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2024年4月30日火曜日

18.パッシブ・セーフティ(高木仁三郎(1938-2000)

パッシブ・セーフティ(高木仁三郎(1938-2000)




 「つまり、小さな事故はともかくとして、原発が本当に深刻な事故に至った場合に、人為的な判断で、外からダイナミックな装置を介入させてシステムを止めるとか、緊急冷却水を送り込んで原子炉を冷やすというようなことではなくて、本来的に備わった安全性―――パッシブ・セーフティと言われています―――によって暴走を止めるようなあり方のほうが望ましいのではないかということです。

つまり、危機状態が起こったときに、たとえば原子炉の温度が上がってくれば自然と反応が下がるような、あるいは反応度が上がってくればフィードバックが働いて反応度が下がるような、そういうフィードバックによって原子炉が止まる。

あるいは、安全システムも、危機状態のときにモーターなどを使って人為的で動的な介入をして安全を確保するようなことをやると、モーターが動かないときはどうするのかという問題が必ず出てきますから、

そうではなくて、危機状態になったら必ず、たとえばもっと強力な自然の法則、重力の法則が働いて、それによって制御棒が挿入されるというような、そういった本来的な安全性が働くような形のシステムであったほうがよいということです。

そのようにパッシブなセーフティーのほうが望ましいのではないでしょうか。

 結局、技術的に純粋に詰めていけば、そういうことになってくると思います。技術的な極致はパッシビズムということだと私は思うのです。

つまり、ことさら外から何か巨大なシステムや大動力を導入したり、あるいは人為的な介入をやって危機状態を乗り切ろうとしている限りにおいては、いくら安全第一をモットーとしても、やはり人間のすることですから、うまく働かなければ人為ミスが起こって必ず事故につながるので、大事故の可能性が残ってしまいます。

あらゆる場合に、自然の法則やおのずと働いているさまざまな原理によって、人為的介入がなくても、事故がおさまるようなシステム、これを基本においた設計がなされるべきでしょう。

重力によって水が高いところから低いところに流れるとか、熱も高いところから低いところに伝わるとか、そういった自然法則に十分に依拠したようなシステム、これを私はある人の考えを借りてパッシビズムの技術と呼んでいますけれども、それならばうまくいくかもしれないと思うのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第三巻 脱原発へ歩みだすⅢ』原発事故はなぜくりかえすのか 8 技術の向かうべきところ、pp.414-415)



人間-機械の「奇妙な」とでも言うしかないような、やりとりの中で拡大され、次第に大きな事態になっていく(高木仁三郎(1938-2000)

 人間-機械の「奇妙な」とでも言うしかないような、やりとりの中で拡大され、次第に大きな事態になっていく(高木仁三郎(1938-2000)



「これらの事故によって、原発の運転におけるヒューマン・ファクターが見直されるようになった。

そのこと自体は誤りではないが、通常言われるような「運転員の訓練の向上」ということによっては、困難は克服されないだろう。

というのは、TMIやチェルノブイリの事故が明らかにしたのは、きわめて微妙な機械と人間の関係だからである。

 TMIでは、機械部分の小さな異常を契機として事故が進展し、それによってもたらされた混乱が人間の判断ミスを誘い、それがさらに機械部分の異常を拡大し―――という風に、機械と人間がやりとりしながら、異常を増幅していった。

たとえば、制御室には最盛時には一分間に何十もの警報が寄せられ、温度計はクエッション・マークを出し続け、コンピュータの打出しは遅れに遅れ、各種の計器やランプの表示も適切を欠いた。

これは、単純に人間のミスが事故を誘発した(そういう種類の事故は、このシステムをフール・プルーフにすることによりかなり防ぎうる)ということでも、逆に機械の欠陥が事故を誘発した(これはフェイル・セーフ設定によりある程度防ぎうる)ということでもない。

ひとつひとつは、小さな混乱と思われることが、人間-機械の「奇妙な」とでも言うしかないような、やりとりの中で拡大され、次第に大きな事態になっていくのである。

チェルノブイリも、その点ではまったく同様で、信じられないような規則違反が連続したことじたいが、右のような奇妙なシチュエーションを考えない限り説明され得ないだろう。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』共著書の論文 核エネルギーの解放と制禦、p.524)