2018年9月23日日曜日

宇宙の始めと遥か未来の状態の共通点:(1)質量のない粒子のみ存在する、(2)粒子にとって時間経過が無限に遅くなる、(3)局所的なスケール変化の影響を受けない、(4)始めと無限の未来の「向こう側」への時空の拡張可能性。(ロジャー・ペンローズ(1931-))

ビッグバン直後と遥か未来の宇宙の状態

【宇宙の始めと遥か未来の状態の共通点:(1)質量のない粒子のみ存在する、(2)粒子にとって時間経過が無限に遅くなる、(3)局所的なスケール変化の影響を受けない、(4)始めと無限の未来の「向こう側」への時空の拡張可能性。(ロジャー・ペンローズ(1931-))】

(1)ビッグバン直後の宇宙の状態
ビッグバンの直後は極めて高温で、すべての粒子が事実上、光子のように質量がゼロと考えてもいいような時空構造であったと考えられる。この構造では、局所的なスケール変化の影響を受けない。(ロジャー・ペンローズ(1931-))

(2)はるか未来の宇宙の状態
指数関数的な膨張が続く宇宙の未来は、宇宙マイクロ波背景放射とホーキング放射による光子、重力子、そして恐らく大量の「ダークマター」から構成され、局所的なスケール変化の影響を受けない構造となる。(ロジャー・ペンローズ(1931-))
(3)ビッグバン直後の宇宙の状態と、はるか未来の宇宙の状態に共通する性質
 (3.1)宇宙には、質量のない粒子しか存在しなくなる。
 (3.2)時間の経過が意味を持つためには、静止質量をもつ粒子が必要である。質量のない粒子にとっては、時間の経過が無限に遅くなる。すなわち、質量のない粒子は、その内なる時計が最初の時を刻む前に、宇宙においては永遠の時間が経過する。「永遠なんて、たいしたことじゃない」のである!
 (3.3)質量ゼロの粒子は、時空の計量がどのようなものであるかにあまり関心がなく、局所的なスケール変化の影響を受けない構造となる。
 (3.4)理論的には、ビッグバン超曲面をビッグバンの前、「向こう側」までなめらかに拡張することを許容しているように思われる。また、正の宇宙定数Λがあるときには、はるか未来の宇宙の時空を、無限の「向こう側」の未来方向に拡張できることが、数学的に強く支持されている。

 「私はずっと、このような考えに鬱々としていたが、2005年の夏のある日、別の考えが頭に浮んだ。それは「宇宙が永遠の単調さに支配されたとき、そのことを退屈に感じる存在があるのだろうか?」という自問だった。その頃にはもちろん、われわれは存在していない。存在しているのは主として、光子や重力子のような質量のない粒子だろう。こうした粒子が意味のある経験をすることなどありえないが、たとえ光子や重力子がなにかを経験することができたとしても、彼らを退屈させるのは非常に難しい! なぜなら、質量のない粒子にとっては、時間の経過などなんでもないからだ。図2-22に示したように、質量のない粒子は、その内なる時計が最初の時を刻む前に永遠(つまりI+)に到達してしまう。だから、光子や重力子のような質量のない粒子にとっては、「永遠なんて、たいしたことじゃない」のである!
 換言すると、時計をつくるためには静止質量をもつ粒子が必要であるようだ。そのため、遠い未来に、静止質量をもつ粒子がほとんどなくなってしまったとしたら、時間の経過を測定できなくなってしまう(同時に、距離の測定もできなくなる。距離の測定も、時間の測定に依存しているからだ。第9章参照)。さきほども述べたように、質量ゼロの粒子は時空の計量がどのようなものであるかにあまり関心がなく、その共形(またはヌル円錐)構造しか尊重していないようである。それゆえ、質量ゼロの粒子にとって、最終的な超曲面I+は、ほかの領域と特に変わりない共形時空の一領域にすぎず、この共形時空をI+の「向こう側」まで拡張できると仮定したとき、粒子がそこに入っていくことを禁じていないように見える。さらに、ヘルムート・フリードリヒの重要な研究などにより、ここで考察したような一般的な状況において、正の宇宙定数Λがあるときには、時空を未来方向に共形的に拡張できることが数学的に強く支持されている。
 われわれはトッドの提案にもとづいてビッグバン超曲面での物理学について議論したが、その主旨はこれと同じだ。I+もB-も(それぞれ異なる理由により)、共形時空をこれらの超曲面の「向こう側」までなめらかに拡張することを許容しているように思われる。それだけではない。超曲面の両側にある物質は、本質的に質量がない物質であるかもしれない。そうした物質の物理的なふるまいは、基本的に共形不変な方程式に支配されるため、物質の活動は(共形)時空の仮説的な拡張部分のどちらの側にも続いていくことができるだろう。」
(ロジャー・ペンローズ(1931-),『時間のサイクル』(日本語名『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』),第3部 共形サイクリック宇宙論,第13章 無限とつながる,新潮社(2014),pp.172-173,竹内薫(訳))
(索引:ビッグバン直後の宇宙,未来の宇宙)

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか


(出典:wikipedia
ロジャー・ペンローズ(1931-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「さらには、こうしたことがらを人間が理解する可能性があるというそのこと自体が、意識がわれわれにもたらしてくれる能力について何らかのことを語っているのだ。」(中略)「「自然」の働きとの一体性は、潜在的にはわれわれすべての中に存在しており、いかなるレヴェルにおいてであれ、われわれが意識的に理解し感じるという能力を発動するとき、その姿を現すのである。意識を備えたわれわれの脳は、いずれも、精緻な物理的構成要素で織り上げられたものであり、数学に支えられたこの宇宙の深淵な組織をわれわれが利用するのを可能ならしめている――だからこそ、われわれは、プラトン的な「理解」という能力を介して、この宇宙がさまざまなレヴェルでどのように振る舞っているかを直接知ることができるのだ。
 これらは重大な問題であり、われわれはまだその説明からはほど遠いところにいる。これらの世界《すべて》を相互に結びつける性質の役割が明らかにならないかぎり明白な答えは現れてこないだろう、と私は主張する。これらの問題は互いに切り離し、個々に解決することはできないだろう。私は、三つの世界とそれらを互いに関連づけるミステリーを言ってきた。だが、三つの世界ではなく、《一つの》世界であることに疑いはない。その真の性質を現在のわれわれは垣間見ることさえできないのである。」

    プラトン的
    /世界\
   /    \
  3      1
 /        \
心的───2────物理的
世界         世界


(ロジャー・ペンローズ(1931-),『心の影』,第2部 心を理解するのにどんな新しい物理学が必要なのか,8 含意は?,8.7 三つの世界と三つのミステリー,みすず書房(2001),(2),pp.235-236,林一(訳))

ロジャー・ペンローズ(1931-)
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信号の無意識の検出を示す例:例えばアスリートたちの、感覚信号に対する迅速な運動反応は、信号への気づきの前に起こる。感覚信号を、後続する刺激でマスキングした場合にも、反応時間が同じ可能性がある。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

信号の無意識の検出

【信号の無意識の検出を示す例:例えばアスリートたちの、感覚信号に対する迅速な運動反応は、信号への気づきの前に起こる。感覚信号を、後続する刺激でマスキングした場合にも、反応時間が同じ可能性がある。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

信号の無意識の検出を示す例
(1)感覚信号に対する迅速な運動反応は、信号の100~200ms後に起こり、信号への気づきはその後に続く。
 (1.1)偉大なアスリートたちは概して、意識的な心に妨げられることなく、彼らの無意識の心に主導権を委ねている。
 (1.2)「芸術・科学・数学といったすべての創造的なプロセスにもこれがあてはまる」。
(2)反応時間を測定している最初の信号に引き続き、遅延したマスキング刺激を与えることで、最初の信号への気づきをマスキングする。この場合でも、「与えられた信号への反応時間は同じである可能性があることが示されて」いる。

 「(4) 感覚信号に対する迅速な行動、すなわち運動反応は、すべて無意識に行なわれています。これらは、信号の100~200ミリ秒後から、信号へのアウェアネスが生じるよりはかなり前までの間に起こり得る反応です。スポーツの中でも多くの活動がこのカテゴリにあてはまります。プロのテニス選手は、時速100マイル(約160キロ)の軌跡の曲がったサーブに反応しなければなりません。こうしたプロの選手たちは、対戦相手のサーブの動きのパターンを自覚していると報告しています。しかし、サービスリターンを打ったときのボールの位置については、彼らは即座には自覚していません。」(中略)「偉大なアスリートたちは概して、意識的な心に妨げられることなく、彼らの無意識の心に主導権を委ねることができる、と付け加えてもよいでしょう。迅速な反応について「考える」(自覚する)ようにすると、あまりうまくいかなくなるとアスリートたちは言います。実のところ、芸術・科学・数学といったすべての創造的なプロセスにもこれがあてはまるというふうに一般化したいと私は考えます。
 信号への迅速な反応は、反応時間(RT)の研究によって定量的に測定できます。RT研究において実際の反応は無意識に行なわれ、信号へのアウェアネスはその後に続くと推測されています。実際、信号へのアウェアネスが完全に消されている場合でも、与えられた信号への反応時間は同じである可能性があることが示されています。このアウェアネスの消失は、反応時間を測定している最初の信号に続く遅延したマスキング刺激を与えることで引き起こすことができます(テイラーとマックロスキー(1990年))。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.127-129,下條信輔(訳))
(索引:信号の無意識の検出)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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21.私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(カール・ポパー(1902-1994))

私以外のものが存在すること

【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(カール・ポパー(1902-1994))】

参照: 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 「他人の心の問題をめぐる議論は、近年、主として認識論の用語のもとで果てしなくつづいている。

それらの議論をすべて読んだわけではないので、他人の心の存在を擁護したわたくしの単純な議論をほかの人がすでに使っていたということもありえないわけではない(たぶんないと思うが)。

だが、その議論には十分満足している――というのもおそらく、この種の研究では、いつにせよどんな議論も決定的ではありえないと思われるからである。

 わたくしの議論とはこうである。

わたくしは、バッハやモーツァルトの音楽を自分で作曲したのではないし、またレンブラントの絵やボッティチェリの絵を自分で描いたわけでもないことを知っている。そんなことができるわけがない。わたくしには、そのようなことをする才能のかけらさえない。」(中略)

「しかし独我論の仮説ではこれらの創造物はみな、わたくし自身の夢の創造物となってしまう。それらは、みずからの想像力がうみ出した産物ということになろう。なぜなら、他人の心などないというのだから。

自分の心のほかにはなにもないというわけである。だがこれが真実でないのはわかりきっている。

 この議論は、もちろん決定的ではない。わたくしは、ことによると夢のなかで自分自身を過小評価(そして同時に過大評価)しているのかもしれない。
換言すれば、創造と言う範疇を適用してはいけないのかもしれない。

そうしたことはよくわかる。それにもかかわらず、以上の議論でまったく十分だと思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,7 形而上学的実在論,(上),pp.120-121,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:私以外のものが存在すること)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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7. 2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

2種類の《我》:個我と人格

【2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

2種類の《我》
(1)個我
 (1.1)相手を《それ》として捉える《我》は、自分自身も《それ》として捉え、相手と自己とを経験し、利用する対象として意識する。
 (1.2)その結果、「私とは、このような人である」と、個我は言う。個我は、その我が物を拠り所とする。我が流儀、我が民族、我が創造、我が天分など。
 (1.3)《汝自身を知れ》は、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。自己認識とは、自分のために自ら仕立てあげた虚構、自己幻像であり、個我は、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得し、自己の特殊性を享受する。
 (1.4)その結果、個我は、自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまう。
(2)人格
 (2.1)相手に《汝》として出会う《我》は、自分自身を、《汝》との関係における全体的な主体として意識する。
 (2.2)その結果、「私は、存在する」と、人格は言う。人格は、自己がいかなる存在であるかを直視する。
 (2.3)《汝自身を知れ》は、人格にとっては《汝を存在として知れ》ということを意味する。人格は、自己の存在の特殊性、別異性を放棄してしまうわけではない。それは必要で重要である。しかし、個我とは異なり、この特殊性を拠り所として人格が存在しているのではない。
 (2.4)その結果、人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として意識し、そして、共に存在しているからこそ存在していることを知る。

 「根元語・《我-それ》における《我》は個我(Eigenwesen)として発現し、自己を(経験と利用との)主体として意識する。


 根元語・《我-汝》における《我》は人格(Person)として発現し、自己を(隷属的な属格を持たぬ)主体性として意識する。」(中略)

 「人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として、そして、だからこそ存在しているものとして意識する。

個我は自己を、《かく在り-それ以外の仕方では存在していないもの》(ein so-und-nicht-anders-seiendes)として意識する。

人格は言う、《我は在る》と。しかし個我は言う、《我はかく在る》と。

《汝自身を知れ》は人格にとっては、《汝を存在として知れ》ということを意味し、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。

個我は自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまうのである。

 といっても、人格は自己の存在の特殊性を、別異性を《放棄》してしまうのだなどというわけではない。人格にとっては、この特殊性はただ、人格がそれを拠り所とする視点ではないだけである、……それはただそこにあるもの、ただ存在を縁取っている必要にして重要な枠にほかならない。

個我はそれに反して、自己の特殊性を享受する。いやむしろ個我は多くの場合、自己が特殊であるという、自分のためにみずから仕立てあげた虚構を享受するのである。なぜなら、自己認識とは個我にとって実はたいていの場合、ひとつのもっともらしい、そして自分自身をもますます徹底して欺くに足るほどの自己幻像を作り出すことを意味し、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得することを意味しているからである。

が、自己がいかなる存在であるかを真に認識するなら、個我は自己破壊か――さもなくば再生へとみちびかれることになるであろう。

 人格は自己の本体を直視する。
個我はその《わが物》(Mein)とかかりあう、――わが流儀、わが民族、わが創造、わが天分などと。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.84-87、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:個我,人格)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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12.言語による思考以外にも、より広義の「思考」が存在する。思考とは、感覚が編み合わされて、極めて洗練されたものではないだろうか。例として、皮膚感覚による思考。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

皮膚感覚による思考

【言語による思考以外にも、より広義の「思考」が存在する。思考とは、感覚が編み合わされて、極めて洗練されたものではないだろうか。例として、皮膚感覚による思考。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)言語による思考以外にも、より広義の「思考」が存在する。思考とは、感覚が編み合わされて、極めて洗練されたものではないだろうか。
(2)例。
 視覚による思考、「線と形」による思考、幾何学
 聴覚(音)による思考、音楽
 皮膚感覚(触覚、温覚、冷覚、痛覚)による思考
(3)より広義の「思考」が存在するにしても、「論理的諸形式は、感官知覚の生理学的諸法則なのである。」は、誤りである。次の命題を参照せよ。(未来のための哲学講座)
「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

 「私たちの《思考する働き》は、ほんとうは、《見たり、聞いたり、感得したりする働き》が編み合わされてきわめて洗練されたかたちをとったもの以外の何ものでもない。論理的諸形式は感官知覚の生理学的諸法則なのである。私たちの諸感官は強力な反響と反映をともなった発達した感覚中枢なのである。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 二一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.22、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思考)

 「目というものがあったよりずっと以前に、思考がなされていたにちがいない。

それゆえ、「線と形」が最初に与えられているのではなくて、触感にもとづいてずっと以前から思考がなされていたのだ。

しかしこのことは、目によってささえられること《なしに》、圧迫感の程度を教えるのであって、まだ形を教えはしない。

それゆえ、世界を運動するもろもろの形として理解する修練に先立って、世界が可変的なさまざまの程度の圧迫感覚として「把握され」た時代があるのだ。

形象において、また音調において思考がなされうるということは、なんの疑いもないことだ。だが圧迫感においてもまたそうなのだ。強度と方向と継起とに関する比較、想起等々。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一八七、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.113-114、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思考,皮膚感覚による思考)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月22日土曜日

6.人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

恣意によることのない行為

【人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

恣意によることのない行為における関係の役割
(1)人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。
(2)そして人間は、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。
(3)あの《汝》は、絶えず常に歩み寄り、自らに触れている。あの《汝》の生命と生きた交わりを持つことは、精神が死に絶えぬために必要なのである。あの《汝》は、自らが何であらねばならぬかではなく、真に生きるということが、いかなるものであるかを語る。
(4)自らが所持している知識、書庫の中の言葉、律法、法典が、あの《汝》との関係性ではない。関係における応答で、律法は成就されることもあれば、破られることもある。
(5)たっぷり心理学が混ぜこまれている崇敬などが、あの《汝》との関係性ではない。

(再掲)
一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。

 「そして第三に、認識の精神や、芸術の精神よりも上位にあるものとして、人間存在の純粋な活動を、恣意によることのない行為をあげることができる。

なぜなら、ここでは無常な、肉体をそなえた人間が、より永続性のある質料に自己を刻印する必要はなく、みずからが作品となり、そのような質料よりも永続的な存在として、みずからの生きた言葉の音楽にかこまれつつ精神の星空に上昇してゆくのだから。

かつて深い秘密のなかから《あの汝》が人間のまえに出現したのも、このようなときであった。あの《汝》は、幽暗のうちよりみずから人間にむかって語りかけ、そして人間は彼の生命でもって答えたのだ。

このようなときに言葉はくり返し生命となったのである。

そしてこのような生命こそが、たとえそれが律法を成就したものであれ、あるいは破ったものであれ――律法を成就することも破ることも、どちらも、精神がこの地上で死に絶えぬためには必要なのだ――いまなお生きている《教え》なのである。

こうして後代の者たちのまえにこの教えとしての生命は立っているのだ。

彼らが何であり、また何であらねばならぬかを教えるためにではなく、精神のなかで、また、あの《汝》の顔前において生きるということがいかなるものであるかを教えるために。

そしてそれはまた、あの生命が彼らにたいしてみずから《汝》となり、彼らにたいして《汝》の世界をあけ放とうとして待機しているということなのだ。

いや、待機しているのではない、それは絶えずつねに彼らに向って歩みより、彼らに触れているのだ。

彼らはしかし、《汝》の世界をあけ放つ生命と生きた交わりを持とうとする気もなく、またその交わりにふさわしくもないものになってしまっている。

彼らはそのかわりに知識に通じているのだ。彼らは人格たる人間を歴史のなかに、そして彼の語った言葉を書庫のなかに閉じこめ、律法の成就であれ律法にたいする背反であれ、ひとしなみに法典に編みこんで所持しているのである。

しかも彼らは、近代人にふさわしく、たっぷり心理学が混ぜこまれている崇敬や、さらには拝跪にかけては惜しみもない。

おお、暗やみのなかの星のように孤独な《あの汝》の顔、おお、鈍感なひたいのうえにおかれている生ける指、おお、次第にひびき消えてゆく足音!」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.56-57、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:恣意によることのない行為)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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11.夢は、真の実在の仮象である現実の、さらに高次の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

仮象への憧憬

【夢は、真の実在の仮象である現実の、さらに高次の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)目覚めているときの現実
 (1.1)一見これのみが、重要かつ貴重であり、生きるに値するもののように思われる。
 (1.2)一方、人間はこの世界を、時間と空間の中における不断の生成として感じている。
(2)夢みているとき
 (2.1)夢みる者が夢の世界の幻想のただなかにあってその幻想を打ち壊すことなく、「これは夢だ、夢ならばさらに見続けてくれよう」とわが身に呼びかける、このような深い内的な歓喜が存在する。
 (2.2)これは仮象への憧憬、仮象による救済への熱烈な憧憬、何ものにもまして強力な芸術衝動である。
(3)一つの仮説。真実の存在者にして根源的一者たるものは、永遠に悩めるもの、矛盾に満てる者として、恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を、自己の絶えざる救済のため必要としているのではないか。
 (3.1)目覚めているときの現実
  (3.1.1)時間と空間の中における不断の生成としての現象は、真の実在の一瞬ごとに作られる仮象であり、私たちは完全に仮象に囚われているのではないか。
 (3.2)夢みているとき
  (3.2.1)夢は、真の実在の仮象である「現実」の、さらに高次の仮象、仮象の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。

 「この素朴的芸術家に関しては、夢の類比がわれわれに若干の教示を与える。

夢みる者が夢の世界の幻想のただなかにあってその幻想を打ち壊すことなく、「これは夢だ、夢ならばさらに見続けてくれよう」とわが身に呼びかける情景をわれわれが想像するならば、

またわれわれがそのことから、夢を観照することの深い内的な歓喜を推論しなければならないとすれば、

他面またわれわれが、そもそも観照にたいするこの内的な歓喜をもって夢み得んがためには、白昼とその怖るべき執拗さを完全に忘れ果てていなければならないとしたら、

われわれはこれらすべての現象を夢を占うアポロンの導きの下にあるいは、次のように解釈することもできよう。

たしかに生の両半、すなわち目覚めている一半と夢みている一半のうち、前者の方が比類なく優れており、重要かつ貴重であり、生きるに値するもの、否、これのみがわれわれの生きるものであるかのようにわれわれには思われるのであるが、

それにもかかわらず私は、いかに逆説のごとく見えようとも、われわれの本質―――その現象がわれわれである―――のかの神秘に満ちた根底にたいしては、これと反対に夢を評価することをまさに主張したいのである。

すなわち、私が自然のなかに、かの何ものにもまして強力な芸術衝動を、またこれらの衝動のなかに、仮象への、仮象による救済への熱烈な憧憬を認めれば認めるほど、ますます私は次のごとき形而上学的仮説を否応なく認めざるを得ないことを感ずるのである、

すなわち、真実の存在者にして根源的一者たるものは、永遠に悩めるもの、矛盾に満てる者として、恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を同時に自己の絶えざる救済のため必要とする、という仮説である。

しかるにこの仮象を、完全に仮象に囚われ仮象より成るわれわれは、真実の非存在者として、すなわち、時間、空間、および因果性のうちにおける不断の生成として、換言すれば、経験的実在として感ぜざるを得ない。

それ故、われわれが一旦われわれ自身の「実在」を一瞬不問に付すならば、そしてわれわれの経験的存在を、世界一般の存在と同様、根源的一者の、一瞬毎に作られる表象として把握するならば、今やわれわれは夢を、《仮象の仮象》と、従って仮象への根源的欲求のさらに高次の満足と見做さねばならない。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『音楽の精神からの悲劇の誕生』四、ニーチェ全集2 悲劇の誕生、pp.48-49、[塩屋竹男・1994]) (索引:仮象への憧憬,アポロン)

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月21日金曜日

10.自我は唯一の個体というよりも、経済的、社会的な諸関係から習慣化された一切の善き、また悪しき諸衝動によって、細かく分裂させられた「数多性」の状態で存在している。それは、社会的な修練の場、闘争の場である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

社会的衝動と自我の数多性

【自我は唯一の個体というよりも、経済的、社会的な諸関係から習慣化された一切の善き、また悪しき諸衝動によって、細かく分裂させられた「数多性」の状態で存在している。それは、社会的な修練の場、闘争の場である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)私たちが把握し、承認し、また夢みてしまった一切の存在者は、私たちの内へと受け入れられ、縮小して移し入れられる。
 (1.1)物理的、自然的な事物(オリーブの木々や暴風雨)
 (1.2)経済的、社会的な諸関係(財布や新聞)、社会的に習得したもの、「社会」
 (1.3)宇宙、神
 (1.4)その他、名称のないもの
(2)経済的、社会的な諸関係は、友情、敵意、嫉妬、憎悪、復讐のような社会的な諸衝動へと習慣化される。
(3)この結果、自我は唯一の個体というよりも、一切の善き、また悪しき、習慣化した諸衝動が存在し、細かく分裂させられ、言わば常に「数多性」という状態で存在しており、社会的な修練の場、闘争の場のようになっている。
 (3.1)私についての思考、善き衝動、悪しき衝動
 (3.2)他者についての思考、善き衝動、悪しき衝動
(4)人がおのれの殻に閉じこもるのは、社会からの逃避ではなくて、しばしば、おのれの諸事象を以前の諸体験の図式に従って綿密に夢み続けて解釈することである。

 「私たち自身に対する私たちの関係! それを《エゴイズム》と言ってみたところで全然《なんの》意味も《ない》。

私たちは、一切の善き、また悪しき、習慣化した諸衝動をおのれへと向ける。おのれについての思考、おのれのための、またおのれに逆らう感覚、私たちのうちなる闘争―――私たちはおのれをけっして個体として取り扱わないで、二元性や数多性として取り扱うのだ。一切の社会的な修練(友情、復讐、嫉妬)を私たちは正直におのれに施すのである。

動物の素朴なエゴイズムは私たちの《社会的な習得》によってまったく改変されている。つまり、私たちはもはや自我の唯一性というものを全然感ずることができず、《私たちはつねに或る数多性という状態で存在しているのだ》。

私たちはおのれを細かく分裂させてしまっており、またおのれをつねに新たに分裂させる《社会的な諸衝動(敵意、嫉妬、憎悪のような)》(それらは或る数多性を前提する)が私たちを変化させてしまった、つまり、私たちは「社会」を私たちの内へと移し入れ、縮小してしまったのであり、

そしておのれの殻に閉じこもるのは社会からの逃避ではなくて、しばしば、おのれの諸事象を以前の諸体験の図式にしたがって綿密に《夢みつづけて解釈する》ことなのだ。

神のみならず、私たちが承認する一切の存在者を、私たちは、名称なしですら、私たちの内へと受け入れる、つまり、私たちは、《私たちが宇宙を把握しあるいは夢みてしまったかぎり》、宇宙なのだ。

オリーブの木々や暴風雨は私たちの一部分となってしまったのであり、財布や新聞も同様なのだ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 三六〇、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.210、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:自我の数多性,社会的衝動)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月20日木曜日

9.ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

快と不快

【ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)快と不快の起源は、知性の中枢部のうちにある。
 (1.1)力の劣った者には危険であり防衛の必要ありと見えるその同一のものが、力の極めて充実している者の意識にあっては情欲をそそる刺戟であり、結果として快感を伴い得るのである。
 (1.2)すなわち、知覚されたある対象や諸変化の状況が秩序付けられ、諸分類に包摂され、意欲されている目標のための手段として好ましいのか、好ましくないのかが算出され、推理され判断される。
 (1.3)これら知性のうちの全ての根拠づけや論理性が放棄され、判断における肯定と否定が、激情的な所有欲や拒絶へと還元され、簡約化される。
(2)すなわち、意欲されている目標、意志の反作用として快と不快の欲情が発生し、知性における中心すなわち判断が、快と不快として表現され、総体的価値へと固定される。同時に快と不快は、意欲された目標や知性における判断への逆作用を持つ。
(3)快と不快は、総体的有用性、総体的有害性を示す命令法であり、紛れもない有用性を持つ。

 「「不快」と「快」は考えうる最も愚劣な判断の《表現手段》である。

このことはもちろん、ここでこうした仕方で表明される判断が愚劣であるにちがいないということを言うものではない。

すべての根拠づけや論理性の放棄、激情的な所有欲や拒絶へと還元された肯定や否定、まぎれもない有用性をもつ命令法での簡約化、すなわちこれが快と不快である。

その起源は知性の中枢部のうちにあり、その前提は、限りなく加速度を加えられた知覚、秩序、包摂、算出、推断のはたらきのうちにある。すなわち、快と不快はつねに結論現象であって、いかなる「原因」でもないのである。

 快と不快を喚起するものの何であるかに関する決定は、《権力の度合い》に依存している。権力量の劣ったものには危険であり急速に防衛の必要ありとみえるその同一のものが、権力のきわめて充実しているものの意識にあっては情欲をそそる刺戟であり、結果として快感をともないうるのである。

 すべての快・不快の感情が、すでに、《総体的有用性、総体的有害性による測定》を、それゆえ、目標(状態)の意欲とそのための手段の選出とが生ずる領域を、前提としている。快と不快はけっして「根源的事実」ではない。

 快・不快の感情は《意志の反作用(欲情)》であり、この反作用において知性の中心は、入りこんできた或る諸変化の価値を総体的価値へと固定し、同時に逆作用の導入として固定する。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅱ 自然における権力への意志、六六九、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.191-192、[原佑・1994])
(索引:快と不快)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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