2018年6月21日木曜日

3.明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

哲学とは何か?

【明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) いやしくも考えられ得ることは全て明晰に考えられ得る。表明され得ることは全て明晰に表明され得る。
(2) 哲学は、思考可能なものを限界づける。これは、自然科学が論議可能な領域も限界づける。
(3) (2)により、思考不可能なものが限界づけられる。
(4) 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。

 「四・一一三 哲学は自然科学が論議可能な領域を限界づける。
 四・一一四 哲学は思考可能なものを限界づけ、これにより思考不可能なものをも限界づけねばならない。哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけねばならない。
 四・一一五 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
 四・一一六 いやしくも考えられうることは全て明晰に考えられうる。表明されうることは全て明晰に表明されうる。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』四・一一三~四・一一六、全集1、p.54、奥雅博)
(索引:哲学、表明し得ないもの)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法に対する、絶え間なき闘争ある。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

論理法則、心理学、言語、文法

【論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法に対する、絶え間なき闘争ある。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
 「それゆえ短く要約するなら、論理学者の仕事は、心理学的なものに対する、また一部は言語と文法―――両者が論理的なものを純粋な形で表現へともたらさぬ限りは―――に対する、絶え間なき闘争なのである。論理学者は次のような問いに答える必要はない―――すなわち、思考というものは人間において概してどのように生じるのか、人間の心の中での自然な事の成り行きはどんなものなのか、といった問いにである。ある者に自然なことも別の者には不自然だというのは、大いにありがちなことだ。これは既に諸々の文法の間の非常な相違が示す所である。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学[Ⅰ]』七、フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)
(索引:論理法則、心理学、言語、文法)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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モリナ主義とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モリナ主義

【モリナ主義とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 この宇宙を支配している法則の諸秩序と、人間の自由意志がいかにして共存し得るのかが問題である。モリナ主義は、この宇宙に生起する事象には、次の3種類があると考える。
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
(b) 可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。
(c) この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。(神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

 「三九―――このような困難性から、二つの陣営が生まれた。一つは先定説論者の陣営で、もう一つは中知(la science moyenne)の擁護者の陣営である。ドミニコ会とアウグスチノ会は先定説論者に与し、フランシスコ会と最近のイエズス会はむしろ中知の立場に立つ。この二つの陣営は一六世紀の中葉かその少し後に分裂した。モリナ(この人は多分、フォンセーカと共にこの問題で一つの説を最初に打ち建てた一人であり、この説を奉じる他の人々はモリナ主義者と呼ばれた)自身は、自由意志と恩寵の一致について著した一五七〇年頃の書物で、スペインの学者達(モリナは主にトマス主義者のことを考えている)が二〇年来あれこれ書きながら、いかにして神が偶然的未来について確実に知るかについて説明する方法を[先定説の]他に見出せず、自由な行為に必要だとして先定説を導入した、と述べている。
 四〇―――モリナはどうかというと、彼は別の仕方を見出したと思っていた。彼は神の知の対象に三種類あるとしていた。つまり、可能的なものと、現実的事象と、一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象との三種類である。可能的なものについての知は単純叡智の知(la science de simple intelligence)と言われる。宇宙の展開において現実に生じる事象についての知は直視の知(la science de vision)と呼ばれる。以上の単純なる可能性と純粋かつ絶対的な事象との間にもう一種類、条件的事象があり、モリナによれば、直視の知と叡智の知との間に中知があると言えることになる。この中知の有名な例は、ダビデに見られる。ダビデは、かくまってもらおうと思っていたケイラの人々が、その町を包囲していたサウルに自分を引き渡すかどうかについて神に伺いをたてた。神は然りと答えた。そのためダビデは別の方途をとった。ところで、この中知の擁護者の考えによると、神は人間がしかじかの状況に置かれたら自由になすであろうことを予見し、しかも人間がその自由意志を誤用していることも知っているのだから、神は人間に恩寵や好ましい状況を与えないことにした。しかも神にはそれができて当然なのである。なぜなら、そのような状況も助力も彼ら人間にとっては何の役にも立たないからである。しかしモリナは、神の決意の理由は被造物がしかじかの状況において自由になすことに基づいているということを一般的に見出したことで満足している。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]三九・四〇、ライプニッツ著作集6、pp.150-152、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、モリナ主義、直視の知、単純叡智の知、中知)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月20日水曜日

2.記号から何らかの像への写像が存在し、しかも記号と像との論理的構成が全く同じであっても、それが与えるイメージや見通しの面で異なる場合がある。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

等価な像の間の違い

【記号から何らかの像への写像が存在し、しかも記号と像との論理的構成が全く同じであっても、それが与えるイメージや見通しの面で異なる場合がある。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(a) 盤面ゲームとしての将棋を、駒の動きを表す数字と文字列とに対応させることができる。
 数字と文字を紙に ⇔ 盤面ゲーム
 書いてするゲーム   としての将棋
(b) 数字と文字列のゲームと、それを図解したゲームとは、ゲームとしては論理的に同じものであるにもかかわらず、図解はゲームを非常に分かりやすく、見通しの良いものにする。
(c) 現代物理学の理論においても、論理的には全く同等の体系でありながら、それが与える図解、見通しの面で異なるような諸理論が存在する。

 「仮に、将棋は盤面ゲームとして作り出されたのではなくて、数字と文字を紙に書いてするゲームだったのであり、そのときは誰も八十一の目をもつ長方形の盤その他のことは想像もしなかった、と、そう考えてみよう。

ところがある人が、このゲームは、盤の上でかくかくの仕方でおこなわれうるゲームに、まったく対応したものだという発見をしたとする。この発見はゲームを非常にやさしくするものであったろう。(それまではそのゲームがむつかしすぎていた人々も、やれるようになっただろう。)

しかし、ゲームの規則についてのこの新しい図解は、ただ、より見渡しをえやすい新しい記号体系にほかならないのであって、それ以外の点では、紙に書かれていたものと同じ段階にあるものだということは、明らかである。

現代の物理学はもはや力学的モデルでなく、「たんにシンボルだけを」相手にしている、ということに関してあれこれ言われていることを、これと比較せよ。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』付録 六、全集3、p.311、山本信)
(索引:等価な像)

ウィトゲンシュタイン全集 3 哲学的文法 1


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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論理法則は、基本的な諸法則に還元することが可能だが、それらは、何か「我々の本性及び外的事情」によって強制されているように思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

真理と論理法則

【論理法則は、基本的な諸法則に還元することが可能だが、それらは、何か「我々の本性及び外的事情」によって強制されているように思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(a) 論理学は、いくつかの基本的な論理諸法則に還元することが可能である。
(b) 論理学は、(a)以外には、その真であることの基礎に対しては、回答を与えることはできない。
(c) 論理学の外に出るなら、「我々の本性及び外的事情によってこの判断を下すよう我々は強制される」と言える。すなわち、もし我々が思考を混乱させ判断を一切断念してしまうことを望まないならば、我々はその法則を承認しなければならないようなものなのである。

 「さて、何故またいかなる権利をもって我々がある論理法則を真と承認しうるのかという問いに対し、論理学はただ、論理学が当の法則を他の論理諸法則に還元することによってのみだと答えうる。これが可能でない場合には、論理学は回答を出さないままにする他はない。論理学の外に出るなら、次のように言いうる。即ち、我々の本性及び外的事情によってこの判断を下すよう我々は強制されるのであり、そして判断を下す場合には我々はこの法則―――例えば同一性の法則―――を斥けることはできず、もし我々の思考を混乱させ結局判断を一切断念してしまうことを望まないならば、我々はその法則を承認しなければならない、と。私はこの見解を論駁しようとも確証しようとも思わない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の基本法則』序言 XVII、フレーゲ著作集3、p.21、野本和幸)
(索引:真理、論理法則)

フレーゲ著作集〈3〉算術の基本法則


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

諸学問の配列

【諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 あらゆる学問的真理は、次の三つの主要な方法で配列し、またお互いに結びつける必要がある。ただし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておく。
(1) 各命題を、数学者が行うように、それが論理的に依存する命題の後に配列する。すなわち、証明の順に並べる。
(2) 各命題を、目的を実現するために役立つ手段を探しやすいように配列する。すなわち、人類の目標である善の獲得や、悪の回避のための手段を、解析して階層的に配列する。
(3) (1)と(2)の間の記述の重複を避けるために、共通的な名辞の配列を用意して、(1)と(2)を互いに参照させる方法がある。この名辞の配列から、探そうとしている目的の(1)と(2)の命題にたどりつくことができる。その際、共通的な名辞の配列には、以下の二つの方法がある。
 (3.1)人々が共有して使用できる、ある範疇に従って、共通的な名辞を配列する。
 (3.2)アルファベット順に、共通的な名辞を配列する。
 なお、これら三つの方法が、次の三つの学問に対応しているのは興味深い。
(1) 総合的配列、理論的なもの、自然学
(2) 解析的配列、実践的なもの、道徳学
(3) 名辞に従う目録の配列、論証的なもの、論理学

 「ここから、ひとつの同じ真理は、それがもちうる異なった諸関係に従って多くの場所をもちうることが分かります。それで、蔵書を整理する人たちが、ある書物をどこにおくべきか分からなくなることもとてもしばしば起こります。二つか三つのふさわしい場所のうちで決心がつかないからです。しかし、今は一般的な原理についてだけお話しし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておきましょう。私は、あらゆる学問的真理の二つの主要な配列を認めています。各々にはその長所があり、両者は結び付ける価値があるでしょう。一方は総合的で理論的なものです。これは、数学者が行うように、真理を証明の順に並べるものです。したがって、各命題はそれが依存する命題の後に来ることになります。他方の配列は解析的で実践的なものです。これは、人類の目標すなわち善、そのきわみは至福である善から始まり、そうした善を獲得したり反対の悪を避けたりするのに役立つ手段を順を追って探すものです。そして、これら二つの方法は、一般的に百科全書のなかで用いられ、またある人たちはそれらを個別的な学問のなかで用いてきました。」(中略)「しかし、そうした二つの配列を同時に用いて百科全書を書く場合には、反復を避けるために参照という方策を用いることができるでしょう。これら二つの配列に、名辞による第三の配列を付け加えなければなりません。これは、実際には一種の目録にすぎず、すべての人々が共有するであろうある範疇に従って名辞を並べる体系的なものであるか、学者の間で受け入れられている言語に従うアルファベット順のものであるかです。ところで、名辞が十分に注目に値する仕方で入っているすべての命題を見つけて集めるためには、そうした目録が必要でしょう。」(中略)「ところで、私はこうした三つの配列を考察して、それらが、あなたが復活させた古代の区分に対応しているのは好奇心をそそることだと思います。その区分とは、学問ないし哲学を理論的なもの・実践的なもの・論証的なものに、あるいは、自然学・道徳学・論理学に分けるものです。というのも、総合的配列は理論的なものに対応し、解析的[分析的]配列は実践的なものに対応し、名辞に従う目録の配列は論理学に対応しているからです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第四部・第二一章[三]、ライプニッツ著作集5、pp.354-356、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1995])
(索引:諸学問の配列、総合的配列、解析的配列、名辞に従う目録の配列)

認識論『人間知性新論』 下 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月19日火曜日

1.記号言語が、世界の像を描出しているとき、言語から像への写像が存在している。この写像は、言語の内的な構成から、像の内的な構成への射影の法則、翻訳の規則である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

世界の像、写像

【記号言語が、世界の像を描出しているとき、言語から像への写像が存在している。この写像は、言語の内的な構成から、像の内的な構成への射影の法則、翻訳の規則である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 記号言語が、世界の像を描出しているとき、言語から像への写像が存在している。この写像は、言語の内的な構成から、像の内的な構成への射影の法則、翻訳の規則である。
 同様の例として、
 紙上に印刷されているような命題 ⇔ 現実の像
 レコード盤   ⇔  楽譜   ⇔ 音楽の像
 音声記号の表記やアルファベット ⇔ 音声言語の像

 「四・〇一一 一見したところ、例えば紙上に印刷されているような命題は、それが関わる現実の像であるとは思われない。

しかし楽譜も一見したところでは音楽の像であるとは思われず、我々の音声記号の表記やアルファベットも我々の音声言語の像であるとは思われない。

 しかしながらこれらの記号言語は日常の意味でも、それが描出することの像であることが、明らかとされるのである。」

 「四・〇一四 レコード盤、音楽の思想、楽譜、音波、これら全ては相互に、言語と世界との間に存する写像の内的な関係をなしている。

 これら全てに論理的構成が共通である。
 (童話の中の二人の若者、彼らの二頭の馬、彼らの百合のように。それらは全て、或る意味で一つなのである。)」

 「四・〇一四一 それによって音楽家が総譜から交響曲を読み取ることができ、又人がレコード盤上の条から交響曲を導出でき、更には最初のようにして総譜を導出できる、といったような一般的規則が存在する。

まさにこの点にこれらの見かけ上はかくも全く異なった諸形象の内的な類似が存しているのである。

そしてこの規則が交響曲を楽譜の言語に射影する射影の法則である。それは楽譜の言語からレコード盤の言語への翻訳の規則である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』四・〇一一、四・〇一四、四・〇一四一、全集1、pp.46-47、奥雅博)
(索引:世界の像、写像)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

真理と論理法則

【「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(1) 論理法則は、「真とみなす」ことに関する心理法則ではない。論理法則が真であることは、以下のすべての状況と矛盾するものではない。それは、「真であることの法則」である。
 (a) 全ての人によって真とみなされる。
 (b) 多数の人によって真とみなされる。
 (c) 一人の人によって真とみなされる。
 (d) 全ての人によって偽とみなされる。
(2) 真であることは、誰かによって承認されるということに依存しない。従って、「真であることの法則」も、心理法則ではない。
(3) 我々の思考が、「真であることの法則」を逸脱することはあり得るとしても、その法則は何か「動かすことのできない永遠の基礎」を持っているに違いない。
 「真理は、一人によってであれ多数のひとによってであれ、すべてのひとにおいてであれ、真と見なされることとは何か別のことであり、真と見なされることには決して還元できない、と。真であるということは、すべてのひとによって偽と見なされることとはなんら矛盾しない。私は論理法則を、真と見なすことに関する心理法則ではなく、真であることの法則であると解する。戸外で風がうなっている間に私はこれを一八九三年七月一三日に私の部屋で書いているということが真であるならば、すべての人間がそれを後刻偽と見なしたとしても、それは真であり続ける。もしこのように真であることが誰かによって承認されるということに依存しないのならば、真であることの法則もまた心理法則ではないのであり、それら[真であることの法則]は、我々の思考が[それを]逸脱することがありうるとしても、動かすことのできない永遠の基礎のうちに境界石を固定しているのである。真であることの法則はこうしたものであるが故に、我々の思考が真理に到達しようとする場合に、それら[の法則]は我々の思考にとって規準となるのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の基本法則』序言 XVI、フレーゲ著作集3 、pp.18-19、野本和幸)
(索引:真理、論理法則)

フレーゲ著作集〈3〉算術の基本法則


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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この宇宙は、その各々が自らの能動的原理により全宇宙を表出する無数の存在者から構成される。各存在者は、その原理を普遍的な原因から受け取っており、この故に全宇宙の秩序、調和、美がもたらされる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モナドと予定調和

【この宇宙は、その各々が自らの能動的原理により全宇宙を表出する無数の存在者から構成される。各存在者は、その原理を普遍的な原因から受け取っており、この故に全宇宙の秩序、調和、美がもたらされる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(1) 真の完全なモナド(一般的な至高の原因)は、無数の存在者の集まりである。
(2) 各存在者は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。
(3) 表出は、以下の二つのものからなる。
 (3.1) その各々の存在者を真の「一」にさせる能動的原理、非物質的なもの、魂。
 (3.2) 受動的で有機的身体、物質的なもの。
(4) それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。
(5) 個々の存在者が独立しているにもかかわらず、自然のうちに認められる秩序、調和、美がもたらされるのは、各々の魂が、その本性を、一般的な至高の原因から受け取り、それに依存しているからに他ならない。これが、予定調和である。
(6) 個々の存在者の表出が、その存在者の物質的な身体と自発的に一致する理由も、この予定調和による。
 「著者はここで、物質に関するもうひとつの重要な指摘を行っています。すなわち、物質を数的にただひとつのものとみなしてはならない、あるいは(私のいつもの言い方では)、真の完全なモナドすなわち「一」とみなしてはならない、という指摘です。物質は無数の存在者の集まりにすぎないのですから。この点で、この優れた著者は、私の学説に到達するには、わずかあと一歩が必要でした。というのも、実際、私はこれらの無限な存在者すべてに表象を与えているからです。つまりその各々は、その存在者が受動的で有機的身体を賦与されるために必要とされるものと一緒に、魂(あるいはその各々を真の「一」にさせる類比的な何らかの能動的原理)を賦与された、いわばひとつの動物のようなものなのです。ところで、これらの存在者は、能動的であると同様に受動的であるその本性(すなわち、それの有する非物質的なところと物質的なところ)を、一般的な至高の原因から受け取りました。そうでなければ、著者がとてもうまく指摘しておられるように、それらは互いに独立であるために、自然のうちに認められるあの秩序、あの調和、あの美を決して作り出すことができないだろうからです。しかし、道徳的な確実性しかもっていないと思われるこの議論は、私が導入した新しい種類の調和、すなわち予定調和によって、まったく形而上学的な必然性にいたります。というのも、それらの魂の各々が、自分の外で起こることを自分自身の仕方で表出し、他の個別的存在者からの影響をいささかもこうむることができず、あるいはむしろ、自己の本性というそれ自身の根底からその表出を引き出さねばならないために、必然的に各々の魂は、その本性(すなわち、外にあるものの表出に対するその内的理由)をある普遍的な原因から受け取ったにちがいないからです。これらの存在者は皆この普遍的原因に依存しており、この原因のためにお互いに他のものに完全に一致し対応するようになるのです。これは、無限の認識と力がなければ不可能であり、とりわけ機械と理性的魂の作用との自発的な一致に関しては、きわめて大いなるわざこそがなしうることなのです。そのためある高名な著作家は、そのすばらしい『歴史批判辞典』のなかでそれに異議を唱え、それは可能なあらゆる知恵を越えているのではないか、といわば疑いました。神の知恵さえそのような結果に対して大きすぎるとは思われない、と彼は言っていたからです。でも彼は、私たちの神の完全性についてもちうる弱い考え方が、これほどくっきりと際立たされたことは一度もなかったことは少なくとも認めました。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第四部・第一〇章[一〇]、ライプニッツ著作集5、pp.238-239、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1995])
(索引:モナド、予定調和)

認識論『人間知性新論』 下 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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