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2024年4月25日木曜日

30.道徳的な価値評価がまず第一に引き合いに出すのは《高級な人間》(あるいは世襲階級)《と低級なそれ》という区別である(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

道徳的な価値評価がまず第一に引き合いに出すのは《高級な人間》(あるいは世襲階級)《と低級なそれ》という区別である(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)




「道徳的な価値評価がまず第一に引き合いに出すのは《高級な人間》(あるいは世襲階級)《と低級なそれ》という区別である。

道徳はまず第一に権力のある者たちの自己賛美であり、そして権力のない者たちに関しては軽蔑である。「善」と「悪」ではなくて、「高貴」と「卑俗」が根源的な感覚である。

《次いで》ようやく、そういう区別を示す《諸行為や諸固有性》が《高貴》と呼ばれ、そしてそれらと対立する諸行為や諸固有性が《卑俗》と呼ばれる。」

 (フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七一一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.345-346、[原佑・吉沢伝三郎・1994]) (索引:世襲階級、高貴、卑俗、善、悪)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)

『ギリシャ人の祭祀』(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)

『ギリシャ人の祭祀』(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)




「第二節 儀礼を形成する一般的傾向  私は、呪術および奇蹟を信仰する人々の思考にとって共通である、いくつかの特徴を挙げてきた。しかし、これらは彼らの《思考の形式》に関するものである。

ところで、彼らは、またみずからの思考の実質として、ひとつの確信を共通に有している。

それは《自然および自然との交渉》に関するものである。

すなわち、人々は自然法則については何も知らない。〔彼らにとっては〕大地にあっても、天空にあっても、必然は存しない。季節も日光も雨も、到来することもできれば、到来しないこともできるものである。

一般に、《自然的》因果性についての、いかなる概念も欠如している。

人間が漕ぐとしても、舟を動かすものは、この漕ぐことではなくして、漕ぐことは、これによって人間がデーモン〔魔神〕に舟を動かすように強制するところの呪術的儀式にすぎない。

あらゆる病気、死すらも、呪術的作用の結果である。病気になるのも死ぬのも、決して自然の出来事ではない。およそ《自然的な成り行き》という表象がまったく欠如している

(―――このような表象は、古代ギリシャ人にあっては、神々を超えて君臨するアナンケー〔宿命〕・モイラ〔運命〕の観念のうちに、次第に明け初めるのである)。 

ひとが弓をもって射るとしても、弓に常に非合理的な力が宿るからであり、泉が涸渇するとしても、恐らくは竜が水を土中に引き止めているからである。突然、雷に打たれた人間は、神が矢をもって彼を射たのである。

インド人の間にあっては(ラボックによれば)指物師は、彼の鎚や手斧やそのほかの道具に犠牲を捧げるのが常である。

そして同じように、婆羅門は彼が書くに用いる筆を、戦士は彼が戦場で用いる武器を、左官職は彼の鏝を、労働者は彼の鋤を取り扱うのである。

全自然が、意識的にして意志的な存在の行為の総計であり、《恣意》の総計である。われわれの外なる一切のものに関して、そのものはかくかくのように《なるであろう》、という推理は存しない。

ほぼ確実なもの、予測し得るものは、《われわれ》である。すなわち、人間は《規則的なもの》であるが、自然は《不規則なもの》なのである。  

ところで注意して貰いたい。人間がみずからを内面において豊かなものと感ずれば感ずるほど、すなわち人間の主体が重音的であればあるほど、ますます一層、自然の均斉は人間に畏敬の念を起こさせるものである。

そのことは、ゲーテが自然を近代人の魂の偉大な鎮静剤として見なしたとおりである。

しかし逆に、われわれは諸民族の粗野にして原始的な状態を想像したり、現在の未開人を見るならば、われわれは、彼らが極めて強力に《法》や《慣習》によって規定されているのを見るのである。

すなわち、個人はほとんど自動的に法や慣習に結びつけられている。

個人にとっては、自然は《自由の国》、恣意の国、より高き力の国として、そればかりか、いわば、《より高き人間性の段階》として、すなわち神として、現象せざるを得ない。

しかし、これによって、個人は自己の生存、自己の幸福、家族および国家の幸福、あらゆる計画の成功が、かの自然の恣意に如何に左右されるかを感得するのである。

ところで、自然の恣意のうち、あるものは然るべき時に出現しなければならないし、ほかのものは出現してはならない。とするならば、いかにしたら、ひとは自然の恣意に対して影響を及ぼし得るか、いかにしたら、ひとは自由の国を拘束することができようか? 

そこで、ひとは、つぎのように自問する。汝みずからが規則的であるのと同じように、かの自然の諸力を慣習と法とをとおして規則的ならしめる手段が存在するであろうか? 

―――すなわち、呪術および奇蹟を信ずる人々の思考は、《自然の上に法を課すること》に向うのである。そして宗教的儀礼は、これがために案出された手段なのである。  

これは、つぎのような問題と同じ問題である。すなわち、いかにしたら、《力の弱い》部族が、それにもかかわらず、《力の強い》部族に対して法を加え、彼らを規定し、(力の弱い部族に対する態度において)彼らの行動を左右し得るか? 

その最も悪意のない仕方は、ひとの《傾向性》に取り入ることによって行使するところの強制である。切願したり、祈ったり、服従したり、定期的に貢納したり、贈り物をしたり、追従の賞讃を捧げたりすること、などをとおして行なうところのものである。

つぎには、ひとは相互に一定の行為の仕方を義務づけ合い、担保を与え合い、宣誓を交わし合うことによって、《協定》を結ぶことができる。しかしまた、呪術や魔術によって、無理やりに《強制》を行使することもできる。」 
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『ギリシャ人の祭祀』緒言、第二節、ニーチェ全集1 古典ギリシアの精神、pp.352-355、[上妻精・1994]) (索引:呪術、魔術、宗教的儀礼)

古典ギリシアの精神―ニーチェ全集〈1〉 (ちくま学芸文庫)