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2018年11月10日土曜日

裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

「裁量」の3つの意味

【裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)「裁量」の3つの意味
 (a)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、合理的に解釈しても幾つか異なった判断、裁定の可能性を導く場合、彼は裁量をもつ。
 (b)ある人の特定の判断、裁定が最終的であり、上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつ。
 (c)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、特定の判断に関して事実上いかなる義務をも課していない場合、彼は裁量をもつ。
(2)裁判官は、(a)と(b)の意味での裁量を有し得るにもかかわらず、(c)の意味での裁量は持ちえない。すなわち彼は、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、自らに対し要求されていることを反省し、裁判官としての義務の何たるかが問題とされるようなものとして、自らの判決を受けとめる。

 「私は前章でこの主張が実は裁量概念の一種の多義性に基づいていることを明らかにしようとした。我々は義務に関する議論においてこの概念を三つの異なった意味で使用する。第一に、ある人間の義務が、合理的に解釈しても幾つか異なった解釈の可能な規準により規定されている場合、その人間には裁量が認められると我々は考える。最も経験豊かな五人の人間を巡視に選ぶよう命じられた軍曹の例がこれにあたる。第二に、ある人間の裁定が最終的であり上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつと我々は考える。たとえば選手がオフサイドを犯したか否かの判定が線審の裁量に委されている場合がそうである。第三に、ある人間に義務を課する一連の規準がその趣旨からして特定の判断に関しては事実上いかなる義務をも課していない場合、その人間は裁量を有すると言われる。たとえば借家契約の条項が借家人に対し裁量により契約を更新する選択権を認めている場合がそうである。
 特定の判決を一義的な仕方で要求するいかなる社会的ルールも存在せず、いかなる判決が事実上要求されているかにつき裁判実務が分裂していることが明らかな場合、裁判官には上記の第一の意味での裁量が認められることになる。というのもこの場合、裁判官は既存のルールの適用を超えてイニシャティヴを行使し判断を下さねばならないからである。またこれらの裁判官が最終審の裁判所の成員であるとき、彼らに第二の意味の裁量が認められることも明らかである。しかし我々が最も強い形態の社会的ルール理論を採用し、義務や責任は社会的ルールのみから生成すると考えないかぎり、これらの裁判官が第三の意味での裁量をもつと結論することはできない。これらの裁判官が第一と第二の意味での裁量をともに有していながら、それにもかかわらず、裁判官としての彼の義務の何たるかが問題とされるようなものとして、まさに自らの判決を受けとめるであろう。裁判官にとり判決とは、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、何が彼に対し要求されているかを反省することにより判断すべき問題と考えられているのである。もしそうであれば、裁判官は第三の意味での裁量はもたないことになる。しかし司法的義務が専らある単一の窮極的な社会的ルールや一群の社会的ルールにより規定されていることを実証主義者が論証しようとするならば、この第三の意味での裁量を裁判官が現実に有していることを実証主義者は立証しなければならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,4 裁判官は裁量を行使する必要があるか,木鐸社(2003),pp.80-81,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:裁量)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2018年11月9日金曜日

法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の総体を正当化すべく要請された法理論

【法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 ある法理論を、他の法理論より優先して選択すべき、いかなる基礎が存在するかが問題である。
(1)法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論へと深く入り込まざるを得ないであろう。
(2)ある法律家の法理論においては、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理は、ほぼ全て何らかの意義と役割を持つであろう。
(3)ただし、憲法上の配慮により排除される原理は別とする。
(4)制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理だけでは、政治理論や道徳理論の構成には不十分である。
 参照: 原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「私は他の法理論に優先してある理論を選択すべきいかなる基礎も見出されない、と主張しているのではない。逆に次節で検討される裁量論を私が拒否することからもわかるように、ある理論を他より勝れたものとして区別する説得力ある論証を示し《うる》と私は考えている。しかしこれらの論証は、たとえば社会における平等義務の本質は何か、といった規範的政治理論の諸問題の論証を含み、この種の論証は、法とは何かを決定する際に考慮さるべき問題には一定の限界がある、という実証主義的な観念では捉えることのできない論証である。制度的支えというテストは、ある法理論を最良の理論として特定化する機械的ないし歴史的基礎や倫理的に中立的な基礎を我々に与えてはくれない。それどころかこのテストは、ある一人の法律家が一連の法的原理を他のより広範な倫理的ないし政治的原理から区別することさえ可能にしないのである。通常、法律家の法理論には彼が受容するほぼすべての政治的倫理的原理の総体が含まれるだろう。確かに、憲法上の配慮により排除される原理を別とすれば、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理でありながら、法の総体を正当化すべく要請された詳細な正当化図式の内部には属さず、この図式において何の意義ももたないような原理を一つでも考えだすことは困難である。それ故実証主義者が制度的に確立した慣行を法の窮極的テストの役割を演ずるべきものとして採用しても、これはただ彼の台本の残りの部分をその犠牲として放棄することによってのみ可能なのである。
 しかしもしそうであれば、法理論にとり由々しい結果が生ずることになる。法理論は「法とは何か」という問いを立て、大半の法哲学者は法的権利義務の立証過程において適切な仕方で登場する「規準」を特定化することにより、この問いに答えようとしてきた。しかし、このような規準の網羅的なリストが作成されえないとすれば、法的権利義務を他のタイプの権利義務から区別する別の方法が発見されねばならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,3「制度的支え」は承認のルールを構成するか,木鐸社(2003),pp.79-80,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法理論,政治理論,道徳理論,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月3日土曜日

規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行と規範的ルールの関係

【規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 規範的ルールは、ある社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。
(1)従って、正当化される規範的ルールは、社会的慣行と同じ内容を持つとは限らない。
(2)ある社会的慣行が存在したとしても、その慣行がそのまま規範的ルールとして受け容れられるわけではない。ある人が、当の社会的慣行を無意義なものと考えていれば、この社会的慣行が何らかの義務や規範的な行動規準を正当化するなどとは考えないだろう。
(3)ある社会的慣行は、規範的ルールを正当化するために援用される。
(4)元の社会的慣行とは別のある行動様式が形成され、この行動様式の正当性の根拠が、元の社会的慣行と規範的ルールであると主張され得るような期待が形成される。

規範的ルール
 │↑↑
 │││解釈、規範的判断
 ││└社会的慣行a
 │└─社会的慣行b
 └─→別の行動様式c

 「規範的判断がしばしば社会的慣行を、当の判断根拠の本質的要素とみなしていることは確かであり、慣習的道徳の本質的特徴もこの点に存することは既に述べた。しかし社会的ルール理論は、両者の関係を誤解しているのである。この理論は社会的慣行がそれのみでルールを「構成」し、このルールを規範的判断が受け容れるものと考えている。ところが実際は、社会的慣行は規範的判断が提示するルールを「正当化」するために援用されるにすぎない。教会で帽子を脱ぐ慣行が存在する事実は、このような趣旨の規範的ルールの主張を正当化するが、これは、当の慣行がそれ自体で、規範的判断により提示され是認されるルールを構成するからではなく、違反となるような行動様式が慣行から形成され、教会で帽子を脱ぐ義務やこの義務を示す規範的ルールの主張の正当根拠となるような期待が、慣行から生ずるからなのである。
 社会的ルール理論の誤りは、ある社会的慣行が、この慣行の存在を根拠として個人が主張するルールと何らかの意味で同一の「内容」を有する、という見解に由来する。しかし慣行は単にルールを正当化するにすぎないことを認めれば、このようにして正当化されるルールが慣行と同じ内容をもつこともあればもたないこともあるし、慣行に含まれるほどの内容をもたないことも、またそれ以上の内容をもつこともありうることになる。社会的慣行と規範的主張の関係をこのような仕方で把握すれば、我々は社会的ルール理論が苦心して説明しようとすることを難なく説明できるだろう。ある社会的慣行を無意義なものとか愚かで無礼なものとか考える人は、何らかの義務や規範的な行動規準がこの慣行により正当化されることは原理的にでさえありえない、と考えるだろう。この場合彼は、当の慣行は彼に対し義務を課するがこの義務を彼は拒絶する、とは言わず、当の慣行は他人がどう考えていようと、そもそもいかなる義務をも彼に課さない、と主張するだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,1 社会的ルール,木鐸社(2003),p.65,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:社会的慣行,規範的ルール)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月30日火曜日

ある規範的ルールが、成員の意見が一致しているが故に義務と考えられる「慣習的道徳」と、意見が一致せず仮に遵守されていなくとも義務と考えられる「共立的道徳」とが、区別できる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

共立的道徳と慣習的道徳

【ある規範的ルールが、成員の意見が一致しているが故に義務と考えられる「慣習的道徳」と、意見が一致せず仮に遵守されていなくとも義務と考えられる「共立的道徳」とが、区別できる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 道徳には、共立的道徳と慣習的道徳との区別ができる。裁判官が自ら遂行すべきであると考える義務の少なくともある部分は、慣習的道徳ではなく、むしろ共立的道徳に属すると考えられる。
(1)共立的道徳
 (1.1)ある規範的ルールが成立している本質的要素として、その集団の成員の意見が一致していることを主張しないルール。
 (1.2)人は嘘をつくべきでない義務に服すると考え、しかも他の多くの人々が嘘をついたとしても、この義務は相変わらず存在すると考えるのであれば、これは共立的道徳の一例となる。
(2)慣習的道徳
 (2.1)その集団の成員の意見が一致していることを、本質的要素とするルール。
 (2.2)ある社会的慣行が、もし実際に存在しなければこの義務も存在しないと考えれば、これは慣習的道徳の一例である。

 「二種類の道徳はそれぞれ共立的(concurrent)道徳と慣習的(conventional)道徳と呼ぶことができるだろう。社会成員が同一あるいはほぼ同一の規範的ルールを主張することで一致しているが、彼らの意見が一致しているというこの事実を、ルールを主張する根拠の本質的要素とはみなしていない場合、社会は共立的道徳を提示するのに対し、一致の事実を、ルールを主張する根拠の本質的要素として挙げていれば、これは慣習的道徳を提示していることになる。もし教会に出かける人が、あらゆる人は教会で帽子を脱ぐ義務を有すると考えながらも、この種の社会的慣行が実際に存在しなければこの義務も存在しないと考えれば、これは慣習的道徳の一例である。また、人は嘘をつくべきでない義務に服すると彼らが考え、しかも他の多くの人々が嘘をついたとしてもこの義務は相変わらず存在すると考えるのであれば、これは共立的道徳の一例となるだろう。
 したがって社会的ルール理論は、単に慣習的道徳の諸例に関してだけあてはまる理論となるように弱められねばならない。嘘言の場合に示されているような共立的道徳に関しても、ハートの言う実践的諸前提は充足されてはいるだろう。つまり人々は概して嘘をつくことはなく、このような態度を正当化するものとして、嘘言は悪であるという「ルール」を引用し、しかも嘘をつく者を非難するだろう。ハートの理論によれば、社会的ルールはこのような行為から構成されており、当該社会は嘘言を禁止する「ルールを有する」という社会学者の主張もこれにより正当化される。しかし嘘をつくべきでない義務を人々が主張した場合に彼らは上記のごとき社会的ルールを「援用している」と考えたり、彼らは社会的ルールの存在を自己の主張の必要条件とみなしている、と関することは彼らの主張の曲解である。むしろこれは共立的道徳の一例であり、したがって人々は社会的ルールを援用したり、これを自己の主張の必要条件と考えているわけではない。それ故社会的ルール理論は慣習的道徳に限定されねばならない。
 理論がこのような仕方で更に弱められれば、司法的義務の問題に関する当該理論の意義も薄れてくる。裁判官が自ら遂行すべきであると考える義務の少なくともある部分は、慣習的道徳ではなくむしろ共立的道徳に属すると考えられよう。たとえば多くの裁判官は、民主的に選挙された立法府の決定を執行すべき義務に服すると考え、この義務を彼らが独立した価値をもつものとして受容する原理に基礎づけることもあるだろう。この場合彼らが当の原理を受容するのは、単に他の裁判官や公務担当者も同様にこの原理を受容しているからではない。しかし他方、これとは逆の想定をすることも少なくとも可能ではある。つまり典型的な法体系に属する少なくとも大半の裁判官は、一般的なある種の司法的慣行の存在を、自己の司法的義務上の要請を根拠づける本質的要因とみなしている、と考えることも可能だろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,1 社会的ルール,木鐸社(2003),pp.59-60,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:共立的道徳,慣習的道徳)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月28日日曜日

原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の存在を擁護する諸慣行

【原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)諸原理
 (2.1)これに対して諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (2.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
 (2.2.1)原理の制度的な支え
  (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
  (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
  (c)当該原理を引用している制定法の序文
  (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
 (2.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
  (a)制度的責任
  (b)法令解釈の一定の技術
  (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
  (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
  (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
 (2.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行

 「ハートによれば、多くの法準則は権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。ある法準則は立法府により制定法のかたちで創出され、他の法準則は特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し将来の事案に対する先例として確立する裁判官により創出される。しかし、法準則のこのような系譜テストはリッグス事件やヘニングセン事件にみられる原理にはあてはまらない。これらの原理が法的原理とされるのは、立法府や裁判官の特定の決定に由来するからではなく、ほんとうは一般市民がこれらの原理を長い期間のうちに適正なものと感ずるようになったからである。適正さの感覚が維持されるかぎり法的原理は依然として効力をもち続ける。不法による利益取得を許可することがもはや不公正と思われず、また危険をはらむ器械を独占的に製造する少数会社に特別の負担を課することが公正と思われなくなれば、これらの原理はたとえ破棄ないし撤廃されなくとも、その後新たな事例でそれなりの役割を演ずることはもはやないであろう。(事実、この種の原理について「破棄される」とか「撤廃される」とか語るのは無意味である。原理が沈没するのは、いわば腐蝕したからであり魚雷攻撃をうけたからではない。)確かに、ある原理が法的原理であることを我々が主張し、この主張を正当化するよう要求された場合、我々は当の原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案を引き合いに出すであろうし、また、この原理を具体的に表現していると思われる制定法を指摘するであろう(この場合、当の原理が制定法の序文や、制定法に伴う委員会報告その他の立法関係書類で引用されていれば、なお都合がよい)。我々がこのような制度的支えを見出せなければ、我々の主張の立証は失敗するだろうし、逆に多くの支えを見出すことができれば、それだけ原理の重要性を強く主張できるのである。
 しかしそれにもかかわらず、原理が法的原理となるためにいかなる制度的支えがどの程度必要かを明示したり、ましてや原理の重要性に一定の等級づけを与えるためにどの程度の制度的支えが必要かを明示するような定式を考え出すことは不可能である。我々が特定の原理を支持する論証を行うとき、これは推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準(この規準自体も法準則ではなく、むしろ原理と考えられる)の総体と取り組みつつなされるのであり、これらの規準には、制度的責任、法令解釈、各種判例の説得力、及びこれらすべての問題と現在の道徳的慣行との関連性などに関する諸規準、その他この種の多くの規準が含まれている。どれほど複雑なものであれ単一の「ルール」にこれらすべての規準を詰め込むことはできないし、仮にこれが可能としても、結果として生ずるルールはハートの承認のルールとは似ても似つかぬものになるだろう。ハートの描く承認のルールは、「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示する、きわめて確固とした主導ルールだからである。
 更に、ある別の原理を擁護する際に我々が援用する論証手段は(ハートの承認のルールがそう考えられているのとは異なり)、これらの諸手段により支持される諸原理と全く異なる次元に属しているわけではない。ハートが主張するような受容と妥当性の厳格な区別はここではあてはまらない。たとえば、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理を擁護する場合、我々はこの原理を具体的に表明している裁判所や立法府の行為を援用するが、この場合原理は受容されているとも言えるし、また妥当性を有するとも言える(妥当性を有するという言い方を原理について用いることは、いかにも奇妙と思われる。これはおそらく妥当性が黒か白かの概念であり法準則には十分あてはまるが、原理のもつ重みの次元とは相容れない概念だからであろう)。我々はこの原理を擁護する議論において、判例に関する特定の理論や法令解釈の一定の技術を援用するが、これらを更に擁護するよう要求された場合(この要求は至極当然のことであるが)、我々はあきらかに当の理論や解釈技術を使用している他の人々の慣行を援用するであろう。しかし我々はこれ以外に、この慣行が依拠すると思われる他の一般的諸原理をも援用するはずであり、このことにより受容という和音に妥当性という旋律が導入されるのである。たとえば我々は次のように主張するだろう。つまり過去の事案や法令の使用は立法活動や判例理論の趣旨を一定の仕方で分析したり、民主制理論の諸原則を提示したり、更に中央政府と地方自治体との間で制度上の権威を一定の立場から適正に分配すること、その他これに類したことにより支持される、と。またこのような支持の過程は、受容のみに基礎をおいた何らかの窮極的原理へと至る一方通行的な過程ではない。我々が提出する立法、判例、民主制、連邦主義などに関する諸原理が更に挑戦を受けることもありうるだろう。もしそうなれば、我々はこれらを単に慣行のみにより擁護するだけでなく、これら諸原理の内在的意味などにより擁護しなければならない。もっとも、この最後の手段のために我々は様々な解釈理論を援用するが、これら解釈理論が、今まさにここで我々が擁護しようとする諸原理によって既に正当化された理論であるようなことも已むをえないのである。換言すれば、このような抽象的な次元では、諸原理は相互に連結するというよりは互いに支えあっていると言うべきだろう。
 それ故、諸原理が法制度の公的慣行から支えを得るとしても、原理はこれらの慣行と単純なかたちで直接的に結合しているわけではなく、したがって承認のルールといった特定の窮極的な主導ルールにより明示された規準によってこの結合を定式化することはできない。それでは、原理がこのようなルールのもとに包摂され得る何か別の方法があるだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.39-41,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月27日土曜日

そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則の拘束力を支える諸原理

【そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
(1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
 これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
(2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
 (2.1)立法権の優位の理論
  裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
 (2.2)先例の理論
  判決の一貫性が、衡平にかない、実効性のあることを主張する諸原理

 「第二に、どのような裁判官でも、既存の法理論を変更しようと試みる者は、既に確立された法理論からの離反に対抗する幾つかの重要な規準を考慮すべきであり、この種の規準も多くの場合原理なのである。この原理には、「立法権の優位」の理論、つまり裁判所は立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると言う一連の原理が含まれ、更に先例の理論、すなわち判決の一貫性が衡平にかない実効性のあることを示すもう一つ別の一連の原理がこれに含まれるだろう。立法権の優位や先例の理論は、各々の妥当領域において「現状維持」の傾向をもつが、必ずしもこれを決定的なかたちで要請するわけではない。しかし裁判官は、これらの理論を構成する個々の原理や政策の中から任意のものを自由に選択することはできない。既述のごとく、もしそうだとすると、拘束力をもつ法準則など存在しないことになるからである。
 それ故、特定の法準則が拘束力を有すると言われるとき、これが何を意味するかを考察してみよう。まずこれは、法準則がある諸原理により肯定的に支持されており裁判所はこれらの原理を勝手に無視することはできず、しかも総体としてこれらの原理は、法準則の変更を支持する他の諸原理よりも重要であることを意味するだろう。さもなければ、特定の法準則が拘束力を有することは、次のこと、すなわち立法府の優位とか先例に関する一組の保守的諸原理により法準則のいかなる変更も禁止されており、裁判所がこれらの原理を無視しえないことを意味する。法準則が拘束力を有すると言われるとき、これら二つの意味が同時に含まれていることが多い。というのもたいていの場合、上記の保守的な諸原理は、まさに原理であって法準則ではないが故に、裁判所が尊重すべき他の実質的諸原理によってはもはやコモン・ローの法準則や古くからの制定法が支持されえないとき、これらの法準則や制定法を救えるほど十分には強力でないからである。もちろん、上記二つの意味のいずれにおいても、原理や政策の総体は法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),p.36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則の拘束力を支える諸原理,立法権の優位の理論,先例の理論)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月26日金曜日

法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.c.1)~(1.c.2)追記。

 (1.c)難解な事案において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
  (1.c.1)まず、次の事実が存在する。上級裁判所は、既存の法準則を否定することもある。法準則は、時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて根本的に修正されていく。いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。
  (1.c.2)諸原理が「法」であるならば、法準則と諸原理の総体的な体系の中で、当該の法準則の変更が、他の原理に比較して一層重要なある原理を促進すると判断されたと考えることができる。これは、無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定し得ることとは異なる。

 「アメリカの多くの法域において、また現在ではイギリスにおいても、上級裁判所が既存の法準則を否定することは決して稀なことではない。コモン・ローの法準則――これらは過去の裁判所の判決を通じて発展したものであるが――は、しばしば端的に否定され、あるいは更なる発展を通じて根本的に修正されていくことがある。また制定法上の法準則も解釈、再解釈をうけ、場合によっては解釈が結果的にはいわゆる「立法者意思」を無視する場合でも、これは認められている。もし裁判所が既存の法準則を修正する裁量を有するのであれば、当然これらの法準則は裁判所を拘束していないことになり、実証主義モデルでいう法とは言えなくなるだろう。それ故実証主義者は、裁判官をそれ自体で拘束するある種の規準の存在、つまりいかなる場合に裁判官は既存の法準則を否定ないし修正しえて、いかなる場合にこれが不可能かを規定する規準の存在を論証しなければならない。
 それでは、いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。この問いへの返答において、原理が二つの仕方で登場してくる。第一に、裁判官は法準則の変更がある原理を促進すると判断することが必要――十分とは言えないまでも――であり、この場合、当の原理は法準則の変更を正当化することになる。リッグス事件における法準則の変更(遺言規定の新解釈)は、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理によって正当化され、ヘニングセン事件においては、自動車製造業者の責任に関し従来まで認められていた法準則が、裁判所の意見の中から私が引用した上記の諸原理を正当根拠として、修正されたのである。
 しかし、どのような原理でも法準則の変更を正当化しうるわけではない。さもなければ、あらゆる法準則が常に変更されうるという不安定な状態におかれてしまうだろう。法準則を変更しうるほど重要な原理とそうでない原理があるはずであり、更に前者の原理でも、他の原理に比べて一層重要なある種の原理が存在するはずである。しかしこれは、基本的にはいずれも採用される資格があり考慮に値する無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定しうることではない。もしそうだとすれば、いかなる法準則も拘束力を有するとは言えなくなるからであり、裁判官が法外在的な規準を選択する仕方によっては、最も確固とした法準則に関してでさえ、修正や根本的再解釈が正当化されてしまうことが常に予想しうるからである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.35-36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年10月25日木曜日

(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【(a)従来顧慮されてきた原理の無視は単なる「慣行の無視」か? (b)道徳的な職業倫理上の義務には拘束力がないか? (c)判断に異議があり得れば拘束力がないか? (d)承認ルールが無ければ拘束力がないか? (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.b.1)~(1.b.4)追記

 (1.a)原理は、法としての拘束力を有する。法的義務について判断を下す裁判官や弁護士にとって、この原理は顧慮されるべきである。
 (1.b)したがって、ある原理が当該事案に関連のあるものであれば、これを適用しない裁判官は不正を行なっていることになる。
  (1.b.1)例えば、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が、当該事案の裁判官により無視された場合、「慣行が無視された」と指摘することが妥当であろうか。
  (1.b.2)特定の原理の顧慮は単に「道徳的」な義務にすぎないとか、司法の「職業倫理上」の拘束であり、法としての拘束力は有しないなど言えるだろうか。
  (1.b.3)原理の権威や、原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。このことをもって、原理は法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。
  (1.b.4)拘束力のある法には、承認のルールのような「テスト」するルールがあり、原理にはこのようなテストが存在しないので、法としての拘束力は有しないと言えるだろうか。

 「(1)まず実証主義者は、原理というものはそもそも拘束したり義務づけることはありえない、と主張するかもしれない。しかしこれは間違いだろう。特定の原理が「事実として」法適用の任務に当たる人々を拘束しているかという問題はもちろん常に提起しうる。しかし原理の論理的性格の中には、それが裁判官を拘束することを不可能にするようなものは含まれていない。ヘニングセン事件において、自動車製造業者は消費者に対し特別の義務を負うという原理や、裁判所は取り引き上弱い立場にある者を保護するという原理を裁判官が顧慮せずに、ただ契約自由の原理のみを援用し被告に有利な判決を下した場合を想定してみよう。これを批判する者は、他の裁判官達がある期間顧慮してきた慣行が当該事案の裁判官により無視された事実を指摘するだけでは満足しないだろう。ほとんどの批判者は、上記の原理を顧慮することは当該裁判官の義務であり、原告は裁判官に対しこれを要求する権利があると答えるだろう。ある「ルール」が裁判官を拘束すると言われる場合、その意味するところは、ルールが当該事案に適用可能であれば裁判官はこれに従う義務があり、従わなければこのことにより誤りを犯したことになる、ということに他ならない。
 ヘニングセン事件のごとき事案では、裁判所は特定の原理を顧慮すべく単に「道徳的」に義務づけられるにすぎないとか、「制度的に」義務づけられるにすぎないとか、あるいは司法の「職業倫理上」拘束されるとか、その他この種の主張を行なっても問題の解決にはならない。というのも、何故この種の義務(この義務を何と呼ぼうと)と、法準則が裁判官に課する義務とを相互に異質のものと考えねばならないのか、そして何故原理や政策が法の一部分ではなく、単に「裁判所が特徴的な仕方で用いている」法外在的な規準にすぎないと断言しうるのか、といった問題が以前として未解決のまま残るからである。
 (2)次に実証主義者は、ある種の原理は、裁判官がこれを顧慮すべきだという意味で拘束力をもつことを認めた上で、原理が特定の結論へと裁判官を決定づけることはありえない、と主張する。」(中略)「これは原理が法準則ではないことを別の表現で述べているにすぎない。結論が何であろうと、特定の結論を導出すべく適用者に命令するのは法準則だけである。法準則が指示するものと反対の結論が導出されれば、これは法準則が放棄されたか修正されたからである。しかし原理はこのようには作用しない。」(中略)「
 (3)更にある実証主義者は次のように論じるだろう。すなわち原理の権威や、ましてや原理の重みといった観念は元来「議論の余地ある」ものであり、したがって原理を法とみなすことはできない、と。確かにしばしば我々は国会の決議や権威ある裁判所の意見の中に法準則を位置づけることにより、その妥当性を証明するが、これと同様の仕方で特定の原理の権威や重みを「証明」することは一般的にいって不可能である。むしろ、原理や原理の重みの根拠を提示しようとする場合、我々が援用するのは、立法過程や司法過程において以前から暗黙裡に前提されてきた慣行や他の原理の複合体、及び社会一般の慣行や了解などである。この種の事柄においては、ことの是非を確証するようなリトマス試験紙は存在しない――これは判断を必要とする問題であり、他の理性的人間がこの判断に異議を唱えることも十分にありうる。しかし繰り返しになるが、このような実証主義者の主張が正しいからといって、裁判官が裁量をもたない他のタイプの裁定者と異なっていることにはならない。」(中略)
 「もちろん、法実証主義にはもう一つ別の理論――すなわち各々の法体系にはハート教授のいう承認のルールのごとき、拘束力のある法を窮極的に「テスト」するルールがあるという理論――が存在し、もし実証主義者のこの理論が正しいとすれば、原理は拘束力のある法ではないことになる。しかし原理が実証主義理論と両立しないからといって、原理を法とは異なる何か特別なものと考えるべき理由にはならない。これは問題とされていることを既に真と仮定しての議論に過ぎない。我々は実証主義的な法モデルが果たして適切か否かを評価しようとしているのであり、それ故にこそ原理の性格に関心を向けているのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.31-34,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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