2018年6月5日火曜日

記憶せよ。各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだ。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

生きているこの瞬間

【記憶せよ。各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだ。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。ゆえに各人の一生は小さく、彼の生きる地上の片隅も小さい。またもっとも長く続く死後の名声といえども小さく、それもすみやかに死に行く小人どもが次々とこれを受けついで行くことによるすぎない。その小人どもは自己を知らず、まして大昔に死んでしまった人間のことなど知る由もないのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第三巻、一〇、pp.43-44、[神谷美恵子・2007])
(索引:生きているこの瞬間)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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2018年6月4日月曜日

我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

意識されない無数の表象

【我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 我々の魂の内には、意識表象も反省もされていない無数の表象と、その諸変化が絶えずある。
(a) 個々の印象があまりに微小で、多数であり、あるいはあまりに単調で、個別には十分識別できないが、他のものと結びついたときには、印象の効果を発揮して感覚されることがある。
(b) 慣れによって、その印象に新鮮な魅力がなくなって、我々の注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、感覚されなくなることがある。
(c) 注意力が気づくことなく見過ごしていたある表象が、誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、例えば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、我々はそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚を持っていたことに気づくことがある。
 「次のように判断させる多数の標示がある。すなわち、われわれの内には、意識表象も反省もされていない無数の表象が絶えずあり、それは、魂そのものの内にある、われわれが意識表象していない諸変化である。それらの印象があまりに微小でありしかも多数であるか、あるいはあまりに単調で、その結果、それぞれ別々に十分識別できないが、それでも他のものと結びついたときには印象の効果を発揮して、少なくとも集合的には錯然と感覚されるからである。たとえば、水車の回転や滝のすぐそばに暫くとどまっていると、慣れによってそれらの音に気をつけなくなる。それは、これらの運動がわれわれの感覚器官に印象を与えつづけていないからではないし、また、魂と身体の調和によって、これに対応する何ものもまだ魂のなかに生起していないからでもない。そうではなくて、魂や身体の受けている印象が、新鮮な魅力がなくなって、われわれの注意力や記憶力を喚起するほど十分強力ではなくなり、われわれの注意や記憶はもっと関心をよびおこす対象にだけ注がれるのである。あらゆる注意力は、いくらかの記憶を必要とし、われわれ自身の現前する諸表象のいくつかについて注意するようにと、いわば警告されないと、それらの表象を反省なしに、気づくことさえなく看過してしまうのである。けれども誰かが直ちにその表象について告げ知らせ、たとえば今聞いたばかりの音に注意を向けさせるならば、われわれはそれを思い起こし、まもなくそれについてある感覚をもっていたことに気づく。このようにそれらは、われわれがすぐには意識することのない表象であり、意識表象はこの場合、どんなに小さな間であろうと少しの間をおいた後に知らされて生じるのである。そして、密集していて区別できない微小表象をもっとよく識別するために私は、海岸で聞こえる海の轟やざわめきの例を用いることにしている。通常このざわめきを聞くには、全体のざわめきを構成している各部分、つまりひとつひとつの波のざわめきを聞いているにちがいない。これら微小なざわめきのひとつひとつは、すべてが同時に錯然と生起している集合のなかでしか知られないし、ざわめきをなしている波がたったひとつであるなら気づかれもしないであろうけれど。というのも、その波の運動によってわれわれは少しは作用を受けているはずであり、そうでなければ、十万の波の表象はもち得ないであろうから。ゼロが十万集まっても何ものもできないのである。微弱で錯然としたいかなる感覚ももたないほどに深く眠ることなど決してない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.21-22、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:意識されない無数の表象)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

大理石の中に石理の喩え

【魂には、生得的な傾向、態勢、習慣、自然的潜在力があり、大理石の中の石理が現実的な彫像になるように、現実態となって現れる。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
 魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
(a) まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
(b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。
 魂の中の「諸原理」とは何かについての、補足説明である。
 傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。喩えとして、大理石の中に石理(いしめ)を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要である。こうして、潜在力は、それに対応する何らかの現実態となる。
 感覚に起源をもたない生得的な観念の例。存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象。
 「おそらくこの優れた英国の著者は、私の考えから、全面的に離れているのではないだろう。なぜなら、彼はその第一部全部を生得的知性を斥けるのに費やしたが、それはある限定された意味においてであり、第二部の初めとその後で感覚に起源をもたない観念が反省に由来することを認めているからだ。反省とは、われわれの内にあるものへ注意を向けることにほかならず、感覚は、われわれがすでに内にもっているものをわれわれに与えたりはしない。そうだとすれば、われわれの精神のうちに多くの生得的なものがあることをどうして否定できようか。われわれはいわば自らにとって生得的であり、われわれの内には、存在、一性、実体、持続、変化、活動、表象、快楽、およびわれわれの知的観念の他の多くの対象があるのだから。しかも、これらの対象はわれわれの知性に直接に属し常に現前しているのだから(われわれの不注意や欲求のために、常に意識表象されるわけではないが)、これらの観念がそれに依存するすべてのものと共にわれわれの内に生得的であるといっても、驚くことはないだろう。それゆえ私は、まったく均質な大理石やあるいは何も書かれていない板つまり哲学者たちがタブラ・ラサとよぶものよりも、石理(いしめ)のある大理石の喩えを用いたのだった。なぜなら、もし魂がそうした何も書かれていない板に似ているならば、大理石のなかにあるのがヘラクレスの形かあるいは何か別の形像かをまったく決められないのに、この大理石のなかにあるのはヘラクレスの形像だ、というように真理がわれわれの内にあることになろう。けれども、石理が他の形像よりもヘラクレスの形像を刻むのに適しているのであれば、この石は他の像よりヘラクレスの像を刻むように向いているのであり、ある意味でそこではヘラクレスが生得的ということになろう。ただし、石理を見出し、それが現われるのを妨げているものを削りとり、磨きをかけて仕上げる作業が必要ではある。観念や真理はこのように、傾向、態勢、習慣、自然的潜在力としてわれわれに生得的なのであって、現実態としてではない。これらの潜在力は、それに対応する何らかの現実態を常に伴っているが、たいていは感覚できないのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.18-19、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:大理石の中に石理の喩え)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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生きているこの今という瞬間だけが存在し、君には、唯一これだけが与えられている。君は、いかにそれを大切にし、いつくしまなければならないことか。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

生きているこの瞬間

【生きているこの今という瞬間だけが存在し、君には、唯一これだけが与えられている。君は、いかにそれを大切にし、いつくしまなければならないことか。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 生きているこの今という瞬間を、よくよく考えてみること。君は、いかにそれを大切にし、いつくしまなければならないことか分かるだろう。
(a) 誰であっても、現在生きているこの瞬間、この現在以外の何物をも与えられていない。たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、現在生きている生涯以外の何物をも失うことはない。
(b) 誰であっても、この今生きている生涯以外の、他のどんな何物をも生きることはない。
(c) この今という瞬間に存在の真実があり、何ものも隠されてはいない。万物は永遠の昔から同じ形をなし、今ここにこうして存在している。したがって、君がこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、何の違いもない。
 「たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何物をも失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何物をも生きることはない、ということである。したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、〔したがって我々の失うものも同じである。〕ゆえに失われる時は瞬時にすぎぬように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。であるから次の二つのことをおぼえていなくてはならない。第一に、万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している、したがってこれを百年見ていようと、二百年見ていようと、無限にわたって見ていようと、なんのちがいもないということ。第二に、もっとも長命のものも、もっとも早死するものも、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第二巻、一四、pp.31-32、[神谷美恵子・2007])
(索引:生きているこの瞬間、現在、過去、未来)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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2018年6月3日日曜日

魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

魂の中にあるものの由来

【魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 魂についての、二つの考え方。私は(b)の立場をとる。なぜなら、数学者たちの言う「共通概念」や必然的真理など、何かしら神的で永遠なものの由来が、外的な感覚や経験のみであるとは思われないからである。
(a) まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白で、魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来する。
(b) 魂は、もともと多くの概念や知識の諸原理を有しており、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こす。
 「われわれ二人の見解の相違は、かなり重要な諸テーマについてである。それは次の問題に関わる。魂それ自体は、アリストテレスや『知性論』の著者のいうような、まだ何も書かれていない書字板(tabula rasa)のように、まったく空白なのか。そして魂に記される一切のものは感覚と経験のみに由来するか。それとも、魂はもともと多くの概念や知識の諸原理を有し、外界の対象が機会に応じてのみ、それらを呼び起こすのか。私は後者の立場をとる。プラトンやスコラ派さえそうであり、「神の掟は人の心に書き記されている」(ローマの信徒への手紙二・一五)、という聖パウロの一節をこの意味に解しているすべての人々がそうである。ストアの哲学者たちはこれらの原理をプロレープシスと呼んだ。すなわち根本的仮定、予め前提されている事柄である。数学者たちはそれらを「共通概念」(コイナイ・エンノイアイ)と呼ぶ。現代の哲学者たちは別の美しい名前をつけている。とくにユリウス・スカリゲルはそれらの原理を「永遠の種子」(Zophyra)と名づけていた。いわば「生ける火」、「閃光」であり、われわれの内部に隠れているが、感覚に接触すると現われ、衝撃を与えると火器から飛び出る火花のようなものだ。このような輝きは、とりわけ必然的真理において現われる神的で永遠な何ものかを示している、とわれわれが思うのも、理由なきことではない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』序文、ライプニッツ著作集4、pp.14-15、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1993])
(索引:魂の中にあるものの由来)

認識論『人間知性新論』 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。その応用としての、幾何学的記号法について。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

幾何学的記号法

【記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。その応用としての、幾何学的記号法について。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 記号とは、ある事物であって、それによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。
事物         ⇔ 記号
事物におけるある陳述 ⇔ 演算
機械         ⇔ 設計図
物体         ⇔ 平面図

 例えば、平面図における事物のある像の上で、ある幾何学的演算を行ったとするならば、その演算の結果は平面図におけるある点を与えるであろう。そして、それに対応する点を事物において発見する。
 ところで、図形を代数方程式で表現して、幾何学的な問題を解くような場合は、どのような図形が得られるかを計算によって表示することは全く困難であり、また、計算によって発見されたものを図形に表現することも難しい。しかし、図形の点を表わすのに文字を使用し、点と点の関係で図形の特性を文字で表現することによって、さまざまな図形を記号的に表示することができれば、幾何学を驚くほど前進させることになるだろう。

図形の点       ⇔ 文字
点と点の関係     ⇔ 文字と文字の関係
図形         ⇔ 文字の組合せで、記号的に表示する
 「一――記号(characteres)は、ある事物であってそれによって他の事物の相互関係が表現され、後者よりも容易に扱われるものである。したがって記号において行われるすべての演算には事物におけるある陳述が対応する。そしてしばしば事物自体の考察を記号の処理の完成まで延期することができる。実際、記号において求められるものが発見されるならば、初めから設定されている事物と記号の対応関係によって同じものが容易に事物において発見されるであろう。このようにして機械は設計図によって提示され、物体は平面図で表現される。したがって物体の点で、遠近法の規則に従いそれに対応する点が平面図に表示され得ないようなものはないのである。かくて遠近法的に平面図において事物の像の上である幾何学的演算を行ったとするならば、その演算の結果は平面図におけるある点を与えるであろう、そしてそれに対応する点を事物において発見することは容易である。従って体積問題の解も平面で実現される。
 二――しかし記号が精密であればあるほど、即ちそれによって事物の関係が多く表現されればされるほど、その有効性が明らかとなる。私の用いた算術的記号がなすように記号がすべての、事物の相互関係を明示するならば、記号によって把握されないものは事物にないことになろう。代数記号も算術的記号と同じく優れている、それは不定数を表わすからである。等しい諸部分からなる目盛りが与えられたとき幾何学においては数によって表現されない何物もないから、幾何学的研究の何であれ、計算に従属させられることになる。
 三――しかし同じ事物が種々なる方法で記号化されることを知らねばならない。そのときある方法は他の方法よりも適切であるということになろう。物体がそこに遠近法的に作図される図面は凸面であってもよいが、平面図の使用の方が優れている。現行の数の記号―――アラビア数字またはインド数字と呼ばれている―――が古いギリシアとローマの数字より計算に適合していることは誰も承認している。もちろん後者によっても計算は十分に遂行される。同じことは幾何学的使用においても生じる;代数記号は空間において考察されねばならないことすべてを表現するわけではなく(すでに発見され証明された諸原理を前提している)、また点の位置自体を直接表わさない、むしろ量によって長い迂路を通ってそれを扱うのである。その結果、どのような図形が得られるかを計算によって表示することは全く困難であり、なおさら、計算によって発見されたものを図形において実現することは困難である。」(中略)
「五――しかし、このような図形の点を表わす文字の使用によってかなりの図形の特性が表示されることに気付いたときに、任意の図形の点の関係のすべてが同一の文字によって表示されるのではないか、従って全図形が記号的に表示されるのであるまいかということを認識し始めた。何回もの線の作図によってかろうじて与えられる、むしろほとんど与えられないものがこの文字の配列と置き換えのみで発見されるであろう。」(中略)
「七――さて一度図形と物体を文字によって正確に表現できたとするならば、幾何学を驚くほど前進させるのみならず、また光学、運動学と力学、一般に想像力に従属するものすべてを一定の方法によりいわば解析的に扱うことになるであろう。そしてこの驚くべき技術によって将来機械の発明は幾何学的問題の作図以上に困難ではなくなることが実現されるであろう。かくていかなる苦労もなくまた費用も要らずに大変複雑な機械、さらに自然の事物すら図なしで素描されよう。従ってそれは後世に伝承されて、望むときはいつでもその記述からその図が最高の正確さで作られ得るのである。ところが現今図を素描する困難と費用のために多くが失われており、人々は新たに発見された国家のために有用な事物の記述に追いまくられているのである;実際言葉は十分に正確でもなく、また記述にふさわしいほど十分に適合してもいないのである。」(後略)
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『幾何学的記号法』一~三、五、七、ライプニッツ著作集1、pp.318-321、[澤口昭聿・1988])
(索引:幾何学的記号法)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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すべての現実存在命題は、真なる偶然的命題である。現実存在命題の証明は、無限個の個体の完備概念を含み、決して完了した証明には達し得ない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

現実存在命題

【すべての現実存在命題は、真なる偶然的命題である。現実存在命題の証明は、無限個の個体の完備概念を含み、決して完了した証明には達し得ない。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
真なる偶然的命題:無限に継続される分解を必要とする命題。
 しかし、真なる偶然的命題は、経験によって、この命題が真であることがあり得ないと証明される可能性がつねに存在する。これが「偶然的」の意味である。

 すべての現実存在命題は、真ではあるが必然的ではない。何故ならば、それは、無限個の命題の使用によって、つまり無限にいたる分解によってのみ証明されるからである。仮に、我々が完備な項に到達可能であるとしても、ある命題は、現実存在するものを無限に含む個体の完備概念によってのみ証明される。よって、決して完了した証明に達することはできない。
 「七四――すべての現実存在命題(propositiones existentiales)は真ではあるが必然的ではない。何故ならば、それは、無限個の命題の使用によって、つまり無限にいたる分解によってのみ証明されるからである。即ち、それは、現実存在するものを無限に含む個体の完備概念(notio completa)によってのみ証明されるのである。例えば”ペテロは否認する”と私がいうとき、それを特定の時間について考えると、とにかくその時間の本性が前提されており、その本性は確かにその時間に現実存在したすべてを含んでいる。私が時間を離れて不定に”ペテロは否認する”というとき、すでに否認したのであれ、否認しようとしているのであれ、これが真なるためには少なくともペテロの概念からこの事実が証明されねばならない。しかしペテロの概念は完備で、そのため無限に多くのものを含んでいる。よって決して完了した証明に達することはできないが、その差が任意の与えられた差より小となるように漸近的に接近するのである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』七四、ライプニッツ著作集1、p.179、[澤口昭聿・1988])
(索引:現実存在命題)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

排中律について

【問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 「{問題点:偽なることが証明され得ないものはすべて真であるか、真なることが証明され得ないものはすべて偽であるか、両方とも成立しないものについては一体何であるか? 真なるものも偽なるものも少なくとも無限な分解によって常に証明されるというべきである。しかしこの場合命題は偶然的である、即ち真であることまたは偽であることが可能である。そして概念についても同じであって、無限な分解において真であるか偽であるか、即ち現実存在を許容されるべきであるかそうでないか明らかとなる。注意:同じようにして、真なる概念は現実存在であるか、偽なる概念は非現実存在であるか。すべての不可能な概念は偽である。しかし可能な概念のすべてが真であるわけではない。従って存在せず、また存在しないであろうような概念は偽であろう、その種の命題も偽であるのと同じである、etc.もちろん、概念においては現実存在をいっさい考慮しなく、真なる概念は可能な概念と同じであり、偽なる概念は不可能な概念と同じである―――例えば現実に存在するペガサスは語らずともよい―――という決心をすれば話は別となる。}」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『概念と真理の解析についての一般的研究』六六、ライプニッツ著作集1、p.175、[澤口昭聿・1988])
(索引:排中律)

論理学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難い。人は、この宇宙の真理を深く自覚し、与えられた運命をいつくしみ、自分の内なる真実の声に従うことができる。これこそ最善の人生であり、死さえ克服される。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

哲学とは何か

【人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難い。人は、この宇宙の真理を深く自覚し、与えられた運命をいつくしみ、自分の内なる真実の声に従うことができる。これこそ最善の人生であり、死さえ克服される。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
(1) 人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体は腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、すべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、その運命ははかりがたく、死後の名声は忘却にすぎない。
(2) 我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。この宇宙を支配している真理を深く自覚し、自分自身の内に与えられた最善の真理を守り、これが損なわれぬように、傷つけられぬように、生きることである。
(2.1) あらゆる出来事や、自己に与えられている分は、この宇宙の永遠の運命により与えられているのであって、喜んでこれを受け入れること。
(2.2) 他人が何をしようとしまいと、我々は、何ごともでたらめに行わず、何ごとも偽りや偽善をもってなさず、自分自身の内なる真実の声に従って生きることができる。これによって、快楽と苦痛を統御し得るように保つことができるであろう。
(2.3) 万物は変化し解体する。もし、個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素にとって少しも恐るべきことでないならば、人にとっての死もまた、安らかな心で待つことができるだろう。「それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。」
 「人生の時は一瞬にすぎず、人の実質(ウーシアー)は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組合せは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
 一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。またなにごともでたらめにおこなわず、なにごとも偽りや偽善を以てなさず、他人がなにをしようとしまいとかまわぬよう、あらゆる出来事や自己に与えられている分は、自分自身の由来するのと同じところから来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、なににもまして死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように保つことにある。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体とを恐れようか。それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第二巻、一七、pp.33-34、[神谷美恵子・2007])
(索引:哲学、ダイモーン、死、ウーシアー)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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