2019年4月21日日曜日

9.行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の道徳的評価、審美的評価、共感的評価

【行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。
  (3.1.4)ベンサムによる異論は次のとおりであるが、誤りである。
   (i)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (ii)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (iii)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

 (3.2)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
  有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素となっている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することに関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
    参照:(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「彼は見過ごすことのできない別の誤りも犯している。

というのは、これほど、彼を人類に共通する感情に反対する立場に追いやりがちで、ベンサム主義者に対して一般に抱かれている考えを特徴づけている非情で機械的で不愛想な雰囲気を彼の哲学に与えがちなものはないからである。

この誤謬、というより一面性は、功利主義者としての彼に属しているものではなく、専門的道徳論者としての彼に属しているものであり、宗教的であっても哲学的であっても、ほとんど道徳論者を公称しているすべての人々に共通しているものである。

それは、行為や性格を《道徳的》観点から観察することはそれらを観察する第一のもっとも重要な仕方であることは間違いないけれども、あたかもそれが《唯一の》仕方であるかのようにみなすという誤りである。

ところが、それは3つの仕方の1つにすぎず、人間に対する私たちの感情はそれら3つのすべてによって大いに影響されるだろうし、影響されるに違いないし、私たちの本性が抑えこまれないかぎりは影響されざるを得ないのである。

人間のあらゆる行為は3つの側面をもっている。《道徳的》側面、すなわち行為の《正・不正》に関わる側面と、《審美的》側面、すなわち行為の《美しさ》に関わる側面と、《共感的》側面、すなわち行為の《愛らしさ》に関わる側面である。

第一のものは私たちの理性や良心に関わり、第二のものは私たちの想像力に関わり、第三のものは私たちの同胞感情に関わる。

私たちは第一のものに照らして是認したり否認したりし、第二のものに照らして賞賛したり侮蔑したりし、第三のものに照らして愛したり憐れんだり嫌悪したりする。

行為の《道徳性》はその予見可能な帰結に左右され、行為の美しさや愛らしさ、またはその逆は、行為がその徴候を示している性質に左右される。

こうして、嘘をつくことが《不正》なのは、その結果が人を惑わすということだからであり、人間同士の信頼を損なう傾向があるからである。それが《卑劣》でもあるのは、それが臆病だからであり――というのは、それは真実を話すことによる結果に向き合おうとしないことから起きているからである――あるいは、せいぜいよくても、活力や知性に欠陥のないあらゆる人が当然もっていると思われるような正攻法によって目的を達成する《力》が欠けていることの証拠だからである。

自分の息子たちを罰したブルトゥスの行為は、罪を犯したことが明白な人に対して祖国の自由にとって不可欠な法律を執行したのだから、《正しいもの》であった。それは類まれな愛国心、勇気および自制心の強さを示しており、《賞賛すべきもの》であった。しかし、そこには何ら《愛すべきもの》はなかった。それは愛すべき資質があったと推定しうる根拠を示しておらず、そのような資質が欠けていたと推定しうる根拠を示している。

もし息子たちの一人が兄弟に対する愛情から陰謀に加担していたとしたら、《彼の》行為は道徳的でも賞賛すべきものでもなかったかもしれないが、愛すべきものではあっただろう。

行為を観察するためのこれら3つの仕方を混同することは、どのような詭弁を弄してもできないことである。しかし、それらのうちひとつだけに固執して残りのものを見失うことはきわめてありうることである。

感情論は3つのうち後の2つを最初のものよりも上位に置くものであり、一般の道徳論者やベンサムの誤りは、後の2つを完全に無視することである。このことはベンサムにとりわけ顕著である。

彼は、あたかも道徳的基準がもっとも重要でなければならないだけでなく(それはそうであるが)、唯一のものでなければならないかのように、そして利益や危害をもたらさない行為や抱かれた感情に比例するだけの利益や危害をもたらされない行為によって人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは不正義であり偏見であるかのように書いたり考えたりしていた。

彼はこのことに関しては実に徹底していたために、このような根拠のない好き嫌いと彼が考えていたものを表現しているものであるとして、自分がいるところでそれについて話されるのを耳にすることが我慢ならないいくつかの成句があった。

それらのなかには、《良い趣味》や《悪い趣味》という成句があった。彼は、趣味について賞賛したり非難したりすることは一個人による無礼な独断論であると考えていた。

それ自体は善くも悪くもないものに対する人々の好き嫌いは、人々の性格のあらゆる点に関してもっとも重要な推測を含んでいるわけではないし、人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではないかのように考えていた。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.154-156,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:行為の道徳的評価,行為の審美的評価,行為の共感的評価)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月20日土曜日

法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法の不完全性

【法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とともに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.3)追記。

  半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それにもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)半影的問題における決定の本質
  半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法の不完全性
  法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法の中核の存在
  法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)事実認識の不完全性と目的の不確定性
  (4.3.1)むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。
  (4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
   この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
  (4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
   (a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定めている。
   (b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となっている論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定したものにされていく。
 (4.4)選択肢の非一意性
  在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.5)決定は強制されず、一つの選択である
  存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。


 「行動の基準を伝達する手段として、先例または立法のいずれが選ばれるにせよ、それらは、大多数の通常の事例については円滑に作用したとしても、その適用が疑問となるような点では不確定であることがわかるだろう。それらには《開かれた構造》an open texture と呼ばれてきたものがあるだろう。われわれは今まで、これを立法の場合につき、人間の言葉の一般的特徴としてのべてきた。つまり、境界線上の不確定さというものは、事実問題に関してどんな伝達の形態をとったとしても、一般的分類用語を使用するかぎり支払わなければならない代償なのである。英語のような自然言語がこのように使われるとき、開かれた構造になることは避けられない。しかし、このように伝達は開かれた構造という特色をもった言語に実際は依存しているが、それを別にしても、われわれは、特定の事例に適用されるかどうかの問題が常に事前に解決されており、実際の適用にあたって、開かれた選択肢からの新たな選択を決して含まないような詳細なルールの概念を、なぜ理想としてさえ抱くべきでないのかという理由を認識することが重要である。その理由を簡単に言えば、われわれが神ではなくて人間だから、このような選択の必要性を負わされているのである。個々の場合について、公機関による格別の指令を待たずに使えるような一般的基準により、明白にそして事前に何らかの行動領域を規律しようとするときはいつでも、関連する二つの困難の下で苦労することが、人間の(したがって立法の)置かれた状況の特色である。第一の困難は、事実についてわれわれが相対的に無知であること、第二はわれわれの目的が相対的に不確定であることにある。もしわれわれの住んでいる世界の特徴が限られており、しかもそれらがそのすべての結合の方法を含めてわれわれに知られているとしたら、あらゆる可能性に対して事前にそなえることができるだろう。個々のケースへの適用につき、格別の選択をなす必要がないようなルールを作ることもできるだろうし、あらゆることを知ることができ、その結果あらゆることに対してルールが事前にあることをし、また特に定めておくこともできるだろう。これが「機械的」法学 'mechanical' jurisprudence に適した世界であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,pp.139-140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
 「われわれの世界がこうでないことは明らかであり、人間たる立法者は将来生じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を知りつくすことはできない。こうした予知の不可能性から、目的について相対的な不確定性がもたらされることになる。われわれがあえて何らかの一般的な行為のルール(たとえば公園内に乗り物を乗り入れるべからずというルール)を作成するとき、この文脈で使われる文言は、いかなる事柄も、その範囲内に入ろうとするかぎり満たさなくてはならない必要条件を確定しており、その範囲内にあることが確かであるような事柄のある明瞭な事例が、われわれの心に浮んでくるだろう。それらは範例であり、明白な事例(自動車、バス、オートバイ)なのであって、われわれの立法目的はすでにある選択をなしているので、そのかぎりで確定されているのである。公園内での平和と静けさは、これらの乗物を排除するという犠牲を払ってでも維持されるべきであるという問題を、われわれははじめに解決しておいた。他方われわれは、公園での平和という一般的目的を、はじめには考えなかったか、おそらくは考えることができなかった事例(電気で動くおもちゃの自動車)に関連させるまでは、われわれの目的はこの面で確定されていない。われわれは考えたことのない事件が生じたとき、そこで起きるかもしれない問題を、予知しなかったので、それを解決していない。つまり、その問題というのは、公園内のある程度の平和が、これらのものを使って楽しみ喜ぶ子供達との関係で、犠牲にされるべきか、それとも守られるべきかということである。考えたことのない事件が生じるとき、われわれは問題となっている論点に直面するのであって、そのさいもっともよく満足できる方法で、これらの競合する利益間の選択をなすことにより問題を解決することができる。そうすれば、はじめの目的をより確定したものとしているであろうし、ある一般的な言葉がこのルールの目的にとってもつ意味についての問題は付随的に解決しているであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第1節 法の開かれた構造,p.140,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:法の不完全性,事実に関する無知,予知不可能性,目的の不確定性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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8.理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的と二次的目的

【理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追記。


(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓
 行為が生み出す帰結:行為の価値

  (b.4)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「可能な範囲でベンサムの哲学の概要を述べてきたが、他の何にもまして彼の名前と同一視されている彼の哲学の第一原理、すなわち「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」についてほとんど述べてこなかったことに読者は驚かれたかもしれない。

もし紙幅があれば、あるいはベンサムについて正しい評価を下すために本当に必要ならば、この主題について論じられるべきことが多くある。

道徳の形而上学について論じるのにより適当な機会に、あるいはこのような抽象的な主題についての見解を分かりやすくするのに必要な説明をうまくおこなうことができるような機会に、この主題について私たちが考えていることを述べることにしよう。

ここで私たちが述べておきたいのは、その原理についてはベンサムとほとんど同意見であるが、彼がその原理に対して与えた重要性の度合についてはそうではないということだけである。

功利性、あるいは幸福はあまりにも複雑で漠然としすぎており、さまざまな二次的目的を媒介にすることなしには追求することができない目的であると私たちは考えている。

そして、これらの二次的目的に関しては、究極的基準については意見を異にしている人々の間でも合意することがありうるし、しばしば合意している。

また、これらの目的については、思想家の間に、道徳形而上学の重要な問題についてまったく相容れない見解の相違がみられることから想定されるよりもはるかに多くの意見の一致が実際に広く見られる。

人類は自分たちの本性について一つの見解をもつことよりも、一つの本性をもっているということの方がはるかにありうるから、中間原理、すなわち真の媒介原理(vera illa et media axiomata)とベーコンが呼んだものについて、第一原理についてよりも容易に一致するようになる。

そして、中間的目的と照らし合わせることよりもむしろ、究極的目的に照らし合わせることによって行為の意味を明らかにしたり、人間の幸福に直接照らし合わせることによって行為の価値を評価したりする試みは、一般的には、本当に重要な結果ではなく、もっとも簡単に指摘できたり個別に特定できたりする結果をもっとも重視することに終わる。

功利性を基準として採用している人々は、二次原理を媒介としないかぎりは、それを正しく適用することはめったにできないし、それを拒否している人々は、一般的には二次原理を第一原理へ昇格させているだけである。

 したがって、私たちは功利主義に関する議論を実践上の問題というよりも配列と論理的従属についての問題であり、倫理に関する哲学としての体系的統一性と一貫性のために、主として純粋に科学的見地から重要なものと考えている。

この主題についての私たち自身の見解がどのようなものであっても、私たちが倫理理論においてなされるに違いないと信じている重大な進歩を期待するのはこのようなものからではない。

しかし、ベンサムが成し遂げたあらゆることは功利性の原理に負っていること、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理を見つけだすことが必要であったこと、彼にとって体系的統一性が自身の知性に対して確信をもつために不可欠な条件であったことなどは確かなことである。

さらに指摘しておくことがある。すなわち、幸福が道徳の目指すべき目的であってもなくても――道徳が何らかの《目的》を目指していること、道徳が漠然とした感情や説明不能な内的な確信のうちに放置されないこと、道徳が単なる感情の問題ではなく理性と計算の問題であることなどは、道徳哲学の観念そのものにとって本質的な要素であり、現実に道徳問題に関する議論や討議を可能にしているものなのである。

行為の道徳性はそれが生み出す傾向にある帰結によって左右されるという事は、あらゆる学派の理性的な人々によって認められている理論である。

そして、こうした帰結の善悪はもっぱら快楽と苦痛によって判定されるということは、功利性を支持する学派によって全面的に認められている理論であり、これはこの学派に特有のものである。

 ベンサムが功利性の原理を採用したことによって行為の道徳性を確定するために考慮するべきこととしてその《帰結》に注意を向けたという点に関するかぎり、少なくとも彼は正しい道を進んでいた。

とはいえ、迷うことなくこの道を進んでいくためには、性格形成や行為が行為者自身の精神構造に与える影響についてベンサムがもっていたよりもいっそう深い知識が必要であった。

彼にこのような種類の影響を評価する能力が欠如していたことは、この主題に関する人類の経験が具現化されている伝統的な考えや感情に当然払うべき(盲従とはまったく違う)適度な敬意が足りなかったこととあいまって、彼を実践倫理上の問題に関してまったく信頼のおけない案内役にしてしまっているように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.152-154,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳,目的,究極的目的,二次的目的,中間原理,媒介原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月18日木曜日

4.原発が、いかに膨大な量の放射能を蓄えているかを理解しておくこと。100万kW級の原発1基は、1日で広島型原爆3発分、年間700~1000発分の核反応に相当する。(高木仁三郎(1938-2000))

原発1基1日の放射能

【原発が、いかに膨大な量の放射能を蓄えているかを理解しておくこと。100万kW級の原発1基は、1日で広島型原爆3発分、年間700~1000発分の核反応に相当する。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「原子力発電は、制御してゆっくりと核分裂を起こさせていて、原爆のように爆発的にウランを燃やさない、という言い方がよくされています。

それはある意味ではその通りで、原爆のように原子力発電所がいつも爆発を起こしていると考えるのは誤りですが、しかしゆっくり制御されて燃やしているとだけいうと、逆の意味で誤解されるおそれがあります。

実際に現在使われているような大型の原子力発電所では、一〇〇万キロワットとか、大きな電力を取り出すために、とても激しい反応が行われているといってもいいのです。
 一〇〇万キロワット級の原発は、広島の原爆を一日三発ぐらい爆発させる分の反応を二四時間かけてやっています。

広島の原爆の場合には、それが一〇万分の一秒よりももっと速いくらいの時間で一気に爆発した。それに比べれば確かにゆっくりですが、総体としては大変な量を燃やしている。
 一年運転すると、広島型原爆七〇〇から一〇〇〇発ぐらいの量になります。当然とても大きな量の放射能がその炉心に溜まってきます。

これが何らかの形で外界に漏れ出すのが原発事故の基本的な形であり、恐ろしさなのです。

巨大な量の放射能を炉心に蓄えながら、高温高圧で運転し続けるという状態にいつもあるということが、原子力発電所のもっている基本的な厳しさで、ここからすべての問題が発しているといっていいのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』原発事故―――日本では? 第1章 事故の怖さⅠ、p.272)
(索引:原発1基1日の放射能)

脱原発へ歩みだす〈1〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
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ニュース(原子力市民委員会)

9.高水準の生産性を保つには奨励給が必須だとする理論は、事実に反する非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、協力の促進が必要であり、人間的な諸動機の事実に基づく科学的な解明が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

外因性の報酬と内因性の報酬

【高水準の生産性を保つには奨励給が必須だとする理論は、事実に反する非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、協力の促進が必要であり、人間的な諸動機の事実に基づく科学的な解明が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)勤勉な労働を促す人間の諸動機
 (1.1)外因性の報酬(金銭)
  (a)外因性の報酬(金銭)を過大評価する理論
   (i)合理的な“個人”は、自分の利益だけを考慮し、他人の行動や待遇には全く関心を払わない。
   (ii)羨望や嫉妬やフェアプレー精神など人間的な感情は、“経済的”行動には何の役割も果たさない。
  (b)外因性の動機が、内因性の動機を弱めてしまうという事例。
  “正しいこと”をしたいという欲求に支えられていた行動が、インセンティブとして導入された罰金によって逆効果が生じ、違反行為を増やしてしまう。罰金が、社会的義務を金銭的取引へと姿を変えさせたことが理由である。
 (1.2)内因性の報酬
  (a)例として、科学者たちの研究や発想を支える動機がある。
   真実の追究、知性を使う喜び、発見したときの達成感、同業者たちから認められること。
  (b)チームワークと個人のインセンティブ
   (i)“チーム成績”にもとづく報酬制度は、協力をうながす効果を持っている。
   (ii)逆に、“個人”のインセンティブが強すぎると、チームワークを阻害する。
   (iii)チームがある程度の規模を超えると、チーム成績に占める各人の貢献度が小さくなりすぎ、結果として各人がインセンティブを持てなくなる。
(2)生産的で効率的な経済のために必要なこと
 (2.1)個人の利己主義を基礎とし人間的な感情を考慮しない外因性の報酬(金銭)を過大評価する理論は、事実を捉え損ねており、科学的に誤りである。
 (2.2)他者への配慮や人間的な感情を無視して理論化することは、素朴で単純な第0次近似の理想化理論としては意義があっても、“合理的”で“経済的”な行動の理論では「無視すべきだ」と主張されるならば、もはや科学ではない。
 (2.3)高水準の生産性を保つには奨励給が“必須”であるという主張は、事実に基づかない非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、チームワークが必要であり、個人の競争には、建設的なものもあれば、破壊的なものもある。どのような要因が協力を促すかが問題なのであり、事実に基づいた科学的な解明が必要である。

 「本章が展開してきた奨励給への批判は、伝統的な経済分析の範囲内に収まっている。

しかし、たとえば勤勉な労働をうながす場合を考えてみると、インセンティブとは人間に対する“動機付け”だ。人間の動機付けにかんしては、心理学者や労働経済学者や社会学者が仔細な研究を行なっており、経済学者たちは多くの環境について読み違いをしてきたように見える。

 しばしば個人は外因性の報酬(金銭)ではなく、内因性の報酬(仕事をうまくやり遂げた満足感)からより良い動機を与えられる。

ひとつ例を挙げよう。過去200年間、わたしたちの生活を一変させてきた科学者たちの研究や発想は、大部分が富の追求に動機づけられたものではなかった。

それはわたしたちにとっては幸運と言える。金が目的なら、彼らは銀行家の道を選び、科学者にはなっていなかったかもしれない。

このような人々にとって大切なのは、真実の追究、知性を使う喜び、発見したときの達成感、そして、同業者たちから認められることだ。

もちろん、彼らが金銭的報酬をつねに固辞するわけではないが、前にも述べたとおり、自分や家族の次の食事をどうまかなうかで頭がいっぱいの人間は、有意義な研究に没頭することなどできない。

 外因性の報酬(金銭)を求めすぎると、本当に努力の量が減少する場合もある。

教師の大多数(少なくとも多数)は、金のために仕事を選んだのではない。彼らの動機は、子供への愛情や、教育への献身だ。トップレベルの教師たちは、銀行業界に入っていれば、はるかに大きな稼ぎを手にしていただろう。彼らに高いボーナスを出せばもっと力を発揮する、と推測するのは彼らに対する冒涜と言っていい。

じっさい、奨励給は教育界に悪影響を及ぼす可能性がある。奨励給によって給与の低さに気づかされ、金を重視するようになった教師たちは、もっと稼ぎの良い職業に移っていき、教育界にはほかの選択肢を持たない教師だけが残されるだろうからだ(もちろん、給与の低さが認識されれば、教師たちの士気は下がり、逆インセンティブの効果が生まれるはずだ)。

 もうひとつ有名な例を紹介しよう。ある託児所は問題を抱えていた。子供を時間どおりに迎えに来ない親たちがいたのだ。託児所はインセンティブを与えるべく、遅刻に罰金を科すことを決めた。

しかし、遅刻しない親の中にも、子供の送り迎えに苦労している親はたくさんいた。彼らが遅刻しなかったのは、社会的圧力が原因だった。具体的に言うと、たとえ完璧には程遠くても“正しいこと”をしたいという欲求だ。

しかし、罰金を科されたことで、社会的義務は金銭的取引へと姿を変えた。親は社会に対する責任から解放され、遅刻による利益が罰金のコストより大きいと判断した。そして、遅刻は前よりも増えてしまったのだ。

 奨励給制度の欠陥はまだある。ビジネススクールの授業では、チームワークの重要性が強調される。おそらくほとんどの雇用主は、会社の成功にチームワークが必要不可欠だと認識しているだろう。

ここで問題となるのは、“個人”のインセンティブがチームワークを阻害しうることだ。

個人の競争には、建設的なものもあれば破壊的なものもある。対照的に、“チーム成績”にもとづく報酬制度は、協力をうながす効果を持っている。

皮肉にも、標準的な経済理論は、つねにこのような報酬制度をおとしめようとする。チームがある程度の規模を超えると、チーム成績に占める各人の貢献度が小さくなりすぎ、結果として各人がインセンティブを持てなくなる、というのだ。

 経済理論が集団的インセンティブの実効性を正確に測れないのは、人間関係の重要性を過小評価してしまうからだ。

現実の世界では、個人はチームメンバーを喜ばせるために一生懸命働き、それが正しい行動であると信じている。対照的に、経済学者が過大評価するのは、個人の利己性だ(数々の証拠が示すとおり、経済学者はほかの人々より利己的なので、彼らから教えを学ぶ人々は、時間とともに自己中心性を高めていく……)。

集団的インセンティブの重要性を考えれば、労働者によって所有される企業――労働者に収益が分配される企業――が、今回の金融危機で高い業績をあげ、レイオフを少なく抑えてきたことは、驚くに値しないのかもしれない。

 チームワークにかんする幅広い誤認は、経済理論に目隠しをしてしまっている。標準的な経済理論では、人間の行動を分析する際、合理的な“個人”を想定する。この個人は、ひとつの観点からすべてを評価し、他人の行動や待遇にはまったく関心を払わない。

羨望や嫉妬やフェアプレー精神など、人間的な感情は存在せず、存在したとしても、“経済的”行動には何の役割も果たさない。たとえ果たしているように見えても、果たすべきではないとみなされ、果たさなかったものとして経済分析は進められる。

経済学の外から見れば、この手法はばかげている。わたしも同意見だ。本書はすでに、不公正に扱われていると感じる個人が努力を低下させうることと、チームスピリットが努力を増加させうることを説明してきた。

しかし、アメリカの短期市場向けにあつらえられた実利的かつ個人中心主義的な経済学は、現実の経済における信頼感と忠誠心をむしばんでいるのである。

 要するに、高水準の生産性を保つには奨励給が“必須”である、という右派の主張とは裏腹に、多くの企業に採用された奨励給制度は、不平等を拡大させるうえに、存在そのものが非生産的なのだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第4章 アメリカ経済は長期低迷する,pp.178-180,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:外因性の報酬,内因性の報酬,インセンティブ,チームワーク)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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米国では、不法移民の差別禁止と権利保護のため、取締の権限が連邦政府の管轄とされた。また、仮に連邦法に違反している不法移民でも保護するサンクチュアリ都市宣言をしている都市が全米各地に400以上存在する。(池上彰(1950-))

不法移民とサンクチュアリ都市

【米国では、不法移民の差別禁止と権利保護のため、取締の権限が連邦政府の管轄とされた。また、仮に連邦法に違反している不法移民でも保護するサンクチュアリ都市宣言をしている都市が全米各地に400以上存在する。(池上彰(1950-))】

 「なぜ「不法」移民は、これまで追い出されなかったのか?
 これはトランプ大統領の移民政策も同様です。当初は「不法移民1100万人を全員追放」と言っていましたが、ここへきて、全員を追い出すわけではないと穏健な方針に切り替えつつあります。その結果、オバマ政権時代よりは強硬な政策になっているのに、多くの人が受け入れてしまう、というわけです。
 それにしても、アメリカに不法移民が1100万人いると聞くと、疑問が湧きませんか。「不法」ならばなぜ強制退去の対象にならないのでしょうか? 日本ですと、不法滞在している疑いのある外国人がいると、警察官が職務質問。パスポートや滞在許可書類がなければ身柄を拘束されます。
 実はアメリカでも日本と同じことができるようにしようという動きがあったのですが、憲法違反だという判決が下っているのです。
 アメリカ南部のアリゾナ州は2010年、独自に不法移民取締法を制定しました。これは現場の警察官に取り締まりの権限を与えるというものです。ところがその法律のなかに、「外見で不法移民の疑いがあれば警察官が滞在資格を確認できる」という内容があったことから、特定の人種を対象にした差別につながるという批判が出て、裁判に発展。12年、連邦最高裁は、不法移民の取り締まりの権限は連邦政府の管轄であり、アリゾナ州が独自に取締法を制定したのは憲法違反だという判断を下しました。
 つまり、連邦政府が取り締まろうとしないかぎり、不法移民は不法でもアメリカに滞在できるというわけです。オバマ前大統領は不法移民を摘発しようとしませんでしたから、犯罪を起こさないかぎり、不法移民でもアメリカに滞在できたのです。
 さらに全米各地には「サンクチュアリ都市」(聖域都市)を宣言している都市が400以上あるとみられます。これらはリベラルな民主党の勢力の強い地域で、連邦法に違反している不法移民がいても、連邦政府に通報せずに守るという方針を貫いています。不法移民は、ニューヨークやシカゴ、ボストンなどの聖域都市に逃げ込めば、摘発や強制送還の心配なく暮らせるのです。同じく聖域都市のサンフランシスコ市は17年1月、聖域都市への補助金停止を求める大統領令が憲法違反にあたるとして、その差し止めを求めて訴訟を起こしました。
 法律に違反しても、人権を守る。人権意識の高さには感心します。
 日本では「トランプ大統領の移民政策はひどい」と他人事のように批判している人たちがいますが、トランプ大統領は、移民受け入れに慎重な日本のようにしたいだけだとも言えます。トランプ大統領を批判する人たちは、自覚せずに日本の移民政策を批判していることになるのです。」
(池上彰(1950-),『世界はどこに向かうのか』第1部「米国編」アメリカ・ファーストの衝撃,Chapter2 自由の国を守る人々,pp.38-41,日本経済新聞社(2017))
(索引:不法移民,サンクチュアリ都市)

池上彰の 世界はどこに向かうのか


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
池上彰ファンクラブ)
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2019年4月17日水曜日

偏った資金の影響を受けて、様々な方法で民主的な意思決定が歪められ、諸制度がさらなる資金の偏りと集中を生むという循環を生じているとき、いかにして圧倒的多数の市民の意思が政治過程に反映され得るかが問題である。(ジャコモ・コルネオ(1963-))

民主的な意思決定と資本の影響力

【偏った資金の影響を受けて、様々な方法で民主的な意思決定が歪められ、諸制度がさらなる資金の偏りと集中を生むという循環を生じているとき、いかにして圧倒的多数の市民の意思が政治過程に反映され得るかが問題である。(ジャコモ・コルネオ(1963-))】

(a)資本家
 (a.1)所得状況の特徴
  (a.1.1)平均的な所得は、国民全体の平均所得を大きく超える。
  (a.1.2)個人所得は、圧倒的な割合を占める資本所得によって特徴づけられる。
  (a.1.3)資本所得は、おおまかに見て国民所得のおよそ3分の1を占める。
 (a.2)選好する政策
  (a.2.1)企業の利潤と、資本所得を引き上げる。
  (a.2.2)相続や資本所得に課税されないようにする。
 (a.3)政策決定への影響力の行使方法
  (a.3.1)株式持ち合いなど財産権の連鎖と、実質的に企業を支配下に置くための諸制度の利用。
  (a.3.2)資金を使って、様々な方法で民主的な意思決定の結果に影響を与えることができる。
   (i)ロビー活動に資金を提供する。
   (ii)特定の候補者、政党の選挙戦に多額の資金をつぎ込む。
   (iii)かつて公職にあった者には儲けのあるポストを用意する。
   (iv)高額が支払われる講演会を彼らのために開く。
   (v)メディア、シンクタンク、研究所などに融資して、意見を特定の方向へと導く。
(b)圧倒的多数の他の市民
 (b.1)所得状況の特徴
  労働所得が極めて重要な部分を占めている。
 (b.2)選好する政策
  資本家の利害関心、主張が似通ったものであるのに対して、様々な利害関心、見解が分散する。
 (b.3)政策決定への影響力が弱められる原因
  (b.3.1)政治的、社会的参加には、コストがかかる。
  (b.3.2)コストに比較して、政治的決定への影響力は小さいと感じてしまう。
  (b.3.3)このため、政治的決定にかかわろうとするインセンティブが全くない。

 「資本主義に批判的な政治経済学者は以下のように述べる:
 “現代の経済学において資本所得は、おおまかに見て国民所得のおよそ3分の1を占める。国民所得の3分の1は、国民のごく一部の層に流れてしまうので、資本家は多くの他の市民とは全く別の所得状況にある。第一に、資本家の平均的な所得は、国民全体の平均所得の数倍にのぼる。第二に、資本家の個人所得は、圧倒的な割合を占める資本所得によって特徴づけられる一方で、資本家以外の国民の場合は労働所得が極めて重要な部分を占めている。この異なった所得状況ゆえに、資本家は国民の圧倒的多数の利益とは相反する政治的選択肢を選ぶ。資本家は、国民の大多数にとっての公共の利益を犠牲にして、産油国への軍事介入やタックスヘイブンの容認のような、企業の利潤と資本所得を引き上げる政策を優遇する。
 もし我々の民主主義と呼ばれる制度が、本当に国民の大多数の利益を達成するものであれば、その政府はこの政策を決して選択しないだろう。しかし実際はそうではない。民主的な装いをつくろう裏で、資本家の利益が多数の利益に反して追求される。
 これはいかにして可能なのか? 資本家は確かに少数だが、多数派に対しては2つのアドヴァンテージを持っている。
 第一に、資本家は少数なので、容易に互いの間で調整することができる。現代の資本主義社会には、出資者が政治的な影響を与えるという目的を達成するための特定の戦略に同意しうる制度的枠組みがすでに存在する。財産権の連鎖と株式持ち合い(クロス・シェアホールディング)を通じてより大きなネットワークが生まれる。このネットワークは、ドイツのような国々では、共通の見解と主導権を生み出す監査役会の占領のうちに現れる。これに対して大多数の国民は、フリーライダー問題に苦しむことになる。政治的および社会的に参加すれば個々人はコストを感じるが、集団的な関心事に対する貢献はわずかである。それゆえ個々人には、集団的な重要事項にかかわろうとする物質的なインセンティブが全くない。
 第二に資本家は、富を基盤として効果のある政治的なロビー活動に資金を提供することができる。財産のある個人、企業、協会、財団は、様々なやり方で民主的な意思決定の結果に影響を与えることができる。例えば資本家は、特定の候補者、あるいは政党の選挙戦に多額の資金をつぎ込むことができる。彼らは、かつて公職にあった者には儲けのあるポストを用意するか、高額が支払われる講演会を彼らのために開くことができる。さらに、メディア、シンクタンク、研究所など、またもや政治の決定権者や選挙人の意見を特定の方向へと導くものに融資することもできる。その結果、大多数の利害を無視して政治的に平等な権利を破壊する、民主的な過程に対する制度的な歪みが生じる。
 この問題は、資産の不公平な分配と、その資本所得に対する非課税権に根ざしている。原理的には、資本のさらなる再分配(例えば、相続や資本所得への高率課税)によって、この問題は解決できるだろう。しかし現実には解決されない。なぜなら、この措置の場合、民主的な過程から生み出されるはずの集合的意思決定が問題になるからである。だが、この過程が制度的に資本家の利害のために歪められているならば、これは不可能になるだろう。これに反して資本主義の廃止は、この問題を根本から解決するかもしれない”。
 民主主義が危険な金権政治的傾向をもたらすことは、幾人かの古代ギリシャ人たちも考えていた。プラトンも、彼の時代における商業資本主義と民主主義の組み合わせは、根本的に不安定であると考えた。しかし彼の解決策は、資本主義の廃止ではなく民主主義の廃止であった……。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第2章 哲人の国家の機能不全,pp.16-18,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))
(索引:資本家,資本所得,労働所得,ロビー活動,民主的な意思決定)

よりよき世界へ――資本主義に代わりうる経済システムをめぐる旅


(出典:University of Nottingham
ジャコモ・コルネオ(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私はここで福祉国家の後退について別の解釈を提言したい。その解釈は、資本主義(市場システムと生産手段の私有)は、福祉国家を異物のように破損する傾向があるという仮説に基づいている。福祉国家の発端は、産業労働者の蜂起のような一度限りの歴史的な出来事であった。」(中略)「この解釈は、共同体がこのメカニズムに何も対抗しないならば、福祉国家の摩耗が進行することを暗示している。資本主義は最終的には友好的な仮面を取り去り、本当の顔を表すだろう。資本主義は通常のモードに戻る。つまり、大抵の人間は運命の襲撃と市場の変転に無防備にさらされており、経済的にも社会的にも、不平等は限界知らずに拡大する、というシステムに戻るのである。
 この立場に立つと、福祉国家は、資本主義における安定した成果ではなく、むしろ政治的な協議の舞台で繰り返し勝ち取られなければならないような、構造的なメカニズムである点に注意を向けることができる。そのメカニズムを発見するためには、福祉国家が、政治的意思決定の結果であることを具体的に認識しなければならない。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第11章 福祉国家を備えた市場経済,pp.292-293,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))

ジャコモ・コルネオ(1963-)
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克服条件:全体利益の合計値最大化のための同じ行動を、相手も取るという信頼が存在し、その信頼は、自己利益の犠牲、非協力リスクの負担、相対的劣位性の受入、一時的な不平等の許容を、克服し得る程度のものであること。(フランチェスコ・グァラ(1970-))

囚人のジレンマ

【克服条件:全体利益の合計値最大化のための同じ行動を、相手も取るという信頼が存在し、その信頼は、自己利益の犠牲、非協力リスクの負担、相対的劣位性の受入、一時的な不平等の許容を、克服し得る程度のものであること。(フランチェスコ・グァラ(1970-))】
(e)囚人のジレンマ
 (e.1)以下の視点に従う限り、各プレーヤーは非協力に対して選好を持つ。
  (i)非協力の利益の期待値は、協力より大きい。(期待値)
  (ii)協力は、相手に依存するリスクにさらされている。(リスク)
  (iii)相手に対する相対的優位性も、非協力の方が圧倒的に大きい。(期待値の相対的優位性)
  (iv)協力と非協力の戦略が混在すると、不平等が生じる。(平等性)
 (e.2)それにもかかわらず、協力を選択する条件は何だろうか。
  (i)両プレーヤーが共に協力する選択は、均衡状態ではない。この状態を識別できるのは、両者の利益の合計値を最大化できるという観点である。
  (ii)両プレーヤーがお互いに、全体の利益の合計値最大化のための同じ行動を、相手も取るという信頼が存在すること。
  (iii)自己の利益を犠牲にし、相手の非協力のリスクを負担し、自己の相対的劣位性を受け入れ、非協力に伴う不平等を許容してもなお、全体の利益の合計値最大化のための行動を、相手も取るだろうという程度の信頼が必要である。
    プレーヤー1
プ   協力  裏切り
レ  ┌───┬───┐
|協力│2、2│0,3│
ヤ  ├───┼───┤
|裏切│3,0│1、1│
2 り└───┴───┘

 「囚人のジレンマはとりわけ特殊な種類のゲームであって、これまで分析してきたゲームと混同してはならない。走行ゲーム、ハイ&ロウ、鹿狩りゲームには複数均衡がある。これらはコーディネーション問題である。囚人のジレンマは異なる。なぜなら、左上の結果(CC)は均衡では《ない》からだ。それぞれのプレーヤーは、一方的にDをプレーすることで利得が大きくなる。これはいくつかの点で謎である。鹿狩りゲームにおいては、各プレーヤーが他のプレーヤーの手番を推測するという問題を抱えていたことを思い出そう。囚人のジレンマでは、その問題はそもそも存在しない。ある意味、裏切りの誘惑は非常に強力なものとなって、他のプレーヤーの行為について考える必要がないほどである。他のプレーヤーが何をしようと、自分はDをプレーする方がより良い。これが意味するのは、囚人のジレンマにおいては、ただ1つだけ均衡(DD)が存在していて、しかもしれが非効率的であるということだ。区別するために、コーディネーションに対して、この種類のゲームが協力の問題(もしくはジレンマ)を表現していると言うことにしよう。普段使う「協力」の意味が少しばかり拡大解釈されるのだが、それぞれのケースに対して、異なる用語を持つことは有用だ。
 上で説明した分析にもかかわらず、多くの人々は囚人のジレンマゲームにおいて協力が正しい選択であると考える。それはどうしてだろうか。これには、多くの人々にとっては戦略的に考えることが難しいのだということを含めて、おそらく二つ以上の理由が存在する。しかし、人々がこのような直感を持つのは、何よりもまず、人々が現実生活において、囚人のジレンマに似た状況で協力を支持するようなルールに従うことに慣れているからである。」
    プレーヤー1
プ   協力  裏切り
レ  ┌───┬───┐
|協力│2、2│0,3│
ヤ  ├───┼───┤
|裏切│3,0│1、1│
2 り└───┴───┘

(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第2章 ゲーム,pp.55-56,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:囚人のジレンマ)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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2019年4月16日火曜日

イスラム教徒の8割を占めるスンニ派は、信者たちが後継者を選び、イスラムの慣習(スンナ)を守っていけばいいと考える。これに対してシーア派は、血筋によって後継者を選び、イラン以外では少数派として抑圧されている。(池上彰(1950-))

スンニ派とシーア派

【イスラム教徒の8割を占めるスンニ派は、信者たちが後継者を選び、イスラムの慣習(スンナ)を守っていけばいいと考える。これに対してシーア派は、血筋によって後継者を選び、イラン以外では少数派として抑圧されている。(池上彰(1950-))】

 「スンニ派とシーア派は、どう違うのでしょうか。
 イスラム教を広めたムハンマドが亡くなると、後継者をどう選ぶかをめぐって信者たちが分裂します。ムハンマドの血筋を引く、従弟のアリーこそが後継者にふさわしいと考える人たちは、「アリーの党派(シーア)」と呼ばれます。そのうちに、単に「シーア」と呼ばれるようになります。これが「シーア派」です。これでは「党派・派」になってしまいますが、こう呼ばれています。
 一方、血統に関係なく、信者たちによって選ばれた人がイスラムの慣習(スンナ)を守っていけばいいと考えた人たちは「スンニ派」と呼ばれるようになります。世界史の教科書では「スンナ派」と表記されますが、日本のメディアはスンニ派と表記します。
 スンニ派とシーア派は、教義において、それほど隔たっているわけではありません。ただ、スンニ派はイスラム教徒の8割を占める多数派なのに対して、シーア派は2割弱。少数派なのです。このためイラン以外では少数派としてスンニ派政権の下で政治的に抑圧され、経済的に困窮している人々が多いのです。スンニ派政権は、こうしたシーア派が「革命」を起こすのではないかと恐れているのです。
 また、サウジアラビアはアラブ人なのに対してイランはペルシャ人。伝統的な対抗意識が働きます。とりわけサウジアラビアは、このところの石油価格の低迷で、財政状態が急激に悪化。さらに隣国イエメンのスンニ派政権を支援するために軍隊を派遣したところ、戦費がうなぎ上りに増加。戦死する兵士も急増し、国内に不安が広がっています。」
(池上彰(1950-),『これが「世界を動かすパワー」だ!』POWER3 中東,「第五次中東戦争」は起きるのか,pp.138-140,文藝春秋(2016))
(索引:スンニ派,シーア派)

池上彰のこれが「世界を動かすパワー」だ! (文春e-book)


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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市場の失敗の矯正には、秩序維持機能を超えた国家介入が必要である。しかし、様々な見解と利害関心を持つ個人と集団の存在と、意思決定権限を委譲された政治家に起因する国家の機能不全は、さらに深刻な問題を発生させる。(ジャコモ・コルネオ(1963-))

国家の機能不全

【市場の失敗の矯正には、秩序維持機能を超えた国家介入が必要である。しかし、様々な見解と利害関心を持つ個人と集団の存在と、意思決定権限を委譲された政治家に起因する国家の機能不全は、さらに深刻な問題を発生させる。(ジャコモ・コルネオ(1963-))】

(1)自由放任主義システム
 (1.1)国家による経済活動を、所有権の保護に限定する。
 (1.2)全ての経済主体が、所有権を自由に扱うことができる。
 (1.3)資源配分は、ほとんどいつも準最適である。(市場の失敗)

  国家
  所有権の保護

  経済主体  経済主体  経済主体
  所有権   所有権   所有権

(2)国家活動を、秩序維持機能を超えて拡張する。
 (2.1)原則的にはより、良い社会的な成果を生み出すことができる。
 (2.2)しかし、国家の機能不全は、社会にとって市場の失敗以上に深刻である。
 (2.3)国家の機能不全を引き起こす2つの原因
  (a)国家内部での利害闘争
   様々な見解と、大きく隔たった利害関心を持つ個人と集団が存在する。
   政治的諸決定は、有益な妥協へと至るために、利害の多様性を考慮しなければならない。
  (b)集団的な意思決定の権限移譲
   政治家が、国家全体の名において決定を行う。
 ┌───────┐
 │憲法     │
 │・個人の不可侵│
 │ の権利の宣言│
 │・合法的な国家│
 │ 介入の範囲 │
 │・統治者の権限│
 │ の制限   │
 └───┬───┘
 ┌───┴──────────┐
 │国家            │
 │秩序維持機能を       │
 │超えた国家活動       │
 │ ├─────┬────┐ │
 │政治家   統治者   司法│
 │意思決定  (行政)    │
 └───┬──────────┘
 ┌───┴─────────────┐
 │経済主体  経済主体  経済主体 │
 │利害・見解 利害・見解 利害・見解│
 └─────────────────┘

 「国家による経済活動を所有権の保護に限定し、全ての経済主体がこれを自由に扱うことができる場合、経済学者はそれを自由放任主義システムと呼ぶ。これは、現実には全く存在したことのない資本主義の一つの特殊な形態である。というのも統治者は、経済的な事柄に介入したがるからである。実際のところ経済理論は、そのような自由放任主義システムの資源配分はほとんどいつも準最適で、原則的には国家による追加的措置によって改善されることを示している。例えば、国家が賢く金融セクターを調整すればマクロ経済的危機を予防するのに役立つ。租税による所得の移転システムは、人々が貧困に陥るのを防ぐ助けになる。特定の財の調達や所得の分配に際して自由放任主義システムがうまくいかなければ、秩序維持機能を超えて国家活動を拡張することで、原則的にはより良い社会的な成果を生み出すことができる。しかしこの点で、現代の政治経済学は警告を発する。国家の機能不全は、社会にとって市場の失敗以上に深刻である。
 こうして、すでに強調した“微妙な接点”にたどり着く。というのも国家の機能不全は、経済と政治の間に存する難しい関係の表れだからである。根本において、これは二つの非常に一般的な国家の特性に還元されうる。
 第一に、国家はただ一つの意志を持った、同じように考える人間の集合体ではない。むしろそれは、様々な見解と、しばしば大きく隔たった利害関心を持つ個人と集団から成り立っている。個人と集団の大多数にかかわる政治的諸決定は、有益な妥協へと至るために利害の多様性を考慮しなければならない。
 第二に、国家の活動にとっても、生産過程の編成から理解される分業の技術的なメリットがある。相応の効率か利益が得られる見込みがあると、ある特定の集団が国家全体の名において決定を行い、この決定が実行される様子の監視を容認するきっかけとなる。この集団の構成員は、政治家と呼ばれる。
 これら二つの特性は、すなわち国家内部での利害闘争と集団的な意思決定の権限移譲は、多かれ少なかれ大部分の住民に多少とも大きな損害を与える危険を、国家権力がつねに自らのうちに秘めていることを暗示している。
 国家の機能不全から身を守るためには、例えばある法規を通じて個人のある権利は不可侵であることを明言することで、統治者の権限を制限する法規を共同体が取り決められる。そこで、独立した憲法裁判所を設置するなどして、実際に統治者が憲法に関する規範に従うように、予防措置がとられなければならない。
 合法的な国家介入の範囲がいったん憲法により定められると、どのように集団的な意思決定が可能になるかという問いが共同体のもとに立ち現れる。一般的に見て、政治的な諸制度は二つのことを成し遂げる必要がある。政治制度はまず、代表が社会の様々な利害を考慮するよう注意するべきであり、また統治者が、他の国民を搾取するために国家を利用しないよう防ぐべきである。問題は、どのような条件のもとであれば、資本主義的な関係のなかでこうした必要がうまく満たされるのかということである。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第1章 哲人の国家の機能不全,pp.14-15,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))
(索引:国家の機能不全,市場の失敗,政治家,自由放任主義)

よりよき世界へ――資本主義に代わりうる経済システムをめぐる旅


(出典:University of Nottingham
ジャコモ・コルネオ(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私はここで福祉国家の後退について別の解釈を提言したい。その解釈は、資本主義(市場システムと生産手段の私有)は、福祉国家を異物のように破損する傾向があるという仮説に基づいている。福祉国家の発端は、産業労働者の蜂起のような一度限りの歴史的な出来事であった。」(中略)「この解釈は、共同体がこのメカニズムに何も対抗しないならば、福祉国家の摩耗が進行することを暗示している。資本主義は最終的には友好的な仮面を取り去り、本当の顔を表すだろう。資本主義は通常のモードに戻る。つまり、大抵の人間は運命の襲撃と市場の変転に無防備にさらされており、経済的にも社会的にも、不平等は限界知らずに拡大する、というシステムに戻るのである。
 この立場に立つと、福祉国家は、資本主義における安定した成果ではなく、むしろ政治的な協議の舞台で繰り返し勝ち取られなければならないような、構造的なメカニズムである点に注意を向けることができる。そのメカニズムを発見するためには、福祉国家が、政治的意思決定の結果であることを具体的に認識しなければならない。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第11章 福祉国家を備えた市場経済,pp.292-293,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))

ジャコモ・コルネオ(1963-)
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ゲーム理論は、制度の諸特性を教える。例として、(a)何らかの規律の役割,(b)全体的視点の役割,(c)より良い均衡の認知,(d)信頼の役割,(e)非協力のリスクの許容度,(f)相対的優位性の観点,(g)結果の平等性。(フランチェスコ・グァラ(1970-))

ゲーム理論と制度

【ゲーム理論は、制度の諸特性を教える。例として、(a)何らかの規律の役割,(b)全体的視点の役割,(c)より良い均衡の認知,(d)信頼の役割,(e)非協力のリスクの許容度,(f)相対的優位性の観点,(g)結果の平等性。(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(a)走行ゲーム
 (a.1)プレーヤーは協力すれば利益を得て、協力しなければ何も得ない。
 (a.2)プレーヤーは解決方法への選好を持っていない。従って、利害の対立はない。
 (a.3)どの解決方法を選んでも利益は等しい。。

    プレーヤー2
プ   左へ  右へ
レ  ┌───┬───┐
|左へ│1、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|右へ│0,0│1、1│
1  └───┴───┘

(b)両性の闘い
 (b.1)プレーヤーは協力すれば利益を得て、協力しなければ何も得ない。
 (b.2)プレーヤーは解決方法への選好を持っている。従って、利害の対立がある。
 (b.3)解決方法によって、どちらのプレーヤーの利益が大きいかが異なる。しかし、両者の合計の利益は同じであり、この点が強調されれば協力が促されるかもしれない。
    プレーヤー2
プ   バスケ オペラ
レバス┌───┬───┐
| ケ│2、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|オペ│0,0│1、2│
1 ラ└───┴───┘

(c)ハイ&ロウ
 (c.1)プレーヤーは協力すれば利益を得て、協力しなければ何も得ない。
 (c.2)プレーヤーは解決方法への選好を持っている。
 (c.3)いずれの解決方法によっても、両プレーヤーの利益は等しい。従って、利害の対立はない。
 (c.4)しかし、劣位の安定状態に閉じ込められてしまう場合がある。
  優位の均衡に遷移する条件は、
  (i)両プレーヤーが、より良い均衡があることを知っていること。
  (ii)両プレーヤーがお互いに、相手も同じ行動を取るという信頼が存在すること。
    プレーヤー2
プ    H   L
レ  ┌───┬───┐
| H│2、2│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
| L│0,0│1、1│
1  └───┴───┘

(d)鹿狩り
 (d.1)各プレーヤーは次の状況におかれ、それぞれ異なる選好を持つ。
  (i)協力と非協力とは、利益の期待値は同じである。(期待値)
  (ii)協力は、相手に依存するリスクを負う必要がありハイリスク・ハイリターンである。(リスク)
  (iii)利益の期待値は、協力では相手に劣位、非協力では優位である。(期待値の相対的優位性)
  (iv)協力と非協力の戦略が混在すると、不平等が生じる。(平等性)
 (d.2)優位の均衡に遷移する条件
  (i)両プレーヤーが、より良い均衡があることを知っていること。
  (ii)両プレーヤーがお互いに、相手も同じ行動を取るという信頼が存在すること。
  (iii)その信頼の程度は、相手の非協力のリスクを負える程度であること。
  (iv)その信頼の程度は、期待値において相対的に劣位であることを許容できる程度であること。
  (v)その信頼の程度は、戦略の混在による不平等を、一時的にせよ許容できる程度であること。
    プレーヤー2
プ    鹿   兎
レ  ┌───┬───┐
| 鹿│2、2│0,1│
ヤ  ├───┼───┤
| 兎│1,0│1、1│
1  └───┴───┘

 「走行ゲーム:二人のドライバーが二車線の道路で互いに接近している。彼らにできることは、左に寄るか右に寄るかである。二人ともが同じ側を選択すれば、彼らはともに利益を得る。そうでないと、彼らは停車して大事な時間を浪費しなければならなかったり、衝突してしまったりするだろう。この行列を使って記述できるのは以下のような状況である。問題解決のためにプレーヤーたちが力を合わせなければならないが、問題解決の仕方が多数ある。さらに、どのような問題解決の仕方についても、プレーヤーたちはどちらの方がいいという選好を持っていない状況である。とりわけ注意するべきは、ここには利害対立がないことである。というのは、どちらの均衡が選択されても、両プレーヤーは等しく便益を享受することになるからである。」
    プレーヤー1
プ   左へ  右へ
レ  ┌───┬───┐
|左へ│1、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|右へ│0,0│1、1│
2  └───┴───┘

 「両性の闘い:この物語の登場人物は二人の婚約者だ。彼らは一緒に夜を過ごすことを選好する。しかし、可能な選択肢に関しては、彼らは異なる選好を持っている。プレーヤー1はバスケットボールの試合観戦を選好しているのに対して、プレーヤー2はオペラに行くことを選好している。これは交渉ゲームである。というのは、コーディネーションの便益の配分の仕方には違いがあり、ある配分はプレーヤーたちの一方にとってより好ましいものになっているからだ。両性の闘いは、コーディネーションの利益だけでなく、利害対立も存在する状況を表現するのに役立つ。軍事作戦の文脈で解釈すれば、私がリードしてあなたが従う、あるいは、あなたがリードして私が従うのが望ましいが、私たちが両方ともリードするとか従うとかしたら、惨憺たる結末を迎えるという状況である。」(中略)「私たちは、均衡に収束することが望ましいということについては合意しているものの、どちらの均衡が実現してほしいかについては無関心ではいられない。」
    プレーヤー1
プ   バスケ オペラ
レバス┌───┬───┐
| ケ│2、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|オペ│0,0│1、2│
2 ラ└───┴───┘

 「ハイ&ロウ:二つの選択肢の一方がプレーヤー双方にとって明らかに良いことを除けば、戦略設定は同じである。ハイ&ロウは自明なゲームに見えるかもしれないが、実際には制度研究にとって極めて重要なものだ。制度は、コーディネーションが欠落した結果よりも良い結果へと収束することを促すものである。しかし、制度は時として、人々を劣位の安定的状態(LL)に閉じ込めてしまい、負の影響を持ちうる。読者は、(LL)が愚かな結果だということを、どうしてプレーヤーたちが理解できないのかを不思議に思われるかもしれない。ありうる回答の一つは単純なもので、彼らがより良い均衡があることを知っていないだけだというものである。他の場合では、プレーヤーたちは皆、より良い均衡の存在は知っているけれども、そこに収束していく際に、プレーヤーたちが他のプレーヤーたちがしかるべき自分の行為を選択しないだろうと信じないせいで、収束するのに失敗してしまう。こうしたことが起こるかもしれないのは、たとえば「鷹狩り」ゲーム(図2・2(d))のように、劣位の均衡戦略が安全で、かつ優位の戦略がリスクを伴うときである。」
    プレーヤー1
プ    H   L
レ  ┌───┬───┐
| H│2、2│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
| L│0,0│1、1│
2  └───┴───┘

 「鹿狩り:『人間不平等起源論』(Rousseau 1755)でジャン=ジャック・ルソーは、森林でシカを待ち伏せする狩人の集団について語っている。狩りにはコーディネーション、規律、信頼が求められる。森のなかでは、プレーヤーたちはお互いの姿を確認できず、注意を逸らすものが沢山あるからだ。ルソーの見解は悲観的だ。「鹿を捕えようという場合、各人は確かにそのためには忠実にその持ち場を守らなければならないと感じた。しかし、もし一匹の兎が彼らのなかのだれかの手の届くところをたまたま通りすぎるようなことでもあれば、彼は必ずなんのためらいもなく、それを追いかけ、そしてその獲物を捕らえてしまうと、そのために自分の仲間が獲物を取り逃すことになろうとも、いささかも気にかけなかった」[邦訳89頁]。ウサギを追跡することは魅力的だ。他のプレーヤーが何をしようとも、そうすることが夕食を保証することになるからだ。もちろんシカを狩る方がより多くの食事にありつけるかもしれないが、それはより大きな危険を伴う。他の狩人がウサギを追いかけたら、シカを狙う狩人は飢えたままでいることになる。形式的には、鹿狩りゲームは、均衡外の利得がウサギを追跡する(H)プレーヤーにとってより大きいことを除けば、ハイ&ロウと同一である。他のプレーヤーが協働するときに限り、シカを追跡することが価値あるものとなる。
    プレーヤー1
プ    鹿   兎
レ  ┌───┬───┐
| 鹿│2、2│0,1│
ヤ  ├───┼───┤
| 兎│1,0│1、1│
2  └───┴───┘


(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第2章 ゲーム,pp.51-53,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:ゲーム理論,走行ゲーム,両性の闘い,ハイ&ロウ,鹿狩り)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

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2019年4月14日日曜日

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言を超えるもの

【真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為遂行的発言「私はそこに行くと約束する」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「約束する」という言葉を発することが、権利と義務を発生させるような慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、そこに行く意図を持っている。
  (ii)私は、そこに行くことが可能であると思っている。
  (iii)このとき、「私はそこに行くと約束する」は、この意味で「真」であるとも言い得る。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性
(2)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 「次の両者の間、すなわち、
(a)発言を行うことが何ごとかを行うことであるということ、と、
(b)その発言が真偽いずれかであるということ、
との間には必然的な対立は一切ない。その点に関して、たとえば、「私はあなたに、それが突きかかろうとしていると警告する」という発言をこれを比較されたい。ここでは、それが突きかかろうとしているということは、同時に警告であり、かつ、真偽のいずれかである。しかもこのことは、この警告の評価に際して、まったく同じ仕方でというわけにはいかないが陳述の評価の際のそれと同じ程度には問題になることである。
 一見したところ、「私は………と陳述する」は、「私は………と主張する」(このように言うことは、………と主張することにほかならない)や、「私はあなたに、………と伝達する」や、「私は………と証言する」等と本質的な点では一切相異しないように思われる。あるいは、これらの動詞の間の「本質的な」差異というようなものが将来確立されることになるかもしれない。しかし、いまのところこの方向で何ごとかがなされたということはない。
(2)さらに、そこで成立すると主張された第二番目の対照、すなわち、遂行的発言は適切か不適切かであり、陳述は真か偽かであるということを再びまた、明白に陳述であるとみなされるいわゆる事実確認的発言の側から考察してみるならば、われわれは直ちに陳述なるものにおいても、およそ遂行的発言に関して起こり得るあらゆる種類の不適切性がここでも起こり得るので《ある》ということを理解するであろう。ここで再び振り返って、陳述なるものは、われわれがたとえば警告などの場合において、「不適切性」と名づけた欠陥(disabilities)と正確に同一の欠陥を持つことがはたしてないものであるか否かを考察してみよう。ここでいう不適切性とは、発言の真偽のいずれともすることなくただ不適切なものとする、さまざまな欠陥のことにほかならない。
 われわれは、すでに、「猫がマットの上にいる」と言うこと、またそう陳述することが同時に、私がその猫がそのマットの上にいると信じていることを含意(imply)しているということの意味を明らかにした。この意味は、「私はそこに行くと約束する」が、私がそこに行く意図を持ち、かつまた、私がそこに行くことが可能であると思っているという二つのことを含意するということに対応する意味――あるいはそれと同じ意味である。したがって、この陳述は《不誠実》という形の不適切行為となり得る。また、猫がマットの上にいると言ったり陳述したりすることによって、これ以降、私は「マットは猫の下にある」と言ったり陳述したりしなければならなくなるということが起こるが、これはちょうど、(たとえば法令において用いられている場合のように)「私はXをYと定義する」という遂行的発言によって、私が将来その語をある特別の仕方で用いなければならなくなると同様であるという意味において、《違反》(breach)という形式の不適切行為ともなり得る。また、このことが約束などの行為といかに関係しているかを理解することも容易であろう。以上のことが意味していることは、陳述がまさにΓの種類に属する二種の不適切性を生み出し得るということである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.226-228,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:真偽値を持つ陳述,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系が存在するための条件

【論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)に追記。
(3.3.3)追記。
(3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
  (3.3.4)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
   (a)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (b)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

 「立法者が自分に権能を与えているルールと一致して行なうことを、裁判所が容認された究極の承認ルールを適用するときに行なうことを「服従」という言葉で記述しようとするとき、どうして誤解を生じるのかというと、それはルール(あるいは命令)に従うということは従う人の側の考え、つまり自分の行なうことは彼自身にとっても他人にとってもそうするのが正しいという考えが必ずしも含まれている《必要》がないからである。彼は自分の行なうことがその社会集団の他の人々にとっての行動の基準を実現することであると考える必要はない。彼はルールに従った自分の行動を「正しい」、「適切だ」、「義務である」と考える必要はないのである。言いかえれば、彼の態度は社会的ルールが容認され、行為の諸類型が一般的基準として扱われるときに常に見られる批判的な性格をもつ必要がないのである。彼はルールをその適用を受けるすべての人に対する基準として容認する内的視点を彼らとともにもっているかもしれないが、そうする必要はないのである。その代わりに、彼はそのルールが刑罰の威嚇によって《彼》にその行為を要求するものであるとしか考えていないかもしれない。彼は結果を恐れて、あるいは惰性からそのルールに服従するかもしれないのであって、そのとき彼は自分自身も他人もそうする責務があると考えていないのであり、また逸脱したからといって自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。しかしルールに対するこのような単なる個人的な関与の仕方は、すべての一般人がルールに従うときに見られるものである《かもしれない》が、それは裁判所を裁判所として活動させるルールに対する裁判所の態度を特徴づけることができないのである。このことは、他のルールの妥当性を評価する究極の承認のルールについて、もっとも明らかに当てはまる。究極の承認のルールがいやしくも存在するとすれば、それは内的視点から正しい判決の公的で共通な基準であるとみなされなければならないのであって、それぞれの裁判官が自分なりに従うにすぎないものであるとみなされてはならないのである。体系のそれぞれの裁判官は場合によっては、これらのルールから逸脱するかもしれないが、一般的には裁判所はそのような逸脱を基本的に公的であり共通のものである基準の違反として、批判的に関与しなければならない。これは単に法体系の効率ないし健全さの問題ではなく、論理的には単一の法体系があると言えるための必要条件である。単に何人かの裁判官が、議会における女王の制定するものが法であるということにかこつけて「自分のためにだけ」行動し、そしてこの承認のルールを尊重しない人々を批判しないならば、法体系の特徴ある統一性と継続性は失われるであろう。なぜならそれらはこの決定的な点において、法的妥当性の共通の基準の容認にもとづいているからである。裁判所の行動のこういった気まぐれさと、一般人が裁判所の矛盾した命令に出会ったときに生じる混乱との間で、われわれはその状況をどのように記述するのかと迷うであろう。われわれは《造化の戯れ》lusus naturae に直面しているのであり、それはあまりに明白なのでしばしば注目されないものについてのわれわれの意識を鋭くするという理由だけからも考察に値するのである。
 したがって、法体系の存在にとって必要で十分な二つの最低条件がある。一方において、その体系妥当性の究極的基準に一致して妥当しているこれらの行動のルールは、一般的に従われていなければならない。他方において、法的妥当性の基準を明記する承認のルールおよび変更のルールと裁判のルールは、公機関の活動に関する共通の公的基準として公機関によって有効に容認されていなければならない。第一の条件が私人が満たす《必要のある》唯一のものであって、彼らはそれぞれ「自分なりに」服従しているだろうし、またその服従の動機はどのようなものでもよいということである。しかし健全な社会では、彼らは実際それらのルールをしばしば行動の共通な基準として受けいれ、またそれらのルールに従う責務を認め、あるいはこの責務をたどっていって、憲法を尊重するというさらに一般的な責務に至ることさえあるのである。第二の条件は、体系の公機関によって満たされなければならない。彼らはこれらのルールを公機関の行動に関する共通の基準とみなし、そしてそれぞれ自分自身や他人の逸脱を違反として批判的に評価しなければならない。もちろん、これらのルールのほかに、単なる個人的な資格における公機関に適用される多くの第1次的ルールがあることもたしかであり、彼らはそれらに従うだけでよいのである。」(中略)「法体系を考察するもっとも実りのある方法であるとわれわれがのべた、第1次的ルールと第2次的ルールの結合があるところでは、ルールをその集団にとっての共通の基準として容認することは、一般人が自分なりにルールに従うことによってそのルールを黙って受けいれているという相対的に受動的な状態とは違ってくるだろう。極端な場合(「これが有効なルールだ」という)法的言語の特徴ある規範的使用を伴った内的視点は公機関の世界に限られるかもしれない。この一層複雑な体系においては、公機関だけが法の妥当性に関する体系の基準を容認し、用いるかもしれない。このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。しかし、そのような社会が存在しえないと考えたり、それを法体系と呼ぶのを拒否する理由はほとんどないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第2節 新しい諸問題,pp.125-127,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている,法体系)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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