2019年7月31日水曜日

司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

何らかの観点による「在るべきもの」

【司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(b)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
   たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
   (b.1)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
   (b.2)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
   (b.3)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
   (b.4)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。

  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「判決を最終的で権威あるものとしているルールのうしろに隠れて、裁判官達が一緒になって現行のルールを拒否し、議会のもっとも明白な立法さえも裁判官の判決に何らかの制約を課しているとみなさなくなることはもちろん可能なのである。裁判官のなす裁定の過半数がこのような性質をもっており、しかも受けいれられていたとすれば、これがその体系を変形させることになるのであって、それはあるゲームをクリケットから「スコアラーの裁量」に変更させたのと同様である。しかしこのような変形の可能性が常にあるからといっても、現存する体系が、それについてその変形がなされた場合に考えられるような体系と同じだということにはならない。いかなるルールも、違反や拒否がなされないように保証することはできないのであって、それは人間というものが、心理的、物理的にルールを破ったり、拒否したりすることがありえないとはいえないからである。そして、もしそのようなことが十分長期間にわたって行なわれたとすれば、そのルールは存在しなくなるだろう。しかし、およそルールが存在する場合、破壊に対して何が何でも保証がなくてはならないということは必要ではない。ある時点で、裁判官が国会や議会の立法を法として受けいれるよう要求するルールが存在すると言うときには、そこではまずその要求が一般的に従われており、個々の裁判官が逸脱したり拒否したりするのは稀であること、また第二に、逸脱や拒否が生じたときまたは生じたならば、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる、または扱われるであろうということが含まれる。そして第二の場合については、たとえ、特定の事件に関してそこから生じる判決の結果は、立法がその正しさではなくてその妥当性を認める場合を別とすれば、判決の最終性に関するルールがあるために打ち消されないとしても、そのように扱われ、扱われるだろうということが含まれる。人はあらゆる約束を破ることができるだろうということは、論理的に可能であって、おそらく最初はそうすることは悪いという意識をもつが、やがてこのような意識をもたないでそうするだろう。その場合には、約束を守ることは義務であるとするルールは存在しなくなるといえよう。しかしこのことは、このようなルールが現に存在せず、約束は現に拘束力をもたないという見解を支持するには薄弱である。裁判官が現行の体系を破壊しうるということにもとづいて、同じようなことを彼らについてしてみても、それ以上にはできないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.159-160,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:在るべきもの,半影的問題,在る法,ルールの存在)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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20.義務の感情の客観的基盤:(a)他者の快苦や状態に配慮する感情、(b)為すべき行為に関して、情念や感情の限界を超えて、経験や理論に基づく理性による判断をする能力、(c)教育や統治により自らを変える能力。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務の感情の客観的基盤

【義務の感情の客観的基盤:(a)他者の快苦や状態に配慮する感情、(b)為すべき行為に関して、情念や感情の限界を超えて、経験や理論に基づく理性による判断をする能力、(c)教育や統治により自らを変える能力。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(4)義務の感情には、客観的な根拠があるのか。
 (4.1)義務の感情は、主観的なものであって人間の意識の中にある。
 (4.2)義務の感情は、人間の行為を不十分にしか拘束しない。大きな選択の余地が残されている。
  (4.2.1)義務の感情がなくなったら、義務ではなくなるのだろうか。実際に、感じない人もいる。
  (4.2.2)義務の感情が自分にとって不都合だと感じたら、それを無視してもよいのだろうか。実際、多くの人の心のなかで、良心が簡単に沈黙させられたり、抑圧させられている。
 (4.3)しかし、人間に義務の感情が存在しうるということは、この宇宙、自然、生命体に関する、客観的実在の何らかの諸法則に根拠があるに違いない。
  (4.3.1)配慮の感情:人間には、他者の快や苦痛を感じ、それに配慮するという感情が存在する。(種々の共感や、一般的博愛、他者の状態の認識に起因する諸感情など。)
  (4.3.2)道徳感情は、人間によって作り上げられるものである。しかし、そうだからといって、この感情が自然なものでなくなるわけではない。話したり、推論したり、都市を建設したり、土地を耕したりすることは後天的能力だけれども、人間にとって自然なことである。
   参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に対して開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情は、慣習、教育、世論により制約されており、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))


◆説明図◆

┌──────────────────┐
│ この宇宙、自然、生命体に関する、 │
│ 客観的実在の何らかの諸法則    │
└──────────────────┘
    ↓
┌───────────────────────┐
│┌─────┐                │
││統治体制 │ 配慮の感情          │
││教育、慣習│ 種々の共感、一般的博愛    │
││世論   │ 他者の状態の         │
│└──┬──┘ 認識に起因する諸感情     │
│   ↓      ↓            │
│┌─────────────────────┐│
││経験や理論に基づく理性による判断……(a) ││
││(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)   ││
││ ↓                   ││
││ある道徳の基準……(b)          ││
││(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)  ││
│└─────────────────────┘│
│   ↓                   │
│┌─────────────────────┐│
││特定の個人                ││
││(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?││
││(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?││
││ 人間には、大きな選択の余地が残されている││
││                     ││
││その他の強制力              ││
││(c)…苦痛と損害を避け、快と幸福を求める ││
││   欲求によって作用する利害の力    ││
││(d)…法律に基づく賞罰によって作用する力 ││
││(e)…宗教的な強制力           ││
│└─────────────────────┘│
└───────────────────────┘

 「道徳的義務のなかに先験的事実、つまり「物自体」の領域に属する客観的実在性を見いだす人の方が、それをまったく主観的なものであって人間の意識のなかにあるものと考えている人よりも、道徳的義務に従いやすいと信じる傾向があることを私は承知している。

しかし、人がこのような存在論に関する論点についてどのような見解をもっているとしても、人を本当に駆り立てる力はその人自身の主観的感情であり、この力はまさにその強さによって評価されるものである。

義務が客観的実在であるという信念は誰のものであっても、神が客観的実在であるという信念ほど強くはない。

とはいえ、現実に賞罰を期待することを別にすれば、神への信仰であっても、主観的な宗教的感情を通じて、そしてそれに比例して、行為に作用を及ぼすにすぎない。

強制力は、無私なものであれば、つねに心のなかに存在している。

こう言うと、先験的道徳論者は、心の外にこの強制力の根拠があると信じられなければ、これは心の《なかには》存在しないだろうと考えたり、人は「自分を拘束していて良心と呼ばれているものは、自分の心のなかにある感情にすぎない」と自分で考えてみたら、この感情がなくなったら義務もなくなるだろうという結論を引き出すだろうと考えたり、人がこの感情が不都合なものだと感じたら、それを無視したり頭のなかから追い払おうと努めようとするだろうと考えたりするに違いない。

しかし、この危険は功利主義道徳論にかぎられたものだろうか。道徳的義務の根拠は心の外にあるという信念を持つことによって、義務の感情は頭のなかから追い払えないほどに強くなるのだろうか。

事実はまったく異なっており、大多数の心のなかで良心が簡単に沈黙させられ抑圧させられていることをすべての道徳論者が認めて嘆いている。

「自分の良心に従う必要があるのだろうか」という疑問は、功利性の原理の支持者によるのと同じくらい頻繁に、その原理について耳にしたことのない人によって抱かれている。

良心が弱いためにこのような疑問を問いかける人々がこの疑問に肯定的に答えたとしても、それは先験的な理論を信じているからではなく、外的強制力のためである。


 当座の目的のためには、義務の感情が生得的なものなのか教え込まれるものなのかについて判断を下す必要はない。

それを生得的なものと想定するならば、それは本来どのようなものに付随していたのかということが問題になる。というのは、その理論を哲学的に支持する人々は、直感的に認識されるのは道徳の原理についてであってその細部ではないという点について今では一致しているからである。

 この問題に関して先験的なものがあるとすれば、どうして生得的な感情が他者の快苦に配慮するという感情であってはならないのか私にはわからない。

強制力を直感的にもっているような道徳の原理があるとすれば、それはこの配慮という感情に違いない。

そうだとすれば、功利主義倫理は直感主義倫理と一致し、両者の間で反目はもうなくなるだろう。

現在でも、直感主義道徳論者はその他にも直感的な道徳的義務があると考えているけれども、この感情がそのような義務の一つであると実際に考えているのである。というのは、彼らは一致して道徳の大部分が同胞の利害について考慮することに関わっていると考えているからである。

したがって、道徳的義務に先験的な源泉があると信じることによって内的強制力の効果がさらに高められるとするならば、功利主義的原理はその恩恵を受けているように思われる。

 他方で、私がそう考えているように、道徳感情が生得的ではなく後天的なものであるとしても、そうだからといってこの感情が自然なものでなくなるわけではない。話したり、推論したり、都市を建設したり、土地を耕したりすることは後天的能力だけれども、人間にとって自然なことである。

たしかに、道徳感情は私たちすべてにはっきりとした形で存在しているわけではないという意味では私たちの本性の一部ではない。しかし、あいにくこのことはそのような感情が先験的起源をもっていることをきわめて強く信じている人々によって認められている事実である。

先に言及した他のさまざまな後天的能力と同じように、道徳能力も、私たちの能力の一部ではないとしても、本性から自然に生み出されるものである。

そして、他の能力と同じように、わずかではあっても自然発生的に生じてくることができるものであり、涵養することによって大いに伸ばすことができるものである。

あいにく、この能力は外的強制力と幼少期に与えられる影響を十分に用いることによって、ほとんどあらゆる方向に涵養していくことができるものでもある。したがって、その影響力が良心のあらゆる権威に基づいて人間の精神に作用されないならば、これほど不合理で有害なものはほとんどないだろう。

同じような手段によって功利性の原理にも同じような効果が与えられているということに疑問を抱くのは、それが人間本性に基礎をもっていないとしても、経験をまったく無視していることになるだろう。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.295-297,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:義務の感情の客観的基盤,配慮する感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年7月30日火曜日

19道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良心の感情

【道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。


(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

◆説明図◆

経験や理論に基づく理性による判断……(a)
(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)
 ↓
ある道徳の基準……(b)
(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)
┌─────┐
│統治体制 │
│教育、慣習│
│世論   │
└──┬──┘
   ↓影響
┌────────────────────┐
│特定の個人               │
│(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
│(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
└────────────────────┘

(3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
 (3.1)良心の感情は、純粋な義務の観念と結びついており、あらゆる道徳の究極的な強制力である。
 (3.2)良心の感情は、義務に反した際に起きてくる強い苦痛、自責の念を伴う。
 (3.3)現実に存在するような複雑な状況下にあっては、他の様々な感情や連想によって覆いつくされることもあって、これらが良心の感情に、ある種の神秘的な性格を与えていると考えられやすい。しかし、良心の感情の本質を見誤ってはならない。
  (3.3.1)良心の感情は、内的な強制力であり、賞罰による外的な強制力によるものではない。
   例えば、ベンサムの主張するような、次のような強制力によるものとは異なる。
   参照:ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (b)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
   (c)民衆的強制力(道徳的強制力)
    有害なものを避け、幸福を願う欲求によって作用する。
    (c.1)自然な満足感、嫌悪感
     自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性がある行為が促され、不幸(苦痛)を生み出す傾向性がある行為は減らす方向に促される。
    (c.2)好意、感謝、憤慨、怒りの感情
     他者の行為が、自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性があると認識されると、「好意」や「感謝」の感情が生じ、不幸(苦痛)を生み出す傾向性があると認識されると、「憤慨」や「怒り」の感情が生じる。
    (c.3)好意、感謝、憤慨、怒りの感情の表出に対する、喜びの感情、苦痛の感情
     自らの行為によって他者が好意、感謝を表出するとき、喜びの感情が生じて当該行為は促される。逆に、自らの行為によって他者が憤慨、怒りの表出をするとき、苦痛の感情が生じて当該行為は、減らす方向に促される。

 「功利性の原理は他の道徳体系がもっているあらゆる強制力をもっているし、もっていないという理由はない。これらの強制力は外的なものか内的なものかのいずれかである。

外的強制力については長々と述べる必要はない。それらは、どのようなものであれ私たちが同胞に対してもっているであろう共感や愛情や、利己的な結果に関係なく神が望んでいることをおこなう気持ちにさせる神への愛と畏敬の念であり、さらに同胞や万物の支配者からよく思われたいという希望や彼らの不興を買うことを恐れる気持ちである。

義務にしたがうこれらの動機すべてが、他の道徳論に結びつけられているのと同じくらい完全に強く功利主義道徳論に結びつけられない理由はまったくない。

実際に、これらのうち同胞に対するものは、全般的に知性が向上するのに比例して、固く結びつけられるようになっている。というのは、全体の幸福以外の何らかの道徳的義務の根拠があろうとなかろうと、人々は現実に幸福を望んでいるからであり、自分自身の実践は不十分であるかもしれないが、人々は自分に関わる他者の行為については、自らの幸福を増進すると思われるようなあらゆる行為がなされることを望み推奨しているからである。

宗教的動機については、もし、多くの人が公言しているように、人々が神の善性を信じているとするならば、全体の幸福に資するということが善の要諦であると考えている人々、そして唯一の基準でさえあると考えている人々は、それは神によって承認されていることでもあると信じているに違いない。

それゆえ、身体的なものであろうと精神的なものであろうと、神からのものであろうと同胞からのものであろうと、外的な賞罰の全般的な力は、人間本性の能力が許容するかぎりでの神や同胞に対する私欲のない献身の全般的な力とともに、功利主義道徳論が認められるようになるのに比例して、その道徳を実践するために利用することができるようになる。

功利主義道徳論が影響力を増すにつれて、教育や一般教養のための制度がその目的にますます沿ったものとなる。

 外的強制力についてはここまでにしよう。義務の基準が何であったとしても、義務の内的強制力はただ一つのもの、つまり私たち自身の心のなかにある感情である。

それは義務に反した際に起きてくる、程度の差はあっても強い苦痛であり、徳性が適切に涵養されている人にとっては、より重大な事例の場合には、義務に反することを不可能なものとして躊躇させるようなものである。

この感情は、無私なものとなり、ある特定の義務の観念や単なる付随的な状況にではなく純粋な義務の観念に結びつけられるとき、良心の本質的要素となる。

現実に存在するような複雑な状況下にあっては、この単純な事実は、共感や愛情、さらには恐怖などに、あらゆる形態の宗教的感情に、少年期やあらゆる過去の生活の思い出に、そして自尊心や他者の評価を得たいという希望や、時には謙遜の気持ちにさえ由来する付帯的な連想によって一般にはまったく覆いつくされているとしてもである。

私が懸念しているのは、このような極端な複雑さが、他の多くの事例においてもみられるような人間精神の性向によって、ある種の神秘的な性格が道徳的義務の観念に帰せられやすいことの原因となっているということであり、このような神秘的な性格のせいで、想像上の神秘的な法則によってその観念を刺激するという私たちの現実の経験に見出されるようなこと以外には道徳的義務の観念を結びつけることができないと人々が信じるようになるということである。

しかし、道徳的義務の拘束力は、正義の基準を犯すためには打ち破らなければならず、それでいてその基準を実際に犯せば、後に自責の念という形で現れてくるに違いないような一群の感情が存在していることに起因している。

良心の性質や起源についての理論がどのようなものであっても、これが本質的に良心を構成しているのである。

 したがって、あらゆる道徳の究極的強制力は(外的動機を別にすれば)私たちの心のなかの主観的感情であるのだから、功利性を基準としている人々にとって、その基準の強制力は何であるのかという問題について何ら頭を悩ませるようなものはない。

私たちは他の道徳的基準と同じもの、つまり人類の良心という感情であると答えることができるだろう。

たしかに、この強制力はそれが訴えかける感情をもっていない人々を拘束する力をもっていない。しかし、そのような人々が功利主義的原理以外の道徳原理によりよく従うということはないだろう。そのような人々にとっては、外的強制力によらなければ、どのような道徳論も効果がない。

しかし、そのような感情は存在するし、それは人間本性に関する事実である。それが実在するということ、そして十分に涵養されてきた人にとってそれが大きな力を発揮できるということは、経験から明らかである。

この感情が功利主義的道徳規則と関連づけられたときには、他の道徳規則に関連づけられたときと同じようには大幅に涵養されないという理由はこれまで示されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.292-295,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良心の感情,道徳基準の強制力,義務の観念,賞罰による強制,利害による強制)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年7月22日月曜日

002 情念論

情念論

《概要》

わたしたちは、情念を巧みに操縦し、その引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、情念のすべてから喜びを引き出すような知恵を持つことができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念はその本性上すべて善い、その悪用法や過剰を避けるだけでよい。(ルネ・デカルト(1596-1650))
情念は、わたしたちを害したり益したりしうる対象の多様なしかたを反映している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

《改訂履歴》
2019/7/22 第1版 情念論
《目次》
1〈驚き〉
 1.1〈驚き〉の過剰としての〈恐怖〉
 1.2 大きいものへの〈驚き〉:〈重視〉
 1.3 小さいものへの〈驚き〉:〈軽視〉
 1.4 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈重視〉:〈崇敬〉
 1.5 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈軽視〉:〈軽蔑〉
   ※ 〈善〉〈悪〉については、後述する。
2〈快〉〈嫌悪〉
 2.1〈美〉〈美への愛〉(快)
 2.2〈醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 2.3〈広義の美〉〈美への愛〉(快)
 2.4〈広義の醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 2.5〈善〉〈善への愛〉
 2.6〈悪〉〈悪への憎しみ〉
3 わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
 3.1 わたしたちの現在の状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈悲しみ〉
 3.2 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉
 3.3 わたしたち自身によって過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈内的自己満足〉〈後悔〉
 3.4 わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
 3.5 他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
 3.6 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉
 3.7 その他の〈善〉と〈悪〉の感受:〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉
4 〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
 6.1 〈美〉と〈美への愛〉(快) (再掲)
 6.2 〈広義の美〉と〈美への愛〉(快) (再掲)
 6.3 〈善〉と〈善への愛〉 (再掲)
 6.4〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
 6.5〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
 6.6〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
7 欲望論
 7.1 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉   (再掲)
 7.2〈欲望〉の種類
 7.3 〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉〈恐怖〉
8 自由意志論
9 徳
 9.1 欲望は、真なる認識に従っているか
 9.2 私たちに依存しないもの
 9.3 私たちにのみ依存するもの、自由意志
 9.4 意思決定に付随する情念:〈不決断〉〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉
 9.5 過去の意思決定に付随する情念:〈良心の悔恨〉
 9.6 徳とは何か?
 9.7 徳に伴う情念、知的な〈喜び〉〈高邁〉、その反対の〈卑屈〉
 9.8 〈高邁〉の情念をもつ人々の関係
 9.9 〈高邁〉とは異なる〈高慢〉


1〈驚き〉
「驚き」に不意を打たれ、激しく揺り動かさるとき、そこには既知ではない、想定外の、初めて出会う新しい対象が存在する。驚きが、知らなかったことを学ばせ、記憶にとどめさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
1.1〈驚き〉の過剰としての〈恐怖〉

生物的準備性の例:ヘビ、クモ、血、嵐、高所、暗闇、見知らぬ人への恐怖、言語の獲得、数学的な技能、音楽の観賞、空間知覚。(スティーブン・ピンカー(1954-))

(出典:wikipedia
検索(スティーブン・ピンカー)


1.2 大きいものへの〈驚き〉:〈重視〉

1.3 小さいものへの〈驚き〉:〈軽視〉

〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.4 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈重視〉:〈崇敬〉

1.5 〈善〉または〈悪〉をなしうる自由な原因への〈軽視〉:〈軽蔑〉

〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

 ※ 〈善〉〈悪〉については、後述する。

崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 ※ 〈愛〉〈献身〉については、後述する。



2〈快〉〈嫌悪〉
美、広義の美、美への愛(快)、醜、広義の醜、醜への憎しみ(嫌悪)、善、善への愛、悪、悪への憎しみ。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈であり、また欺くこともある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.1〈美〉〈美への愛〉(快)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈美〉であるわけではない。「それらはふつう、真理性がより少ない。したがって、あらゆる情念のうちで、最も欺くもの、最も注意深く控えるべきものは、これらの情念である。」情動と〈美〉とのこの関係性は、以下、情動と〈醜〉、〈善〉、〈悪〉との関係においても同様である。快と嫌悪の情念は、他の種類の愛や憎しみより、通例いっそう強烈である。なぜなら、感覚が表象して精神にやってくるものは、理性が表象するものよりも強く精神を刺激するからである。

2.2〈醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 視覚で与えられた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。

2.3〈広義の美〉〈美への愛〉(快)
 ※〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚、〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)、「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」によって、快の情動がもたらされる場合。

2.4〈広義の醜〉〈醜への憎しみ〉(嫌悪)
 ※2.3と同様。

2.5〈善〉〈善への愛〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。快を感じさせるすべてのものが〈善〉であるわけではない。

2.6〈悪〉〈悪への憎しみ〉
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「嫌悪」ないし「嫌忌」を感じるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。


3 わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受

3.1 わたしたちの現在の状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈悲しみ〉
〈喜び〉〈悲しみ〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたちの現在の状況が「喜び」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、「悲しみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。

私の信念である「私の自己像」

自己に関する概念のタイプ:現実自己、理想自己、あるべき自己に関する信念。特定の重要他者が考えているであろう現実自己、理想自己、あるべき自己に関する自分自身の想定。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))

(1a) 私(現実自己):私の信念である、私が実際に持っている属性。
(1b) 私(理想自己):私の信念である、私が理想として持ちたい属性。
(1c) 私(あるべき自己):私の信念である、私が持つべき属性。


(出典:Social Psychology Network
検索(E・トーリー・ヒギンズ)

現在の状況が感じさせる「落胆および不満」と「罪悪感および自己卑下」が、理想自己あるべき自己を暗示する。「恥および当惑」と「恐れおよび危機感」が、特定の重要他者が考えると想定している理想自己、あるべき自己を暗示する。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))

(a)「落胆および不満」を感じるとき、私(理想自己)と私(現実自己)とに不一致がある。
(b)「罪悪感および自己卑下」を感じるとき、私(あるべき自己)と私(現実自己)とに不一致がある。



3.2 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉
〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じさせるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望



3.3 わたしたち自身によって過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈内的自己満足〉〈後悔〉
〈内的自己満足〉〈後悔〉、後悔の効用(ルネ・デカルト(1596-1650))
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、わたしたち自身によって過去なされたことが、「内的自己満足」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、わたしたち自身によって過去なされたことが、「後悔」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。


人は、自己評価基準を持っており、これにより自己を査定、評価し、これに合わせて自己賞賛や自己非難、報酬や罰を自分自身に与えることができる。(アルバート・バンデューラ(1925-))

(出典:wikipedia
検索(アルバート・バンデューラ)



3.4 わたしたち自身によって過去なされた行為や現在のわたしたちに関する、他の人たちの意見による〈善〉と〈悪〉の感受:〈誇り〉〈恥〉
〈誇り〉〈恥〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

 わたしたち自身によって過去なされたことについての、または現在のわたしたち自身についての、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「誇り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、他の人たちが持ちうる意見を考えるときに「恥」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。

誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私の想定である、特定の重要他者が持つ「私の自己像」

自己に関する概念のタイプ:現実自己、理想自己、あるべき自己に関する信念。特定の重要他者が考えているであろう現実自己、理想自己、あるべき自己に関する自分自身の想定。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))

(2a) 私(他者(現実自己)):特定の重要他者が持つと私が想定する、私が実際に持っている属性。
(2b) 私(他者(理想自己)):特定の重要他者が持つと私が想定する、私が理想として持ちたい属性。
(2c) 私(他者(あるべき自己)):特定の重要他者が持つと私が想定する、私が持つべき属性。

※注意:下記とは異なる。
 特定の重要他者が実際に持つ「私の自己像」
(3a) 他者(現実自己):特定の重要他者が実際に持つ、私が実際に持っている属性。
(3b) 他者(理想自己):特定の重要他者が実際に持つ、私が理想として持ちたい属性。
(3c) 他者(あるべき自己):特定の重要他者が実際に持つ、私が持つべき属性。


(出典:Social Psychology Network
検索(E・トーリー・ヒギンズ)

現在の状況が感じさせる「落胆および不満」と「罪悪感および自己卑下」が、理想自己、あるべき自己を暗示する。「恥および当惑」と「恐れおよび危機感」が、特定の重要他者が考えると想定している理想自己あるべき自己を暗示する。(E・トーリー・ヒギンズ(1946-))

(a)「恥および当惑」を感じるとき、私(他者(理想自己))と私(現実自己)とに不一致がある。
(b)「恐れおよび危機感」を感じるとき、私(他者(あるべき自己))と私(現実自己)とに不一致がある。
 特定の重要他者に自分の行為が知られずとも、恥を感じ恐れを感じるパーソナリティは、上記の機構で恥を感じ、恐れを感じているだろう。しかし、私(他者(理想自己))と私(理想自己)との相違、私(他者(あるべき自己))と私(あるべき自己)の相違を自覚している場合には、「恥および当惑」「恐れおよび危機感」を感じる機構も、異なってくるだろう。
(a')「恥および当惑」を感じるとき、私(他者(理想自己))と私(他者(現実自己))とに不一致がある。
(b')「恐れおよび危機感」を感じるとき、私(他者(あるべき自己))と私(他者(現実自己))とに不一致がある。
 すなわち、ここでは私(現実自己)と私(他者(現実自己))の違いも、明確に自覚されているのである。他者が介在する情念「恥および当惑」「恐れおよび危機感」が、その人の真実の私(現実自己)や私(理想自己)、私(あるべき自己)を素通りしてしまう理由でもある。


一般的に誇りや恥は、達成の結果つまり失敗や成功が、内的に帰属されるときに最大化され、外的に帰属されるときに最小化される。(バーナード・ウェイナー(1935-))

(出典:ResearchGate
検索(バーナード・ウェイナー)
検索(Bernard Weiner)


3.5 他の人たちによってなされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:〈好意〉〈感謝〉〈憤慨〉〈怒り〉
〈好意〉〈感謝〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
〈憤慨〉〈怒り〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「好意」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「感謝」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「憤慨」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「怒り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
怒りの効用、および怒りの治療法(ルネ・デカルト(1596-1650))



3.6 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉
〈喜び〉〈うらやみ〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況が「喜び」や「うらやみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。この〈善〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「喜び」または「うらやみ」を感じる。
 また、「笑いと嘲り」や「憐れみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。この〈悪〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「笑いと嘲り」または「憐れみ」を感じる。


3.7 その他の〈善〉と〈悪〉の感受:〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉
〈倦怠〉〈いやけ〉〈心残り〉〈爽快〉(ルネ・デカルト(1596-1650))


4〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
善・悪、美・醜には真・偽の区別があり、経験と理性を用いて認識することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))


問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))


(出典:wikipedia

解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))



5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))


5.1 真なる〈善〉への〈愛〉〈喜び〉〈欲望〉〈内的自己満足〉〈誇り〉〈好意〉〈感謝〉〈喜び〉〈うらやみ〉、真なる〈美〉による〈快〉
善への愛と悪への憎しみが、真の認識にもとづくとき、愛は憎しみよりも比較にならないほど善い。(ルネ・デカルト(1596-1650))


5.2 真なる〈悪〉への〈憎しみ〉〈悲しみ〉〈欲望〉〈後悔〉〈恥〉〈憤慨〉〈怒り〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉、真なる〈醜〉による〈嫌悪〉
悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))


5.3 偽なる〈善〉への〈愛〉〈喜び〉〈欲望〉〈内的自己満足〉〈誇り〉〈好意〉〈感謝〉〈喜び〉〈うらやみ〉、偽なる〈美〉による〈快〉

不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念が、欲望を介して行動や生活態度を導く場合には、原因が誤りである情念はすべて有害である。特に、偽なる喜びは、偽なる悲しみよりも有害である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

脅威を無視することができない状況にならない限り、否定的な自己関連情報の選択的注意により、肯定的で社会的に望ましい自己像を一貫して維持し、自己高揚的な肯定バイアスを持つことは、きわめて適応的で精神的に健康なパーソナリティである。(ウォルター・ミシェル(1930-))

(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK

精神的健康には、肯定的な自己像が必要である。もちろん、現実と全く異なるものは害悪であるが、仮にそれが、現実よりいくらか過度であっても、肯定的なことが必要である。逆に、事実でも否定的なら、低い自尊心や抑うつ傾向がみられやすい。(ウォルター・ミシェル(1930-))


5.4 偽なる〈悪〉への〈憎しみ〉〈悲しみ〉〈欲望〉〈後悔〉〈恥〉〈憤慨〉〈怒り〉〈笑いと嘲り〉〈憐れみ〉、偽なる〈醜〉による〈嫌悪〉


6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
6.1〈美〉〈美への愛〉(快) (再掲)
 視覚で与えられた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈美〉であり、この快の情動を、〈美への愛〉という。


6.2〈広義の美〉〈美への愛〉(快) (再掲)
 ※〈特殊感覚〉のうち聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚、〈表在性感覚〉(皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚)、〈深部感覚〉(筋、腱、骨膜、関節の感覚)、〈内臓感覚〉(空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など)、「精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想」によって、快の情動がもたらされる場合。

6.2.1 有能性への欲望

有能性への欲望:私たちには、活動それ自体を楽しみ、その効力感を感じ、有能性を獲得し効果的に機能すること、課題に習熟することへの欲求がある。例として、好奇心、刺激への欲求、遊び、冒険への欲求。(ロバート・W・ホワイト(1904-2001))
検索(Robert W. White)
検索(ロバート・W・ホワイト)


6.2.2 〈快〉の原因となりうる様々な知覚の一覧
 (以下、5.2 再掲)
 5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
  5.2.1 身体を原因とする知覚
   5.2.1.1 外部感覚
   ・ 対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   ・〈特殊感覚〉視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚

   6.2.2.1 感覚的な遊びが〈芸術〉である。

   5.2.1.2 共通感覚
   ・ ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   5.2.1.3 想像力、記憶
   ・ 外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

   5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
   ・〈表在性感覚〉皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚
   ・〈深部感覚〉筋、腱、骨膜、関節の感覚
   ・ 精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

   5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
   ・〈内臓感覚〉空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など

   5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想(広い意味では、情念の一種)
   ・ 精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらは情念の一種である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

  5.2.2 精神を原因とする知覚
  ・ 意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   5.2.2.1 意志についての知覚
   5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚

 (以下、5.1 再掲)
   5.1 意志のすべてが精神の能動である。
    5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
    ・ 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    ・ 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
     5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは
      認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
     5.1.1.2 記憶の「想起」とは
      認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
     5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは
      認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
     (例)存在しない何かを想像する。
     ・ 存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
     (例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
     ・ 悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
     5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは
      認識力が、独りで働くこと。
     (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
     ・ 悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
     ・ 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
     ・ 問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (例)捨象、抽象

   6.2.2.2 知的な遊びが〈学問〉である。

    5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
    ・ 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    ・ 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (例)観念を表現する物自体(モデル)
    (例)物のある省略された形(記号)
    (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。

   6.2.2.3 身体的な遊びが〈スポーツ〉である。

6.3〈善〉〈善への愛〉 (再掲)
 意志に依存するいっさいの想像、思考や理性がとらえた対象に「快」を感じるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それが〈善〉であり、この快の情動を、〈善への愛〉という。

6.4〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈欲情の愛〉〈好意の愛〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象に「欲望」を感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。
 ある対象に「好意」を感じ、その対象のために〈善〉を意志することを促されるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。

6.5〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象を「所有したい」と感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、野心家が求める栄誉、主銭奴が求める金銭、酒飲みが求める酒、獣的な者が求める女。
 ある対象を第二の自己自身と考えて、その対象にとっての〈善〉を自分の〈善〉のごとく求めるとき、あるいはそれ以上の気遣いをもって求めるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、有徳な人にとっての友人、よき父にとっての子供たち。

6.6〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。
〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ある対象に「愛着」を感じるとき、それは、自分以下に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬。
 ある対象に「友愛」を感じるとき、それは、自分と同等に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、自分が真にけだかく高邁な精神を持つと考え、また仮に、相手が不完全であると考えても、その相手に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはない。
 ある対象に「献身」を感じるとき、それは、自分よりも高く評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、神に対して、ある国に対して、ある個人に対して、ある君主に対して、ある都市に対して。

7 欲望論
7.1 わたしたちの未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉   (再掲)
〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じさせるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望

7.2 〈欲望〉の種類
〈欲望〉の種類は、〈愛〉や〈憎しみ〉の種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の〈欲望〉は、〈快〉と〈嫌悪〉から生じる〈欲望〉である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

7.3 〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉〈恐怖〉
善の獲得、悪の回避等が可能であると考えただけで、〈欲望〉がそそられる。そして、実現の見込みの大きさに応じて、次の情動が生じる:〈安心〉〈希望〉〈不安〉〈執着〉〈絶望〉。(ルネ・デカルト(1596-1650))
・不安の過剰が〈恐怖〉の一種

8 自由意志論
認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
悟性の及ぶ範囲を広げようとすることも、また、意志に違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
意志の自由は、確かにある。これはまさに、完全に確実ではないことを信ずるのを拒み得る自由が、我々のうちにあることを経験したときに、自明かつ判然と示された。(ルネ・デカルト(1596-1650))
しかしながら、私が自分の意志により選択するように思えることも、これがこの全宇宙の一部であるのならば、この宇宙を支配する法則によって、あらかじめ予定されていたものに違いない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
未解決問題:我々の精神が有限であるのに対して、この宇宙を支配する諸法則はあまりに深遠で知りがたく、いかにして人間の自由な行為が、未決定に残されるかを、未だ明快には理解することができていない。しかし、この自由は確かに経験される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

9
9.1 欲望は、真なる認識に従っているか
欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

9.2 私たちに依存しないもの
まったく私たちに依存しないものについては、それれがいかに善くても、情熱的に欲してはならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

統制の錯覚:成功の原因を内的帰属し、失敗の原因は外的帰属する。また、完全に偶然的な出来事でも、何かしら原因と秩序と意味があり、予測と統制が可能であると考える。これらは、自己高揚的バイアスの一部であり、パーソナリティにとって潜在的に有益でもある。(ウォルター・ミシェル(1930-))

(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK

嫌悪的な課題や、ストレスや苦痛を伴う出来事を、予測可能で自分で統制できると信じると、そう信じることがたとえ現実と合わない幻想のような場合でさえ、否定的な感情が弱まり、課題遂行の悪化がかなり防げる。(ウォルター・ミシェル(1930-))

9.3 私たちにのみ依存するもの、自由意志

永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。しかし、いずれを選ぶかに無関心であってはならないし、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。私たちにのみ依存する部分を正確に見きわめ、この部分以上に欲望が広がらないようにすること。そして、理性が認識できた最善を尽くすこと。


9.4 意思決定に付随する情念:〈不決断〉〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉

わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

不確かさへの志向:次のようなパーソナリティ次元が存在する。不確実さを正面から受けとめ新しい情報を求めて解決しようとする。逆に、不確実さに不快を感じて状況を回避し、新しい情報も求めない。(リチャード・M・ソレンティーノ(1943-)

(出典:Western University
検索(Richard M. Sorrentino)

不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))
臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))
恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))


9.5 過去の意思決定に付随する情念:〈良心の悔恨〉
〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))


9.6 徳とは何か?

自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))

人間は、自由意志により自分の行為の創造者となり、賞賛に値するその行為によって、人間における最高の完全性に至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))


9.7 徳に伴う情念、知的な〈喜び〉〈高邁〉、その反対の〈卑屈〉

9.7.1 様々な情念に伴う、知的な〈喜び〉
不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))

9.7.2 〈高邁〉

自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自己効力期待:自分自身が行為の主体であり、自分にはうまく実行できるという期待と信念が、価値ある目標の追求、的確な判断、効果的な行動を助け、努力を持続させる。反対は無力感で、諦め、無気力、抑うつへの確実な道である。(ウォルター・ミシェル(1930-))

(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK

9.7.3 〈卑屈〉

自分は決断力がなく、自由意志の全面的な行使能力がないと考えるのが、卑屈すなわち悪しき謙虚であり、高邁の正反対である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

9.8 〈高邁〉の情念をもつ人々の関係

高邁の情念をもつ人々は、善き意志という点で等しく、それ以外の美点で異なっていても過大に劣っているとか優れていると考えることはない。また、犯された過ちも認識の欠如によると考えて許そうとする。(ルネ・デカルト(1596-1650))


9.9 〈高邁〉とは異なる〈高慢〉

自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))




(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2019年7月19日金曜日

18.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳の基準の強制力の源泉

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

 「何らかの道徳の基準とみなされているものについては、次のような質問がしばしばなされるし、それは適切なことである。

その強制力は何であるか。それにしたがう動機は何か。よりはっきりと言えば、その義務の源泉は何か。どこからその拘束力をひきだすのか。

この問題にたいする答えを提示することは道徳哲学の必須の一部である。

これは、他の道徳論よりも功利主義道徳論にとりわけ当てはまるかのように、功利主義道徳論に対する反対論という形をしばしばとっているが、実際にはあらゆる基準について生じる問題である。

つまり、この問題は、人がある基準を《採用する》必要に迫られたり、習慣的に頼っていなかった何らかの根拠によって道徳論を論じるときにはいつでも生じている。

というのは、慣習的道徳論、つまり教育と世論が神聖なものとした道徳論のみが、《それ自体として》義務的なものであるという感情を心に呼びおこす唯一の道徳論だからである。

人がこの道徳論が慣習の後光のない何らかの一般原理からその義務力を《引き出している》ことを信じるように言われたとしても、このような主張は彼にとっては逆説的である。

もとの定理よりも、その系とされるものの方がより強い拘束力を持っているように思われ、土台とされるものがあるときよりもないときの方が上部構造がしっかりとしているように思われるのである。

人は次のように自問する。私は泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないと考えているが、どうして全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

 功利主義哲学が道徳感覚の性質について採用している見解が正しいとすれば、道徳的性格を作り上げてきた力が原理からの帰結を把握したのと同じように原理[自体]を把握するまで、つまり、教育の進歩によって、普通によく育てられた若者にとって悪事を恐れる気持ちがそうであるように、同胞との一体感が完全に本性の一部となるくらいまで私たちの性格に深く根を下ろし、そのように意識されるまで(キリストがそうすることを意図していたことは否定できない)、この難問はつねにおこってくるだろう。

しかし、そうするまでの間、この難問は功利性の理論にのみ特有のものではなく、道徳を分析しそれを原理に還元しようとするあらゆる試みに内在するものである。

原理がそれが応用されたものと同じくらいの神聖さをもって人の心に抱かれていないかぎり、この難問はつねに原理の神聖さをいくらかは損なうように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.291-292,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳の基準の強制力の源泉)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年5月3日金曜日

たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における何らかの「べき」観点の必要性

【たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「この権威的な決定という例から学ぶべき第二の教訓は、一層基本的な事柄にかかわっている。得点のルールには他のルールと同様に、スコアラーが選択を行なわなければならない開かれた構造の領域があるにもかかわらず、確定された意味をもった核があるという理由で、普通のゲームと「スコアラーの裁量」のゲームとを区別することができる。スコアラーが離れることができないのはこの核であり、そしてそのかぎりで、競技者が得点に関する公式の陳述をなす場合にも、またスコアラーが公式の裁決をなす場合も、ともに得点の記録が正しいかどうかの基準となっている。スコアラーの裁決は、最終的ではあっても誤ることがないのではないという主張が、正しいと考えられるのはこのことによるのである。同じことが法についても当てはまる。
 スコアラーのなしたいくらかの裁決が明らかに間違っていても、ある点まではゲームの継続の妨げにはならない。それは明らかに正しい裁決と同じであるとみなされる。しかし間違った決定の容認が、ゲームの継続と両立できる範囲には限りがあって、このことは法においても非常に類似している。単発的なあるいは例外的な公式な間違いが容認されるという事実は、クリケットや野球がまだ行なわれているということを意味している。他方、これらの間違いがしばしばなされるか、あるいはスコアラーが得点のルールを拒否するならば、競技者はもはやスコアラーの間違った裁決を受けいれないような段階、または受けいれてもそのゲームは変わったものになってしまうような段階がくるにちがいない。それはもはや、クリケットや野球ではなくて、「スコアラーの裁量」である。というのは、これらのゲームの決定的な特徴は、一般に、ルールの開かれた構造がスコアラーにどれだけ自由な幅を残すにせよ、ルールの明白な意味が要求する方法でゲームの結果が評価されるべきだという点にあるからである。考えられるある状況では、行なわれているゲームがまったく「スコアラーの裁量」であると言うべきであるが、しかしすべてのゲームにおいてスコアラーの裁決が最終的であるという事実は、すべてのゲームが「スコアラーの裁量」であるということを意味しない。
 裁判所の判決のユニークさは特定のケースで何が法であるかを最終的、権威的にのべるところにあるとするルール懐疑主義の形態をわれわれが評価するとき、上記の差異は心に留めておかれなくてはならない。法の開かれた構造は、スコアラーに対してよりもはるかに広く、重要な法創造の権能を裁判所にゆだねているのであって、スコアラーの裁定は法を創造する先例として使われないのである。すべての人々に対して明白だと思われるようなルールの範囲にある事柄と、論争の余地がある境界線上の事柄のいずれに関しても、裁判所が決定したことはすべて立法により変更されるまでは存続する。立法の解釈についてもまた、裁判所は同一の最終的、権威的発言権をもつだろう。しかし、裁判所の体系を定め、最高裁判所が適切だと考えるものはすべて法であると規定する憲法と、合衆国の現行の憲法またはこの点に関するいかなる現代の国家の憲法との間には、やはり差異が存在する。「憲法(または法)とは、どのようなものであれ、裁判官がそれだと言うものである」ということは、もしこの区別を否定するものと解釈されるなら、それは誤りである。いかなる時点でも、裁判官はたとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしており、その体系のルールの中心部は正しい判決の基準を提供できる程度に十分確定しているのである。裁判所は、その体系内では争うことのできない判決を下す権限を行使するさいに、これらを無視することができないものとみている。任務につくいかなる裁判官も、スコアラーの場合と同様に、議会における女王が制定するものは法であるというルールのようなルールが、伝統として確立され、任務を果たすさいの基準として受けいれられていることを見い出す。これは職務につく者の創造的活動を許容すると同時に、制限している。たしかにこのような基準は、ときの裁判官の大部分がこれを守るのでなければ、存続することができない。というのは、いかなる場合にも基準が存在するということは、それが正しい裁判の基準として受けいれられ、使用されることだけから成りたっているからである。しかしこのことによって、これらの基準を使用する裁判官がその創設者とされたり、ホードリーの言葉によれば、好むところにしたがって決定することのできる「立法者」とされたりするのではない。基準を維持するには、裁判官がそれを守ることが必要であるが、しかし裁判官はそれをつくるものではないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.157-159,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:半影的問題,べき観点,難解な事案)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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17.複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的、第一原理の役割

【複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.4)(b.5)追加。

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


選択される。
  (b.4)究極的目的(第一原理)の役割
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (b.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「お決まりの功利主義批判のうち残りの大部分は、人間本性のありふれた弱さや、誠実な人が人生において進むべき進路を決めるときに突き当たる一般的な困難を非難しているものである。

功利主義者は、自分の具体的事例を道徳規則の例外としがちであり、誘惑にかられたときには規則を守ることよりも破ることの方がより功利性があるとみなしがちであると言われる。

しかし、功利性は悪い行為をするときに口実を与えたり自らの良心をごまかす手段となったりする唯一の教義であろうか。

そのようなことは、道徳には相反する考慮が存在することを事実として認めているあらゆる理論のなかに多く見られるし、良識ある人々によって信奉されてきているあらゆる理論はこのようなものである。

行為の規則を例外を必要としないような形で作ることができないことや、ある行為をするべきものなのか非難されるべきものなのかをつねに問題なく決定することがほとんどできないことは、何らかの理論がもっている欠点ではなく、人間事象の複雑な性質からくる欠点である。

あらゆる倫理理論は、行為者の道徳的責任のもとで、特異な状況に対応するためにある程度の裁量の余地を与えることによって、その規則の厳格さを和らげている。

それゆえ、あらゆる理論において、このようにして作られた隙間から自己欺瞞やいい加減な決疑論が入り込む。あらゆる道徳体系において、義務が対立する明確な事例が生じる。これらの事例が、倫理理論にとっても個人の行為における良心の指針にとっても真の困難であり複雑な点である。

これらは実際には各個人の知性や徳次第で克服されうる。しかし、権利や義務が衝突するときに委ねることができる究極的な基準をもつことで、これらの困難な事例に取り組むのに適任でなくなると言うことはできない。

功利性が道徳的義務の究極的源泉であるとすれば、功利性はいくつかの義務が求めるものが両立しないときにどちらか一方に決めるために用いられるだろう。その基準を適用することは難しいことかもしれないが、何もないよりかはましである。

他の体系では、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張しており、それらに介入する資格をもつ共通の裁定者が存在していない。

したがって、ある規則が他の規則よりも優先されるという主張はこじつけとほとんど変わらないものに基づいているし、一般的にそうされているように功利性を考慮することの影響を暗黙的に受けることによって判断されないかぎり、個人的な欲求やえこひいきによる行為の余地がある。

第一原理に訴えるための要件を満たしているのは、このように二次原理の間で対立が生じている場合のみであることを忘れてはならない。何らかの二次原理を伴っていない道徳的義務の事例はない。[二次原理が]一つでもあれば、それはどれなのかについて[一次]原理自体を認識している人の心のなかで実際に疑問がもたれることはほとんどない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.289-290,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:究極的目的,二次的目的,第一原理,功利性の原理,最大幸福原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年5月2日木曜日

001 これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学


001 これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学

《概要》
 今さらデカルトから始める必要があるのかと疑問に思う人は、恐らく、(a)何かしら「最新」の哲学が、デカルトを超えて存在しており、そんな古い考えは必要ないと考えているか、(b)デカルトも様々な哲学の「学派」の一つに過ぎないと考えているか、(c)あるいはまた、様々な科学があれば、私たちは哲学なしにでもやっていけると考えているのだと思う。
 私の主張は、これらのいずれもが誤っているというものである。
 (a)デカルトは、確かに、これ以上は遡れない基礎としての、ひとつの真理をつかんでいる。最新の哲学といえども、この真理を度外視することはできない。
 (b)そもそも今までの哲学が、様々な学派があるかのように展開してきたのには、理由がある。それは、この宇宙の構造が、あたかも私一人のみが特別に全宇宙に向き合っているかのような、非対称的な構造をしていることに由来する。今、この序文を読んでいる「あなた」にとっても、あなた一人のみが特別に全宇宙に向き合っているかのように、この宇宙は存在している。このことは、最も驚嘆すべきとも言い得る、この宇宙の基本的な構造である。概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))ここから、あらゆる誤った学説と、真理の一面のみを捉え他の側面を無視した様々な「学派」が生まれた。しかし、私たちが求めているのは、ただ一つの真理である。
 (c)哲学は、私たちが到達し得るような知識の全体的な見通しと、その限界への洞察を与えてくれる。また、個別科学の基礎的な概念の分析と基礎づけ、有効な方法論の確立のための洞察を与えてくれる。方法が確立されているように見える自然科学の分野においてさえ、科学の基礎を問うような限界的で難しい問題の考察には、デカルトまで遡るような確固とした足場が必要となるのである。

《改訂履歴》
2019/05/02 第1版

《目次》
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
 5.1 意志のすべてが精神の能動である。
  5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
  5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
 5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である
  5.2.1 身体を原因とする知覚
  5.2.2 精神を原因とする知覚
  5.2.3 身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を原因とする、精神だけに関係づけられる知覚(情念)

1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
1.1 もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

(出典:wikipedia

1.2 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.3 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.4 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.5 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

1.5.1 真理探究の方法を見出すためには、この方法を探究するための他の方法の探究が必要だというように、限りなく遡る探究はあり得ない。こうした方法では、およそどんな認識にも到達しないであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

(出典:wikipedia


2.私は存在する
2.1 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.2 【無意識について】
精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))

2.3 およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 一見して異なるレベルの概念で説明しているようにも思われるかもしれないが、アルノーの指摘に対して、あえて理解しやすいように解答したものである。上記命題の正確な意味は、精神と身体、受動と能動の概念の理解において、明確となる。また、この命題は「無意識」を使用する哲学的(もしくは科学的)記述に対するひとつの注意である。その議論が、真に科学的なものなのか、曖昧で概略的なおしゃべりなのかを判断するときの、ひとつの拠り所となる命題である。

2.4 この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

2.5 いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは同時に、「私自身」が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

3.私でないものが、存在する
3.1 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

3.2 補足説明
〈このすべて〉Aが、〈わたし〉Aである。
〈わたし〉Aは、存在する。
〈わたし〉Aは、〈精神〉Aである。
〈この蜜蝋〉は〈わたし〉のなかにある〈観念〉であり、〈わたし〉のなかに存在する。〈この蜜蝋〉が〈観念〉としてではなく、〈本当に存在するもの〉であるためには、〈この蜜蝋〉を存在せしめている〈原因〉があり、この〈原因〉から〈この蜜蝋〉が〈本当に存在するもの〉であることが、理解できるようになっているはずだ。このとき、この〈原因〉も〈この蜜蝋〉も、〈わたし〉のなかに〈観念〉の連鎖として存在すれば十分だと考えることはできないのであって、何か〈本当に存在するもの〉としての〈原因〉から理解できるようになっているはずだ。このような理解に達してはじめて、〈わたし〉のなかにある〈この蜜蝋〉は、〈本当に存在するもの〉ではあるが、〈存在するとおりのもの〉ではなく、ある映像のようなものであることが知られるのである。
 さきに私が、すべてを疑い、それでも〈わたし〉が確かに存在することを知ったのと同じように、〈本当に存在するもの〉が〈現象するとおりのもの〉として〈わたし〉のうちにあるのならば、私自身がその〈観念〉の〈原因〉である。しかし、〈この蜜蝋〉は、〈現象するとおりのもの〉としては〈わたし〉のうちに存在せず、何か私とは別の〈本当に存在するもの〉を〈原因〉としてしか、〈本当に存在するもの〉であることが理解できないとすれば、私自身が〈この蜜蝋〉の〈原因〉ではなく、この〈原因〉であるところの、私とは別の〈本当に存在するもの〉が、確かに存在するということが帰結するのである。

[説明図]

〈わたし〉としての〈このすべて〉は、〈現象するとおりのもの〉で〈本当に存在するもの〉。
この場合は、私自身が〈原因〉である。

〈原因〉……〈観念〉なら、私自身が〈原因〉である。
 ↓
〈観念〉
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉かどうか不明
 例:〈この蜜蝋〉

〈原因〉……私には〈現象するとおりのもの〉として知られない。
 ↓    私以外のものが〈現象するとおりのもの〉として知る。
〈観念〉  〈本当に存在するもの〉の、私以外の〈原因〉がある。
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉
 例:〈この蜜蝋〉


3.3 私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))


4.精神と身体
4.1 心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.2 心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

4.3 新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.4 精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.5 意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

4.6 補足説明
 〈このすべて〉Xが、〈わたし〉Xである。
 〈わたし〉Xは、存在する。
 〈わたし〉Xは、〈精神〉Xである。

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  〈精神の受動〉P ⊆ X
  〈精神の能動〉A ⊆ X
  〈精神の受動〉P ∪ 〈精神の能動〉A = X
  〈精神の受動〉P ∩ 〈精神の能動〉A = φ

 いまここでの身体という概念は、わたしが〈精神の受動〉Pとして知ることの原因として考えられるもので、それの働きが原因となって、〈わたし〉Xにおいて感覚を結果させているものである。そして、〈精神の受動〉Pのすべてが、何らかの身体の能動を原因としているという仮説は、精神と身体が合一しているという仮説の別の表現であり、また精神自らの動き〈精神の能動〉A以外の、およそ精神が受け取るものは、すべて身体を通じてであり、その他の方法を通ずることはないという仮説の、別の表現でもある。
 ところで、意志のすべてが〈精神の能動〉Aであるが、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚も存在し、これも知覚であるということから、〈精神の受動〉Pの部分である。そこで、これを〈精神の受動(意志)〉と〈精神の受動(意志以外)〉に分けて表現すれば、

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動(意志以外)〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動(意志以外)〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動(意志以外)〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  ところで実は、〈精神の能動〉A = 〈精神の受動(意志)〉Aであるから、
  〈精神の受動(意志以外)〉P ⊆ X
  〈精神の受動(意志)〉A ⊆ X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∪ 〈精神の受動(意志)〉A = X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∩ 〈精神の受動(意志)〉A = φ

 〈このすべて〉Xが、〈精神の受動〉Xである。
 〈このすべて〉Xは、すべて身体における能動である。
 このように、〈精神〉と身体のもともとの概念は、すべてが〈精神の受動〉であることを含んでいるが、このすべての受動のなかに、確かに〈意志〉の現象が事実として存在している。この事実に基づき、この〈意志〉という現象を概念で表現したものが、〈精神の受動(意志)〉、〈精神の能動〉Aなのである。


5.私(精神)のなかに見出されるもの
5.1 意志のすべてが精神の能動である。
5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動

 ・ 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは
 認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
5.1.1.2 記憶の「想起」とは
 認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは
 認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
 (例)存在しない何かを想像する。
 ・ 存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
 ・ 悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは
 認識力が、独りで働くこと。
 (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
 ・ 悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
 ・ 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (例)捨象、抽象
 (例)観念を表現する物自体(モデル)
 (例)物のある省略された形(記号)
 (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。

5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
5.2.1 身体を原因とする知覚
5.2.1.1 外部感覚
 ・ 対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・〈特殊感覚〉視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚

5.2.1.2 共通感覚
 ・ ある特定の外部感覚は、その原因となる身体の能動が、より広い範囲の身体に影響を与え、これら身体の能動を精神において受動する共通感覚を生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.3 想像力、記憶
 ・ 外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
 ・ 精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・〈表在性感覚〉皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚
 ・〈深部感覚〉筋、腱、骨膜、関節の感覚

5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
 ・〈内臓感覚〉空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など

5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想(広い意味では、情念の一種)
 ・ 精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.2 精神を原因とする知覚
 ・ 意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
5.2.2.1 意志についての知覚
5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚
5.2.3 身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を原因とする、精神だけに関係づけられる知覚(情念)
 ・ 精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))




(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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