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2018年1月16日火曜日

悟性の充分に直感しえぬ何ものかは、その困難自体の本性による場合もあるし、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性の限界

【悟性の充分に直感しえぬ何ものかは、その困難自体の本性による場合もあるし、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 悟性の充分に直感しえぬ何ものかが現れたならば、そこに停まるべきである。それは、その困難自体の本性による場合もある。あるいは、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。それを、確認すること。
 「探究すべき事物の系列において、われらの悟性の充分に直感しえぬ何ものかが現れたならば、そこに停まるべきである。そしてそれに続く他のものを吟味することなく、無益な労を避くべきである。」(中略)
 「誰でも、何らかの困難の解決に当って前の諸規則を正確に守った上で、しかも上の規則によって何処かで停まることを命ぜられるに至るならば、その人は、求むる知識が如何なる手段を以ってしても見出されえないこと、しかもこれは自己の精神の過失のゆえでなく、その困難自体の本性或いは人間の身分がそれを妨げるがゆえであることを、確実に知るであろう。そしてこのことの認識は、事物自身の本質を示すところの認識に劣らず、立派な知識なのである。だから、この上さらに好奇心を拡げるような人は、健全な精神の人とは思われないであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、pp.49-50、[野田又夫・1974])
(索引:悟性の限界)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

鍛冶屋の喩え

【最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、しかも何一つ道具をもっていない場合、最初は堅い石とか何か無定形な鉄塊とかを鉄床にし、鎚の代りに石塊を用いる。そして、まず自分の使う道具である、鎚、鉄床、火箸を製作する。哲学においても、同様である。最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、真理の吟味に特に必要なことを探究する必要がある。人間認識とは何であるか、それはどこまで及びうるか。これを探ねることほど、有益なことはありえない。しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は為すべきことである。
 「実にこの方法は、機械的技術の中、他の技術の助けを要せずしてみずからの道具の作り方を自身に教えることのできる技術、に似ている。実際、誰かがその中の一つ、例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、しかも何一つ道具をもっていない場合、まず最初は、堅い石とか何か無定形な鉄塊とかを鉄床として用い、鎚の代りに石塊を採り、木片を火箸の形につくり、他の同様なものを必要に応じて集めねばならないであろう。そしてこれらを準備した後、直ちに刀剣とか甲冑とか、その他鉄で作られるどんなものをも、他人の使用のために鍛えようとはせず、何よりもまず、鎚、鉄床、火箸、その他自分の使う道具を製作するであろう。この例がわれわれに教えるところ、われわれは、今いる手始めの段階では、方法によって準備されたというよりむしろわれらの精神に生来具わっていると見られる、或る整わない規則しか、見出せないのであるから、そういう規則を用いて、直ちに哲学者の論争を鎮めるとか、数学者の難問を解くとかいうことを、試みるべきではない。かえって、それらの規則をば、まず、真理の吟味に特に必要なすべての他の事柄を全力を挙げて探究するに、用いるべきなのである。なぜなら、これを発見することが、幾何学や自然学やその他の学問において提出されるを常とするどの問題よりも、困難であるという理由は、明らかに存しないからである。
 さて今の場合、人間認識とは何であるか、それはどこまで及びうるか、を探ねることほど、有益なことはありえない。それゆえわれわれはこの二つの問題をただ一つの問題に総括し、これをすべてに先立って既述の諸規則に従い吟味すべきであると考える。しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は為すべきことである、なぜならこの研究の中には真の認識手段及び全方法が含まれているからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、pp.54-55、[野田又夫・1974])
(索引:認識論、鍛冶屋の喩え)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月13日土曜日

外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

共通感覚の記憶

【外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある特定の外部感覚の原因となった身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、外部感覚と同じように、身体に印象づけられ、これらの印象は外部感覚がなくても、それら自体だけでも形や観念を生じさせる(想像力)ようなものとして、身体に把持されている(記憶)。
 「第三に、共通感覚もまた、外部感覚からして物体の助けを借らずにただ自体だけで到来するところのこれら形または観念をば、あたかも印章が蝋に印するごとくに、想像または想像力(phantasia vel imaginatio)の中へ印象づける働きをする、と考うべきである。そして、この想像は、現実の身体部分であって、それのさまざまな部分は、互いに区別された多くの形を受け容れるだけの大きさをもっており、通常それらの形を長く把持する――この時それは記憶と呼ばれる――と考うべきである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.75、[野田又夫・1974])
(索引:共通感覚、想像力、記憶)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

共通感覚

【ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「第二に、外部感覚が対象によって動かされる時、それが受け取る形は、身体の或る他の部分すなわち共通感覚(sensus communis)と呼ばれる部分へ、同一瞬間に、かつその際何か実在的なものが一方から他方へ移り行くことなしに、移される、と考うべきである。あたかも、今私が字を書いている時、各々の文字が紙上に記されると同じ瞬間に、ペンの下部が動かされるのみならず、この部分のいかに小さな運動でも必ず同時にペンの全体にも及び、しかして、一端から他端へ何か実在的なものが移り行くのでないことが分かっているにも拘わらず、その運動のすべての差異はペンの上部によってもまた空中に描かれる、ということを私が理解するようなものである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.74、[野田又夫・1974])
(索引:共通感覚、外部感覚)



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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

外部感覚

【対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そこで第一にこう考うべきである、あらゆる外部感覚は、それらが身体の部分である限りにおいては、たとえそれらを対象に向けるのは能動(actio)すなわち場所的運動によるにしても、それらが本来の意味で「感覚する」(sentire)のはただ受動(passio)による、しかも蝋が印章から形(figura)を受け取るごとくする、と。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.73、[野田又夫・1974])
(索引:外部感覚)


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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

想像と運動

【想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「第四に、運動力或いは神経そのものも、みずからの源を脳髄に有し、ここに宿れる想像によってさまざまに動かされる――あたかも共通感覚が外部感覚によって動かされまたはペンの全体が下部によって動かされるように――と考うべきである。しかしてこの例はまた、いかようにして想像が、神経における多数の運動の原因たりうるか――この時想像の中にはこれらの運動の像が印せられているのでなく、何か他の像があってさような運動を起こすのである――をも、明らかにする。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.75、[野田又夫・1974])
(索引:行動、想像)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

紙の上の能動

【問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 いまや、紙に書き留めておくことのできるものは、記憶に委ねない。われわれは、問題の諸項を、最初に示された通りに書き込む。次いで、それらの項がいかなる仕方で抽象されたか、いかなる記号によって表示されているか、を書く。かくしてこの記号を以って解決を見出した後、われわれはその解決を、容易に、記憶の助力を少しも借らずして、始め問題となっていた特殊な主体に適用しうるであろう。
 「今や一般的に、絶えざる注意を必要とせずかつ紙に書きとめておくことのできる事物は、決して記憶に委ねないように、注意すべきである。すなわち、不必要な記憶の努力が、われらの精神の一部を、現前の対象の認識からはずれさせることのないようにすべきなのである。そして一覧表を作るべきである。――これへわれわれは、問題の諸項を、最初に示された通りに書き込む。次いで、それらの項がいかなる仕方で抽象されたか、いかなる記号によって表示されているか、を書く。かくしてこの記号を以って解決を見出した後、われわれはその解決を、容易に、記憶の助力を少しも借らずして、始め問題となっていた特殊な主体に適用しうるであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一六、pp.127-128、[野田又夫・1974])
(索引:紙の上の諸項、記憶、抽象、記号)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月12日金曜日

悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものを理解しようとするときは、その観念を、判明に想像力の中に形成すべきである。このとき、この観念を表現する物自体(モデル)を、外部感覚に示すと、理解を容易にする。ところで、多数の事物を、判明に理解するということは、その多数の事物の多様性のなかから、注意する必要のない属性をすべて除去し、本質的な属性を引き出すことである。さらに、この抽出された観念は、物自体として表現するよりも、むしろ物のある省略された形(記号)で示すことにより、より理解を容易にする。
 「それはこうである。悟性は想像力によって動かされ、また逆に想像力に働きかけることができ、同様に想像力は運動力を介して感覚に働きかけてそれを対象に向かわせ、また逆に感覚は想像力に働いてその中に物体の像を画くことができ、しかしてかの記憶なるものは、少なくともそれが身体的であって獣の記憶と同様である限り、想像力と別のものではない、のであるから、人は確実に次の結論に達する。悟性は、物体的なもの乃至は物体に似たものを少しも含まぬ事柄に携わる時、上の諸能力の助けを借りることはできない。かえって、それらに妨げられるために、感覚を遠ざけ、かつ想像力をあらゆる判明な印象から、できる限り除き去るべきである。しかしながら、もし悟性が、何か物体に関係をもちうるものを、吟味しようと企てるならば、そのものの観念を、できるだけ判明に、想像力の中に形成すべきである。しかして、より容易にこのことを成し遂げるには、この観念の表現する物自体を、外部感覚に示すべきである。ところで事物が多数あっても、その一々を悟性が判明に直感する助けとはなりえない。で、しばしば多くのものの中からただ一つを抽き出す必要があるが、それには、事物の観念からして現在注意する要のないものをすべて除去し、残部がより容易に記憶に留められるようにすべきである。そして同様にして、この時物自体を外部感覚に示すべきではなくむしろ物の或る省略された形を示すべきであり、この形は、記憶の誤りを避けるに足りさえするなら、小さければ小さいほど都合がよいであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.77-78、[野田又夫・1974])
(索引:悟性、想像力、観念を表現する物自体、捨象、抽象、物の省略された形、モデル、記号)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「さてわれわれがわが内に認めるところ、ただ悟性のみが知識を獲得しうるが、それはまた他の三つの能力、すなわち想像力(imaginatio)・感覚・記憶(memoria)によって、或いは助けられ或いは妨げられうる。そこで、順序正しく、これら三つの能力の一々がいかなる害を与えうるかを考察し、以ってこの害を防ぐべきであり、またいかなる益を与えうるかを考察して、以ってそれらの寄与を残らず用うべきである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、p.56、[野田又夫・1974])
(索引:想像力、悟性、感覚、記憶)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月11日木曜日

認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

認知、想起、想像、悟性

【認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある特定の外部感覚と、これに影響を受けたより広い範囲の身体の能動を、精神において受動した共通感覚とに、精神の能動(想像力)が共同して作用し、「何々である」という認識が成立する。これが、「見る」とか「触れる」等の認知である。外部感覚や、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚が身体に印象づけられた記憶をもとに、精神の能動(想像力)が種々の形や観念をつくり、「何々である」という認識が成立する。これが、記憶を「想起する」ことである。精神の能動(想像力)が、新たな形や観念をつくり、「何々である」という認識が成立する。これが、「想像する」とか「表象する」ことである。外部感覚、記憶の想起や想像なしに「何々である」という認識が成立するとき、これが「理解する」こと(純粋悟性)である。
 「第五に、最後に、われらがよって以って本来の意味で事物を認識する力は、純粋に精神的なものであって、それが身体(物体)全体と分たれていること、あたかも血が骨と、手が眼と分たれているがごとくである、と考うべきである。」(中略)
 「この認識力は、或る時は受動的、或る時は能動的である、すなわち或いは印章を、或いは蝋板を、模倣するのである。けれどもこのことは、ここでは類比的にのみ解せねばならない。というのは、物体的事物の中に、この力に似たものは決して見出されないからである。かくて、全く同一の力が、想像力と共同して共通感覚に働きかける時は、「見る」(videre)「触れる」(tangere)等といわれ、種々な形を帯びている限りの想像力だけに働きかける時は、「想起する」(reminisci)といわれ、新たな形をつくるためにそれに働きかける時は、「想像する」(imaginari)或いは「表象する」(concipere)といわれる。最後に、その力が独りで働く時は、「理解する」(intelligere)と言われる――これがいかに行われるかは適当な場所で一層詳しく説明するであろう。さてこのゆえに、かの同一の力が、それらさまざまの機能に従って、純粋悟性、想像力、記憶、感覚、と呼ばれる。けれども本来それは、精神(ingenium)と名付けられるものである――それが、想像の中に新たな観念を形成する場合でも、すでに作られた観念に向かう場合でも。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.76-77、[野田又夫・1974])
(索引:認識力、想像力、外部感覚、共通感覚、想起、記憶、想像、表象、理解、純粋悟性)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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