2018年10月29日月曜日

10.14.人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))

人道主義的道徳と法

【人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))】

(3.4.1)~(3.4.3)追記

 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。
  (3.4.1)「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
  (3.4.2)もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
  (3.4.3)人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))
(出典:wikipedia
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)
検索(ラートブルフ)

 「この訴えは、ナチ体制の下で生き、その体制が邪悪な法体系を生みだしたことについて反省したドイツの思想家たちによる訴えである。

その中の一人、ラートブルフは、ナチの専制までは「実証主義的」原理を支持していたが、ナチの専制を経験して転向した人であるから、彼が法と道徳の分離という原理を捨てるように他の人に訴える様子には、自説を変更するという特殊な痛烈さがある。

この批判に関して重要であるのは、在る法と在るべき法との分離を力説するときにベンサムとオースティンが念頭においていた主張に、この批判が対決しているということである。

これらのドイツの思想家たちは、功利主義者が分離したものを、功利主義者の目にはこの分離が最も重要であるちょうどその場面で、結合させることが必要だという主張をした。

彼らは道徳的な悪法の存在という問題に関心をよせたのである。

 ラートブルフは、転向する以前には、法への抵抗は個人の良心の問題で、個人によって道徳的な問題として考えられるべきであるとし、法の要求するところが道徳的に悪であることを示したとしても、さらに、法への服従のもたらす結果が法への不服従のもたらす結果よりも悪いことを示したとしても、法の妥当性は否定されるものではないという意見を持っていた。

ここでオースティンを思い起こしてもらいたい。オースティンは、もし人の法が道徳の基本的な原則と衝突するならばそれは法ではないと言う者に対して、「全くナンセンスなこと」を語っていると強い非難をあびせている。

 『最も邪悪な法、したがって最も神の意志とは対立する法が、司法裁定機関によって、法として強行されてきたし、また強行され続けている。

無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。

もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。

そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。

神の法に基づいた異議申し立てや妨訴抗弁や抗弁は、天地創造の時から現在に至るまで、正義の法廷で聞き入れられたことはない。』

 これはたいへん頑固な、暴力的なとさえ言える発言であるが、――オースティンの場合、そして、もちろん、ベンサムの場合も――もし法が一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じるという確信とともにこれらの言葉を語っていることに注意しなくてはならない。

人間が陥るかもしれないディレンマをこのように率直に表現する以外に方策はないのかと思案してみてもらいたい。

この率直な表現がどれほど崩しにくいものであるかがわかるだろう。

 しかし、ラートブルフは、たんなる法規への隷従――彼によれば、「法は法だ」(Gesetz ist Gesetz)という「実証主義的」スローガンによって表現される――をナチの体制が容易に利用したということから、また、ドイツの法曹界が、法の名の下に行なうことを要求された極悪な行為に対して抵抗することができなかったということから、いとも簡単に「実証主義」(ここでは、在る法と在るべき法との分離の主張を意味している)はこの惨事の発生に積極的に加担したと結論している。

彼は熟慮反省して、人道主義的道徳は法 Recht とか合法性という概念自体の一部であり、どのような実定的立法も制定法も、いかに明確な表現を持っていても、また、いかに既存の法体系の持つ妥当性の形式的基準に合致していても、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば妥当性を持たないという原理に到達した。

この原理は、Recht というドイツ語の帯びているニュアンスが把握できなければ完全に理解することはできない。

しかし、この原理が、すべての法律家と裁判官は、基本的な原則の範囲から逸脱した制定法を、不道徳で間違ったものとしてだけでなく法的性格を持たないものとして糾弾すべきであり、また、基本的な原則の範囲から逸脱していることで法である性質を欠く立法は、個別具体的な状況下にあるどのような個人についてであれ、その法的立場を決定する際に考慮されるべきものではない、という意味であるのは明らかである。

ラートブルフが彼のそれまで支持していた原理を衝撃的に変更した様子は、残念なことに、彼の著作の翻訳では省かれているが、法と道徳の相互連関の問題を新しく考え直そうとする者すべての読むべきものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.80-82,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:人道主義的道徳,法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月28日日曜日

原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の存在を擁護する諸慣行

【原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)諸原理
 (2.1)これに対して諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (2.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
 (2.2.1)原理の制度的な支え
  (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
  (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
  (c)当該原理を引用している制定法の序文
  (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
 (2.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
  (a)制度的責任
  (b)法令解釈の一定の技術
  (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
  (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
  (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
 (2.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行

 「ハートによれば、多くの法準則は権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。ある法準則は立法府により制定法のかたちで創出され、他の法準則は特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し将来の事案に対する先例として確立する裁判官により創出される。しかし、法準則のこのような系譜テストはリッグス事件やヘニングセン事件にみられる原理にはあてはまらない。これらの原理が法的原理とされるのは、立法府や裁判官の特定の決定に由来するからではなく、ほんとうは一般市民がこれらの原理を長い期間のうちに適正なものと感ずるようになったからである。適正さの感覚が維持されるかぎり法的原理は依然として効力をもち続ける。不法による利益取得を許可することがもはや不公正と思われず、また危険をはらむ器械を独占的に製造する少数会社に特別の負担を課することが公正と思われなくなれば、これらの原理はたとえ破棄ないし撤廃されなくとも、その後新たな事例でそれなりの役割を演ずることはもはやないであろう。(事実、この種の原理について「破棄される」とか「撤廃される」とか語るのは無意味である。原理が沈没するのは、いわば腐蝕したからであり魚雷攻撃をうけたからではない。)確かに、ある原理が法的原理であることを我々が主張し、この主張を正当化するよう要求された場合、我々は当の原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案を引き合いに出すであろうし、また、この原理を具体的に表現していると思われる制定法を指摘するであろう(この場合、当の原理が制定法の序文や、制定法に伴う委員会報告その他の立法関係書類で引用されていれば、なお都合がよい)。我々がこのような制度的支えを見出せなければ、我々の主張の立証は失敗するだろうし、逆に多くの支えを見出すことができれば、それだけ原理の重要性を強く主張できるのである。
 しかしそれにもかかわらず、原理が法的原理となるためにいかなる制度的支えがどの程度必要かを明示したり、ましてや原理の重要性に一定の等級づけを与えるためにどの程度の制度的支えが必要かを明示するような定式を考え出すことは不可能である。我々が特定の原理を支持する論証を行うとき、これは推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準(この規準自体も法準則ではなく、むしろ原理と考えられる)の総体と取り組みつつなされるのであり、これらの規準には、制度的責任、法令解釈、各種判例の説得力、及びこれらすべての問題と現在の道徳的慣行との関連性などに関する諸規準、その他この種の多くの規準が含まれている。どれほど複雑なものであれ単一の「ルール」にこれらすべての規準を詰め込むことはできないし、仮にこれが可能としても、結果として生ずるルールはハートの承認のルールとは似ても似つかぬものになるだろう。ハートの描く承認のルールは、「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示する、きわめて確固とした主導ルールだからである。
 更に、ある別の原理を擁護する際に我々が援用する論証手段は(ハートの承認のルールがそう考えられているのとは異なり)、これらの諸手段により支持される諸原理と全く異なる次元に属しているわけではない。ハートが主張するような受容と妥当性の厳格な区別はここではあてはまらない。たとえば、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理を擁護する場合、我々はこの原理を具体的に表明している裁判所や立法府の行為を援用するが、この場合原理は受容されているとも言えるし、また妥当性を有するとも言える(妥当性を有するという言い方を原理について用いることは、いかにも奇妙と思われる。これはおそらく妥当性が黒か白かの概念であり法準則には十分あてはまるが、原理のもつ重みの次元とは相容れない概念だからであろう)。我々はこの原理を擁護する議論において、判例に関する特定の理論や法令解釈の一定の技術を援用するが、これらを更に擁護するよう要求された場合(この要求は至極当然のことであるが)、我々はあきらかに当の理論や解釈技術を使用している他の人々の慣行を援用するであろう。しかし我々はこれ以外に、この慣行が依拠すると思われる他の一般的諸原理をも援用するはずであり、このことにより受容という和音に妥当性という旋律が導入されるのである。たとえば我々は次のように主張するだろう。つまり過去の事案や法令の使用は立法活動や判例理論の趣旨を一定の仕方で分析したり、民主制理論の諸原則を提示したり、更に中央政府と地方自治体との間で制度上の権威を一定の立場から適正に分配すること、その他これに類したことにより支持される、と。またこのような支持の過程は、受容のみに基礎をおいた何らかの窮極的原理へと至る一方通行的な過程ではない。我々が提出する立法、判例、民主制、連邦主義などに関する諸原理が更に挑戦を受けることもありうるだろう。もしそうなれば、我々はこれらを単に慣行のみにより擁護するだけでなく、これら諸原理の内在的意味などにより擁護しなければならない。もっとも、この最後の手段のために我々は様々な解釈理論を援用するが、これら解釈理論が、今まさにここで我々が擁護しようとする諸原理によって既に正当化された理論であるようなことも已むをえないのである。換言すれば、このような抽象的な次元では、諸原理は相互に連結するというよりは互いに支えあっていると言うべきだろう。
 それ故、諸原理が法制度の公的慣行から支えを得るとしても、原理はこれらの慣行と単純なかたちで直接的に結合しているわけではなく、したがって承認のルールといった特定の窮極的な主導ルールにより明示された規準によってこの結合を定式化することはできない。それでは、原理がこのようなルールのもとに包摂され得る何か別の方法があるだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.39-41,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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9.半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における合理的決定

【半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、下記のことが、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「在るべきもの」の観点が含まれる。「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
 (1.2)批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
 (1.3)在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
 (1.4)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
(2)しかし、在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(3)ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
(4)(1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の2つのことが重要だと思われる。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。

 「明らかに、もし形式主義の誤りを指摘することによって功利主義者の区別が誤りであると示そうとするならば、論旨を徹底的に言い直さなければならない。

司法的決定が合理的であるためには在るべきものの観点から決定が下されなければならないだけではなく、目標、すなわち、決定が合理的なものになるために裁判官が訴えかけるべき社会的な政策や目的は、それ自体、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられ、こういう法の観念は功利主義者の使う観念よりも有益なものである、ということが論旨となるはずである。

このように論旨を言いかえると次のような主張に行きつく。すなわち、半影の問題が繰り返し現れるところで法的ルールが本質的に不完全なものであることがわかるというのではなく、

また、裁判官は、判断できないときには、立法をおこない、したがって、選択肢の中から創造的な選択をするというのではなく、  

裁判官の選択の指針となる社会政策が、ある意味で、見付けられるべくそこに存在しており、裁判官は、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」にすぎない、というのである。

これを司法的立法と呼ぶと、ルールの適用のはっきりしているケースと半影的決定との間にある本質的連続性が曖昧になってしまう。

このように論旨を語ることが有益であるか否かについては後で検討しようと考えるが、ここでは、言うまでもないことではあるが、もし指摘しておかなければ問題をもつれさせると危惧されるので、次のことを指摘しておきたい。

形式主義的、文言解釈主義的な方法で盲目的になされる決定の対極にあるのは在るべきものの観念を考慮して知性的になされる決定であるということから、法と道徳の接合する点が存在することになる、ということにはならない。

「べき」という言葉についてあまりに素朴に考えないように注意しなければならない。

在る法と在るべき法との間に区別がないからではない。その逆である。在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならないからである。

「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映しているにすぎない。

これらの基準の一つは道徳的な基準であるが、しかし、すべての基準が道徳的であるわけではない。

隣人に向かって「嘘をつくべきではない」と言うときには、それはたしかに道徳的判断であろうが、しかし、毒を盛るのに失敗した者が「もう一服盛っておくべきだった」と言うこともある。

つまり、言いたいことは、機械的、形式的決定に対置される知性的決定は、必ずしも道徳的理由から擁護される決定と同一ではないということである。

「そうだ、それは正しい。それが在るべき姿だ」という表明が、ある承認された目的や政策がそれによって推進されたことだけを意味し、その政策や決定の道徳的性格の是認を意味しない場合も多く存在する。

したがって、機械的な決定と知性的な決定との対照は、最も有害な目的の追求に向けられた体系の中でも起こりうる。

この対照は、私たちの法的体系にみられるように、正義の原則と個人の道徳的要求とを広く受け入れている法的体系の中でのみ見られるものではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.76-78,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:)

 「半影の問題について知性的な決定とは、機械的になされるのではなく、道徳的原則と呼ばれるものに限られず、目標、目的、政策を考慮してなされるものである、ということがもし正しいとするならば、この重要な事実を表現するのに、在る法と在るべき法との功利主義的な区別を止めるべきだと主張するのは賢明なことであろうか。

おそらく、それが賢明だという主張を理論的に反駁することはできない。というのは、それは、結果的に、法的ルールについての私たちの観念を見直す《切っ掛け》だからである。

それによって私たちは「ルール」の中にさまざまの目標や政策を含めるように誘われる。

これらの目標や政策は、その重要性からして、法的ルールの意味が確定している中核部分と同様に法と呼ばれてしかるべきであり、これらの目標や政策を考慮してルールの半影的なケースには決定が下されるべきではないか。

この誘いを論駁することはできないが、しかし、断ることはできよう。 

この誘いを断る理由として私は二つの理由をあげたい。第一に、司法過程について学んだことはすべては、より神秘的でない他の形で表現できる。

法はどうしようもなく不完全であるから、半影的ケースについては社会的目標を考慮して合理的に決定しなければならない、ということができる。

ホームズなら、「一般的命題は具体的ケースを決定しない」という事実を鮮明に察知していたのであるから、このような形で表現するだろうと私は考える。

第二に、功利主義的な区別を主張することは、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分は法であること、そして、曖昧であるにしても、まず線がなければならないことを強調するものである。

もしそうでなければ、裁判所の判決を制御しているルールという観念は、「リアリスト」の幾人かが――その最も極端な風潮の中で、私が思うに、不適切な根拠に基づいて――主張したように、無意味なものになってしまうだろう。

 逆に、この区別を緩めようとすること、すなわち、在る法と在るべき法との間に両者が融合して一体となった部分があるという不可解な主張をすることは、すべての法的問題は基本的に半影の問題のようなものであると示唆するものである。

ルールの持つ中心的意味の中には法の中心的要素は発見できない、また、社会政策の観点から問題《すべて》を再検討することと法的ルールの本質との間には矛盾するところはない、と主張するものである。

もちろん、半影に注目することは結構なことである。半影の問題はロー・スクールにおいてはまさに日々の糧である。しかし、半影に注目することとそれに夢中になることとは違う。

半影に夢中になるのは、言ってみれば、アメリカの法的伝統における混乱の温床であり、それはイギリスの法的伝統における形式主義に対応する。

もちろん、ルールは権威を持つという考え方を放棄することもできる。

この事件はルールそして先例の範囲に明らかに包摂されるものだという議論を支持するのをやめたり、また、それに意味すら認めないこともできる。そのような推論をすべて「自動的」「機械的」と呼ぶこともできる。これは裁判所批判の常套手段である。

しかし、これが私たちの望むものに《他ならない》と確信するまでは、功利主義的な区別を抹消することによってこれを助長するべきではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.79-80,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月27日土曜日

そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則の拘束力を支える諸原理

【そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
(1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
 これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
(2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
 (2.1)立法権の優位の理論
  裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
 (2.2)先例の理論
  判決の一貫性が、衡平にかない、実効性のあることを主張する諸原理

 「第二に、どのような裁判官でも、既存の法理論を変更しようと試みる者は、既に確立された法理論からの離反に対抗する幾つかの重要な規準を考慮すべきであり、この種の規準も多くの場合原理なのである。この原理には、「立法権の優位」の理論、つまり裁判所は立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると言う一連の原理が含まれ、更に先例の理論、すなわち判決の一貫性が衡平にかない実効性のあることを示すもう一つ別の一連の原理がこれに含まれるだろう。立法権の優位や先例の理論は、各々の妥当領域において「現状維持」の傾向をもつが、必ずしもこれを決定的なかたちで要請するわけではない。しかし裁判官は、これらの理論を構成する個々の原理や政策の中から任意のものを自由に選択することはできない。既述のごとく、もしそうだとすると、拘束力をもつ法準則など存在しないことになるからである。
 それ故、特定の法準則が拘束力を有すると言われるとき、これが何を意味するかを考察してみよう。まずこれは、法準則がある諸原理により肯定的に支持されており裁判所はこれらの原理を勝手に無視することはできず、しかも総体としてこれらの原理は、法準則の変更を支持する他の諸原理よりも重要であることを意味するだろう。さもなければ、特定の法準則が拘束力を有することは、次のこと、すなわち立法府の優位とか先例に関する一組の保守的諸原理により法準則のいかなる変更も禁止されており、裁判所がこれらの原理を無視しえないことを意味する。法準則が拘束力を有すると言われるとき、これら二つの意味が同時に含まれていることが多い。というのもたいていの場合、上記の保守的な諸原理は、まさに原理であって法準則ではないが故に、裁判所が尊重すべき他の実質的諸原理によってはもはやコモン・ローの法準則や古くからの制定法が支持されえないとき、これらの法準則や制定法を救えるほど十分には強力でないからである。もちろん、上記二つの意味のいずれにおいても、原理や政策の総体は法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),p.36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則の拘束力を支える諸原理,立法権の優位の理論,先例の理論)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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8.問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影の問題

【問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
 (1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。
 (1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないような議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。

 「ある法的ルールが公園の中で乗物に乗ることを禁じている。

明らかにこれで自動車は禁じられているが、では、自転車、ローラースケート、玩具の自動車はどうだろう。飛行機はどうだろう。

このルールの目的からして、ここに挙げたこれらのものは、「乗物」と呼ばれるのか呼ばれないのか。

もし私たちが互いに意志を疎通させようとし、そして、最もありふれた形式の法におけるように、特定の種類の行為がルールによって規制されるべきだという意志を表明しようとするならば、私たちの使用する――私の挙げた例の中の「乗物」のような――一般的言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。中核的な確固とした意味がなければならない。

だが、また同時に、言葉が明らかに適用できるとも適用できないともいえないような議論の余地を持ったケースという半影の部分も存在する。

このようなケースはそれぞれ、標準的なケースと共通のいくつかの特徴を持つであろう。

人間の創意工夫と自然な過程をたどって、既知のものの上にこのような変種が次第に積み上げられてゆく。

そして、もしこれらの範囲の事実は既に存在するルールの下に入るか否かを答えなければならないならば、その分類をする者はあるがままにではなく自らが決定を下さなければならない。

というのも、私たちが言葉をあてはめ、ルールを適用する事実や現象は、言わば、《沈黙を守っている》からである。玩具の自動車が声を上げて、「この法的ルール目的からすれば私は乗物である」などと言うことはあり得ないし、左右一組のローラースケートが「私たちは乗物ではない」と声を揃えて言うこともあり得ない。事実状況は私たちがうまく名付け、折り目をつけ、畳むのを待ってはくれない。

まして、法的な分類が裁判官にすぐに読めるように事実状況の上に書かれてあるなどということはない。

そうではなくて、法的ルールを適用する際には、言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。標準的なケースという強固な核、ないし、確固とした意味の外で生じる問題を「半影の問題」と呼んでもいいかもしれない。

公園の使用といった些細なことに関してであれ、憲法の多次元的一般性に関してであれ、この問題は常に付きまとう。

もし不確実な半影がすべての法的ルールを取り囲んでいるならば、半影部分にある特定のケースへの法的ルールの適用は論理的演繹の問題にはならず、したがって演繹的推論は、何世代にもわたってまさに完璧な人間の推論であるとして賞賛されてきたが、裁判官が、また実際誰であれ、一般的なルールの下に具体的なケースをもってくる際にすべきことのモデルとしては役に立たないことになる。

そこでは演繹だけでは十分ではない。

そして、半影の問題について法的議論と法的決定とが合理的であろうとするならば、その合理性は前提との論理的関係以外のものの中にあることになる。

したがって、このルールの目的からして飛行機は乗物ではないと議論し決定することが合理的、ないし、「もっとも」であるならば、この議論は、論理的に確定的でなくとも、もっともで合理的であることになる。

では、このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.72-73,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影の問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月26日金曜日

互いの協力によって成立している集団における「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持ち、代価を支払っても処罰しようとする。このような、人間が持つ向社会的処罰の傾向は、集団内の互いの協力を高める。(エルンスト・フェール(1956-))

向社会的処罰者

【互いの協力によって成立している集団における「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持ち、代価を支払っても処罰しようとする。このような、人間が持つ向社会的処罰の傾向は、集団内の互いの協力を高める。(エルンスト・フェール(1956-))】

「公共財ゲーム」という実験での検証結果である。
(1)「ただ乗り者」を罰する機会がない場合
 (1.1)最初は、ほとんどの人が協力的である。
 (1.2)次第に、ただ乗り者が現れる。
 (1.3)協力的な参加者は、自分がカモになっていることを知ると、次第に協力しなくなっていく。
 (1.4)最後には、協力する者がほとんどいなくなる。
(2)「ただ乗り者」を罰する機会がある場合
 (2.1)ただ乗り者を罰するには、自ら代価を支払わなければならないにもかかわらず、処罰者が現れる。
 (2.2)そして、全体の協力の度合が高くなる。
 (2.3)また、ゲームに罰が取り入れられると、実際に誰かが罰を下す前に、協力が高まる。すなわち、自身には何の得もないにもかかわらず処罰者が現れるという予想を、参加者は持っている。
(3)人は、向社会的処罰者である。
 (3.1)互いの協力によって成立している集団において、自らは協力しないで利益を得る「ただ乗り者」に対して、人は怒りの感情を持つ。
 (3.2)怒りは、自分には何の得もなく、むしろ代価を支払わなければならない状況においても、「ただ乗り者」を処罰するという行動へと、人を動機づける。
 (3.3)処罰するという行動の可能性は、集団内での協力を高める。
 (3.4)集団内の協力が高まることで、他の集団を打ち負かすのを助けることになる。

(出典:wikipedia
エルンスト・フェール(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
エルンスト・フェール(1956-)
検索(Ernst Fehr)
 「研究室で行なわれた多数の実験により、人が実際に向社会的処罰者であることが確認されている。こうした実験でもっとも有名なのが、エルンスト・フェールとシモン・ゲヒターがいわゆる「公共財ゲーム」を使って行なった実験だ。これは、「コモンズの悲劇」とよく似た多人数版の「囚人のジレンマ」だ。参加者は全員、ゲームの冒頭で決まった額のお金を受け取り、いくつかのグループに分けられる。参加者は一ラウンドごとに共同資金として一定金額を出資する。共同資金に預けられたお金は実験者によって何倍かに増やされてから、参加者に均等に分配される。誰がいくら出資するかはわからないようになっている。
 この場合、集団としての合理的行動は、参加者全員が所持金を全額共同資金に出資するというものだ。そうすれば、実験者によって増やされるお金の総額が最大になり、集団全体の取り分も最大化される。」(中略)「ところが、個人としての合理的行動は(利己主義者だったら)、まったく出資しない――つまり、他の参加者の出資金に「ただ乗り」するというものだ。ただ乗り者は、最初に受け取ったお金をまるまる手元に残し、なおかつ共同資金の分け前にもあずかれる。この場合、ただ乗り者がひとりで三人が協力的であれば、ただ乗り者は25ドルの純益を得るが、残りの人は各自たった5ドルの純益しか得られない。公共財ゲームのただ乗り者は、「囚人のジレンマ」での裏切りや、「コモンズの悲劇」で羊を「好きなだけ増やす」行為と似ている。
 公共財ゲームをくり返すと次のようなパターンが見られる。ほとんどの人が最初は協力的で、少なくとも所持金の一部を共同資金に出資する。しかししだいに、ただ乗りをする人が現れる。共同資金への出資額を減らしたり、お金をまったく出さなくなったりするのだ。協力的な参加者は、自分がカモになっていることを知ると、出資額を減らしたり、出資をやめたりする。ラウンドを重ねるごとに出資額が減り、「うんざりだ」という参加者が増え、出資金はかぎりなくゼロに近づく。悲劇だ。」
 「ところが、協力的参加者にただ乗り者を罰する機会を与えると、状況が変化する場合が多い。この場合の罰は「代価を伴う罰」で、誰かの取り分を減らすためにいくらか支払わなくてはならない。たとえば、次のラウンドで、ひとりが1ドル支払うと、ただ乗り者の取り分が4ドル減る。これは経済的に誰かの頭をゴツンと殴ることに相当する。実験者が、ただ乗り者を罰する機会を与えると、通常、共同資金の額は増える。重要な点は、処罰者が罰から何も得るものがなく、全員がそれを承知していても、この現象が起きることだ。それだけではない。ゲームに罰が取り入れられると、即座に、誰かが実際に罰を下す前に、協力が高まる。つまり、ただ乗りしようと考えている人が、ただ乗りすると、自分を罰したところで(物質的に)何の得もない人々にまで罰せられると予測するわけだ。
 《なぜ》私たちは向社会的処罰者なのか? これについてはさかんに議論されている。ある人たちは、向社会的処罰は、直接互恵と評判管理に向って人類が進化させた性向のたんなる副産物だという。私たちは、協力しあう未来が築けそうにない相手を罰する。それは私たちの脳が、すべての人は協力のパートナーであり、誰かがつねに見張っているかもしれないと自動的に思い込んでいるからだ。小規模な狩猟採集集団で暮らすぶんには、不合理な思い込みではない。またある人たちは、向社会的処罰は、生物学的選択や文化選択を通して集団レベルで進化したという。向社会的処罰は集団にとってよいものであり、向社会的に処罰を与えることで、その人は、自分の集団が他の集団を打ち負かすのを助けているというのだ。これはたいへん興味深い議論ではあるが、自分の立場をはっきりさせる必要はない。本書の目的にとって重要なのは、向社会的処罰が生じるということと、それが現在よく知られている心の特徴に合致するということだ。
 予測されるように、向社会的処罰は情動によって引き起こされる。フェールとゲヒターは参加者に、ただ乗りをした人にもし実験室の外で会うことがあったら、その人についてどう感じると思うかを尋ねた。ほとんどの人は、怒りを感じると思うと言い、立場が逆だったら怒りは《自分たちに》向けられるだろうと言った。このあきらかに道徳的な怒りを《義憤》と呼ぼう。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.76-78,竹田円(訳))
(索引:向社会的処罰者)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

諸原理は「法」か?

【法準則が時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて修正されていく現象を、どのように理解するか。裁判官は、法に内在する諸原理によって導かれているのか、法外在的な規準を自由に選択して決定しているのか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1.c.1)~(1.c.2)追記。

 (1.c)難解な事案において、法的権利義務は判決以前にも所与として既に存在しているはずであり、裁判官は拘束力ある法的規準を適用して、その権利義務を明らかにする。
  (1.c.1)まず、次の事実が存在する。上級裁判所は、既存の法準則を否定することもある。法準則は、時代と共に解釈、再解釈を受け、発展を通じて根本的に修正されていく。いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。
  (1.c.2)諸原理が「法」であるならば、法準則と諸原理の総体的な体系の中で、当該の法準則の変更が、他の原理に比較して一層重要なある原理を促進すると判断されたと考えることができる。これは、無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定し得ることとは異なる。

 「アメリカの多くの法域において、また現在ではイギリスにおいても、上級裁判所が既存の法準則を否定することは決して稀なことではない。コモン・ローの法準則――これらは過去の裁判所の判決を通じて発展したものであるが――は、しばしば端的に否定され、あるいは更なる発展を通じて根本的に修正されていくことがある。また制定法上の法準則も解釈、再解釈をうけ、場合によっては解釈が結果的にはいわゆる「立法者意思」を無視する場合でも、これは認められている。もし裁判所が既存の法準則を修正する裁量を有するのであれば、当然これらの法準則は裁判所を拘束していないことになり、実証主義モデルでいう法とは言えなくなるだろう。それ故実証主義者は、裁判官をそれ自体で拘束するある種の規準の存在、つまりいかなる場合に裁判官は既存の法準則を否定ないし修正しえて、いかなる場合にこれが不可能かを規定する規準の存在を論証しなければならない。
 それでは、いかなる場合に裁判官には既存の法準則の変更が許されるのだろうか。この問いへの返答において、原理が二つの仕方で登場してくる。第一に、裁判官は法準則の変更がある原理を促進すると判断することが必要――十分とは言えないまでも――であり、この場合、当の原理は法準則の変更を正当化することになる。リッグス事件における法準則の変更(遺言規定の新解釈)は、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない、という原理によって正当化され、ヘニングセン事件においては、自動車製造業者の責任に関し従来まで認められていた法準則が、裁判所の意見の中から私が引用した上記の諸原理を正当根拠として、修正されたのである。
 しかし、どのような原理でも法準則の変更を正当化しうるわけではない。さもなければ、あらゆる法準則が常に変更されうるという不安定な状態におかれてしまうだろう。法準則を変更しうるほど重要な原理とそうでない原理があるはずであり、更に前者の原理でも、他の原理に比べて一層重要なある種の原理が存在するはずである。しかしこれは、基本的にはいずれも採用される資格があり考慮に値する無数の法外在的な規準の中から、裁判官が自ら自由に選択しつつ決定しうることではない。もしそうだとすれば、いかなる法準則も拘束力を有するとは言えなくなるからであり、裁判官が法外在的な規準を選択する仕方によっては、最も確固とした法準則に関してでさえ、修正や根本的再解釈が正当化されてしまうことが常に予想しうるからである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,5 裁量,木鐸社(2003),pp.35-36,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理,法)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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