしてなど)ではなく、さらなる不安定と、成長の鈍化と、不平等の拡大だった。

 同時期に、テクノロジーとグローバル化にも変化があり、世界の国々がより緊密に統合されはじめた。

これらの進歩は、中流層の生活を脅かすのではなく、生活水準を向上させるはずだった。うまく制御すれば、実現していたかもしれない。

しかし、広く受け入れられていた前提は、自由化された市場が自動的に人々すべてを豊かにするというもので、その前提は悲惨なほど間違っていることがあきらかになった。

グローバル化とテクノロジーは世界市場にさらなる相互依存をもたらした一方で、労働コストの“底辺への競争”に対するセーフガードがなかったため、アメリカ経済における大規模な失業と賃金引き下げへの圧力をもたらした。

さらにこの圧力は、アメリカ経済の金融化が増大するとともに、製造工程の複数の段階を一手に担う垂直統合の製造業を衰退させる一因にもなった。これらすべての要素の極致が、レントと搾取が蔓延し、賃金と雇用が削減されたアメリカ経済なのだ。


 ※短期主義 Short-termism

 短期的な利潤と株主の利益に重点を置いた1980年代以降のコーポレートガバナンスのモデル。持続性とイノベーションと成長につながる人材や研究への長期投資といった長期的な考えかたとは対照的。


 今日、多くの人が1990年代と2000年代の画期的なイノベーションに希望を託している。

インターネットで可能になった分散コンピューティング、ナノテクノロジーの有望性、バイオテクノロジーや個別化医療の大きな可能性。これまでのところ、強力な企業をつくったり、インターネットの力の上に財産を築くなど、いくつかの分野で成長がみられる。

しかし経済をめぐる最も重要な疑問は、これらのテクノロジーがさらなる成長と機会と快適な暮らしを生み出し、もっと多くの人に分配するのに役立つかどうかだ。

インターネットとその未開発の革新的な潜在力は、21世紀の今、あらゆる所得水準の人々にとって20世紀の製造業に匹敵するものになれるだろうか? それとも、レントの蔓延した目下の経済に拍車をかけるのだろうか? 

ウェブ技術は多くの利益をもたらしているが、繁栄の幅広い共有をうながすかどうかはまだわかっていない。実のところ、いくつかの新しいテクノロジーは、所得と富と権力のさらなる集中を招く傾向にある。

 これがわたしたちの課題だ。イノベーションのすばらしさを実感するには、目前の問題をまず解決しなければならない。35年にわたるサプライサイドの考えかたとルールが、アメリカの経済と社会のあらゆる面をつくり替え、成長の鈍化と前例のない不平等へ導き、それによって数々の問題がのこされているからだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.44-46,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


19.このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)

このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「だが、観察とも照察とも決定的におもむきを異にしている知覚というものがある。
 観察者と照察者とは、彼らがひとつの眼目、まさに、われわれの眼前に生きている人間を知覚しようという意向を有している点で共通している。

さらにこの両者にとって相手の人間は、観察し照察する彼ら自身からも、彼らの個人的生活からも切り離された一個の対象であり、まさにそれゆえにこそ《正当》に知覚され得るのだ。

したがって彼らがそうして経験するものとは、観察者においては諸特徴の総和であり、照察者においてはひとつの存在(Existenz)であるというようにことなってはいても、それによって彼らに行為が要求されることも、運命がもたらされることもなく、むしろすべてのことは、切り離された知覚能力(Ästhesie)の場においておこなわれるのである。

 だが、私の個人生活がある敏感な状態におかれている時に、ひとりの人間が私のまえに現われ、彼のところから私にむかって何かが、私がまったく客体的に把握できぬ何かが、《何かを語る》ような場合、事情は別である。

この場合、その人間がどういう人間だとか、彼のうちにどのようなことが起こっているとか、そういうことが私に語られるのではけっしてない。

いや、何かが《私にむかって》語られ、語りかけられ、何かが私自身の生のうちへと語りかけられるのだ。

それは、その人間に関する何か、たとえば、彼が私を必要としているというようなことでもあり得るし、一方また、この私に関する何かでもあり得よう。 

しかしその人間自身が、私とかかりあうことによってこのような語りかけにたずさわるのではない。彼はそもそも私とかかりあってはいない、彼はたぶん私の存在にすらまったく気づいてはいないわけである。

つまり、そのことを私に語るのは彼なのではなく、ただ何かによってこちらへと《語られる》ことがあるだけなのだ。

それゆえあの孤独な男がベンチのうえで、隣の男に自分の秘密を無言のままに打ち明けたこととは、話がまた別なのである。

 この場合、《語る》、《語られる》という言葉を比喩として理解するなら、事は理解されない。《これには何も語りかけてくるものがない》という慣用句は、比喩としてはもう擦りきれている。

しかし、私が指し示している語りかけは、事実として存在する言語なのだ。言語という家のなかには多くの部屋があり、そしてこの場合の言語とは、内面の言語という部屋のうちのひとつなのである。

 このように語りかけられることを感受するという行為は、照察や観察のそれとはまったくことなっている。私は、そのひとのところから、そのひとを通して何かが私に語られたところの人間を、描写したり、物語ったり、記述したりすることはできない。

もし私がそうしようとこころみるならば、あの語りかけは止んでしまうだろう。この人間は私の対象物ではない。私は彼に関わりを持つにいたったのである。たぶん、私は彼との関係を通して何かをはたさなければならない。

だがたぶん、私はただ何かを会得することができるだけであって、そして肝心なのはただ、私がその語りかけを《引き受ける》ことなのである。

この場合、私がほかならぬその人間にむかって直ちに応答するようなこともあり得よう。あるいはまた、その語りかけが、長いあいだにおよぶ一種の多様な連動作用を有していて、私がその語りかけにたいしてどこか別の所で、いつか別の時に、だれか別の人間にむかって応答することもあり得よう、……いかなる言語によってであるかはいざ知らず。

そして今は、私がその応答を引き受けるということだけが大事なのだ。いずれにしてもしかし、私にむかってひとつの言葉が、ひとつの応答を求めるひとつの言葉が生じたわけである。

 このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう。

 私が感得するのは人間であるとは限らない。それは動物でも、植物でも、石でもあり得るのだ。時に応じてそれらを通して何かが私に語りかけられるところの現象の系列から根本的に締め出されているような、いかなる種類の現象も、出来事も存在しないのである。

いかなるものも、言葉の容器たることを拒むことはできない。対話的なものの可能性とは、感得の可能限度なのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話




照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)


「照察者(Betrachter)は、そもそも緊張していない。彼は対象を自由に見ることができるような姿勢をとり、自分のまえに示されるだろうものを虚心に待つ。

ただ最初のうちだけは、彼の心にも意図がはたらいているかも知れないが、そのあとのことはすべて無意的におこなわれるのだ。

彼はせかせかと記録したりはしない。彼は伸びやかにふるまい、何かを忘れることなどはすこしもおそれない(《忘れるのはよいことだ》と彼は言う)。彼は自分の記憶に責務を課したりはしない。

彼は、保持するにあたいするものを保持してくれる記憶の有機的なはたらきを信頼しているのだ。

彼は観察者のように草を緑色飼料として刈りいれたりはしない、彼は草の向きを変えて陽光を受けさせてやるのだ。

《特徴》には彼は注意をはらわない(《特徴は眼をあざむく》と彼は言う)。対象にそなわっているもののうち、彼にとって大事なのは、《特質》でも《外容》でもないところのものである(《興味をひくものは重要ではない》と彼は言う)。あらゆる偉大な芸術家は照察者であった。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.199-200、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「われわれの眼前に生きているひとりの人間(私が念頭においているのは、学問の対象としての人間ではない。私はここでは学問については語らない)をわれわれが知覚する方法は、三つに区別される。

さてこの場合、われわれの知覚の対象である人間が、われわれのこと、われわれが彼のそばにいることを、知っている必要はいささかもない。彼がわれわれの知覚行為に何らかの関わりを有しているかどうか、何らかの挙止によって応ずるかどうかということもまた、どちらでもよいのである。

 観察者(Beobachter)は、被観察者を記憶に刻印し、《記録》すべく、このうえなく緊張している。

彼は相手を探知し、記述する。彼はしかも、あたうる限り多くの《特徴》(Züge)を記述しようとやっきになっている。彼はさまざまな特徴を、それらのうちの何ひとつとして取り逃すまいとして待ち伏せるのである。

対象はここではさまざまな特徴によって成り立っているにすぎず、あらゆる特徴について、その背後にひそんでいるものが知られてしまうのだ。

人間的事象の表出方式なるものについての知識が、新しく現れてくるさまざまな個人的な表出変差を絶えず直ぐさま抱合してゆき、相変わらず役立つわけである。

顔はここではたんなる表情にほかならず、行動はたんなる表出様態にほかならないのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






2024年4月22日月曜日

24. 特別学習プログラム(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

特別学習プログラム(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「人々がしばしば不適応と判断される主な理由は、その人たちが出会う社会的・職業的要求に効果的に対処するために必要な行動様式をどのように実行するかを学ばなかったということであろう。

つまり、うまく役割を果たすために要求されている技術が欠如しているので、適切にふるまえない。

例えば、社会的、経済的に恵まれていない人は、職業や対人関係場面で成功するために必要な行動様式や能力を獲得していないので苦しんでいるのかもしれない。同様に、私たちの文化において高校中退は実際に、恒久的な不利益をもたらす。

そのような行動的欠陥は、もし広範囲に及ぶものなら、重篤な情動的苦痛を生じさせるかもしれない。

多くの特別学習プログラムは、人々にさまざまな問題解決戦略や認知的スキル(Bijou,1965)を教えるように、また人々が多くの他の肯定的な行動の変化を成し遂げるのを援助するよう計画されている(Kamps et al.,1992; Karoly,1980)。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第11章 行動の分析と変容、p.355、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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行動査定と行動変容の間の密接な関係は機能分析、つまり刺激条件の変化と選択された行動パターンの変化の間の密接な共変動の分析において最も明らかである(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 行動査定と行動変容の間の密接な関係は機能分析、つまり刺激条件の変化と選択された行動パターンの変化の間の密接な共変動の分析において最も明らかである(ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「ある子どもの読書の問題が、視力の悪さによって引き起こされると仮定したら、矯正メガネや矯正手術のような適切な治療をすれば、例えば読書行動の向上など、行動上の変化がもたらされるはずである。

心理的原因に関しても、同じであるのは間違いない。例えば、もし子どもの読書の困難さが、読書するようにという母親からの圧力についての不安で引き起こされていると信じるなら、母親が圧力を減少させたとき、読書行動に期待された改善が生じるかどうか、試してみるべきである。

つまり、行動を完全に理解するには、それを引き起こす条件を知る必要がある。条件の変化が反応パターンの予測された変化を生じさせることを示すことができたとき、それら条件の意味を理解できたと、確信をもっていうことができる。

 行動査定と、例えば行動の変化などの治療との間の明確な区別は、このように考えると、意味はないし可能でもない。実際、行動査定における最も重要な革新のいくるかは、問題行動を変容させる治療的努力から派生している。

これらの査定方法の主要な特徴は、それらが行動変容と密接に結びついており、実際に行動変容とは分離することはできないということである。

 行動査定と行動変容の間の密接な関係は機能分析、つまり刺激条件の変化と選択された行動パターンの変化の間の密接な共変動の分析において最も明らかである。そのような機能分析は、行動査定の基本であり、そのことは行動を系統的に変化させようとする研究において最もはっきりと示される。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第11章 行動の分析と変容、pp.342-343、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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2024年4月21日日曜日

24. 人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「カーバーとシャイアーは、感情が行動調整にとって重要であるとする考えに同意しない。

彼らは感情的要因よりもむしろ情報が自己調節を導いていると論じる。

不一致減少に向けたさらなる努力が成功を収めると信じているなら彼らは継続するだろう。もし人びとが不一致減少に向けた努力が不成功に終わると思っていると、彼らは撤退し、止めてしまうだろう。

しかし撤退することもままならないことがある。とくにその目標が個人の自己定義の中心に位置している場合がそうである。人びとは止めることもできず、そしてなお不一致を経験すると、彼らはしばしば憂鬱になる。

つまりカーバーとシャイアーは、不一致の現前そのものがいつも不快(否定的情動)を人びとのうちにつくりだすとは考えていない。むしろ否定的な気持ちは、個人が不一致を減らせないと確信する場合だけに生じる。そうであるとすると、その個人は自己目標の優先順位を入れかえるだろう。

つまり人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。  

最後にカーバーとシャイアーは、感情は不一致減少のフィードバック・ループから生じるだけでなく、個人が特定の結果を避けようと試みる不一致拡大のフィードバック・ループからも生じると議論している。

その目標に近づこうとする行為よりも、むしろある個人の行動は基準あるいは準拠している価値から離れる動きを起こそうとするかもしれない。」(中略)  

「不一致減少のループでは、個人は目標を達成しようとつとめる。そして個人が望ましい目標に近づくほど、喜びなどの肯定的感情がますます出現する。

不一致拡大のループでは、個人は目標を避けようとつとめ、そして個人がそうすることに成功するほど、安堵のような感情が生じやすくなる。  

カーバーとシャイアーのアプローチとヒギンズの情動理論のあいだには、いくつかの興味深い相違が見いだされる。

ヒギンズにとって、感情は自己の二つの表象間の不一致の関数である。これに対して、カーバーとシャイアーにとって、感情は目標に向う速度の関数である。

たとえばカーバーとシャイアーにとって、不一致があっても個人が目標へ向けて速い速度で進行していると感じるかぎり、否定的より肯定的な感情が経験される。  

もう一つの相違は、ヒギンズ理論は否定的感情に焦点を合わせる傾向が見られるが、カーバーとシャイアーは肯定的ならびに否定的感情に等しく注目している。

さらに、両者の理論のあいだにあるもう一つの相違は、道徳指令、すなわち「理想的」と「当為的」がどのように概念化されるかと関係する。理想は不一致減少のループを取り扱うのに対して、当為は不一致減少のループ(肯定的目標の実現に向けた運動)および不一致拡大のループ(反目標からの逃避)の両方を示唆している(Carver and Sheier,1998)。

カーバーとシャイアーにとって、もし個人が回避ループで十分に進展できなかったならば、経験される不安の水準は、肯定的目標に向う運動が実現されないときと同程度であろう(ヒギンズモデルはこの点を強調している)。  

カーバ-とシャイアーのモデルの強みは、「怖がる自己」「望ましくない自己」「あってほしくない自己」と見なされるものから出現する感情に注目していることである。」

 
望ましい目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標に向う展開
不一致減少なし
不一致減少
憂鬱
望ましい目標 標準より速い速度で目標に向う展開 不一致減少 高揚/喜び
望ましくない目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標から遠ざかる展開
不一致拡大なし
不一致拡大
不安
望ましくない目標 標準より速い速度で目標から遠ざかる展開 不一致拡大 安堵
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.273-276、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]