2018年10月18日木曜日

「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、協力する相手に対しては協力し、裏切られたら裏切るという「しっぺ返し」戦略であった。(ロバート・アクセルロッド(1943-))

「しっぺ返し」戦略

【「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、協力する相手に対しては協力し、裏切られたら裏切るという「しっぺ返し」戦略であった。(ロバート・アクセルロッド(1943-))】

「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムの総当たり戦で、最も成績が良かったのは、「しっぺ返し」と呼ばれる次のアルゴリズムである。
(1)まず協力する(すなわち、黙秘する)。
(2)相手が前回に行なったことを、そのまま繰り返す。すなわち、
 (2.1)前回相手が協力していれば、今回も協力する(黙秘する)。
 (2.2)前回相手が裏切れば、今回は裏切る(自白する)。

(出典:personal.umich.edu
ロバート・アクセルロッド(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロバート・アクセルロッド(1943-)
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 「1980年代初頭、政治学者のロバート・アクセルロッドと進化生物学者のウィリアム・ハミルトンは、「囚人のジレンマ」の総当たり戦の結果を報告する、古典的な論文を発表した。参加者は人間ではなくアルゴリズム、すなわち「囚人のジレンマ」ゲームの多様な戦略を実装したコンピュータプログラムだった。もっとも単純な二つの戦略は、つねに協力する(つねに黙秘する)か、けっして協力しない(つねに自白する)というものだ。(非協力はふつう「裏切り」と呼ばれる。)アクセルロッドとハミルトンは、研究者たちに、総当たり戦に参加するプログラムの提出を呼びかけた。多くのプログラムは非常に複雑だったが、優勝したのはアナトール・ラパポートが提出した、「つねに協力する」と「けっして協力しない」と同じくらい単純な戦略を採用したプログラムだった。「しっぺ返し」と呼ばれるこのプログラムは、まず協力し(黙秘する)、その後、相手が前回に行なったことをそのままくり返す。相手が前回協力すれば協力する。協力しなかったら協力しない。だから「しっぺ返し」なのだ。近年「しっぺ返し」に辛勝するプログラムも出てきたが、これらもすべて「しっぺ返し」を変形したものだ。互恵性は非常にうまくいく。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.42-43,竹田円(訳))
(索引:「しっぺ返し」戦略)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

論証における原理の作用の特徴

【論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 特定の原理が、我々の法に内在する原理であるとは、公務担当者が何らかの方向へと結論を導く際、当の原理を顧慮しなければならないことを意味する。
 そして、論証における原理の作用の特徴は、
(a)原理は、特定の決定を必然的に生みだすようなことはない。すなわち、特定の前提的諸条件があれば、必然的に原理が適用されるというような前提条件が提示できるわけではない。
(b)原理は、論証を一定方向へと導く根拠を提供する。
(c)ある原理とは異なる方向へと論証を導く、他の原理もあるが、法的論証においては、これら諸原理が相互に作用しあいながら決定へと導く。

 「いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、といった原理は、この原理の適用を必然的に要求するような前提的諸条件を提示することさえない。むしろこれは、論証を一定方向へと導く根拠を提供するのであり、特定の決定を必然的に生みだすようなことはない。もしある人間がある財を保持し得るか否かを決定する際に法が考慮する一つの根拠となる。この原理とは異なる方向へと論証を導く他の原理や政策もあるだろう。――たとえば、法的権限を保障しようとする政策や、立法府が定めた事項に刑罰を限定する原理などがそうである。もしそうであれば、我々の原理が無視されても、だからといってこの原理が我々の法体系の原理ではないということは意味しない。後の事例においてこの原理と抵触する他の考慮事項が不在ないしは重きをなさず、当該原理が決定的となることもありうるからである。特定の原理が我々の法に内在する原理である、と言われるとき、その意味するところは、もしそれが当該事案に関連するのであれば、公務担当者は何らかの方向へと結論を導く考察対象として当の原理を顧慮しなければならない、ということに尽きるのである。
 法準則と法的原理の論理的区別は、法準則とは少しも類似していない原理を考察すれば更に明瞭なものになる。ヘニングセン事件の判決意見の抜粋(d)に記された命題、つまり「製造業者は自動車の製造、宣伝、販売に関し特別な義務の下におかれている」という命題を考えてみよう。この命題には、この種の特別な義務にはどのような具体的義務が含まれるかを明確にしたり、自動車の消費者がこの結果どのような権利を取得するかを提示しようとする趣旨さえ認められない。この命題はただ――そしてこれがヘニングセン事件の論証の本質的な連結点なのだが――自動車製造業者は他の製造業者よりも高度に厳格な規準に服さなければならず、契約の自由という競合的原理を盾にとることが相対的に認められにくいことを示すのみである。これは、彼らが契約自由の原理を決して援用し得ないとか、裁判所は任意に自動車売買契約を修正しうるといったことを意味するのではない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.19-20,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法的論証における原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2.社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルールを創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールと第2次的ルール

【社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルールを創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)第1次的ルール(基本的ルール)
 (1.1)ルールは、義務を課する。人々はある行為を為したり、差し控えることを要求される。
 (1.2)ルールは、物理的動きや変化を含む行動に関係する。
(2)第2次的ルール
 (2.1)人々がある事を行なったり述べることによって、第1次的タイプの新しいルールを導入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、様々なやり方でその範囲を決定したり、それらの作用を統制することができるように定める。
 (2.2)ルールは、公的または私的な権能を付与する。
 (2.3)物理的動きや変化だけでなく、義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意する。

 「失敗の根本原因は、理論の構成要素、すなわち命令、服従、習慣、そして威嚇という観念がルールの観念を含まず、またそれらをよせ集めたところでルールの観念を生み出しえないところにある。それなのに、このルールの観念なしには法のもっとも原初的な形態でさえ説明しえないのである。

たしかにルールという観念は、決して単純な観念ではない。もし法体系の複雑性に対して正当な取り扱いをしようとするなら、二つの関係しているが異なったルールのタイプを区別する必要があることは、すでに第3章で見たとおりである。

一つのタイプのルールは基本的または第1次的なタイプとして考えてよいであろうが、これによって人々は望むと否とにかかわらずある行為をなしたりあるいは差し控えることを要求される。

他のタイプのルールはある意味では第1のタイプに寄生し、あるいはそれに対して2次的である。というのは、それらのルールは、人々がある事を行なったりのべることによって、第1次的タイプの新しいルールを導入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、さまざまなやり方でその範囲を決定したり、それらの作用を統制することができるように定めるからである。

第1のタイプのルールは義務を課する。第2のタイプのルールは公的または私的な権能を付与する。第1のタイプのルールは物理的動きや変化を含む行動に関係する。第2のタイプのルールは物理的動きや変化だけでなく義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意する。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第1節 新たな出発,p.90,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:第1次的ルール,第2次的ルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月17日水曜日

13.無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

言語の畜群的遠近法

【無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意識のうちに入らずに為される多くのことがある。感覚、思考、情動、意欲、想起。
(2)また、我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
(3)意識にのぼってくる思考は、意識されない思考の極めて僅少の部分、その最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
(4)さらに、言語で表現された世界は、意識にのぼってくるものの、さらに限定された一部である。しかもそれは、一般化され、凡俗化され、深みを失い、薄っぺらになり、愚劣となり、頽廃があり、偽造がある。
(5)自分自身をできるかぎり個的に理解しよう、「自己自身を知ろう」と望んでも、意識にのぼってくるのは、非個的なもの、「平均的なもの」、「種族の守護霊」によって多数決にかけられ、畜群的遠近法に訳し戻されたものである。結局のところ、増大する意識とは一つの危険であり、一つの病気とも言えるのである。
(6)以上のことは、意識と言語の以下のような起源に由来する。
 (6.1)人間は、最も危険に曝された動物として、仲間の救助や保護を必要とした。
 (6.2)仲間に知らせる必要のあることが、意識化され、言語化された。すなわち意識も言語も、種族、共同体的、畜群的な効用に関する点で、精妙な発達をとげてきた。なお、人と人を結びつけるものには、眼差しや身振りの働きもある。
  (6.2.1)自分の危急状態、何が不足しているのか。
  (6.2.2)自分がどんな気分でいるのか、何を考えているのか。
  (6.2.3)人と人とを結びつける連絡網、特に命令者と服従者を結びつける。

 「「種族の守護霊」について。

―――意識(もっと正しく言えば、自己を意識すること)の問題は、どの程度までわれわれは意識なしで済ませられるかを悟りだすときにはじめて、われわれの前面にあらわれてくる。

こうした悟り始めの地点に、今日われわれを立たせるのは、生理学と動物学とである(これらの学問は、したがって、ライプニッツの先駆的な疑問に追いつくのに二世紀かかったわけだ)。

すなわち、われわれは、考えたり、感じたり、欲したり、想い起こしたりすることができるし、同様にまた語のあらゆる意味で「行為する」ことができるだろう、だがそうだとしてもそうした一切のものがわれわれの「意識のうちに入ってくる」(比喩的に言われるごとく)ことを要しない筈だ。

生の全体は、それがいわば鏡に自分を映してみなくても、可能な筈である―――実際において今日でもなお、われわれにおけるこの生活の大半が、こうした鏡面映写なしに演じられているごとくに―――、しかもそこにわれわれの思考し・情感し・意欲する生をも含めての話だ、こう言えば老いぼれた哲学者の耳には侮辱したように聞こえるかもしれないけれど。

―――意識が大体において《余計なもの》であるとするなら、いったい意識は《何のため》にあるのか? 

―――ところで、この問題に対する私の解答とその恐らくは的外れかもしれぬ推測に人々が耳を藉してくれるとしての話だが、意識の精緻さと強さとはつねに人間(あるいは動物)の《伝達能力》に比例し、またその伝達能力は《伝達の必要》に比例する、と私には思われる。

この後者の場合、自分の必要をひとに伝達したり分からせたりすることにかけては実に名人である当の個人それ自体が、その必要という点で同時にまた大抵のことを他人に頼らねばならないものだ、といった風にこれを解してはならない。

だがしかし、こと種族全体や血族連鎖の全体に関するかぎりでは、たしかにそんな風の事情になっているように、私には思われる。

必要とか困窮とかのために、長期にわたって人間が、伝達し合い相互に迅速かつ精細に理解しあうよう迫られたところでは、ついにあり余る程のこうした伝達の力と技が生じてくる。それはいわば漸次に蓄積された末にこれを浪費する相続人を待つばかりになっている資産のようなものである

(―――いわゆる芸術家はこうした意味の相続人であるし、演説家も説教家も著述家も同断である。これらの者はみな、きまって長い血族連鎖の最後にあらわれ、いつの場合も語の最上の意味での「末裔」であり、前述のようにその本質において「浪費家」である)。

この私の考察が正しいとしたら、さらに次のように推測をすすめることができよう、すなわち、《およそ意識というものは伝達の必要に迫られてのみ発達したものである》、―――もともとそれは人と人との間(特に命令者と服従者との間)にのみ必要なもの、有用なものであって、しかもこの有用性の程度に比例してのみ発達したものである、と。

意識とは、本来、人と人との間の連絡網にすぎない、―――ただそうしたものとしてのみ発達したに違いなかった。つまり、世捨人的な猛獣のような人間なら意識など必要とはしなかっただろう。

われわれの行為、想念、感情、運動すらも―――すくなくともそれらの一部分が―――われわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき「やむなき必要」(Muss)の結果なのだ。

人間は、最も危険に曝された動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表わし自分を分からせるすべを知らねばならなかった、―――こうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず「意識」を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを「知る」こと、自分がどんな気分でいるかを「知る」こと、自分が何を考えているかを「知る」ことが、必要であった。

なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。

《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。

―――というのも、この意識化された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》―――これで意識の素性そのものがあばきだされるが―――《をもって営まれる》からである。

要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。

付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。

われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。

記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。

人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、―――人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。―――お察しのとおり、私の考えは、こうだ

―――意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ畜群的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ畜群的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。

また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、「自己自身を知ろう」と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における「平均的なもの」だけであるだろう、

―――われわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によって―――意識の内に君臨する「種族の守護霊」によって―――いわば《多数決にかけられ》、畜群的遠近法に訳し戻される。

われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。

それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》・・・これこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法論である。

《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡俗化された世界にすぎない、

―――意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、畜群的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている。

結局のところ、増大する意識とは一つの危険なのだ。そして、極度に意識的となったヨーロッパ人のあいだに生活する者は、その上それが一つの病気でもあることを知っている。

お察しのことだろうが、ここで私が問題としているのは、主観と客観の対立などではない。こんな区別だてなど、文法(俗流形而上学)の罠にかかったままでいる認識論者諸君の手に一任する。

ましてやそれは、「物自体」と現象との対立といったものではさらさらない。なぜなら、われわれの「認識」は、そうした《区別》だけでもやれるにはまだまだ遥かに不充分だからだ。

われわれは《認識》のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有っていない。

われわれは、人間畜群や種族のために《有用だ》とされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。

しかも、ここで「有用」と呼ばれるものでさえも、所詮また一個の信仰、一個の妄想にすぎず、また恐らくそれこそは、われわれをいつかは破滅させるあの宿命的な蒙昧さであるかもしれない。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第五書、三五四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.391-395、[信太正三・1994])
(索引:意識の発生,言語の起源,畜群的遠近法)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理や、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドウォーキン(1931-2013))

法準則、原理、政策

【法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理や、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。

 「私はこれから法実証主義の総括的な批判を行ないたいと思う。特定の批判対象が必要な場合は、H・L・A・ハートの法実証主義をこの対象として使うことにする。私の批判の筋道は、次の事実を中心に構成されるであろう。すなわち法律家が法的権利義務につき推論や論証を行う場合、またなかでも、この概念をめぐる我々の問題が先鋭化すると思われる難解な事案に際し、彼らは、法準則として機能するのではなくこれとは異なった仕方で作用する諸規準、すなわち原理や政策やその他のタイプの規準を利用している、という事実である。私がこれから論ずるように、法実証主義は法準則及び法準則の体系に関し一つのモデルを提供するが、法について単一の基本的テストが存在するというその中心的な考え方は、法準則以外の上記の様々な規準が持つ重要な役割を我々に見失わせることになる。
 私がすぐ前で、「原理や政策やその他のタイプの規準」という表現を使った。以下、私は、法準則以外のこれら諸規準の全体を総称的に示すために、多くの場合「原理」(principle)という用語を使うことにするが、場合によっては精確さを期して原理と政策(policy)とを区別するつもりである。当面の議論において両者の区別に依拠するような論点は存在しないが、この区別を私がどのように考えているかをここで述べておく必要があろう。私が「政策」と呼ぶものは、一般的には社会のある主の経済的、政治的、社会的特徴の改善といった一定の到達目標を提示するタイプの規準を意味する(もっとも、ある種の目標は、現在存在するある特徴が逆方向への変化から保護されるべきことを規定する点で、消極的目標であることもある)。私が「原理」と呼ぶものは、好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況をこれが促進したり保護するからではなく、正義や公正その他の道徳的要因がこれを要請するが故に遵守さるべき規準を意味する。したがって、自動車事故は減少すべきだとする規準は政策であり、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならないという規準は原理ということになる。我々はこの区別を消し去ることもできるだろう。すなわちある社会目標(たとえば、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得ることのない社会という目標)を提示するものとして原理を構成したり、逆にある原理(たとえば、政策に含まれる目標は価値あるものであるべしとする原理)を提示するものとして政策を構成することにより、更には功利主義のテーゼを採用し、正義の諸原理を目標(たとえば、最大多数の最大幸福を保障するごとき目標)に関する偽装された言明として捉えることにより、我々は上記の区別を消し去ることもできるが、ある脈絡においては両者の区別は有益であり、上述のような仕方でこの区別をなくしてしまうと、この有益性が失われてしまう場合がある。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.14-15,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理,政策,目標)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドウォーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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1.特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

習慣と社会的ルールの違い

【特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。さらに次の特性がある。
 (2.1)特定の行動の基準からの逸脱が、一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされる。また、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力が存在する。
 (2.2)行動様式に関する共通の基準が存在し、人々には批判的、反省的態度が存在する。
  (2.2.1)基準からの逸脱が、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (2.2.2)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (2.2.3)批判や要求をなす者も、批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (2.2.4)ただし、少数の常習的違反者は存在する。
 (2.3)観察可能な規則的、画一的な行動の事実は習慣の存在を示すが、社会的ルールの存在には、(2.2)のような「内的側面」が必要である。
  (2.3.1)批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。
  (2.3.2)社会の批判と一致への圧力によって、社会的ルールが存在する場合、諸個人は、束縛または強制の感覚、あるいはある種の感情を経験することがある。しかし感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。

 「社会的ルールと習慣には、たしかに類似点がある。

それは、どちらも当該の行動(たとえば教会で帽子を取ること)は必ずしも不変ではないとしても、一般的でなければならないということである。このことは、一定の状況になればその行動が集団の大部分によって繰り返されることを意味する。すでにのべたように、「人々は《通常》as a rule そうする」という句に含まれているのはそのぐらいのことである。

しかし、このような類似点があるとしても、次のような三つの顕著な違いがある。

 第一に、集団が《習慣》をもつためには、人々の行動が事実上、一致するだけで十分である。通常の仕方から逸脱しても何らかの形で批判されるような事柄である必要はない。

しかし、行動がこのように一般的に一致したり、まったく同一であったとしても、それだけではその行動を要求するルールが存在するためには十分ではない。

というのは、このようなルールが存在するためには、それからの逸脱は一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされるのであり、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力に直面するのである。もっとも、批判や圧力の形態はルールのタイプに応じて異なる。」

 「第二に、このようなルールが存在する場合、このような批判が実際に行なわれるのみならず、基準からの逸脱は、それに対する批判の《十分な理由》a good reason として一般的に受けいれられている。

逸脱に対する批判は、逸脱が生じそうな場合の基準への一致の要求がそうであるのと同様に、この意味において正当とみなされ、また正当化されるのである。

さらに、少数の常習的違反者は別として、このような批判や要求は、批判や要求をなす者とされる者の双方から一般的に正当とみなされたり、十分な理由をもってなされるのである。

集団がルールをもっていると言うことができるためには、集団のうちどれだけの人が、どの程度頻繁に、そしてどれぐらいの期間にこれらの種々の仕方で規則的な行動の様式を批判の基準として扱わなければならないのかという問題は、はっきりしていない。多少の毛があっても禿といわれる場合の毛髪の数に関する問題と同様、われわれはこの問題で煩わされる必要はない。

覚えておく必要があるのは、集団があるルールをもっているという陳述は、ルールに違反するだけでなく、ルールを自分や他人にとっての基準とみなすことを拒む少数者の存在と矛盾しないということだけである。」

 「社会的ルールを習慣と区別する第三の特徴は、すでにのべたところに含まれている。しかし、それは法理学において極めて重要であるのに非常にしばしば無視されたり、不正確にのべられたりしているので、ここで念入りに考察してみよう。それは、本書を通じてルールの《内的側面》internal aspect と呼ぶ特徴である。

ある習慣が社会集団において一般的であるという場合、この一般性は集団の大部分の人々の観察可能な行動についての事実にすぎない。

このような習慣が存在するためには、集団の構成員は一般的な行動について全然考える必要はないし、また当該の行動が一般的であるということを知ることさえ必要でない。まして彼らはその行動を教えようと努力したり、維持しようと意図したりする必要はさらさらない。各人は、他人が実際にそうしているように、それぞれ行動するだけで十分なのである。

しかし、これとは対照的に、社会的ルールが存在するためには、少なくともいくらかの人々が当該の行動を集団が全体として従わなければならない一般的基準とみなさなければならないのである。社会的ルールは、観察者が記録できる規則的、画一的な行動にみられる外的側面をもつ点では社会的習慣と共通しているが、それに加えて「内的」側面ももっている。

 ルールのこの内的側面は、ゲームのルールからでも簡単に説明されるだろう。

チェスの指し手は、クィーンを同じように動かす類似の習慣をもっており、外的な観察者は彼らがどういう態度でそう動かすかを知らなくてもその習慣を記録できるけれども、指し手の場合にはそれだけではない。その上、指し手達は、この行動様式に対する反省的、批判的態度をもっている。

彼らは、その様式をゲームをする人達すべてにとっての基準とみなすのである。各人は自分自身でクィーンを一定の仕方で動かすのみならず、そのような仕方でクィーンを動かすことはすべて適切なのだという「見解をもっている」。その見解は、逸脱が現にあったり、なされそうな場合における他人に対する批判および他人に対する一致への要求において表明されたり、また一方、人からこのような批判を受けたり、要求されたりする場合、それを正当だと認めることにおいて表明されるのである。

このような批判、要求、是認を表現するためには、広範囲の「規範的な」言語が使用される。

それには、「私(あなた)は、そのようにクィーンを動かすべきでなかった」、「私(あなた)は、そのようにしなければならない」、「それは正しい」、「それは誤っている」という表現がある。 

 ルールの内的側面は、外部から観察可能な身体的行動と対照をなす単なる「感情」の問題として、しばしば誤って説明される。

ルールが社会集団によって一般的に受けいれられ、社会の批判と一致への圧力によって一般的に支えられている場合、明らかに諸個人は、束縛または強制という心理的な経験に類似したことをしばしば経験するであろう。彼らが一定の仕方で行動するように「拘束されていると感じている」と言う場合、実際、彼らはこのような経験についてのべているのである。

しかし、このような感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって必要でも十分でもない。 

人々はあるルールを受けいれているが、強いられているというこのような感情は経験しない、と言っても矛盾ではない。必要なことは、共通の基準としての一定の行動の様式に対する批判的、反省的態度 a critical reflective atitude が存在しなければならないということと、この態度は(自己批判を含む)批判や、一致への要求において、さらにこのような批判や要求が正当であると是認することにおいてあらわれなければならない、ということである。

そして、それらはすべて「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」といった規範的な用語で特徴的に表現されるのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第4章 主権者と臣民,第1節 服従の習慣と法の継続性,pp.62-64,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),中谷実(訳))
(索引:社会的ルール,習慣,批判,ルールの内的側面,感情)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年9月23日日曜日

種類の異なる感覚の間の相互作用(クロスモーダルな相互作用)の一例として、特定の形(視覚情報)と特定の名前(聴覚情報)が結び付けられる傾向のあることが、ブーバ・キキ効果として知られている。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

ブーバ・キキ効果

【種類の異なる感覚の間の相互作用(クロスモーダルな相互作用)の一例として、特定の形(視覚情報)と特定の名前(聴覚情報)が結び付けられる傾向のあることが、ブーバ・キキ効果として知られている。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

種類の異なる感覚の間の相互作用(クロスモーダルの相互作用)の一例。
実験
 (a)こぼれたペンキのように見える図形
 (b)ギザギザに割れたガラスの破片のように見える図形
 (a)と(b)のどちらが、「ブーバ」で、どちらが「キキ」か?
結果
 (a)が「ブーバ」で(b)が「キキ」と答える人が多い。
 「最近、大きな講義室でこれを試したところ、98パーセントの学生はそちらを選んだ」。
 「書記体系がまったく異なるインドや中国の英語を話さない人たちにおこなっても、結果はまったく同じとなる」。

 「先に、解剖学的構造にもとづいて検討したように、脳領域間のクロス活性化の促進につながる遺伝子は、種としての私たち人間を創造的にすることによって、きわめて有利なはたらきをしてきた可能性がある。そうした遺伝子のまれな変異型、もしくは一定の組み合わせが、共感覚の出現という良性の副次的影響を引き起こすのかもしれない。ここで、良性という点を取り急ぎ強調しておきたい。共感覚は鎌状赤血球症や精神疾患のように有害ではないし、また実際に、ほとんどの共感覚者は、彼らの能力を楽しんでいる様子で、たとえ「治す」ことができるとしても、それを選びはしないだろう。ここでしているのは、全般的なメカニズムが同じかもしれないという話だ。この考えが重要なのは、共感覚とメタファーは、同義ではないが、奥深いつながりを共有しているということを明らかにするからであり、そのつながりが、私たち人間の驚くべき独特さについて深い洞察をもたらしてくれるかもしれないからである。
 したがって共感覚は、創造性のサインもしくは指標となる可能性のある、やや異常なクロスモーダルの相互作用の一例と考えるのが最良であろう(モダリティとは嗅覚、触覚、聴覚などの感覚能力のことで、「クロスモーダル」は、異種の感覚情報の共有――たとえば、視覚と聴覚が一緒になって、いま観ている外国映画は吹き替えに難があるとあなたに告げるときのような情報の共有――を指す)。しかし、科学ではよくあることだが、私はそこから、非共感覚者の私たちでも、頭のなかで進行していることのかなりの部分は、まったく正常な、無原則的ではないクロスモーダルの相互作用に依拠しているという事実に考えがおよんだ。したがって私たちはみな、ある程度ではあるが「共感覚者」だという考えには一応の道理がある。たとえば、図3-7に示した二つの図形を見てほしい。左側の図はこぼれたペンキのように見え、右側の図はギザギザに割れたガラスの破片のように見える。さて、どちらが「ブーバ」でどちらが「キキ」かを当てなくてはならないとしたら、あなたはどう答えるだろうか? 正解はないが、たぶんあなたは、こぼれたペンキが「ブーバ」、ガラスが「キキ」という選択をするだろう。最近、大きな講義室でこれを試したところ、98パーセントの学生はそちらを選んだ。それは、丸みを帯びたほうの図は物理的な形が(boubaに使われている)Bという文字に似ていて、ギザギザのほうの形は(kikiに使われている)Kに似ていることと何か関係があるのではないかとあなたは思うかもしれない。だが、この実験を、書記体系がまったく異なるインドや中国の英語を話さない人たちにおこなっても、結果はまったく同じとなる。
 なぜそうなるのだろうか? アメーバに似た図形の輪郭のゆるやかなカーブやうねりが、脳の聴覚中枢に表象されるブーバという音のゆるやかなうねりや、「boo-baa」と発音するときの唇のなめらかな丸みや弛緩のぐあいとよく似ているというのがその理由である。一方、「kee-kee」という音の鋭い波形や、口蓋にあたる舌の鋭い屈曲は、ギザギザの視覚的形状とよく似ている。この話は第6章でまたとりあげて、これが、メタファー、言語、抽象的思考の進化といった、私たちの心のもっとも謎めいた側面の多くを理解するための鍵を握っているかもしれないという可能性を検討する。」
(出典:wikipedia
ブーバ・キキ効果
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第3章 うるさい色とホットな娘――共感覚,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.159-160,山下篤子(訳))
(索引:ブーバ・キキ効果)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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