2019年4月8日月曜日

発話という行為の構造のまとめ/それでもなお、以下のような種類の発話が存在する。(a)言語の字義通りでない使用法、(b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法、(c)感情表出的な使用法。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

字義通りでない使用法、真面目でない使用法、感情表出的な使用法

【発話という行為の構造のまとめ/それでもなお、以下のような種類の発話が存在する。(a)言語の字義通りでない使用法、(b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法、(c)感情表出的な使用法。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2.3)、(2.4)追記。
(3.3)、(3.4)追記。

発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

「何かを言う」とは、
(A・a)ある一定の音声(音声素)を発する行為(音声行為)。
(A・b)ある一定の単語(用語素)を発する行為(用語行為)。
(A・c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象(意味素)と一定の意味を発する行為(意味行為)。

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(A・1)ある一定の慣習的な効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情を持つ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情を持っていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際にそのように行動しなければならない。
 (2.3)発語内行為の3つの効果
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (2.4)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
 (3.3)発語媒介行為の2つの効果
  (a)目的を達成すること
  (b)後続事件を惹き起こすこと
 (3.4)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

以上は、発話という行為についてのまとめである。
しかし、それでもなお、下記のような発話については、その分析の対象外である。
 (a)言語の字義通りでない使用法
 (b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法
 (c)感情表出的な使用法

 「われわれは行為遂行的発言と事実確認的発言との間の当初の区別と、顕在的な行為遂行的単語、ことに動詞の一覧表を発見するという計画からしばらく離れて、何ごとかを言うことが何ごとかを行うことであるということの意味を考察することによって、まったく新たな一歩を踏み出したのであった。その結果《意味》(meaning)をもつ発語行為(その中には、音声行為、用語行為、意味行為がある)、何ごとかを言いつつある一定の力《を》示す発語内行為、何ごとかを言うことによってある一定の《効果を達成する》発語媒介行為の三者を区別した。
 さらに前回の講義においては、これらとの関連において結果や効果という語のもついくつかの意味を区別した。とくに、効果が発語内行為に伴って現れる三つの意味、すなわち、了解の獲得、効力の発生、反応の誘発の三者を区別した。また発語媒介行為に関しては、目的を達成することと後続事件を惹き起こすこととの間に大雑把な区別をつけた。発語内行為は慣習的な行為であり、他方、発語媒介行為は慣習的な行為では《ない》。たしかに、これら両種類の行為――あるいはより正確に言えば、同じ名前で呼ばれる行為(たとえば、警告という発語内行為や納得させるという発語媒介行為と同等の行為)――は、いずれも非言語的に遂行され、達成され得る。
 しかし、そのような場合においても、たとえばそれが警告などのような発語内行為の名称に値するためには、《慣習的である》非言語的な行為でなければならないのである。他方、発語媒介行為の場合は、その達成のために慣習的行為を利用することがあるにしても、それ自身は慣習的ではない。裁判官は、何が述べられたかということを聴くことによって、いかなる発語行為といかなる発語内行為が遂行されたかを判定できるものでなければならないが、しかしいかなる発語媒介行為が達成されたかということを判定できるものである必要はない。
 最後に、われわれは、「いかにしてわれわれは言語を使用しているか」ないし「何ごとかを言いつつ何を行なっているか」ということに関して、さらに別の全般的な問題が存在しているということを述べた。この問題は、これまでの問題とはまったく異質のものであり、かつ、直感的にも異質であるように見えるということについても述べた。そして、それはわれわれがまだ足を踏み入れていないこれから先の問題であるということも示した。たとえば、ほのめかすこと(およびこれに類する、言語の《字義通りでない》(non-literal)使用法)や、冗談(およびこれに類する、言葉の《真面目でない》(non-serious)使用法)や、毒づいたり、ひけらかしたりすること(これらは、おそらく言語の感情表出的(expressive)な用法であろう)である。実際、われわれは、「xと言って、私は冗談を述べていた」(………とほのめかしていた、自分の感情を表していた等々)と言うことができる。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第10講 言語行為の一般理論Ⅳ,pp.200-201,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2019年4月7日日曜日

法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在、価値、基礎づけ

【法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的妥当性についての内的陳述
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
 「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究極の承認のルールによって、承認されている。」

 究極の承認のルール
   ↓
 特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
 (3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

  ???
   ↓
 究極の承認のルール……仮説
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.2)価値についての陳述なのか?
 「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく体系は支持するに値する。」

 究極の承認のルール……価値についての陳述
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「たしかに、この究極のルールについて多くの疑問がある。このルールがイギリスの裁判所、立法府、公機関あるいは私人の実際の活動において究極の承認のルールとして実際に用いられているかどうかをたずねることができる。あるいは、われわれの法的推論過程は今では放棄されてしまっている体系の妥当性の基準を用いたつまらないゲームだったのだろうか。法体系の満足すべき形式は、まさにそのようなルールを根底にもっていることなのかどうかをきくことができる。そのようなルールは害よりも益をもたらすだろうか。それを支持する十分な理由があるのだろうか。そうする道徳的責務があるのだろうか。これらが極めて重要な疑問であることは明らかであるが、承認のルールについてそれらの疑問を出すとき、それと同じく明らかなのは、われわれが承認のルールの助けをかりて答えたその他のルールに対する疑問ともはや同じ種類の疑問に答えようとしているのではないということである。特定の制定法が妥当するのは、それが議会における女王の制定するものは法であるというルールを満足させているからだ、と言うことから進んで、イギリスにおいてこの最終的なルールは究極の承認のルールとして裁判所や公機関や私人によって用いられていると言うとき、われわれはその体系のあるルールの妥当性を主張する法についての内的陳述から事実についての外的陳述、つまり体系の観察者がたとえ自分はその体系を容認していなくても行なう陳述に移っているのである。同様に、特定の制定法が妥当するという陳述からその体系の承認のルールは優れたものであって、それにもとづく体系は支持するに値するという陳述に移るときもまた、われわれは法的妥当性についての陳述から価値についての陳述に移っているのである。
 承認のルールの法的究極性を強調した人々はこのことを表明するために、体系のその他のルールの法的妥当性は承認のルールを参照することによって証明されうるのに対して、承認のルール自体の妥当性は証明されえないのであって、それは「想定される」か「仮定される」かあるいは「仮説」なのであるとのべた。しかしながら、これは重大な誤解を招くものであろう。裁判官や法律家であれ、あるいは一般人であれ、彼らが法体系の日常の運用のなかで特定のルールが法的に妥当すると言うとき、その陳述はたしかに一定の前提を伴っている。それらは、その体系の承認のルールを容認している人々の観点を表明している法についての内定陳述であって、それゆえそのようなものとして、体系に関する事実の外的陳述ではのべることができそうな多くのことをのべないままにしておくのである。このように、のべないままにされている事柄は法的妥当性についての陳述の通常の背景や文脈を形成し、したがってそれらの陳述によって「前提」されていると言われるのである。しかしそれらの前提とされている事柄が何であるかを正確に理解し、それらの性質を曖昧にしないことが大切である。それらは二つのことからなっている。第一に、ある一定の法のルール、たとえば特定の制定法が妥当すると真剣に主張する人は、法を確認するために適当なものとして容認している承認のルールをみずから利用しているのである。第二に、この承認のルールの観点から彼は特定の制定法を評価するのであるが、この承認のルールは彼によって容認されているだけでなく、その体系の一般的な活動のなかで実際に受けいれられ使用されているのが実状なのである。もしこの前提の正しさが疑われるならば、それを実際の活動、つまり裁判所が法としてみなされるべきものを確認する仕方とその確認が一般に黙認されることとに照らして確証することができるだろう。
 これら二つの前提は、証明されえない「妥当性」の「想定」であると記述しても十分ではないのである。あるルールの体系の一部としての地位が承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているような、ルールの体系《内部》で生じる疑問に答えるために、われわれは「妥当性」という言葉を必要とするにすぎないし、また普通その言葉を用いるだけなのである。基準を与える承認のルールそのものの妥当性についてそのような疑問は生じえない。承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されているのである。承認のルールの妥当性は「想定されるが証明されえない」と、曖昧に言うことによって、この単純な事実を表現することは、メートルによるすべての測定の正しさを究極的に決めているパリのメートル原器が、それ自体正しいことは想定できるが決して証明できないと言うのと同じである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.117-119,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,内的陳述,外的陳述,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月6日土曜日

5.(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの法哲学

【(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.7)追加。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
 (2.7)ベンサムの法哲学
  (2.7.1)法律の規定を検証するための、人間本性の原理を体系的に考察すること。
  (2.7.2)法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として、実際的な見地から法律を見ることの模範を示すこと。
  (2.7.3)法観念一般、法体系の観念やそれらの中に含まれている様々な一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃すること。
   (i)曖昧さは、明確さと正確さによって対処すること。
   (ii)細部は、一般論によってではなく細部によって論ずること。
   (iii)既存のものが悪いことを示すだけではなく、具体的な改善案を提示すること。
  (2.7.4)すべての法律を、体系的に配列された一法典に転換すること。
   (a)従来の法典
    (a.1)専門用語が明確に定義されていない。
    (a.2)その結果、専門用語の意味を知るために、絶え間なく過去の判例を参照する必要がある。
   (b)体系的な法典
    (b.1)解釈のために必要なものを、すべて含む。
    (b.2)法典の修正や改善に必要な情報が、つねに整えられている。
    (b.3)法典の構成要素、諸要素間の関係、命名法、配列の仕方等、体系化方法を明確にする。
    (b.4)体系の全体構成において、不足要素が明確にされており、追加が容易にできる。
  (2.7.5)「司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった」。

 「栄誉はすべて彼のものである――彼の特別な資質以外には何もこれを成し遂げることはできなかっただろいう。

彼の不屈の忍耐力、他の人の意見によって支援されることを必要としない自立心、きわめて実際的な性分、総合的な習性――そして、とりわけ独自の方法が必要であった。

形而上学者は曖昧な一般論を武器としてこの主題にしばしば取り組んだが、自分たちが見いだしたままで進展させることはなかった。

法律は実際的な問題である。そこで検討されなければならないものは手段と目的であって、抽象観念ではなかった。

曖昧さは曖昧さによってではなく、明確さと正確さによって対処された。

細部は一般論によってではなく細部によって論じられた。

このような主題においては、既存のものが悪いことを示すだけでは何らかの進展を図ることはできず、どのようにすればそれらを良いものにできるかを示すことも必要であった。

ベンサム以外には、私たちが読んだことのあるどのような偉人もこのことをするのに適任ではなかった。彼はそれを決定的に成し遂げた。これらの著作[著作集]とこれから続いて出版される巻を見ていただきたい。

 ベンサムが成し遂げたことの詳細については立ち入ることはできない。ある程度の要約を作るだけでも数百頁が必要になるだろう。

私たちの評価を少数の項目のもとにまとめておくことにしよう。第一に、彼は法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として実際的な見地から法律を見ることの模範を示した。

第二に、彼は法観念一般、法体系の観念やそれらのなかに含まれているさまざまな一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃した。

第三に、彼は《法典化》(codification)、言い換えれば、すべての法律を成文の体系的に配列された一法典に転換することの必要性と実現可能性を実証した。

それは、単一の定義を含んでおらず、あらゆる専門用語の意味を知るために絶え間なくそれまでの判例を参照しなければならないナポレオン法典のような法典ではなく、解釈のために必要なものをすべてその中に含み、法典そのものを修正したり改善したりするための準備がつねに整えられているような法典である。

彼はそのような法典がどのような部分から成り立っているか、そして部分同士はどのような関係にあるかを示し、彼らしい区別と分類によって、その命名法と配列の仕方はどのようなものでなければならないか、あるいはどのようなものになりうるかを示すために多くのことをなした。

彼がやり残したことについても、彼は他の人が多少とも簡単にできるようにしておいた。

第四に、彼は民法が備えようとしている社会の緊急事態や民法のもろもろの規定を検証する人間本性の原理を体系的に考察した。この考察は、精神的利益が考慮されなければならないときはつねに(私たちがすでにほのめかしたように)不完全なものであるが、物質的利益を保護するために策定されるあらゆる国の法律にとっては優れたものである。

第五に、(注目すべき仕事がすでになされていた刑罰という主題については言うまでもないことだが)彼は、司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった。

彼がその原理をひとつ残らず確立させたので、実際の制度を示そうとするときでさえするべきことはほとんど残されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.141-142,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:ベンサムの法哲学,法律,人間本性,目的と手段,法典)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月5日金曜日

9.あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

出会い

【あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。
 (a)関係の成立:我-汝の関係が成立しているとき、私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。
 (b)捉えられた汝は、印象のように部分的な対象ではない。汝の存在の全体が捉えられている。
 (c)捉えられた汝は、私の恣意的な想像物ではない。私という存在の全体が、汝を捉えている。
 (d)私に引き起こされた情緒によって、汝に捉えられているのではない。
 (e)関係の受動性:関係は、探し求めても、見い出されない。私が汝と出会うのは、汝が私に向い寄って来るからである。
 (f)関係の能動性:汝との直接的な関係のなかへ歩み入るのは、私の存在の全体をかけた行為である。

 「私が《汝》と出会うのは恩寵によってである、――探しもとめることによっては《汝》は見いだされない。

しかし私が《汝》にむかってあの根元語を語りかけることは、私の存在そのものの行為、私の本質的行為である。

 私が《汝》と出会うのは、《汝》が私に向いよってくるからである。だが、《汝》との直接的な関係のなかへ歩みいるのはこの私の行為である。

このように、関係とは《選ばれること》であると同時に《選ぶこと》であり、受動(Passion)であると同時に能動(Aktion)である。

なぜなら、およそ存在の全体をかけた能動的行為においては、あらゆる部分的行為は止揚され、したがって――たんに部分的行為の限界に根ざしているにすぎぬ――あらゆる行為感覚も止揚されてしまうので、その行為の能動性は受動に似たものになってしまうからである。

 根元語・《我-汝》は、ただ存在の全体でもってのみ語られ得る。

私の存在が集一し溶解してひとつの全的存在となることは、決して私のわざによることではないが、私なくしては決して起こり得ない。

私は《汝》との関わりにおいて《我》となり、《我》となることによって私は、《汝》を語るのである。あらゆる真に生きられる現実は出会いである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.17-18、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:出会い,印象,想像,情緒,関係,関係の受動性,関係の能動性)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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21.「美」とは「陶酔」の感情が、ある行為や対象をして、私たちを魅了し尽くしてしまうように、強制する事象である。例として、強い欲情、祝祭、競闘、冒険、勝利、残酷さ、破壊、気象、麻薬、意志による陶酔。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

美とは何か

【「美」とは「陶酔」の感情が、ある行為や対象をして、私たちを魅了し尽くしてしまうように、強制する事象である。例として、強い欲情、祝祭、競闘、冒険、勝利、残酷さ、破壊、気象、麻薬、意志による陶酔。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)ある行為や対象がもつ「美」とは何か。
 自らの力の上昇や充満の感情が、ある行為や対象をして、私たちを魅了し尽くしてしまうように、強制する。この事象が、ある行為や対象の「理想化」であり、行為や対象の主要特徴が際立たせられ、その他の諸特徴が姿を消す。
(2)「美」の生理学的先行条件
 力の上昇や充満の感情が、心身の興奮を高める。これが「陶酔」である。例として、
 (a)性的興奮
 (b)大きな欲望、強い欲情に伴って現れる陶酔
 (c)祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔
 (d)残酷さの陶酔
 (e)破壊における陶酔
 (f)気象学的影響のもとにおける陶酔、たとえば春の陶酔
 (g)麻酔薬の影響のもとでの陶酔
 (h)意志による陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔

 「《芸術家の心理学によせて》―――芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である。すなわち、《陶酔》がそれである。

陶酔がまず全機械の興奮を高めておかなければならない。それ以前には芸術とはならないからである。

実にさまざまの条件をもったすべての種類の陶酔がそのための力をもっている。なかんずく、性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。

同じく、あらゆる大きな欲望、あらゆる強い欲情にともなってあらわれる陶酔がそうである。祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔。残酷さの陶酔。破壊における陶酔。或る種の気象学的影響のもとにおける陶酔、たとえば春の陶酔。ないしは麻酔薬の影響のもとでの陶酔。最後に意志による陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔。

―――陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である。この感情から人は事物に分与するのであり、私たちから奪い取るよう事物を《強いる》のであり、事物に暴力をくわえるのである、

―――人はこの事象を《理想化》と呼んでいる。

私たちはここで一つの偏見から抜けだそう。すなわち、理想化は、一般に信ぜられているように、些細なもの、副次的なものを取り去ったり除き去ったりすることにあるのでは《ない》。主要特徴を物すごく《際立たせること》がむしろ決定的なことであり、そのために他の諸特徴が姿を消すのである。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『偶像の黄昏』或る反時代的人間の遊撃、八、ニーチェ全集14 偶像の黄昏 反キリスト者、pp.94-95、[原佑・1994])
(索引:美,陶酔,欲情,欲望,祝祭,競闘,冒険,勝利,残酷さ,破壊,気象,麻薬,意志)

ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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4.レントシーキングの例:(a)市場の独占、(b)市場の透明性を低下させ、他者を食いものにする、(c)政府から資源を移転する(例:補助金給付,天然資源へのアクセス権,独占輸入権,社会へのコスト転嫁,損失補填)(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

レントシーキング

【レントシーキングの例:(a)市場の独占、(b)市場の透明性を低下させ、他者を食いものにする、(c)政府から資源を移転する(例:補助金給付,天然資源へのアクセス権,独占輸入権,社会へのコスト転嫁,損失補填)(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.2.2)へ追記。

 (4.2.2)レントシーキング
  (a)市場の競争性を低下させ、独占力を確保する。(独占利益(モノポリー・レント))
   (a.1)参入障壁や、競争の障壁を構築する。
   (a.2)政府に、市場の競争性を低下させる法律を、作らせる。
  (b)市場の透明性を低下させ、情報の非対称性を利用する。
   (b.1)公開市場ではなく店頭市場を利用し、買い手に必要な情報を与えず、取引を有利に進める。
   (b.2)略奪的貸付や濫用的クレジットカード業務。
   (b.3)他者を食いものにすることを規制する法律を、政府に作らせない。
  (c)政府からの、公然または非公然の資源移転と、補助金給付。
   (c.1)政府から、天然資源へのアクセス権を有利な条件で入手する。
   (c.2)政府から、独占輸入権(輸入割当(クオータ))を与えられる。
   (c.3)政府から、コストを社会に転嫁することを許される。
   (c.4)過剰なリスクを取ったことによる失敗の損失を、政府に補填してもらう。


 「さまざまなレントシーキング

 これまで本書は、富裕層が残りの人々を食いものにする目的で政治プロセスの協力を求める手法の多くに、“レントシーキング”のレッテルを貼ってきた。レントシーキングはさまざまな形態をとる。

政府からの公然・非公然の資源移転と補助金給付。

市場の競争力を低下させる法規。既存の競争法にかんする甘い取り締まり。

企業が他者を食いものにすることをゆるす法律や、企業がコストを社会に転嫁することをゆるす法律……。

地代(レント)という用語はもともと、土地からあがる収益を指していた。地主は地代を得るために、何かを“行なう”必要はなく、ただ土地を所有しているだけでいい。この状況は、“努力”の提供とひきかえに資金を得る労働者と対照的だ。

やがて“レント”は地代の意味だけでなく、独占状態を管理することで得る利益(独占利益もしくはモノポリー・レントと呼ばれる)という意味を含むようになり、さらには、所有権から生まれる同じような収益を全般的に指すようになった。

たとえば、政府が一企業に砂糖の独占輸入権(輸入割当(クオータ))を与えた場合、権利の所有によって生み出される余分な収益は、“クオータ・レント”と呼ばれる。

 天然資源に恵まれた国々は、レントシーキングが活発なことで知られている。資源へのアクセス権を有利な条件で入手すれば、みずから富を創出するより、はるかにたやすく財産を築き上げることができるからだ。

資源国ではたいていの場合、マイナスサム・ゲームが繰り広げられる。原因のひとつとして挙げられるのは、天然資源に恵まれていない国と比べて、資源国の経済成長率がおおむね低くなるという点だ。

 豊かな資源を持っているなら、貧困者の援助に使ったり、国民皆教育や国民皆保険の財源に使ったりできると思われがちだが、情けないことにそうはなっていない。

労働と貯蓄に対する課税がインセンティブを弱める可能性があるのに対して、土地や石油やほかの資源から生じる“レント”に課税をしても、天然資源は同じ場所に存在しつづけ、いつかは採掘されるため、インセンティブに悪影響がおよぶ心配はない。基本的に、レントからの豊かな税収は、社会保障支出と公共投資――たとえば医療や教育――の両分野に振りむけることができる。

しかし、世界の不平等大国の中には、名だたる資源大国がふくまれている。このような国では、少数の人々(たいていは政治権力を持つ人々)が、ほかの人々より上手にレントシーキングを行い、資源から生じる利益の大部分を確保してしまう。

ラテンアメリカで最も豊かな産油国のベネズエラでは、ウゴ・チャベス大統領が登場するまで、国民の半分が貧困生活を余儀なくされていた。豊かさと貧しさが混在する国情が、チャベスのような変革者を生み出したのである。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.85-87,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:レントシーキング)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2019年4月4日木曜日

政策の問題は、諸個人の利益や選好の比較衡量、調整を伴う政治的判断であり、民主的に選挙された代表者が行なう。司法判断は、新たな法の創造ではなく原理の問題であり、論証された権利は、多数派の利益に優越する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政策の問題、原理の問題

【政策の問題は、諸個人の利益や選好の比較衡量、調整を伴う政治的判断であり、民主的に選挙された代表者が行なう。司法判断は、新たな法の創造ではなく原理の問題であり、論証された権利は、多数派の利益に優越する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(4)、(5)追記。

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
  法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理と、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)(狭義の)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)原理と政策を区別する理由
 広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。
(4)立法府は、政策の論証を追求し、立法措置を採択する権限を有する。
 政策の問題:社会全体の福祉を追求しつつ、個人の目標や目的を調整する問題。
 (4.1)この調整は、個々人の利益や選好を相互に比較衡量することにより客観的になされるが、この種の比較衡量が、原理の問題として理論的に実行可能かどうかは大いに疑問である。
 (4.2)むしろ、考慮さるべき様々な利害関係を正確に表現することを目的とする何らかの政治過程の作用を通じてなされねばならない。
 (4.3)社会の統治は、大多数の人々により選挙され彼らに対し責任を負う代表者によって遂行されるべきである。裁判官は多くの場合、選挙によらず任命され、立法者のように選挙人に対し事実上責任を負わない。
 (4.4)ある裁判官が新たな法を創造し当面の事案にこれを遡及的に適用すれば、敗訴者は、彼が既に負っていた義務に違背したからではなく、訴訟の後に創られた新たな義務に違背したが故に処罰されることになる。これは、不正である。
(5) 裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 原理の問題:原理の論証は、論証で述べられた権利を主張する者に認められる一定の利益に着目する。
 (5.1)原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない。
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。

 「司法は立法に服するべきである、という人口に膾炙した考え方は、司法の法創造性を否定する二つの反論により与えられている。第一の反論は、社会の統治は大多数の人々により選挙され彼らに対し責任を負う代表者によって遂行されるべきことを主張する。裁判官は多くの場合、選挙によらず任命され、立法者のように選挙人に対し事実上責任を負わないが故に、裁判官が法を創造することは上記の主張に違背することになる。更に第二の反論は次のように主張する。すなわち、ある裁判官が新たな法を創造し当面の事案にこれを遡及的に適用すれば、敗訴者は、彼が既に負っていた義務に違背したからではなく、訴訟の後に創られた新たな義務に違背したが故に処罰されることになる、と。
 これら二つの反論は相俟って、司法は可能なかぎり法創造的機能をもつべきでない、という伝統的な理念を支持することになる。しかし、これらは確かに政策から生ずる判決に対しては有力な反論と言えても、原理から生ずる判決に対してはそれほどの効力を持ち得ない。第一の反論、すなわち法は選挙により選出され選挙人に対し責任を負う公的な代表者により創られるべきであるとする反論は、法を政策の問題、つまり社会全体の福祉を追求しつつ個人の目標や目的を調整する問題として捉えるかぎり、全く異論の余地のないものと思われる。この調整は、個々人の利益や選好を相互に比較衡量することにより客観的になされうるであろうが、この種の比較衡量が理論上でさえ意味をもちうるかどうかは、甚だ疑問である。しかしいずれにしても、この点に関し正確な計算などは現実に不可能である。したがって政策的な決定は、考慮さるべき様々な利害関係を正確に表現することを目的とする何らかの政治過程の作用を通じてなされねばならない。代表民主制の政治体制は様々な利害関係に対しただ中立的に作用するが、選挙によらず選出され、郵便袋やロビイストや圧力団体を有していない裁判官が、裁判官室で相競合する様々な利害を調整することを認める体制よりは、この種の代表民主制の方がより良い結果を生むであろう。
 第二の反論が説得力をもつのも、政策から生じた決定に対してである。訴訟の後に創出される何らかの義務の名のもとに無実の人間の権利が犠牲にされることを、われわれは不正と考えている。」(中略)「裁判所が原理につき判断を下すかぎり、第一の反論はそれほど当を得たものとはいえなくなる。とういのも、原理の論証は、相互に異なる様々な要求や関心がいかなる性格を有し、どの程度の強さで社会全体に分散しているかに関する想定には依拠しないことが多いからである。逆に原理の論証は、論証で述べられた権利を主張する者に認められる一定の利益に着目する。そしてこの利益は、政策の論証によりこの利益を否定して、より効率的な利益配分を追求すること自体を無意味にするようなものとして捉えられている。それ故、政治的多数派の利益よりも権利が優位する場合、このような多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 司法が法創造的機能を有することに対する第二の反論は、原理の論証に対しいかなる効力をももちえない。原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,2 権利のテーゼ,B 原理と民主制,木鐸社(2003),pp.101-103,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:政策の問題,原理の問題)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2019年4月3日水曜日

人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存しているので、生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

人間の傷つきやすさと他者への依存性

【人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存しているので、生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)人間に関する一つの重要な事実
 (a)傷つきやすさ
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい存在である。
  (a.1)幼年時代の初期
  (a.2)病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクト
  (a.3)一生の間、障碍を負い続ける場合
  (a.4)老年期
 (b)他者への依存性
  人は、他者に依存して生きる存在である。私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちの保護と支援を受けるからである。
(2)道徳哲学への影響
 (2.1)しばしば考えられてきた道徳哲学
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、健康で理性的な道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。道徳の問題は、私たちと「彼ら」の問題である。
 (2.2)事実に基づく真の道徳哲学の要件
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身であり、道徳の問題は私たち自身の問題である。

 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ affliction[受苦]に見舞われやすい vulnerable[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花 flourishing しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。
 これら二つの関連する事実、すなわち、私たちの〈傷つきやすさ〉と受苦に関する事実と、私たちがいかに特定の他者たちに依存しているかに関する事実が特別な重要性を帯びていることはあまりに明白なので、人の〔生の〕条件に関するどんな説明も、その説明を与えようとする者が信用を得たいと望むかぎり、それらの事実に中心的な位置を与えることは避けられないように思われる。とはいえ、西洋の道徳哲学の歴史は、そうではないことを示唆している。プラトンからムーアにいたるまで、さらにはそれ以後も、いくつかのまれなケースを除いて、たいていの場合、ヒトの〈傷つきやすさ〉と受苦については、また、その両者のつながりと私たちの他者への依存については、ほんのついでにしか言及されていない。人の〔力の〕限界と、そこから帰結する他者との協力の必要性に関するいくつかの事実は、より一般的なしかたでは承認されている。しかし、たいていの場合、そいうした諸事実を承認するのは、たんにその後それらを脇に置くためにすぎない。そして、道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍 disability について考える場合、「障碍者 the disabled 〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:人間の傷つきやすさ,他者への依存性,道徳哲学)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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2019年4月2日火曜日

発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

発話という行為の構造

【発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

 「発語内行為というこの概念をさらに研磨する作業に取りかかるのに先立って、発語行為、《および》発語内行為の両者を、さらに第三番目の種類に属する行為と比較してみることにしよう。
 すなわち、発語行為を遂行し、それに伴って発語内行為を遂行するということがさらに、いま一つ別種の意味の行為を遂行することであるというような言葉の使用の第三の意味(C)が存在する。何かを言うことは、多くの場合というよりは、むしろ通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して結果としての効果を生ずることがある。さらに、その効果を生ぜしめるという計画(design)、意図(intention)、目的(purpose)を伴って発言を行うことも可能である。したがって、以上の点に留意するならば、話し手は目下の分類法における発語行為、もしくは発語内行為の遂行に対して、(C・a)間接的に(obliquely)のみ関連する、あるいは、(C・b)全然関連を持たないような、ある行為を遂行したのだと言うことができるであろう。この種の行為の遂行を《発語媒介的行為》(perlocutionary act, perlocution)の遂行と呼ぶ。しかし、当面はさしあたりこの概念について、これ以上の細心な定義を与えることは控え――もちろん、必要なことではあるが――単に例を掲げるにとどめておこう。
(例1)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「彼女を射て」で射つことを意味し(mean)、「彼女」で彼女に言及していた。
 行為(B)発語内行為
  彼は私に、彼女を射つように促した。(あるいは助言した。命令した等々)
 行為(C・a)すなわち、発語媒介行為
  彼は私に対して、彼女を射つことを説得した。
 行為(C・b)
  彼は私に彼女を射たせた。
(例2)
 行為(A)発語行為
  彼は私に「君はそれをすることができない。」(You can't do that.)と言った。
 行為(B)発語内行為
  彼は、私がそれを行うことに抗議した。
 行為(C・a)発語媒介行為
  彼は私を制止した(pull up, check)。
 行為(C・b)
  彼は私を制止した。彼は私を正気に戻した等々。
  彼は私を悩ませた。
 さらに同様に、次のように区別することができるだろう。すなわち、「彼は………と言った」は発語行為であり、「彼は………と論じた」は発語内行為であり、また、「彼は、私に………と納得させた」は発語媒介行為である。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第8講 言語行為の一般理論Ⅱ,pp.174-176,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

主権的立法権の存在と最高の承認のルール

【主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違えてはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

最高の承認のルールとは何か。
(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
 (a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
 (b)別の承認のルール
 (a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照らして確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されない。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
 (2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
 (2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
 (2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としている」という理論は、誤りである。

 「体系の他のルールの妥当性の評価基準を与えている承認のルールはわれわれが明らかにしようと試みる重要な意味をもっており、《究極の》ルール the ultimate rule である。そして普通見られるように、いくつかの基準が相対的な従属と優越という順序に位置づけられているところではそのうちの一つが《最高》supreme なのである。承認のルールの究極性とその基準のうちの一つがもつ最高性というこれらの観念は注目に値する。われわれが拒否した理論から、つまりすべての法体系のどこかに、たとえそれが法的形式の背後にあっても、法的に無制限な主権的立法権が存在しなければならないという理論から、これらの観念を解き放すことは重要である。
 最高の基準と究極のルールというこれら二つの観念のうち、第一のものは非常に容易に定義できるものである。法的妥当性の基準あるいは法源が最高であると言ってよいのは、その基準に照らして確認されたルールが、たとえその他の諸基準に照らして確認されたルールと衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認されるのであるが、それにひきかえ他の諸基準に照らして確認されたルールは最高の基準に照らして確認されたルールと衝突すればそのようには承認されないという場合である。比較の観点から、われわれがすでに用いた「優越的」基準や「従属的」基準という概念について、同じような説明をすることができる。優越的基準や最高の基準という観念は単に尺度上の《相対的》位置に関係しているだけで、法的に《無制限》な立法権というどんな観念をも意味していないことは明らかである。しかし、「最高」と「無制限」ということは少なくとも法理論上では容易に混同されるものである。その一つの理由は、より単純な形態の法体系において究極の承認のルール、最高の基準、法的に無制限な立法府という諸観念が一致してくるように思えることである。 というのは、立法府が何ら憲法的制限に服さず、みずからの制定法によって自己以外の源から生じるその他の法のルールすべてから法としての地位を取り去る権限をもっているところでは、その立法府の制定法は妥当性の最高の基準であるということが、その体系の承認のルールの一部になっているからである。憲法理論によれば、これがイギリスにおける立場なのである。しかし立法府がそのように無制限ではないアメリカ合衆国の体系のような諸体系においてさえ、妥当性に関して一つの最高の基準を含む一組の諸基準を与える究極の承認のルールが完全にとりこまれているだろう。改正権を規定していないかあるいはいくつかの条項を改正権の範囲外におく憲法によって通常の立法府の立法権限が制限されているところでも、そのとおりの状況であろう。「立法」という言葉をもっとも広く解釈したとしても、ここでは法的に無制限な立法府は存在していないのであるが、その体系はもちろん究極の承認のルールを含んでいるし、憲法の条項のなかに妥当性に関する最高の基準を含んでいるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.115-116,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:主権的立法権の存在,最高の承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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4.(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサム道徳論の限界を超える

【(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)、(b.4)追記。
(2.5.1)~(2.5.3)追記。
(3.2.1)、(3.2.2)追記。


(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)共感
  (b.4)一般的博愛:義務の感情や個人的利害からではなく、誰でもが抱く博愛の感情
  (b.5)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること。
    また賞賛、崇敬する対象を必要とすること。
  (b.6)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.9)芸術家の情熱である美への愛
  (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.11)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。
  (3.2.1)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練すること。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
  (3.2.2)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「共感はベンサムが私欲によらない動機として認めていた唯一のものであるが、それはある限定的な場合を除けば有徳な行為を保証するものとしては不十分なものであると彼は思っていた。

他のあらゆる感情と同じように、個人的愛情は第三者に危害をもたらしがちであり、したがってつねに抑制される必要があるということを彼はよく理解していた。

人類全体に作用する動機と考えられている一般的博愛については、それが義務の感情と切り離されたときに現われる本当の価値を評価し、あらゆる感情のなかでもっとも弱くもっとも不安定なものとした。

人類が影響を受け、彼らを善に導くかもしれない一つの動機として、個人的利益だけが残された。したがって、ベンサムの世界観は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている集合体というものであり、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことは3つの源泉――法律、宗教および世論――から生じる希望と恐怖によって防止されなければならないというものである。

人間の行為を拘束するものとみなされたこれらの3つの力に対して、彼は《強制力》(sanction)という名称を与えた。すなわち、法律の与える賞罰によって作用する政治的強制力、宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する宗教的強制力、彼が特徴的に《道徳的》強制力とも呼んでいる、私たちの同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する《民衆的》強制力である。


 このようなものが世界についてのベンサムの見解である。これから私たちは、弁明しようという精神でも非難しようという精神でもなく、冷静に評価しようという精神をもって、人間本性や人間の生についてのこのような見方がどの程度まで通用するのか――すなわち、それは道徳においてどれほどのことを成し遂げるのか、また、政治・社会哲学においてどれほどのことを成し遂げるのか、さらに、個人にとってどのように役に立ち、社会にとってどのように役に立つのか――を検討することになる。

 これは個人の行為については、世俗的な慎慮と表面的な誠実さや慈愛についてもっとも明白な指示をいくつか示すこと以上には何の役にも立たないだろう。

個人の性格形成に際して助けになろうとしないような、また自己涵養への願望のようなもの、さらにはそのような能力と言ってもよいだろうが、そのようなものが人間本性に存在していることを認識しないような倫理学体系のもつ欠陥については詳述する必要はない。

そして、仮に認識していたとしても、自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情を含めた、人間が抱きうる精神的感情の約半数の存在を見落としているために、人間のこの重要な義務にとってほとんど助力を与えることができていないようなものについても同様である。

 道徳は2つの部分から構成されている。そのひとつは自己教育、すなわち人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することである。この領域はベンサムの体系においては空白である。

もうひとつの同等の部分は、人間の外面的な行為の規制に関するものであるが、第一のものがなければ、まったく不十分で不完全なものであるに違いない。

というのも、ある行為が私たち、あるいは他の人々の感情や欲求を規定する際にどのような影響を及ぼすかということを問題の一部として考慮しないとしたら、ある行為が私たち自身、あるいは他の人々の世俗的利益に対してどのような仕方で多くの影響を与えるかを、私たちはどのようにして判断できるだろうか。

ベンサムの原理に立脚している道徳論者も、殺すなかれ、放火するなかれ、盗むなかれという程度のことには到達できるだろう。

しかし、人間の行為のより微妙な違いを規定したり、この世界の状況に影響を及ぼすこととはまったく別に、性格の深みに影響するような人間の生についての事実――たとえば、男女間の関係、家族一般の関係、その他の何らかの親密な社会的・共感的関係など――に対して、より重要な道徳性を認める能力があるだろうか。

これらの問題の道徳性は、ベンサムがその適格な判定者でもなく、彼が決して考慮することのなかったような事柄を考察することに左右されるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.130-132,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳論,自らの精神のあり方を対象とする諸感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年3月31日日曜日

3.有害なものを避け幸福を願う欲求だけでなく、他の諸欲求や感情も道徳論にかかわっている:完全性への欲求、秩序と調和への愛、良心の感情、愛することへの愛、個人の尊厳の感情、廉恥心など。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳と人間の諸欲求、諸感情

【有害なものを避け幸福を願う欲求だけでなく、他の諸欲求や感情も道徳論にかかわっている:完全性への欲求、秩序と調和への愛、良心の感情、愛することへの愛、個人の尊厳の感情、廉恥心など。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.4)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること、また賞賛、崇敬する対象を必要とすること
  (b.5)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.6)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.7)芸術家の情熱である美への愛
  (b.8)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.9)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。

 「彼が見落としているのは、厳密な意味での人間本性の道徳的部分――完全性への欲求や是認したり非難したりする良心という感情――だけではない。彼は他のあらゆる理想的目的をそれ自体として追求することを人間本性に関する事実としてほとんど認識していない。

廉恥心や個人の尊厳――すなわち他者の意見とは無関係に、あるいはそれに反抗して作用する個人の高揚や堕落の感情、芸術家の情熱である《美》への愛、あらゆる事物における《秩序》、適合、調和やそれらが目的にかなっていることへの愛、他の人間に対する力という狭い意味の力ではなく、私たちの意思を実現させる力である抽象的な《力》への愛、運動や活動に対する渇望であって、それと反対のものである安楽への愛にほとんど劣らない影響を人間の生に及ぼす信条である《行為》への愛。

これらの人間本性の有力な構成要素のうちどれも「行為の動機」の中に位置を占める価値があると考えられていないし、これらのうちベンサムの著作のどこかでその存在を認知されていないものはおそらくひとつもないだろうが、そうした認知に立脚している結論はひとつもない。

もっとも複雑な存在である人間も彼の目にはきわめて単純な存在に映っている。

共感という項目においてすら、彼の理解はより複雑な形態をとっているその感情――《愛すること》への愛、すなわち同情的な支持や賞賛したり崇敬したりする対象を必要とすること――までは及んでいない。

仮に彼が人間本性のうちのより深遠な感情のいずれかについて熟考したとしても、それは単に奇特な趣向とみなされ、それが引き起こすかもしれない行為のうち有害なものを禁じる以外には、道徳論者も立法者も関心を示すことがないようなものとみなされた。

人があるものに対して快を感じるべきだとか感じるべきでないとか、別のものに対して不快に思うべきだと言ったりすることは、政治的支配者の場合と同じように、道徳論者の場合にも専制的行為であると彼には思われた。

 (偏狭で感情的な敵対者がこのような場合にしがちなように)人間本性に関するこの描写がベンサム自身を模写したものであると推測するとしたら、また、彼が動機表から除いた人間性の構成要素のすべてが彼の脳中に欠けていたと推定するとしたら、それは彼に対してきわめて不当であろう。

徳に対して彼が若い頃に抱いていた感情の並外れた強さは、すでにみたように、彼のあらゆる思索の発端となったものであったし、道徳、とりわけ正義に関する気高い感覚が彼のあらゆる思索を導き、そこに浸透している。

しかし、人類(というよりむしろ感覚をもつあらゆる存在)の幸福を、それ自体として望ましい唯一のものとして、あるいはそれ以外のあらゆるものを望ましいものにする唯一のものとして想定することを若い頃から習慣としてきたために、彼は自分の中に見出したあらゆる私欲のない感情を人類の幸福を願う感情と混同していた。

それは、宗教的著述家たちの幾人かが、おそらく人間にはこれ以上できないほどの強さで徳をそれ自体として愛していたが、習慣的にその徳に対する愛を地獄に対する恐怖心と混同したのと同じであった。

しかし、長い間にわたる慣習によっていつも同じ方向に作用するようになっている感情を相互に区別するためには、ベンサムがもっていた以上の繊細さが必要とされただろう。彼は想像力を欠いていたので、この区別が十分に分かりやすい場合でも、他者の心の中にあるこの区別を読み取ることができなかった。

 それゆえに、このような重大な見落としをしているという点に関しては、彼から受けた知的恩恵の大きさゆえに彼の弟子とみなされてきている才能ある人々のうちで、彼にしたがう人は誰もいなかった。

彼らは功利性の理論について、また正・不正の一つの判断基準として道徳感覚を認めることを拒否するということについては、彼に従っていたかもしれない。しかし、そのようなものとしての道徳感覚は否定しながら、彼らはハートリとともにそれを人間本性における一つの事実として是認し、それに説明を与え、その法則を確定しようと努めてきた。

私たちの本性のこの部分を過小評価していたとして彼らを非難することも、それを思索の後方へ押しやりがちであるとして彼らを非難することも正当ではない。この基本的な誤りの何らかの影響が彼らにまで及んでいるとしても、それは迂回的に、ベンサムの理論の他の部分が彼らの精神に与えた結果としてである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.128-130,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:完全性への欲求,秩序と調和への愛,良心の感情,愛することへの愛,個人の尊厳の感情,廉恥心)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

3.社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)公正さや社会的正義より自分の利益を最優先する、(b)レントシーキング、(c)都合の悪い法律が作られないための政治的対策、(d)都合のよい税制、労働法、会社法、その他の経済政策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

社会に対する貢献以上の報酬を獲得する方法

【社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)公正さや社会的正義より自分の利益を最優先する、(b)レントシーキング、(c)都合の悪い法律が作られないための政治的対策、(d)都合のよい税制、労働法、会社法、その他の経済政策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.2)追記。

(4.2)社会に対する貢献以上の報酬を獲得するための方法
 (4.2.1)基本的な考え方
  (a)公正なルールに従ったフェアプレイは問題ではなく、重要なのは勝つか負けるかだ。市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。持っている金の量である。
  (b)必要とあれば“アンフェア”なプレーをする意志もなければならない。例えば、
   (b.1)法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力。
   (b.2)貧困者をふくむ他人の弱味につけ込む意志。
 (4.2.2)レントシーキング
  (a)市場の競争性を低下させ、独占力を確保する。
   (a.1)参入障壁や、競争の障壁を構築する。
  (b)市場の透明性を低下させ、情報の非対称性を利用する。
   (b.1)公開市場ではなく店頭市場を利用し、買い手に必要な情報を与えず、取引を有利に進める。
   (b.2)略奪的貸付や濫用的クレジットカード業務。
  (c)自分にとって都合のいい制度を利用して、過剰なリスクを取る。
 (4.2.3)レントシーキングに都合の悪い法律が作られないようにする。政府の規制は少ない方がいい。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、政策決定に影響力を行使する。
  (b)反競争的行為が法律で禁止されないようにする。
  (c)仮に法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないようする。
 (4.2.4)税制を、自分に都合のよいものに変える。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、税制の設計に影響力を行使する。
  (b)実態が隠蔽できるような複雑さを持った“逆累進課税制度”を実現させる。
 (4.2.5)労働法や会社法を、自分に都合のよいものに誘導する。
 (4.2.6)政府のマクロ経済政策を、自分に都合のよいものに誘導する。

 「ピラミッドの下から上へ金を移動させる
 上流階層の人々が金を稼ぎ出す方法のひとつは、市場と政治に対する影響力を、自分たちに都合よく利用し、残りの人々を犠牲にして収益を得ることだ。

 金融業界はさまざまな形態のレントシーキングについて腕をみがいてきた。すでにいくつかは紹介したが、レントシーキングの手法はほかにもまだまだある。

情報の非対称性を利用する方法(買い手が絶対に気づかないと知りながら、破綻するよう仕組んだ証券化商品を売りつける)。

過剰なリスクをとる方法(政府が命綱を握ってくれて、窮地から救い出してくれて、損失を肩代わりしてくれるという知識を利用する。この知識を使えば、通常より低い金利で金を借りることも可能になる)。FRBから低金利で資金を調達する方法(現在の金利はほぼ0パーセント)などである。

 しかし、最も悪名高いレントシーキングの形態――近年になって最もみがきのかかった手法――は、金融界が略奪的貸付や濫用的クレジットカード業務を通じて、貧困者層と情報弱者層から大金を搾り取るというものだ。

貧困者のひとりひとりはそれほど金を持っていなくても、大勢の貧困者から少しずつ巻き上げれば、莫大な儲けを手に入れることができる。

政府に社会正義の感覚――もしくは経済全体の効率性に対する懸念――が少しでもあれば、これらの活動を禁止するための措置が施されただろう。貧困層から富裕層へ金が移動するプロセスでは、かなりの量の資源が失われる。だからこそ、これはマイナスサム・ゲームと呼ばれるのだ。

しかし、実態がどんどんあきらかになってきた2007年ごろでさえ、政府は金融界の行為を禁止しようとはしなかった。理由は明快。金融界はロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投じてきており、その投資が実を結んだのだ。

 ここで金融界をとりあげる理由のひとつは、現在のアメリカ社会で見られる不平等が、金融界から強い影響を受けてきたことにある。今回の世界金融危機の発生に金融界が果たした役割は、誰の目にもあきらかだ。

金融界で働く人々でさえ責任を否定していない。内心では、業界内の別部門に責任があると思っているのかもしれないが……。とはいえ、わたしがこれまで金融界について述べてきたことは、現在の不平等を創り出してきたほかの経済主体にもあてはまる。

 近代資本主義は複雑なゲームと化しており、少し頭が切れるくらいでは勝者になれないが、多くの場合、勝者は感心できない特性を持ち合せている。

法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力や、貧困者をふくむ他人の弱味につけ込む意志や、必要とあれば”アンフェア”なプレーをする意志だ。

このゲームで成功している達人のひとりは、「勝負は問題ではない。重要なのはどうプレーするかだ」という昔の金言をたわごとと切り捨てる。重要なのは勝つか負けるかだけなのだ。市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。持っている金の量だ。

 レントシーキングのゲームに勝利して、アメリカ最上層の多くの人々は財を築いてきた。しかし、富を獲得する方法はレントシーキングだけではない。

あとでくわしく説明するが、税制も重要な役割を担っている。最上層の人々は、税制の設計に影響力を行使し、払うべき税金を払わずにすませてきた。彼らの所得に占める税金の割合は、貧困層の人々より低いのである。わたしたちはこのような税制を“逆累進課税制度”と呼ぶ。

 この逆累進課税とレントシーキングが中心となって、とりわけ最上層における格差を拡大させてきた。

いっぽう、アメリカの不平等をめぐる二つの側面――中間層の空洞化と貧困層の増加――には、幅広い分野から強い影響力が加えられている。企業を律する法規は、企業内の規範と相互作用を起こし、経営者の行動を誘導するとともに、経営陣とほかの利害関係者(労働者と株主と社債保有者)の利益配分を決定する。

また、政府のマクロ経済政策は、労働市場の需給――失業率の水準――を決定する。つまり、労働者の取り分を変化させる市場の仕組みに、政府の政策が影響を与えているわけだ。もしもインフレを恐れる金融当局の行動が、失業率の高止まりを招いた場合、労働者の賃金は抑制されるだろう。

これまで、強い労働組合は不平等の縮小をうながしてきたが、組合が弱い企業のCEOは、やすやすと不平等を拡大してきた。CEOたちが市場の力の形成に手を貸し、その力を不平等の拡大に利用することもあった。

ともあれ、組合の強弱にしても、企業統治の実効性にしても、金融政策の舵取りにしても、決定に中心的役割を果たすのは政治だ。

 形成時に政治からの影響を一部受けるとはいえ、市場の力も重要な役割を果たしている。たとえば、熟練労働者の需給は、技術と教育の変化を反映しつつ、市場がバランスをとっているのだ。

しかし、市場の力と政治はたがいに均衡を働かせようとはしない。市場の力が格差を悪化させそうなときでも、政治は不平等の拡大を抑え込もうとはしないし、市場の行き過ぎを政府が“調整”するようなこともない。むしろ今日のアメリカでは、両者が手を取り合って、所得と富の格差を広げているのである。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.82-85,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:レントシーキング)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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