2018年1月13日土曜日

5.(仮説)ループ量子重力理論は、時空にも収縮の限界があり「点」まで縮むことはないと考える。そして、ビッグバンの前後では、時空は確率の雲のなかに溶解しており、この雲の向こう側の別の宇宙が「ビッグバウンス」を経て、この宇宙が生まれたと考えている。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

ループ量子重力理論

【(仮説)ループ量子重力理論は、時空にも収縮の限界があり「点」まで縮むことはないと考える。そして、ビッグバンの前後では、時空は確率の雲のなかに溶解しており、この雲の向こう側の別の宇宙が「ビッグバウンス」を経て、この宇宙が生まれたと考えている。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 物質の安定性は、量子力学により理解可能となった。電子が原子核の内部に落ちていこうとしても、量子力学の不確定性のために限界があり、電子の確率の雲は、原子の大きさ程度に保たれる。一般相対性理論における特異点の理解についても、物質の安定性と同じ状況が存在する。アインシュタインの方程式によれば、収縮し自らの重みに押しつぶされ、途方もなく小さくなった時空は、無限に押しつぶされ「点」になる。もし、時間と空間そのものも、確率の雲のなかで、収縮にも限界があり広がりを持たない「点」まで縮むことはないとすれば、一四〇億年前になにが起こったのかの姿も変わってくる。ループ量子重力理論は、時間と空間の確率の雲を記述することができる。宇宙の始まりを「点」にまで遡ることはできない。ビッグバンの前後では、空間と時間は、確率の雲のなかですっかり姿を消してしまう。今日の物理学者は、この確率の雲の向こう側に、すなわちビッグバンの「前」に、わたしたちの宇宙が生まれる前の、別の宇宙が存在していたと考えている。その前の宇宙が崩壊し、空間と時間が確率のなかで溶解する量子的な局面を経た末に、新しい宇宙が生まれたのである。これを、「ビッグバウンス」と呼んでいる。宇宙はどこかで反発し、巨大爆発に後押しされるようにして、ふたたび膨張を始める。

 「一四〇億年前になにが起こったのかを理解するには、量子重力理論が必要になる。この点について、ループ理論はなにを教えてくれるのか?

 はるかに単純化した形で、類似の状況について考えてみよう。

古典力学に従うなら、原子核に向っていく一個の電子は、やがて核に飲みこまれて消えてしまう。だが、現実にはこうした事態は発生しない。この意味で、古典力学は不完全である。

電子の振る舞いを正しく把握するには、量子の効果を考慮しなければならない。現実の電子は量子的な対象であるため、明確な軌道をたどらない。電子を正確な一点に留めておくことは不可能である。

むしろ、正確に位置づけようとすればするほど、電子はどこかへ逃げ去ってしまう。もし、一個の電子を原子核のそばに留めておこうと望むなら、わたしたちにはせいぜいのところ、電子をもっとも寸法の小さな原子軌道に引きとめておくことしかできない。それ以上、電子は原子核に近づけない。

きわめて短い瞬間だけ、そこからさらに近づいたとしても、電子はたちまち別の場所へ逃げ去ってしまう。つまり量子力学は、現実の電子が原子核の内部に落ちていくことを妨げている。まるで、電子が原子核に限りなく近づいたとき、量子的な性質を帯びた反発力が電子を押しかえしているかのようである。

量子論が成り立つからこそ、物質は安定していられる。量子論が成り立たなければ、あらゆる電子は原子核の内部に落ちていく。結果として、この世界には原子も、わたしたちも、なにひとつ存在しなくなるだろう。

 同じ議論が、宇宙にたいしても当てはまる。収縮し、自らの重みに押しつぶされ、途方もなく小さくなった宇宙を想像してみよう。

量子力学以前の理論、つまりアインシュタインの方程式によれば、この宇宙は無限に押しつぶされる。そうして最後は、原子核に飲みこまれる電子のように、一点となって消失する。これが、アインシュタインの方程式によって予見される、「点」としてのビッグバンである。

量子力学を無視すれば、自然とこのような結論に到達する。

 しかし、量子力学を考慮に入れれば、宇宙の収縮にも限界があることが判明する。それはあたかも、量子的な反発によって、宇宙が跳ね返っているかのような状況である。

収縮過程にある宇宙が、広がりを持たない「点」まで縮むことはない。宇宙はどこかで反発し、巨大爆発に後押しされるようにして、ふたたび膨張を始める。

 わたしたちの宇宙がたどった歴史は、これに似た反発の結果であった可能性が高い。英語ではこの巨大な反発を、「ビッグバン」の代りに「ビッグバウンス」と呼んでいる。ループ量子重力理論の方程式を宇宙に適用すれば、このような結論が得られると考えられている。

 ただし、「反発」という表現を、文字通りに受け取ってはいけない。これはあくまで比喩である。

電子に話を戻すなら、わたしたちが電子を原子核に可能なかぎり近づけようとした場合、電子はもはや粒子ではなくなる。代わりに、わたしたちは電子のことを、確率の雲として捉えられる。こうなると、電子の正確な位置はもはや存在しない。

宇宙の場合も同じである。ビッグバンのさなかの決定的な移行過程においては、わたしたちはもはや、明確に記述された空間や時間を想定することはできない。

わたしたちの考察の対象となるのは確率の雲だけであり、空間と時間はその雲のなかですっかり姿を消してしまう。

ビッグバンの前後では、確率が泡立つ雲のなかに、世界はきれいに溶解する。そして、量子重力理論の方程式なら、こうした確率の雲を記述することができる。

 今日の物理学者は、わたしたちの宇宙が生まれる前には、別の宇宙が存在していたと考えている。空間と時間が確率のなかで溶解する量子的な局面を経た末に、ひとつの宇宙が崩壊し、新しい宇宙が生まれたのである。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第8章 ビッグバンの先にあるもの、pp.202-204、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:物質の安定性、確率の雲、特異点、ループ量子重力理論、時空の確率の雲、ビッグバン、ビッグバウンス)


すごい物理学講義


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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2018年1月12日金曜日

悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものを理解しようとするときは、その観念を、判明に想像力の中に形成すべきである。このとき、この観念を表現する物自体(モデル)を、外部感覚に示すと、理解を容易にする。ところで、多数の事物を、判明に理解するということは、その多数の事物の多様性のなかから、注意する必要のない属性をすべて除去し、本質的な属性を引き出すことである。さらに、この抽出された観念は、物自体として表現するよりも、むしろ物のある省略された形(記号)で示すことにより、より理解を容易にする。
 「それはこうである。悟性は想像力によって動かされ、また逆に想像力に働きかけることができ、同様に想像力は運動力を介して感覚に働きかけてそれを対象に向かわせ、また逆に感覚は想像力に働いてその中に物体の像を画くことができ、しかしてかの記憶なるものは、少なくともそれが身体的であって獣の記憶と同様である限り、想像力と別のものではない、のであるから、人は確実に次の結論に達する。悟性は、物体的なもの乃至は物体に似たものを少しも含まぬ事柄に携わる時、上の諸能力の助けを借りることはできない。かえって、それらに妨げられるために、感覚を遠ざけ、かつ想像力をあらゆる判明な印象から、できる限り除き去るべきである。しかしながら、もし悟性が、何か物体に関係をもちうるものを、吟味しようと企てるならば、そのものの観念を、できるだけ判明に、想像力の中に形成すべきである。しかして、より容易にこのことを成し遂げるには、この観念の表現する物自体を、外部感覚に示すべきである。ところで事物が多数あっても、その一々を悟性が判明に直感する助けとはなりえない。で、しばしば多くのものの中からただ一つを抽き出す必要があるが、それには、事物の観念からして現在注意する要のないものをすべて除去し、残部がより容易に記憶に留められるようにすべきである。そして同様にして、この時物自体を外部感覚に示すべきではなくむしろ物の或る省略された形を示すべきであり、この形は、記憶の誤りを避けるに足りさえするなら、小さければ小さいほど都合がよいであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.77-78、[野田又夫・1974])
(索引:悟性、想像力、観念を表現する物自体、捨象、抽象、物の省略された形、モデル、記号)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「さてわれわれがわが内に認めるところ、ただ悟性のみが知識を獲得しうるが、それはまた他の三つの能力、すなわち想像力(imaginatio)・感覚・記憶(memoria)によって、或いは助けられ或いは妨げられうる。そこで、順序正しく、これら三つの能力の一々がいかなる害を与えうるかを考察し、以ってこの害を防ぐべきであり、またいかなる益を与えうるかを考察して、以ってそれらの寄与を残らず用うべきである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、p.56、[野田又夫・1974])
(索引:想像力、悟性、感覚、記憶)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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4.一般相対性理論は、宇宙論、天体物理学、重力波やブラックホール研究の基礎であり、量子力学は、原子物理学、核物理学、素粒子物理学、物性物理学など多くの分野の研究基礎となっている。ところが、この二つの理論は、いまだ統一されていない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

一般相対論と量子力学

【一般相対性理論は、宇宙論、天体物理学、重力波やブラックホール研究の基礎であり、量子力学は、原子物理学、核物理学、素粒子物理学、物性物理学など多くの分野の研究基礎となっている。ところが、この二つの理論は、いまだ統一されていない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 一般相対性理論は、宇宙論、天体物理学、重力波やブラックホール研究の基礎である。一方の量子力学は、原子物理学、核物理学、素粒子物理学、物性物理学をはじめ、多くの分野の研究基礎となっている。ところが、一般相対性理論の重力場は、「量子化された場(量子場)」を想定していない。一方、量子力学は「時空間は曲がる」という点を無視して定式化されている。

 「わたしたちが現代物理学から得ている豊かな知識の中心には、どこか矛盾した要素が潜んでいる。

一般相対性理論と量子力学という、二〇世紀の物理学が遺した二つの宝は、世界を理解するうえでも、今日のテクノロジーを成り立たせるうえでも、計り知れない恵みをわたしたちにもたらした。

一般相対性理論は、宇宙論、天体物理学、重力波やブラックホール研究の基礎である。一方の量子力学は、原子物理学、核物理学、素粒子物理学、物性物理学をはじめ、多くの分野の研究基礎となっている。

 しかし、二つの理論を並置すると、周囲には不協和音が響きわたる。少なくとも、現今の形式においては、二つの理論のどちらもが正しいということはありえない。

なぜなら、一般相対性理論と量子力学のあいだには、明白な矛盾が認められるからである。

一般相対性理論の重力場は、量子力学を考慮に入れずに記述されている。つまり一般相対性理論は、「量子化された場(量子場)」を想定していない。

量子力学はというと、「時空間は曲がる」という点を無視して定式化されている。量子力学の扱う空間に、アインシュタインの方程式は当てはまらない。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第3部 量子的な空間と相関的な時間、第5章 時空間は量子的である、p.144、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:一般相対性理論、量子力学)

すごい物理学講義


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3.現在の宇宙像:宇宙は、今から一四〇億年前に巨大な爆発によって誕生し、以来ずっと膨張を続けている屈曲した時空間である。一方、時空間のなかの事物は量子場であり、別のなにかと相互作用を起こすときだけ粒子としての姿を現わし、相互作用を終えるなり「確率の雲」のなかへ溶けこんでいく。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

宇宙と量子場

【現在の宇宙像:宇宙は、今から一四〇億年前に巨大な爆発によって誕生し、以来ずっと膨張を続けている屈曲した時空間である。一方、時空間のなかの事物は量子場であり、別のなにかと相互作用を起こすときだけ粒子としての姿を現わし、相互作用を終えるなり「確率の雲」のなかへ溶けこんでいく。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 わたしたちが生きる世界には、屈曲した時空間が広がっている。これは、今から一四〇億年前に、巨大な爆発によって誕生し、以来、時空間はずっと膨張を続けている。これは、物理的な「場」であり、時空間の力学は、アインシュタインの方程式によって記述される。その方程式によると、物質の重みが時空を曲げ、物質が極度に凝縮されたときには、ブラックホールになることもある。一方、宇宙には無数の銀河が散らばっており、ひとつひとつの銀河に無数の星が散らばっている。銀河を形づくっている物質は、量子場によって形づくられている。量子場は、電子や光子のように、粒子の形態をとって現われる。また、量子場は電磁波のように、波の形で現われることもある。この量子場は、奇妙な存在である。量子場を形成するひとつひとつの粒子は、別のなにかと相互作用を起こすときだけ、ある一点に居場所を定め、その姿をあらわにする。そして、ひとたび相互作用を終えるなり、粒子は「確率の雲」のなかへ溶けこんでいく。これが、現在私たちが理解している宇宙像である。

 「わたしたちが生きる世界には、屈曲した時空間が広がっている。

どのようにしてかは分からないが、それは今から一四〇億年前に、巨大な爆発によって誕生した。以来、時空間はずっと膨張を続けている。

この空間は実在する「事物」であり、物理的な「場」である。時空間の力学は、アインシュタインの方程式によって記述される。物質の重みのもとで、空間は折れたり曲がったりする。物質が極度に凝縮されたときには、空間がブラックホールへ呑みこまれていくこともある。

 宇宙には無数の銀河が散らばっており、ひとつひとつの銀河に無数の星が散らばっている。銀河を形づくっている物質は、量子場によって形づくられている。量子場は、電子や光子のように、粒子の形態をとって現われる。または、量子場は電磁波のように、波の形で現われることもある。テレビの映像や、太陽の光や、星の輝きをわたしたちに伝えているのは、電磁波である。

 原子や光をはじめ、宇宙に存在するあらゆる事物は、量子場によって記述される。

量子場は奇妙な存在である。量子場を形成するひとつひとつの粒子は、別のなにかと相互作用を起こすときだけ、ある一点に居場所を定め、その姿をあらわにする。ひとたび相互作用を終えるなり、粒子は「確率の雲」のなかへ溶けこんでいく。

世界とは、素粒子が起こす事象の湧出である。波のように振動する、大きく躍動的な空間の海に、素粒子は浸かっている。

 世界のこのようなイメージと、このイメージを形づくるわずかな方程式によって、わたしたちの目に映るほとんどすべてのものを記述することができる。

 そう。あくまで、「ほとんど」である。肝心な何かが、まだ欠けている。今日のわたしたちが要求しているのは、その何かである。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第3部 量子的な空間と相関的な時間、pp.142-143、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:時空間、量子場、粒子、波、事物、相互作用、確率の雲)


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2.理論における想像力の役割:何の手がかりもなしに新たな理論を「想像しようと試みる」には、わたしたちの空想力はあまりに貧弱である。すでに成功を収めている理論と実験データに、この世界の真の姿の兆候が現われている。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

理論と想像力

【理論における想像力の役割:何の手がかりもなしに新たな理論を「想像しようと試みる」には、わたしたちの空想力はあまりに貧弱である。すでに成功を収めている理論と実験データに、この世界の真の姿の兆候が現われている。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 科学の理論は、確かに人間の自由な創造であり、理論における想像力の役割には大きいものがある。しかし、この世界について、何の手がかりもなしに「想像」するには、わたしたちの空想はあまりに貧弱である。わたしたちが所有している手がかり、この世界の真の姿を知るのに利用できる兆候とは、成功を収めた理論と実験データであり、それ以外の何物でもない。科学の歴史を考えてみれば、コペルニクスも、ニュートンも、マクスウェルも、アインシュタインも、決して何の手がかりもなしに、新たな理論を「想像しようと試みる」ことはなかった。

 「今日、じつに多くの理論物理学者が、新たな理論を求めて勝手気ままな仮説を立てている。その人たちの口癖が、「想像してみよう……」というものである。

わたしには、このような科学の手法が良い結果をもたらすとは思えない。世界がいかにして成り立っているのか手がかりもなしに「想像」するには、わたしたちの空想はあまりに貧弱である。

わたしたちが所有している手がかりとは、わたしたちが利用できる兆候とは、成功を収めた理論と実験データであり、それ以外の何物でもない。いまだ想像できていない事柄は、こうしたデータや理論から見つけ出してくるべきである。

コペルニクスも、ニュートンも、マクスウェルも、アインシュタインも、そうして科学を発展させてきた。彼らは決して、新たな理論を「想像しようと試みる」ことはなかった。

しかしわたしの見るところ、今日ではあまりに多くの物理学者が、好んで想像の世界に浸かっている。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第9章 実験による裏づけとは?、p.212、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:想像力、理論)

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1.科学は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけられるようなものだ。またそれは単に、検証可能な量的予測の技術なのではなく、この世界の真の仕組みを理解しようとする営みである。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

科学とは何か?

【科学は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけられるようなものだ。またそれは単に、検証可能な量的予測の技術なのではなく、この世界の真の仕組みを理解しようとする営みである。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
 科学史をめぐる社会学は、科学もさまざまな文化的・社会的影響力のもとにあることを明らかにした。しかし科学の成果物は、文化相対主義者が主張するように、偶然的で恣意的なものではない。科学的思考は、事実に基礎をおいており、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけることができるようなものなのである。また、科学を単に、「計測可能な予見を実行するための技術」と捉えるのは間違っている。これは、科学を数字による未来予測に矮小化している。検証可能な量的予測は、仮説を精査するための手段にすぎない。科学の目的は、この世界の真の仕組みを理解することにある。

 「科学史をめぐる社会学は、科学的な知見の発展過程がいかに複雑であるかを明らかにした。この点については、科学もまた、ほかのあらゆる知的営みと同様である。

科学の歩みは時として、不合理な思索に足をすくわれる。権力闘争に巻きこまれることもあれば、さまざまな文化的・社会的影響力に振り回されることもある。

しかし、たとえ科学の発展が世俗的なしがらみと無縁でいられないとしても、ポストモダニズムの考えに染まった一部の論客や、文化相対主義者や、そのほか有象無象の手合いによる極端な主張とは反対に、科学的思考の実践的かつ理論的な有効性は、いささかも揺らぐことはない。

科学的思考は、事実に基礎をおいている。だからこそ、最終的にはほとんどのケースにおいて、誰が正しく誰が間違っているのかを、完全な明晰さをもって結論づけることができる。あの偉大なアインシュタインでさえ、ときにはこう言わなければならなかったのである(そして実際、彼はこのとおりのことを口にしている)。「ああ、わたしが間違っていた!」

 とはいえ、科学を単に、「計測可能な予見を実行するための技術」と捉えるのは間違っている。

一部の科学哲学者は、科学を数字による未来予測に矮小化している。わたしにいわせれば、これは見当違いの誤解である。この種の学者たちは、手段と目的を取り違えている。検証可能な量的予測は、仮説を精査するための手段にすぎない。科学研究の目的は、未来を予測することではなく、世界の仕組みを理解することである。世界をめぐるイメージや、世界について考えるための概念的な手段を、科学は構築し、発展させようとする。科学とは、「技術」を提示するより前に、まずもって「見方」を提示する営みなのである。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956)『現実は私たちに現われているようなものではない』(日本語名『すごい物理学講義』)第4部 空間と時間を超えて、第9章 実験による裏づけとは?、pp.207-208、河出書房新社(2017)、竹内薫(監訳)、栗原俊秀(訳))
(索引:科学、事実、検証可能性、文化相対主義)


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カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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2018年1月11日木曜日

悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「想像力が物体を構像するために図形を用いるように、悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体を用いる。こうして我々は、一層高い仕方で哲学する際には、精神を認識によって崇高な高所に上昇させることが出来るのである。
 何故に哲学者達の書よりも詩人達の書に一層深い意味をもつ章句が見出されるのか、驚くべきことに思われるかも知れない。その理由は、詩人達が霊感と想像の力とによって書いたからである。我々の中には、燧石の中における火のように、学問の種子が宿っている。その種子は哲学者達によっては理性を用いて引き出されるが、詩人達によっては想像力によって打ち出され、一層強く輝くのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『思索私記』デカルト著作集[四]、p.440、[森有正・1993])
(索引:想像力、悟性、精神的なものの形象化、燧石の中の火、詩)

デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「精神が、魔法の宮殿とかキマイラ(頭がライオン、胴体がヤギ、尻尾が蛇のギリシア神話の怪物)を思い描くときのように、存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なもの、たとえば精神そのものの本性を考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚は主として、それらを精神に知覚させる意志によるものだ。ゆえに通例、これらの知覚は、受動でなく能動とみなされる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二〇、p.22、[谷川多佳子・2008])
(索引:認識力、想像力、想像、理解)


情念論 (岩波文庫)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

認知、想起、想像、悟性

【認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある特定の外部感覚と、これに影響を受けたより広い範囲の身体の能動を、精神において受動した共通感覚とに、精神の能動(想像力)が共同して作用し、「何々である」という認識が成立する。これが、「見る」とか「触れる」等の認知である。外部感覚や、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚が身体に印象づけられた記憶をもとに、精神の能動(想像力)が種々の形や観念をつくり、「何々である」という認識が成立する。これが、記憶を「想起する」ことである。精神の能動(想像力)が、新たな形や観念をつくり、「何々である」という認識が成立する。これが、「想像する」とか「表象する」ことである。外部感覚、記憶の想起や想像なしに「何々である」という認識が成立するとき、これが「理解する」こと(純粋悟性)である。
 「第五に、最後に、われらがよって以って本来の意味で事物を認識する力は、純粋に精神的なものであって、それが身体(物体)全体と分たれていること、あたかも血が骨と、手が眼と分たれているがごとくである、と考うべきである。」(中略)
 「この認識力は、或る時は受動的、或る時は能動的である、すなわち或いは印章を、或いは蝋板を、模倣するのである。けれどもこのことは、ここでは類比的にのみ解せねばならない。というのは、物体的事物の中に、この力に似たものは決して見出されないからである。かくて、全く同一の力が、想像力と共同して共通感覚に働きかける時は、「見る」(videre)「触れる」(tangere)等といわれ、種々な形を帯びている限りの想像力だけに働きかける時は、「想起する」(reminisci)といわれ、新たな形をつくるためにそれに働きかける時は、「想像する」(imaginari)或いは「表象する」(concipere)といわれる。最後に、その力が独りで働く時は、「理解する」(intelligere)と言われる――これがいかに行われるかは適当な場所で一層詳しく説明するであろう。さてこのゆえに、かの同一の力が、それらさまざまの機能に従って、純粋悟性、想像力、記憶、感覚、と呼ばれる。けれども本来それは、精神(ingenium)と名付けられるものである――それが、想像の中に新たな観念を形成する場合でも、すでに作られた観念に向かう場合でも。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.76-77、[野田又夫・1974])
(索引:認識力、想像力、外部感覚、共通感覚、想起、記憶、想像、表象、理解、純粋悟性)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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