2019年11月2日土曜日

人間の尊厳を蹂躙し悲惨を極めた過去の戦争体験者にとって、平和のうちに生きる権利は、人格と一体化し、その核心部分を構成する。国際平和を実現する制度的裏づけである憲法第9条の改変は、人格に対する具体的な危害となっており、平和的生存権を侵害する。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

平和的生存権

【人間の尊厳を蹂躙し悲惨を極めた過去の戦争体験者にとって、平和のうちに生きる権利は、人格と一体化し、その核心部分を構成する。国際平和を実現する制度的裏づけである憲法第9条の改変は、人格に対する具体的な危害となっており、平和的生存権を侵害する。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
「ウ 平和的生存権の侵害  原告らは、このような集団的自衛権の行使又は後方支援活動等の実施を容認した新安保法制法の提出に係る内閣の行為及び国会の議決によって、上記のような平和的生存権を侵害されました。すなわち、原告らは、日本人310万人、世界では5200万人の死者を生じた第二次世界大戦など悲惨を極めた過去の戦争の結果、そこでの人間の尊厳の蹂躙、生存者にも残る癒えない傷痕など、政府の行為によって再びかかる戦争の惨禍が起こることのないことを心から希求し、憲法前文及び9条に基づいて、戦争を放棄して戦力を持たず、武力を行使することのない平和国家日本の下で平和のうちに生きる権利を有しています。とりわけ、原告らのうち戦争の体験を有する者、例えば空襲被害者、原爆被害者等の戦争被害者は、戦火の中を逃げまどい、生命の危険にさらされ、家族を失う等の極限的な状況に置かれ、心身に対する深い侵襲を受けて、二度と戦争による被害や加害があってはならないことを身をもって痛感し、その体験を戦後70年間背負って生きてきた者です。平和憲法、なかんずく9条の規定は、その痛苦の体験の代償として得られたかけがえのないものであり、平和のうちに生きる権利は、これら原告の人格と一体となって、その核心部分を構成しています。
 このような平和的生存権は、戦争の被害者となることを拒否するばかりでなく、他国に対する軍事的手段による加害行為に加担することなく、みずからの平和的確信に基づいて生きる権利等を包含するものであります。
 ところが、新安保法制法の制定は、このような原告らの平和的生存権を蹂躙し、侵害するものです。集団的自衛権の行使や後方支援活動等の実施は、日本が自ら他国の攻撃に加担し、武力の行使や兵站活動等を行って、他国の国土を破壊し、その国民・市民を死傷させるものであるとともに、戦争の当事国となった日本は、当然に、敵対国から国土に攻撃を受け、あるいはテロリズムの対象となることを覚悟しなければならないのであり、原告らを含む日本の国民・市民の全部が、戦争体制に突入し、その犠牲を覚悟しなければならないことになります。このようなものとしての集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法の制定は、日本が実際に戦争に突入した場合はもちろんであるが、それに至らない段階においても、その具体的危険を生ぜしめるものとして、原告ら国民・市民の平和的生存権を侵害するものであります。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
4 原告らの権利、利益の侵害(概論)
※(1) 平和的生存権の侵害
(2) 人格権侵害
(3) 憲法改正・決定権侵害
(索引:平和的生存権,日本国憲法第9条,戦争体験者)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
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基本的人権と個人の尊厳を保障するためには、国際平和の実現が基本的な前提条件であり、日本国憲法は第9条によって、その制度的な裏づけを与えた。従って、平和的生存権は具体的な法規範性を有する。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

平和的生存権の具体的権利性

【基本的人権と個人の尊厳を保障するためには、国際平和の実現が基本的な前提条件であり、日本国憲法は第9条によって、その制度的な裏づけを与えた。従って、平和的生存権は具体的な法規範性を有する。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
「ア 平和的生存権の具体的権利性
 日本国憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、また、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と規定しています。
 平和は、国民・市民が基本的人権を保障され、人間の尊厳に値する生活を営む基本的な前提条件であり、日本国憲法は、全世界の国民・市民が有する「平和のうちに生存する権利」を確認することに基づいて国際平和を実現し、その中で基本的人権と個人の尊厳を保障しようとしました。したがって、平和のうちに生存する権利は、全ての基本的人権の基礎にあって、その享有を可能ならしめる基底的権利であり、単に憲法の基本的精神や理念を表明したにとどまるものではなく、法規範性を有するものと解されるべきものです。この平和的生存権の具体的権利性は、また、包括的な人権を保障する憲法13条の規定によってその内容をなすものとして根拠づけられるととともに、憲法9条の平和条項によって制度的な裏付けを与えられています。
 とりわけ、憲法9条に反する国の行為によって、国民・市民の生命、自由等が侵害され、又はその危険にさらされ、あるいは国民・市民が憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強いられるような場合(前記2の(2)ないし(4)に掲げた「各事態においてとられる措置と国民の権利制限・義務等」参照)、これに対する救済を求める法的根拠として、平和的生存権の具体的権利性が認められなければなりません(前記名古屋高裁平成20年4月17日判決参照)。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
4 原告らの権利、利益の侵害(概論)
※(1) 平和的生存権の侵害
(2) 人格権侵害
(3) 憲法改正・決定権侵害
(索引:平和的生存権,日本国憲法第9条,平和的生存権の具体的権利性)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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外国の軍隊に対する物品及び役務の提供のうち、弾薬を含む武器の提供や、航空機に対する給油・整備を除外し、非戦闘地域における活動に制限してきたが、今やこの制限はない。現に戦闘が行われていなければよいとされている。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

後方支援活動等の武力行使性

【外国の軍隊に対する物品及び役務の提供のうち、弾薬を含む武器の提供や、航空機に対する給油・整備を除外し、非戦闘地域における活動に制限してきたが、今やこの制限はない。現に戦闘が行われていなければよいとされている。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
(1)安保法制成立以前の政府の解釈
 (1.1)後方支援活動等は、それ自体は戦闘行為そのものではないとしても、相手国から見れば一体として武力を行使しているものとして攻撃の対象となり得る。
 (1.2)他国軍隊の武力行使と「一体化」しなければ憲法上の問題を生じない。
  その条件は、以下のとおり。
  (a)「現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる地域」(周辺事態法(平成11年))
  (b)物品・役務の提供から、弾薬を含む武器の提供、戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油・整備を除外する。
(2)安保法制後の政府の解釈
 (2.1)他国軍隊の武力行使と「一体化」しなければ憲法上の問題を生じない。
  その条件は、以下のとおり。
  (a)「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所であれば、そこで実施する日本の支援活動については、そもそも当該他国の武力行使と一体化するものではない。
  (b)その場所が「現に戦闘行為を行っている現場」になる場合には、その活動を休止・中断すればよい(26・7閣議決定)。
  (c)弾薬の提供や、戦闘行為のために発進準備中の航空機に対する給油・整備までも許容される。

「(3) 後方支援活動等の他国軍隊の武力の行使と一体化
ア 名古屋高裁平成20年4月17日判決(判例タイムズ1313号137頁-自衛隊のイラク派遣差止訴訟)は、イラクにおいて航空自衛隊が多国籍軍の武装兵員を空輸した行為につき、「他国による武力行使と一体化した行動であって、自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない行動であるということができる」と判示しました。
 後方支援活動等は、それ自体は戦闘行為そのものではないとしても、相手国から見れば一体として武力を行使しているものとして攻撃の対象となり得るものであり、法的にも武力の行使と評価され得るものです。従来の政府解釈では、このような一体化論を前提として(つまり、後方支援活動等が、法的に武力行使とみられることがあることを前提にして)、他国軍隊の武力行使と「一体化」しなければ憲法上の問題を生じないとの 解釈が行われてきました。
 具体的には、まず平成2年の湾岸戦争での多国籍軍支援のための「国際連合平和協力法案」(不成立)の際に問題になりましたが、その後、周辺事態法(平成11年)において、米軍の支援を行うことができる地域を「後方地域」すなわち「現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる地域」に限定することによって、米軍の武力行使と一体化しない法律上の担保とする仕組みがとられました。同時に、後方地域支援活動としての米軍に対する物品・役務の提供から、弾薬を含む武器の提供、戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油・整備を除外しました。そして旧テロ特措法(平成13年)においても、周辺事態法の上記「後方地域」と同じ文言で定められた地域に協力支援活動等を限定して、多国籍軍との武力行使の一体化が生じないようにすることとされました。すなわち、ここで限定された活動地域は(法文上の用語ではない)「非戦闘地域」と称され、「戦闘地域」と「非戦闘地域」という区別が議論の焦点となり、自衛隊の活動領域を「非戦闘地域」に限定し、「非戦闘地域」での協力支援活動等は武力行使に当たらないとして、法文上この問題を解決しようとしました。旧イラク特措法(平成15年)においても同様の解釈が行われました。
 しかしながら、この立法と解釈自体、相当に危険をはらんでいるものでありました。現に、イラク派遣の実態は、「非戦闘地域」とされたサマワの自衛隊の宿営地に迫撃砲やロケット弾による攻撃が10回以上発生していることや、前記のとおり名古屋高裁判決が航空自衛隊による武装兵員の輸送を武力行使と一体化したものと判断しているように、問題を残すものでありました。
 イ ところが、重要影響事態法と国際平和支援法は、さらに要件を緩め、従来の「後方地域」「非戦闘地域」に自衛隊が活動する地域を区切って限定することにより、他国軍隊との武力行使の一体化の問題が生じない担保とする枠組みに依拠することなく、「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所であれば、そこで実施する日本の支援活動については、そもそも当該他国の武力行使と一体化するものではないという考え方を採ることとし、状況の変化に応じて、その場所が「現に戦闘行為を行っている現場」になる場合には、その活動を休止・中断すればよいものとしたのです(26・7閣議決定)。
 加えて、重要影響事態法と国際平和支援法は、後方支援活動等の内容として、弾薬の提供や、戦闘行為のために発進準備中の航空機に対する給油・整備までも許容します。これは他国軍隊の武力行使への直接の支援にほかなりません。
 政府は、それでも「武力行使の一体化」は生じないとするのですが、これは戦闘の実態に目をつぶった欺瞞であると言わざるを得ません。これによれば、自衛隊は、現に戦闘行為が行われていなければ、そのすぐ近くの地域であっても支援活動が可能であることになり、そのような場所で弾薬の提供まで含む兵站活動を行っている自衛隊は、相手国から見れば、武力を行使する他国の軍隊とまさに一体となって武力を行使する支援部隊と見られ、相手国からの攻撃の対象とされることは避けられないでしょう。そして自衛隊がこれに反撃し、交戦状態へと突き進む危険性は極めて高いといえます。
 従来の、危ういながら、「非戦闘地域」という枠組みによってかろうじて合憲性の枠内に留まるとされてきた後方支援活動等ではありましたが、その枠組みさえも取り払われ、弾薬の提供等まで許容した上記二つ法律においては、もはやそのような説明は成り立たず、これによる自衛隊の後方支援活動等は他国軍隊の武力の行使と一体化し、又はその危険性の高いものとして、憲法9条に違反するものであることが明らかです。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
3 後方支援活動等の実施はいずれも違憲であること
(1) 後方支援活動等の軍事色強化
(2) 後方支援活動等の武力行使性
※(3) 後方支援活動等の他国軍隊の武力の行使と一体化
(4) 後方支援活動等の違憲性
(索引:日本国憲法第9条,安保法制,後方支援活動等の武力行使性)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

外国の軍隊に対する物品及び役務の提供は、それ自体は武力行使には当たらないとしても、他国の武力行使と一体になることによって、憲法が禁止する「武力の行使」と評価される。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

後方支援活動等の武力行使性

【外国の軍隊に対する物品及び役務の提供は、それ自体は武力行使には当たらないとしても、他国の武力行使と一体になることによって、憲法が禁止する「武力の行使」と評価される。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
「(2) 後方支援活動等の武力行使性
 ここで後方支援活動等とされるものは、外国の軍隊に対する物品及び役務の提供であって、一般に「兵站」と呼ばれているものです。自衛隊の後方支援活動等において問題となるのは、これらが憲法の禁ずる「武力の行使」に当たらないかという点です。すなわち、直接戦闘行為に加わらなくても、また、自衛隊の活動自体が武力行使に当たらないとしても、他国の武力行使と一体になることによって、結局、憲法9条が禁止する「武力の行使」と評価されるのではないかという問題です。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
第2 集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為は違法であること
3 後方支援活動等の実施はいずれも違憲であること
(1) 後方支援活動等の軍事色強化
※(2) 後方支援活動等の武力行使性
(3) 後方支援活動等の他国軍隊の武力の行使と一体化
(4) 後方支援活動等の違憲性
(索引:日本国憲法第9条,安保法制,後方支援活動等の武力行使性)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

(1)日本への武力攻撃だけでなく、(1')日本との密接関係国への攻撃に対する自衛措置があり得ると仮に想定しても、(1')の危険の評価、危険に対する多様な対処、実力行使の妥当性の判断は、極めて曖昧で困難である。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

実力行使の妥当性判断の困難さ

【(1)日本への武力攻撃だけでなく、(1')日本との密接関係国への攻撃に対する自衛措置があり得ると仮に想定しても、(1')の危険の評価、危険に対する多様な対処、実力行使の妥当性の判断は、極めて曖昧で困難である。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】

「第2要件(他に適当な手段がないこと)及び第3要件(必要最小限度の実力の行使)は、表現はこれまでの自衛権発動の3要件と類似していますが、前提となる第1要件があいまいになれば、第2要件、第3要件も必然的にあいまいなものになります。例えば、国会審議を含めて政府から繰り返し強調されたホルムズ海峡に敷設された機雷掃海についてみれば、第1要件のいう「我が国の存立が脅かされ、国民の生命等が根底から脅かされる」のは、経済的影響でも足りるのか、日本が有する半年分の石油の備蓄が何か月分減少したら該当するのか、そのときの国際情勢や他国の動きをどう評価・予測するのかなどの判断のしかたに左右され、第2要件の「他の適当な手段」として、これらに関する外交交渉による打開の可能性、他の輸入ルートや代替エネルギーの確保の可能性などの判断も客観的基準は考えにくく、さらに第3要件の「必要最小限度」も第1要件・第2要件の判断に左右されて、派遣する自衛隊の規模、派遣期間、他国との活動分担などの限度にも客観的基準を見出すことは困難です。
 以上に加えて、平成25年12月に制定された特定秘密保護法により、防衛、外交、スパイ、テロリズム等の安全保障に関する情報が、政府の判断によって国民に対して秘匿される場合、「外国に対する武力攻撃」の有無・内容、その日本及び国民への影響、その切迫性等を判断する偏りのない十分な資料を得ることすらできず、政府の「総合的判断」の是非をチェックすることができないのです。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
第2 集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為は違法であること
1 新安保法制法制定の経緯
2 集団的自衛権の行使が違憲であること
(1) 集団的自衛権の行使容認
(2) 憲法9条の解釈における集団的自衛権行使の禁止
(3) 閣議決定と新安保法制法による集団的自衛権行使の容認
※(4) 集団的自衛権行使容認の違憲性
(5) 立憲主義の否定
(索引:日本国憲法第9条,安保法制,実力行使の妥当性判断の困難さ)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

(1)日本への武力攻撃だけでなく、(1')日本との密接関係国への攻撃に対する自衛措置があり得ると仮に想定しても、(1)は事実として明確であるのに対し、(1')は評価の問題であり、客観的限定性に欠ける点で、本質的に異なる事態である。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

法の客観的限定性の欠如

(1)日本への武力攻撃だけでなく、(1')日本との密接関係国への攻撃に対する自衛措置があり得ると仮に想定しても、(1)は事実として明確であるのに対し、(1')は評価の問題であり、客観的限定性に欠ける点で、本質的に異なる事態である。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
「そして第1要件についていえば、「我が国に対する武力攻撃」があったかなかったかは事実として明確であるのに対し、他国に対する武力攻撃が「我が国の存立を脅かす」かどうか、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利を覆す」かどうかは、評価の問題であるから、極めてあいまいであり、客観的限定性を欠きます。「密接な関係」「根底から覆す」「明白な危険」なども全て評価概念であり、その該当性は判断する者の評価によって左右されます。そして法案審議における政府の国会答弁によれば、この事態に該当するかどうかは、結局のところ、政府が「総合的に判断」するというのです。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
第2 集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為は違法であること
1 新安保法制法制定の経緯
2 集団的自衛権の行使が違憲であること
(1) 集団的自衛権の行使容認
(2) 憲法9条の解釈における集団的自衛権行使の禁止
(3) 閣議決定と新安保法制法による集団的自衛権行使の容認
※(4) 集団的自衛権行使容認の違憲性
(5) 立憲主義の否定
(索引:日本国憲法第9条,安保法制,法の客観的限定性)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

(1')日本との密接関係国への攻撃に対する、自衛措置というものが仮にあり得ると想定しても、日本の領域、周辺への制限がなくなることによって、必要最小限の実力行使の範囲は確実に広がる。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

自衛隊の活動範囲の拡大

【(1')日本との密接関係国への攻撃に対する、自衛措置というものが仮にあり得ると想定しても、日本の領域、周辺への制限がなくなることによって、必要最小限の実力行使の範囲は確実に広がる。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】

(c.3.1')追加。

(5)政府の新解釈
 (a)日本国憲法も、独立国が当然に保有する自衛権を否定するものではない。
 (b)自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は憲法9条2項の「戦力」には当たらない。
 (c)自衛権発動の新3要件
  (c.1)日本に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したこと
   (c.1.1)従って、自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利としての集団的自衛権の行使は、許されない。
  (c.1')しかし、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合
   (c.1'.1)この場合は、集団的自衛権の行使ではなく、憲法上許容される「自衛の措置」である。
  (c.2)これを排除するために他の適当な手段がないこと
  (c.3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
   (c.3.1')日本に対する武力攻撃が発生していなくとも、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃に対する対処が含まれることによって、自国の領域や、必要な限度において日本の周辺の公海・公空における対処への制限がなくなり、他国の領土・領海・領空に派遣する、いわゆる海外派兵が必要となる。

「まず、「他国に対する武力攻撃」に対して日本が武力をもって反撃するということは、法理上、これまで基本的に日本周辺に限られていた武力の行使の地理的限定がなくなり、外国の領域における武力の行使、すなわち海外派兵を否定する根拠もなくなることを意味します。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
第2 集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為は違法であること
1 新安保法制法制定の経緯
2 集団的自衛権の行使が違憲であること
(1) 集団的自衛権の行使容認
(2) 憲法9条の解釈における集団的自衛権行使の禁止
(3) 閣議決定と新安保法制法による集団的自衛権行使の容認
※(4) 集団的自衛権行使容認の違憲性
(5) 立憲主義の否定
(索引:自衛隊の活動範囲の拡大,必要最小限の実力行使)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

自衛のための必要最小限度の実行組織は「戦力」には当たらない。(1)日本への武力攻撃だけでなく、(1')日本との密接関係国に対する攻撃であっても、(1)と同じ危険がある場合には、(2)他に排除手段がなく、(3')必要最小限度の実力行使であれば自衛措置である。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

安保法制を支持する政府の新解釈

【自衛のための必要最小限度の実行組織は「戦力」には当たらない。(1)日本への武力攻撃だけでなく、(1')日本との密接関係国に対する攻撃であっても、(1)と同じ危険がある場合には、(2)他に排除手段がなく、(3')必要最小限度の実力行使であれば自衛措置である。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
(4)政府の従来解釈
 (a)日本国憲法も、独立国が当然に保有する自衛権を否定するものではない。
 (b)自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は憲法9条2項の「戦力」には当たらない。
 (c)自衛権発動の3要件
  (c.1)日本に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したこと
   (c.1.1)従って、自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利としての集団的自衛権の行使は、許されない。
  (c.2)これを排除するために他の適当な手段がないこと
  (c.3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
   (c.3.1)従って、外部からの武力攻撃を日本の領域から排除することを目的とすることから、日本の領域内での行使を中心とし、必要な限度において日本の周辺の公海・公空における対処も許されるが、反面、武力行使の目的をもって自衛隊を他国の領土・領海・領空に派遣する、いわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されない。

(5)政府の新解釈
 (a)日本国憲法も、独立国が当然に保有する自衛権を否定するものではない。
 (b)自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は憲法9条2項の「戦力」には当たらない。
 (c)自衛権発動の新3要件
  (c.1)日本に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したこと。
   (c.1.1)従って、自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利としての集団的自衛権の行使は、許されない。
  (c.1')しかし、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合
   (c.1'.1)この場合は、集団的自衛権の行使ではなく、憲法上許容される「自衛の措置」である。
  (c.2)これを排除するために他の適当な手段がないこと
  (c.3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

「(3) 閣議決定と新安保法制法による集団的自衛権行使の容認
 ところが、政府は、平成26年7月1日、上記のこれまでの確立した憲法9条の解釈を覆し、集団的自衛権の行使を容認することなどを内容とする閣議決定(26・7閣議決定)を行い、これを実施するための法律を制定するものとしました。
 すなわち、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、①我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、③必要最小限度の実力の行使をすること」は、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されるとし、この武力の行使は、国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合があるが、憲法上はあくまでも「自衛の措置」として許容されるものである、としたのです(上記①②③は引用者が挿入。これが「新3要件」といわれるものです。)。
 そして、新安保法制法による改正自衛隊法76条1項及び事態対処法2条4号等に、上記新3要件に基づく「防衛出動」との位置づけにより、この集団的自衛権の行使の内容、手続が定められるに至りました。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
第2 集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為は違法であること
1 新安保法制法制定の経緯
2 集団的自衛権の行使が違憲であること
(1) 集団的自衛権の行使容認
(2) 憲法9条の解釈における集団的自衛権行使の禁止
※(3) 閣議決定と新安保法制法による集団的自衛権行使の容認
(4) 集団的自衛権行使容認の違憲性
(5) 立憲主義の否定
(索引:日本国憲法第9条,戦力,戦争,自衛権,自衛権発動の新3要件)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

自衛のための必要最小限度の実行組織は「戦力」には当たらない。そのためには(1)日本への武力攻撃が発生し、(2)他に排除手段がない場合、(3)日本の領域内または周辺における必要最小限度の実力行使にとどめること。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

安保法制成立前の政府の憲法解釈

【自衛のための必要最小限度の実行組織は「戦力」には当たらない。そのためには(1)日本への武力攻撃が発生し、(2)他に排除手段がない場合、(3)日本の領域内または周辺における必要最小限度の実力行使にとどめること。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
(1)自衛のための戦争を含めて、あらゆる武力行使を放棄して非武装の恒久平和主義を定めたものであるという解釈も存在する。
(2)自衛のための必要最小限度の実力の保持は憲法も許容しているとの解釈が、政府解釈の基本である。
(3)否定されるのは日本が当事者となってする侵略戦争のみであって、集団的自衛権の行使も許されるとする解釈も存在する。
(4)政府の従来解釈
 (a)日本国憲法も、独立国が当然に保有する自衛権を否定するものではない。
 (b)自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は憲法9条2項の「戦力」には当たらない。
 (c)自衛権発動の3要件
  (c.1)日本に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したこと。
   (c.1.1)従って、自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利としての集団的自衛権の行使は、許されない。
  (c.2)これを排除するために他の適当な手段がないこと。
  (c.3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。
   (c.3.1)従って、外部からの武力攻撃を日本の領域から排除することを目的とすることから、日本の領域内での行使を中心とし、必要な限度において日本の周辺の公海・公空における対処も許されるが、反面、武力行使の目的をもって自衛隊を他国の領土・領海・領空に派遣する、いわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されない。

「(2) 憲法9条の解釈における集団的自衛権行使の禁止憲法9条の解釈については、
A:自衛のための戦争を含めてあらゆる武力行使を放棄して非武装の恒久平和主義を定めたものであるという解釈から、
B:自衛のための必要最小限度の実力の保持は憲法も許容しているとの解釈、さらには、
C:否定されるのは日本が当事者となってする侵略戦争のみであって集団的自衛権の行使も許されるとする解釈まで、様々な立場があります。
そして、日本政府は、これまで、日本国憲法も独立国が当然に保有する自衛権を否定するものではなく、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は憲法9条2項の「戦力」には当たらないとする一方で、その自衛権の発動は、①日本に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したこと、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきことの3つの要件(自衛権発動の3要件)を満たすことが必要であるとの解釈を定着させてきました。そして、政府は、自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利としての集団的自衛権の行使は、この自衛権発動の3要件、特に①の要件に反し、憲法上許されないと解してきました。
 また、政府は、③の要件の自衛権による実力行使の「必要最小限度」については、それが外部からの武力攻撃を日本の領域から排除することを目的とすることから、日本の領域内での行使を中心とし、必要な限度において日本の周辺の公海・公空における対処も許されるが、反面、武力行使の目的をもって自衛隊を他国の領土・領海・領空に派遣する、いわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないとしてきました。
 すなわち、政府は、自衛隊による実力の行使は、日本の領域への侵害の排除に限定して始めて憲法9条の下でも許され、その限りで自衛隊は「戦力」に該当せず、「交戦権」を行使するものでもないと解してきましたが、それ故にまた、他国に対する武力攻撃を実力で阻止するものとしての集団的自衛権の行使は、これを超えるものとして憲法9条に反して許されないとされてきたのです。
 この海外派兵の禁止、集団的自衛権の行使の禁止という解釈は、昭和29年の自衛隊創設以来積み上げられてきた、一貫した政府の憲法9条解釈の基本原則であり、内閣法制局及び歴代の総理大臣の国会答弁や政府答弁書等において繰り返して表明されてきました。それは、憲法9条の確立された政府の解釈として規範性を有するものとなり、これに基づいて憲法9条の平和主義の現実的枠組みが形成され、「平和国家日本」の基本的あり方が形造られてきたのでした。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
第2 集団的自衛権の行使等を容認する新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為は違法であること
1 新安保法制法制定の経緯
2 集団的自衛権の行使が違憲であること
(1) 集団的自衛権の行使容認
※(2) 憲法9条の解釈における集団的自衛権行使の禁止
(3) 閣議決定と新安保法制法による集団的自衛権行使の容認
(4) 集団的自衛権行使容認の違憲性
(5) 立憲主義の否定
(索引:日本国憲法第9条,戦力,戦争,自衛権,自衛権発動の3要件)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
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ある状況が明確に予見できるにもかかわらず、違憲かどうかの判断を回避し、現状の政治的判断を黙認するならば、それは裁判官による不当な一つの政治的選択であり、憲法尊重義務違反でもある。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)

裁判官の憲法尊重義務

【ある状況が明確に予見できるにもかかわらず、違憲かどうかの判断を回避し、現状の政治的判断を黙認するならば、それは裁判官による不当な一つの政治的選択であり、憲法尊重義務違反でもある。(平成28年(ワ)13525号 国家賠償請求事件 2016年4月26日 訴状)】
「裁判所には違憲立法審査権があり、裁判官には憲法を尊重し、擁護する義務があります。今回の新安保法制法に基づく自衛隊の出動等により具体的被害が出てからでは遅いのです。そして、外国の軍隊と共同作戦をとるなどの集団的自衛権行使の既成事実ができてしまえば、裁判所において違憲と判断をした場合の政治的影響が極めて大きくなり、その判断も難しくなります。裁判所におかれては、違憲であることが明白な新安保法制法を黙認することなく、既成事実の作り上げに手を貸すことをせず、憲法と平和を守りたいとの国民・市民の願いに応えるともに、内閣総理大臣の求める裁判所としての判断を行い、新安保法制法が違憲であることの判断をされることを強く願っております。」
(出典:国家賠償請求訴訟 平成28年(ワ)13525号 2016年4月26日 訴状裁判資料・国家賠償請求訴訟安保法制違憲訴訟の会
目 次 ※印は、上記引用文の記載箇所を示す。
【法律の題名の略称】
※【原告たちの思い】
(索引:裁判官の憲法尊重義務,憲法判断,政治的選択)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
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安保法制の違憲訴訟は、国民運動の一環である。裁判に勝つことは必要だが、たとえ負けても、裁判を通じて世論を形成し、最終的には国会で、安保法制を廃止するための一手段であることを忘れないこと。(安保法制違憲訴訟の会)

政治過程と司法

【安保法制の違憲訴訟は、国民運動の一環である。裁判に勝つことは必要だが、たとえ負けても、裁判を通じて世論を形成し、最終的には国会で、安保法制を廃止するための一手段であることを忘れないこと。(安保法制違憲訴訟の会)】
「五 国民運動の一環であること

さらに私たちは、この裁判の目的が、単に違憲判決を得ることに尽きるものではないことも明確にしておきたいと思います。すなわち、裁判を通じて社会にインパクトを与えながら世論を形成し、政治過程を通じて違憲状態を矯正することにも重きを置きたいと考えています。

このような裁判の政策形成機能は、具体的には嫌煙権訴訟(東京地裁昭和62年3月27日)が、原告敗訴にもかかわらず禁煙車両の増設をもたらした例、砂川裁判闘争において、一審の伊達判決が日米政府を動揺させ、ひいては、67年の美濃部都政誕生を潮目に、69年、米軍の拡張計画断念に至った例など、枚挙に暇まがありません。「裁判で勝つ」ことのみならず、「裁判を通じて勝つ」ことも車の両輪として重視しています。

たとえ裁判所が違憲判断をしたとしても、違憲判決を国会が無視して放置すれば、もはや法律家はどうすることもできません。尊属殺違憲条項ですら法改正まで22年間も放置されました。この安保法制も最終的には国会で廃止するしかありません。もともと裁判所の違憲判断はそのための一手段にすぎないのです。ですから今回の違憲訴訟も国会での廃止に向けた運動の一環であることは明らかであると考えています。」
(出典:私たちが安保法制の違憲訴訟を提起する意義について(4)安保法制違憲訴訟の会
(索引:安保法制,国民運動,司法,世論)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
検索(安保法制)
検索(憲法改正)
検索(憲法9条)

安保法制は、政治過程を通じた廃止の追求とともに、司法ルートからも訴訟提起する必要がある。基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士は、現状を座視することは許されない。(安保法制違憲訴訟の会)

弁護士の責務

【安保法制は、政治過程を通じた廃止の追求とともに、司法ルートからも訴訟提起する必要がある。基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士は、現状を座視することは許されない。(安保法制違憲訴訟の会)】
「三 法律家としての弁護士の職責
次に私たちは、訴訟提起をせずに現状を座視することは、法律家としての弁護士の職責を全うすることにならず、むしろ安保法制の現状追認と評価されてしまうことを強く危惧しました。弁護士の使命は、弁護士法一条一項が示すように、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することにあります。」
「市民とともに声を上げ選挙など政治過程を通じて安保法制を廃止に追い込むことはぜひとも追求していかねばなりません。しかし、法律家にしかできないこともあるはずです。司法のルートからこの違憲立法を廃止する訴訟を推し進めることは、まさに法律家にしかできないことであり、法律家として行動しなければならないことと考えています。」
(出典:私たちが安保法制の違憲訴訟を提起する意義について(3)安保法制違憲訴訟の会
(索引:安保法制,弁護士,政治と司法)

(出典:安保法制違憲訴訟の会
安保法制違憲訴訟の会(2016-)(Collection of propositions of great philosophers)
安保法制違憲訴訟の会(2016-)
安保法制違憲訴訟の会
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検索(憲法9条)

2019年11月1日金曜日

自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

外国の言語や文化の学習

【自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

他の国の言語や文化を学ぶこと
(1)意見や方法は修正され得るものである。
 (a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
 (b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
 (c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
 (d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
(2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
 (a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
 (b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
 (c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。

 「ある国の言語を知らなければ、われわれはその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできません。もしわれわれが他の国民についてのこの種の知識を持ち合わせていないならば、一生涯かけて自分自身の知性を開発したとしても、それは半分しか開発したことにはならないのであります。未だかつて一度も自分の家の外に出たことのないような若者を考えてみましょう。このような若者は、自分が教えられてきた意見や考え方とは異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わないことでしょう。あるいは、そのような人が自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考えることでしょう。もし彼の家族が保守党員ならば、自分が自由党員になる可能性など全く考えられないし、反対に家族が自由党員なら、保守党員になる可能性などまったく考えられないわけです。一軒の家族がもつ考え方と習慣がその家族以外の人間と一切つき合ったことのない少年に及ぼす影響は、他の国についてまったく無知な人間に自国の考え方や習慣が及ぼす影響とほとんど同じだといってよいでしょう。そのような考え方と習慣は、その少年にとっては、本性そのものなのです。従って、自分の考え方や習慣と異なるものはすべて、彼にとっては、心の中ですら理解できない異常なものであり、そして自分のとは異なった方法も正しいことがありうる、あるいは、他の方法も自分自身の方法と同様、正しいものに向かいうるという考えは、彼には思いもよらないことなのです。こうした事は、単に、すべての国々が他の国から学ぶべき多くの事柄に今でもその眼をふさいでいるのみならず、そのような態度をとらなければ、各々の国が自らの力で成し遂げることのできる進歩までをも阻止することになります。もしわれわれの意見や方法は修正されうるものだという考えから出発しなければ、われわれは決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないでありましょう。外国人は自分達とは違った考え方をすると単に思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでありましょう。進歩とは、われわれのもつ意見を事実との一致により近づけることであります。われわれが自分自身の意見に色付けされた眼鏡を通してのみ事実を見ている限り、われわれはいつになっても進歩することはないでしょう。しかしながら、われわれは先入観から脱却するなどということは決してできません。そこで、敢えて他の国民の色の違った眼鏡をしばしばかけてみること以外に、この先入観の影響を除去する方法は全くないように思われます。そしてその際、他の国民の眼鏡の色がわれわれのものと全く異なっていれば、それが最良であります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.20-21,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:外国の言語や文化の学習)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月31日木曜日

一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

一般教養教育の内容

【一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)一般教養教育の内容
 (4.1)広範囲にわたる様々な主題について、知ること。
  (a)一つの主題については、その主要な真理のみを知ること。全てを知ることはできない。
  (b)その主要な真理については、正確に徹底的に知ること。曖昧に知ることではない。
  (c)一つの主題についての、主要な真理以外については、そのことについて熟知している人が誰であるかを評価できる程度の知識を得ること。
 (4.2)自分自身の専門領域の知識を、一般教養教育で得た一般的知識と結合させること。
  (a)各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学ぶこと。
  (b)正しい思考原理と法則によって、理解力を訓練し、鍛え上げること。
  (c)われわれが確実に知っていることと、そうでないこととの境界線を明らかにすること。
(5)一般教養教育の社会的効果
 (5.1)実生活の重大関心事に関して、活発な世論を育て、質を向上させることができる。
 (5.2)政治と市民社会に関して、人々が思慮をもって適切に対処することができる。

 「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄を知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させることであります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。この大学の教科過程のなかで使用されている教科書〔『論理学概論』〕の著者である優秀な学者、ホエートリ大主教は、いみじくも一般的知識と表面的知識とを区別しました。一つの主題について一般的知識をもつということは、主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく、徹底的にその種の真理を知ることであります。小さな事柄は、その種のことを自分の専門的研究のために必要とする人々に任せれば宜しいのです。広範囲にわたる様々な主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります。そしてそのような人々は、各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学び、一方、他の領域の主題については、そのことについて熟知している人は誰であるかを知りうるに足る知識をもつでありましょう。但し、信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量を、われわれは軽く見積もってはなりません。重要な学問の諸原理が広く一般の人々の間にも浸透すれば、自らの学問領域で頂点に達した人々は、自分達の優秀性を正当に評価しうる能力をもち、しかも自分達の指導に喜んで従ってくれる一般民衆の存在に気がつくことになるでしょう。このようにしてまた、実生活の重大関心事に関して、世論を指導し、向上させる能力をもつ精神も形成できます。人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは、政治と市民社会であります。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけではなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となるでありましょう。そこで、われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないこととの境界線を明らかにすることにこそあるのだということを、確認しようではありませんか。そして、われわれの目的は、自然と人生について対極的に観る正しい見方を学ぶことであり、われわれの実際の努力に値しないような些細なことに時間を浪費することは、怠惰であることを心に銘記しておきましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.14-16,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の内容)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月30日水曜日

法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法の基礎づけ

【法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)「定義」による法の概念
 (1.1)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 (2.1)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
 (2.2)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。
(3)人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)原因と結果による因果的説明


(f)追加記載。

 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
   人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
   (f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
   (f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
   (f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。
   (f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障するというのが、唯一可能な体系であろう。
   (f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。

 「人間のおおよその平等性という同じ自然的事実は、組織された制裁の実効性に、決定的な重要性をもっているということに注意したい。もし若干の人が他人よりも非常に強力で、他人の自制をあてにしないならば、悪人の強さは、法と秩序の支持者のそれをしのぐであろう。もしそのような不平等があるならば、制裁を用いてもうまくいかないだろうし、制裁で抑えようとするのと少なくとも同じ大きさの危険を伴うであろう。このような状況の下では、社会生活は、相互自制にもとづいており、少数の悪人に対して必要なときにだけ力が用いられるものではなく、弱い者が強い者に精一ぱいの条件をつけて服従し、強者の「保護」の下に生活するというのが唯一の可能な体系であろう。その結果、資源が乏しいため、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。敗北の危険という決して無視しえない自然的制裁のため、不安定ながら平和が保たれるのであるが、それにしても、それらはときには互いに闘うかもしれない。しかしそのときには、ある種のルールが受けいれられて、「強い者達」が闘うことを好まない問題に関して調整が行なわれるかもしれない。ここでもまたわれわれは、おおよその平等性の兵站学とそれの法に対する重要性を理解するために、ピグミー族や巨人という空想的な言い回しで考える必要はない。国際的状況において、当該主体が強さにおいて非常に相異しているということは、十分にその実例となっている。何世紀もの間、国家間の不均衡のため、組織的な制裁が不可能であるような体系しかなく、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。原子兵器があらゆる国家に利用可能となったとき、それが不平等な力の均衡をどの程度回復し、また国内の刑法に一層よく似た統制の形態をどの程度もたらすかは、まだわからない。
 われわれが論じてきた単純な自明の真理は、自然法理論の良識の核心を明らかにするだけではない。それは、法や道徳の理解にも極めて重要であり、またそれは、法や道徳の基本的な形態を、何か特定の内容ないしは社会的な求めにかかわりなく、まったく形式的な用語で定義することが、なぜ不十分となるのかをも説明するのである。このような見解によって法理学がおそらく得るところの主たるものは、法の特徴に関する議論をしばしば曖昧にし、人の心を誤らせるようなある二分法を避けることができるということである。このようにして、たとえば、あらゆる法体系は制裁の規定をそなえて《いなければならない》かどうかという伝統的な問題は、自然法のこの単純な見解によって提出された見方をとるとき、新鮮なより明確な光の下にそれを置くことができる。われわれはもはや、不適当な二つの選択肢の間で選択する必要はないであろう。その選択肢はしばしばすべてだと考えられるのであるが、その一方は、制裁をそなえなくてはならないということこそ、「法」とか「法体系」という言葉の「真」の意味によって求められると主張するものであり、他方は、たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは「単に一つの事実にすぎない」と言うものである。これらの選択肢はどちらもが十分ではないのである。中央に組織された制裁がない体系に関して、「法」という言葉を用いてはいけないというきまった原則があるわけではない。また、そのようなものをもたない一つの体系に関して、「国際法」という表現を(用いなければならないというわけではないが)用いることは十分理由のあることである。他方、国内法体系が、もしあるがままの人間の最小限の目的に役立つべきであるとするならば、その体系内で制裁が占めなければならない位置を、われわれはぜひとも識別する必要がある。国内法体系において、制裁を可能にするとともに必要にする自然的事実と目的という背景が与えられれば、われわれは、制裁が《自然必然的なもの》であると言うことができる。同様に、国内法の不可欠な特徴となっている人、所有、約束に対する最小限の保護形態の地位を表現するためにも、何かそのような言い回しが必要とされるのである。「法はいかなる内容でももつことができる」という実証主義のテーゼにわれわれが答えるのは、まさにこの形態においてである。というのは、法のみならず他の多くの社会制度について十分な記述をするためには、定義や事実に関する通常の陳述のほかに、第三の陳述のカテゴリーの余地をあけておかなくてはならないということは、かなり重要だからである。第三の場合には、その陳述の真理性は、人間および、人間のもつ目立った特徴を保持しながら人間が住む世界に依拠するものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.216-218,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法の基礎づけ)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

人間の学習能力への信頼

【いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の学習能力への信頼
 (1.1)仮に、過酷な生活環境のもとにおいても、人間は一つの事柄についてしか知ろうと努力しないというものではない。
 (1.2)仮に、未来において人間の知識が膨大に増加してもなお、人間にとって大切な一般教養教育の必要性は益々必要となり、また人間の学習能力は、それを乗り越えていくことだろう。
(2)人間の知識は増加し、科学・技術の専門分野は細分化され、有用な知識の全領域の小さな一部分にすぎなくなる。
 (2.1)知識の増加
  人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加している。
 (2.2)科学・技術の専門分野の細分化
  知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなる。
(3)仮に、一つの学問あるいは研究のみに没頭し、自分の専門以外のことについて全く無知であるならば、引き起こされる弊害がある。
 (3.1)特殊な専門分野固有の偏見
  特殊な研究に付きまとう、視野の狭い専門家が抱く偏見が、精神の内部に育ってしまう。
 (3.2)専門外の事柄の理解・評価の無能力
  幅広いものの見方に対して、その根拠を理解、評価できない無能力さを身につけてしまう。
 (3.3)価値のある人間的目的への無理解
  ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとって、意味のない存在になってしまう。

 「人間は既に最大限の効率で教えられているという暗黙の前提に立脚しながら、人間の学習能力に対して不思議なくらい低いこのような評価しか与えないことに関して、もう少し申し添えておくことに致します。そのような狭い考え方は、われわれの教育理念を低下させるだけではなく、もしそのような考え方を容認するならば、未来における人類の進歩に対するわれわれの期待は暗澹たるものになってしまうでありましょう。といいますのも、もしも、人間が、過酷な生活環境のもとでは、一つの事柄についてしか知ろうと努力しないのであれば、色々な事実が増加するに従って、人間の知性というものが一体どうなるのであろうかと思われるからであります。人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加しております。知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでありましょう。そして、科学・技術のすべては、細分化され、遂には、各人が分担する部分、つまり各人が完全に知る領域と有用な知識の全領域との比率関係は、あたかもピンの頭をつけるという技術と人間の産業界の全領域との比率と同じになってしまうでありましょう。さて、もしそのような些細な部分を完全に知るためには、人はそれ以外のすべてのことについて全く無知でなければならないとするならば、間もなく人は、ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとっては、全く無意味は存在になってしまわないでしょうか。人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生みだすことでありましょう。他の学問あるいは研究すべてを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神が偏狭になることは、既に経験によって知るところであります。このような場合、精神の内部に育つものは、特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さ故に、視野の狭い専門家が共通して抱く偏見であります。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、偉大なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を想像させる根拠は全くないのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.13-14,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:人間の学習能力,専門分野の細分化,一般教養教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月26日土曜日

人は、専門技術の賢明かつ良心的な使用においても、悪用おいても有能であり得る。人間の知性全体における専門技術の位置づけと原理、価値ある諸目的、技術の正しい使用法へと導くのが、一般教養教育である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

一般教養教育の役割

【人は、専門技術の賢明かつ良心的な使用においても、悪用おいても有能であり得る。人間の知性全体における専門技術の位置づけと原理、価値ある諸目的、技術の正しい使用法へと導くのが、一般教養教育である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植え付けたかによって決定されるのであります。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのであります。そしてその種の人々を有能でしかも賢明な人間に育て上げれば、後は、彼ら自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学びとるべきものは、専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く「一般教養の光明」をもたらす類のものであります。確かに、人間は、一般教養教育を受けなくとも、有能な弁護士となることはできますが、しかし哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し、把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。このことは、機械工学を含む、他の有用な専門分野すべてについても言えることである。靴屋を職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは、教育であって、靴の製造法の伝達ではないのであります。言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練とそれによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,2 大学教育の任務――一般教養教育の重要性,pp.4-5,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の役割)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年10月25日金曜日

専門的な技術の蓄積と熟練を要する統治の実現と、自由で活力のある独創性とを両立させるためには、代表者会議による統治者の選任、監視、統制とともに、官僚制と対立しあう影響力による活性化が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

官僚制と代表民主制

【専門的な技術の蓄積と熟練を要する統治の実現と、自由で活力のある独創性とを両立させるためには、代表者会議による統治者の選任、監視、統制とともに、官僚制と対立しあう影響力による活性化が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)代表者会議
  代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)政府を監視し統制すること
  政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて、十分な説明と正当化する理由の提示を強制すること。
 (1.2)政府に対する解任、任命権
  非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命する。
 (1.3)国民の中のあらゆる意見の集約
  (a)国民の中のあらゆる階層、階級の意見
  (b)国民の中の様々な集団の意見、そのような集団が信頼を寄せている人物の意見
  (c)国民の中の卓越した人々の意見
 (1.4)自由な議論の保障
  (a)何ら制限されずに、意見や批判を述べることができること。
  (b)全ての意見が傾聴されること。
  (c)ある意見を退ける場合であっても、頭ごなしにではなく、より良いと考えられる理由のためであること。
 (1.5)統治機構に必要な専門性の確保すること
  (a)統治機構を構成する人々が、誠実かつ賢明に選ばれるようにすること。
  (b)何ら制限されずに意見や批判を述べること。
  (c)最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすること。
  (d)統治機構に、必要な監視と統制を超える不当な干渉をしないこと。
(2)統治機構(政府)
 議論の結果を実行する組織であり、特別に訓練された人々の仕事である。
(3)代表者会議と統治機構(代表民主制と官僚制)の関係
 (3.1)原理
  (a)対立しあう影響力は、相手の生き生きとした活力を保つ。
  (b)相手の活力を保つことは、自らの固有の有用性のためにも必要である。
 (3.2)代表民主制
  (a)情熱と専門的知識を持ち、活力と独創性をそなえた人物が必要である。
  (b)しかし、情熱と独創性を、熟練した行政と結びつける手段を見出せなければ、最善の効果を生み出すことはできない。
 (3.3)官僚制
  (3.3.1)専門的な技術と熟練を必要とし、独別な教育を受けなければうまくでない仕事がある。
  (3.3.2)メリット:経験が蓄積され、十分な試行と熟慮を経た伝統的な行動原則が獲得され、実際に業務を行う人々に適切な実務的知識が提供される。
  (3.3.3)デメリット:官僚制がかかる病気でしばしば滅亡原因となるのは、仕事のルーティン化である。
   (a)大方の人の頭にあるのは、教えられたことをこなすということだけである。
   (b)仕事を支えていた内面で働く精神、生命力が失われていく。
   (c)訓練された凡庸という妨害的精神が、独創的才能を持つ個人を圧迫するようになる。
  (3.3.4)デメリットを発生させないための、自由な外部的要素が必要であり、それが代表民主制である。

 「政府の知的特性に関する比較は、代表民主政と官僚制との間ですべきであり、他の政府形態は取り上げなくてよい。そこで、この比較をしてみると、官僚制がいくつかの重要な点で相当にすぐれていることは、認めなければならない。官僚制では経験が蓄積され、十分な試行と熟慮を経た伝統的な行動原則が獲得され、実際に業務を行う人々に適切な実務的知識が提供される。とはいえ、個々人の精神の活力という点では、同じように優越しているわけではない。官僚制がかかる病気でしばしば滅亡原因となるのは、仕事のルーティン化である。官僚制が滅びるのは行動原則が変わらないためであり、またそれにもまして、ルーティン化した仕事は何であれ生命力を失ってしまい、内面で働く精神がなくなるために、やるべき仕事をやらずに機械的にずるずると続いていく、という普遍法則のためである。官僚制はつねにベダントクラシーになりがちである。官僚制が実際の統治体制となると、団体精神が(イエズス会の場合のように)、構成員の中で卓越している人々の個性を圧迫する。他の専門的な仕事と同じように統治という専門的な仕事でも、大方の人の頭にあるのは、教えられたことをこなすということだけである。こうした人々の中にあって、独創的才能を持つ個人という考え方が、訓練された凡庸という妨害的精神に打ち勝てるようにするには、民主政的な統治体制が必要である。民主政的な統治体制だったからこそ(きわめて聡明な専制君主という偶然は例外だとしても)、サー・ローランド・ヒルは郵政省に対して勝利を収めることができた。民主政的な統治体制が彼を郵政省《の中に》送り込み、この役所は不承不承ながら、専門的知識と個人的な活力と独創性をそなえた人物の情熱に従ったのである。」(中略)
 「人間生活の万事において、対立しあう影響力は自らの固有の有用性のためにも、対立する相手の生き生きとした活力を保つ必要がある。よい目的であっても、並存すべき別の目的をなおざりにしてそれだけを追求すると、最終的には、一方が過剰で他方が不足するばかりでなく、ひたすら重視してきたものまでが衰退し消滅してしまう。自由な統治体制なら国のためにできることが、訓練された官僚の統治ではできないが、しかしまた、自由な統治それ自体ではできないことが、官僚制であればできるとも考えられる。とはいえ、自由という外部的要素は、政府が自らの仕事を効果的にあるいは持続的に行えるようにするためにも必要だ、ということもわかっている。他方で、熟練した行政と自由とを結びつける手段を見出せなければ、自由は最善の効果を生み出せないし、破滅してしまうことも多い。代議制統治に適合するまで成熟した国民であれば、代議制統治と想像上最も完全な官僚制のどちらかを選ぶかで、躊躇は一瞬たりともありえない。しかし同時に、代議制統治と両立する限りで官僚制の多くのすぐれた点を獲得することは、政治制度の最重要目的の一つである。つまり、これら二つが両立可能な限りで、国民全体の代表機関に委ねられた実効性のある形で行われる統制に沿いながら、知的専門職として業務に取り組むよう育成された専門家の業務遂行で得られる大きな利益を確保する、ということである。前章で論じた境界線を認めれば、この目的に大いに役に立つだろう。つまり、一方で、特別の教育を受けなければうまくできないような本来的に統治の仕事と言える仕事と、他方で、統治者を選び監視し必要ならば統制するという、統治担当者ではなく統治してもらうことに利益を持つ人に委ねるのが、他の場合と同様にこの場合にも適切である仕事、これら二つの仕事の間の境界線である。技術を必要とする仕事が技術を持つ人によって行われるよう国民全般が望まない限り、熟練性を確保した民主政に向かう進歩はまったくありえない。国民の側は、監督と牽制という自分たち本来の仕事をするのに十分な度合の精神的能力を調達するだけでも、手一杯なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第6章 代議制統制が陥りやすい欠陥や危険について,pp.104-106,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:代表者会議,統治機構,代表民主制,官僚制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月24日木曜日

代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

代表者会議の機能

【代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)代表者会議
 (1.1)政府を監視し統制すること
  政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて、十分な説明と正当化する理由の提示を強制すること。
 (1.2)政府に対する解任、任命権
  非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命する。
 (1.3)国民の中のあらゆる意見の集約
  (a)国民の中のあらゆる階層、階級の意見
  (b)国民の中の様々な集団の意見、そのような集団が信頼を寄せている人物の意見
  (c)国民の中の卓越した人々の意見
 (1.4)自由な議論の保障
  (a)何ら制限されずに、意見や批判を述べることができること。
  (b)全ての意見が傾聴されること。
  (c)ある意見を退ける場合であっても、頭ごなしにではなく、より良いと考えられる理由のためであること。
 (1.5)統治機構に必要な専門性の確保すること
  (a)統治機構を構成する人々が、誠実かつ賢明に選ばれるようにすること。
  (b)何ら制限されずに意見や批判を述べること。
  (c)最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすること。
  (d)統治機構に、必要な監視と統制を超える不当な干渉をしないこと。
(2)統治機構(政府)
 議論の結果を実行する組織であり、特別に訓練された人々の仕事である。

 「代表者会議の本来の役割は、統治するという元々から適していない役割ではなく、政府を監視し統制することである。政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて十分な説明と正当化する理由の提示を強制することである。非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命することである。これは間違いなく大きな権限であり、国民の自由の保障として不足はない。
 さらに議会には、これに劣らず重要な役割もある。議会は国民の苦情処理委員会であるとともに、種々の意見が集う会議でもある。国民全般の意見ばかりでなく、国民の中のあらゆる部分の意見や、国民の中の卓越した人々の意見も可能な限りの多くが、もれなく自己主張し論戦に挑める舞台である。自分と同じかもっと上手に自分の想いを、味方や仲間に対してばかりでなく論敵の面前で反対論の試練を受けながら語ってくれる代弁者を、国中のすべての人が期待してよい舞台である。この舞台では、自分の意見が論破された人でも、自分の意見が傾聴され、退けられたにしても頭ごなしにではなく、よりよいと考えられた理由のためであって、国民の多数を代表する人々の前でともかく自分の意見を訴えたということに、満足感を持つ。国中のあらゆる党派や意見がそれぞれの力を結集できるし、自分たちの支持者の数や力に関する幻想を醒ますこともできる。国民の中で支配的な意見は、ここでも支配的な形で登場し、政府の目の前で勢力を展開する。そのため、姿を現すだけで実際に力を行使しなくても、政府を従わせることができる。政治家は、どんな意見や勢力が伸長しているのか凋落しているのかを、他の徴候よりもずっと確実に捉えられるし、目前の差し迫った必要ばかりでなく今後の動向も顧慮して対策を講ずることができる。
 代表者議会は、それを敵視する人々からは、たんなる《おしゃべり》の場所でしかないと愚弄されることが多い。これほど的外れな嘲笑はまずない。話題が国の重大な公的利益であって、国民の中の重要な集団の意見やそうした集団が信頼を寄せている人物の意見が余すところなく語られているのであれば、話すこと以上に代表者会議が有益な役割をどう果たせるのか、私には見当がつかない。国中の利益や意見のすべてが、政府や自分以外のすべての利益や意見の前で熱心に自己主張でき、傾聴させることができ、賛同してもらう、あるいは不賛成ならその理由を明確に述べるよう迫ることができる場所は、他に果たせる目的がなくても、それ自体として、およそ存在しうる中で最も重要な政治制度の一つであり、自由な統治が持つ最大の利点の一つである。そうして「おしゃべり」で「行動」に水を差すことが仮に許されていなかったとしたら、非難がましく見られることもないのだろう。議会が行動するというのではない。話し合い議論することが本来の仕事であるとわきまえていれば、それはないだろう。議論の結果としての行動は、種々雑多な人々からなる議会の仕事ではなく、特別に訓練された人々の仕事である。議会にふさわしい職務は、そうした人々が誠実かつ賢明に選ばれるよう見守ることであり、何ら制限されずに意見や批判を述べることや、最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすることは別として、それ以上の干渉はしないことである。こうした賢明な自制が欠けると、民主政的な議会は、自分では上手にこなせない統治と立法という仕事に手を出そうとし、そうした仕事の大半を担わせる別の機関を作らずに自分で済ませようとする。話し合いに使う時間は、当然ながら、実務に手出しをしないことで得られる時間なのにである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第5章 代表機関の本来の役割について,pp.95-97,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:代表者会議の機能,代表者会議)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年9月10日火曜日

単に私の善、他者たちの善ではない、諸関係に共に参加する私と他者の共通善が存在する。共通善を追求する自立した実践的推論者は、与えることに関する諸徳と共に、受け取ることに関する諸徳を持つ。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

与えることに関する諸徳と受けとることに関する諸徳

【単に私の善、他者たちの善ではない、諸関係に共に参加する私と他者の共通善が存在する。共通善を追求する自立した実践的推論者は、与えることに関する諸徳と共に、受け取ることに関する諸徳を持つ。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)善とは何か。
 (1.1)他者たちの善ではない、私の善
  ただもっぱら利己的であるような欲求に基づく善。
 (1.2)私の善ではない、他者たちの善
  利他的な、善意にもとづく行動である。善意の対象である他者は、私たちが自分自身に親切心が備わっていることを確認して安心できるというような他者として考えられている。
 (1.3)他者たちの善である限りにおいて、私のものでもありうる善
  現に成立している諸関係に、他者と共に参加し続け、共通善を分ちあうことによって求められる善。
(2)徳とは何か。
 徳とは、私たちが自立した実践的推論者になることを可能にしてくれるものである。
 (2.1)自立の諸徳――与えることに関する諸徳
  (a)気前のよさと正義という二つの側面を同時に備えている。
  (b)「気前のよさ」ではない。人は正しくなくても、気前が良い場合がある。
  (c)「正義」だけではない。人は気前が良くなくとも、正しかったりすることがある。
 (2.2)承認された依存の諸徳――取ることに関する諸徳

 「一方における利己心にもとづく市場での行動と、他方における利他的な、善意にもとづく行動との間のアダム・スミスの対比は、次のようなタイプの活動を私たちの目から覆い隠してしまう。すなわち、そこにおいて達成されるべき善が、〈他者たちのものではない、私のもの〉でも〈私のものではない、他者たちのもの〉でもなく、むしろ、与えることと受けとることのネットワークの善がそうであるように、〈他者たちのものであるかぎりにおいて私のものでもありうる善〉、すなわち、本当の意味での共通善であるような、そうしたタイプの活動である。しかし、もしも私たちが理性的動物としての私たちの開花を達成するために、そのような共通善をめざして行動する必要があるとすれば、その場合私たちは、欲求というものを単純に利己的と利他的の二種類に分類することの不適切さを認識できるようなかたちに、私たちの当初の欲求のありようを変容させておく必要もある。ただもっぱら利己的であるような欲求の限界や視野の狭さについては、これまでもかなり頻繁に論じられてきた。それに対して、のっぺりと一般化された善意というもののそうした問題点が注目されることはあまりにも少なかった。そのような善意が私たちに提示しているのは、ある一般化された他者――そのような他者と私たちとの関係はただ、《私たちの》善意を発揮する機会を彼らが与えてくれるという点に、またその結果、私たちは自分自身に親切心が備わっていることを確認して安心できるという点にのみ存する――であって、次のような特定の他者たちではない。すなわち、私たちにとって、彼らとともに共通善をわかちあうことを学ばねばならない、そして、現に成立している諸関係に彼らとともに参加し続けなければならない、そうした特定の他者たちではないのである。では、そのような諸関係に参加するうえで必要とされる資質とはどのような資質であろうか。
 この問題を問うことは、私たちを、徳に関する議論に、また、それらはなぜ必要とされるのかに関する議論に連れ戻す。徳に関するこれまでの説明において私が強調してきたのは、私たちが、主として両親や教師といった他者たちの推論能力に依存している状態から、独力で実践的推論をおこなう状態へと移行するうえで、諸徳がその移行に不可欠な役割を果たしているということであった。また、その場合、私が主として注目してきた諸徳は、正義、節制、誠実、勇気といった、アリストテレスやその他の人々が掲げた徳の目録において馴染み深い諸徳であった。しかし、私たちは諸徳というものを、私たちが自立した実践的推論者になることを可能にしてくれるものとして理解すべきであり、それというのもまさに、諸徳は、実践的推論者としての私たちが参加することを可能にしてくれるがゆえであるとすれば、私たちは次のことを認識することによって、私たちの探究をよりいっそう拡張する必要がある。すなわち、徳へと導く適切な教育とは、それがどんなものであれ、〈自立の諸徳 virtues of independence〉にとって不可欠な対をなす〈承認された依存の諸徳 virtues of acknowledged dependence〉という一連の諸徳に私たちがしかるべき位置を与えることを可能にしてくれるものであろう、ということである。
 諸徳に関する伝統的な理解はおそらくこの点の認識に役立たないし、諸徳の伝統的な呼称さえそうであろう。たとえば、与えることと受けとることの諸関係において示されるべき中心的な徳にふさわしい呼称を探す場合、私たちは「気前のよさ〔大度〕 gererosity」も「正義」も、これまで通常理解されてきた意味においては、ここで求められていることがらを十分にあらわすことばではないことに気づく。というのも、これらの徳に関する一般的な理解によれば、人は正しくなくても気前がよかったり、気前がよくなくとも正しかったりすることがある。ところが、ここで述べているような〈与えることと受けとること〉を維持するうえで要求される中心的な徳は、気前のよさと正義という二つの側面を同時に備えているからである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.169-171,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:与えることに関する諸徳,受けとることに関する諸徳)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

限られた理解力、限られた意志の強さ

【事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.5)追記。

(3)人間に関する自然的事実
 (3.1)人間の傷つきやすさ
   人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。
  (b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなければならない。
 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
   人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。

 (3.3)限られた利他主義
   人間の利他主義が限定的で断続的なものだという事実が、相互自制の体系を要請する。また同時に人間には、仲間の生存や幸福に関心を持つ傾向性があるという事実が、相互自制の体系を可能なものとする。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間は、天使ではない。
   人間の利他主義は、目下のところ限られたものであって、断続的なものであるから、攻撃したいという傾向は、もし統制されなかった場合、ときには社会生活に致命的な打撃を与えるほどのものとなることもある。
  (b)人間は、悪魔ではない。
   人間は非常に利己的で、仲間の生存や幸福に関心を持つのは、何か下心があるからだというのは、誤った見解である。
  (c)相互自制の体系の必要性と可能性
   以上の事実から、相互自制の体系は、必要であるとともに、可能でもあることが示される。相互自制の体系は、天使には不要で、悪魔には不可能である。

 (3.4)限られた資源
   生存のための資源が限られているという事実が、何らかの財産制度を要請し、分業の必要性が、譲渡、交換、売買のルールを要請し、協力に不可欠な他人の行動の予測可能性を得るために、約束を守るルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)限られた資源
   人間が食物や衣服や住居を必要とするのに、それらが手近に無尽蔵にあるのではなく乏しいので、人間労働によって栽培したり自然から獲得したり、あるいは建設しなければならない。
  (b)財産制度
   以上の事実から、何か最小限の形態の財産制度、およびそれを尊重するように求める特別な種類のルールが不可欠となる。
  (c)分業の必要性
   人間は、十分な供給を得るために、分業を発展させなくてはならなくなる。
  (d)譲渡、交換、売買のルール
   以上の事実から、自分の生産物を譲渡、交換、売買することを可能にするルールが必要となる。
  (e)他人の行動の予測可能性の必要性
   分業が不可避であり、また協力がたえず必要となる。そのためには、他人の将来の行動に対して最小限の形態の信頼を持つため、また協力に必要な予測可能性を確保する必要がある。
  (f)約束を守るというルール
   以上の事実から、約束することが責務の源であるというルールが作られる。この工夫により、個人は、一定の定められた方法で行動しなかった場合に、口頭あるいは書面の約束によって、自らを非難あるいは罰の下におくことが可能となるのである。

 (3.5)限られた理解力と意思の強さ
  (3.5.1)事実とルールの明白性
   以下の事実は単純であり、ルールを守ることによる利益も明白である。
   (a)人間の傷つきやすさと、殺人や暴力の行使の制限
   (b)人間の諸能力のおおよその平等性と、相互の自制の必要性
   (c)限られた利他主義と、相互の自制の必要性と可能性
   (d)限られた資源と、財産制度、譲渡、交換、売買、約束のルールの必要性
  (3.5.2)多数者による自発的な服従
   大抵の人は、理解することができ、ルールに従うため、自分自身の目前の利益を犠牲にすることもできる。
  (3.5.3)ルールを守る諸動機
   (a)他人の幸福を私心なく考慮して従う者。
   (b)ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想を見い出す者。
   (c)得るところが大きいという慎重な計算から従う者。
  (3.5.4)限られた理解力と意思の強さ
   しかし、ルールに従う諸動機の様々であり、全ての人が、善良であり、ルールを守る強い意思を持ち、守ることによる長期的な利益を理解しているとは限らない。
   (a)ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろう。
   (b)調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者は負けてしまうだろう。
  (3.5.5)制裁の必要性
   体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者がいる場合、自発的に服従しようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない保障として、制裁が必要となる。なぜなら、服従することが不利になる危険をおかすことになってしまうからである。

 「(v)かぎられた理解力と意思の強さ 社会生活上、人、所有、約束に関するルールを必要としている事実は単純であり、それら相互の利益は明白である。たいていの人は、それらの事実を理解することができるのであり、またそのようなルールに従うため、目前の直接の利益を犠牲にすることもできるのである。まったく彼らはさまざまな動機から従うのである。犠牲から得るところが大きいという慎重な計算から従う者もいれば、他人の幸福を私心なく考慮して従う者もいる。またある者は、ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想を見い出す。他方、服従に対するこれらのあい異なる動機が実際的な効果をもつかどうかは、長期的な利益の理解あるいは意思の強さないしは善良さによるのであるが、それらがすべての人に同様に分けもたれているわけではない。誰だって、ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろうし、彼らを調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者はその気持ちに負けてしまうだろう。疑いもなく相互自制の利益はたいへん容易に確認できるので、強制的な体系のなかで自発的に協力しようとする人々の数および強さは、悪事で結束しようとする人達よりも、普通は大きいであろう。しかし、もし体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者を強制するための組織がないとすれば、自制の体系に従うことは、ずいぶん小さな緊密な社会を除いて、馬鹿げているであろう。したがって「制裁」は、服従の通常の動機として必要とされるのではなく、自発的に服従しようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない《保障》として必要とされるのである。これがないと、服従することは不利になる危険をおかすことになろう。このような恒常的な危険があるのを考えれば、《強制的》な体系における《自発的》な協力こそが理性の要求であることがわかるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.215-216,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:限られた理解力,限られた意思の強さ,制裁の制度)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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全ての国民が、他者と競合する個人と家族の利益だけを考える偏狭さから解放され、自己と他者が共有する利益を考え、良い統治のための積極的な関与が国民の義務であると考えるような、制度的な仕組みが必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制への関与

【全ての国民が、他者と競合する個人と家族の利益だけを考える偏狭さから解放され、自己と他者が共有する利益を考え、良い統治のための積極的な関与が国民の義務であると考えるような、制度的な仕組みが必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追加。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

 (3.2)すべての国民が参加する統治体制
  (3.2.1)普通の人々の日常生活の圧力
   (i)人々の仕事は、決まりきった繰り返しの仕事である。
   (ii)仕事は、愛からなされる仕事ではなく、日々の必要を満たすという、最も原初的な形をした自己利益のための労働である。その結果、個人を超えて広がる思考や感情を精神にもたらさない。
   (iii)啓発的な書物が手近にあっても、読む気にさせる刺激がない。
   (iv)自分よりもはるかに優れた教養を持つ人物に接する機会を持たない。
  (3.2.2)統治体制への関与
   (a)良い統治
    (i)自分も関与していて、不適当と思うならば公然と異議を唱え、変更のために積極的に努力できる。
    (ii)例えば、市民が一時的に交替で、何らかの社会的役割を果たすよう時折要求される。
    (iii)例えば、私人としての市民が、公的職務に参加する。
   (b)悪い統治
    自分が属していない集団の感情や性向に阿ることができるかどうかに、自分の成功がかかっている。国制の外に置かれ、ドアの内側で協議するのではなく、その外から自分の運命の裁定者に懇願するしかない。
  (3.2.3)公共の利益
   (a)良い統治
    自分が公共の一部であって、公共の利益は何であれ自分の利益でもあると考える。
   (b)悪い統治
    目的とは、他者と競合するもの、何らかの程度で他者を犠牲にするようなものと考える。
  (3.2.3)社会に対する義務
   (a)良い統治
    私人は、法を遵守し政府に服従する以外にも、社会に対する義務を負っている。
   (b)悪い統治
    利益や義務に関するあらゆる思考や感情は、個人と家族の中に吸い込まれてしまう。

 「自然の必然性や、自分も関与していて不適当と思うならば公然と異議を唱え変更のために積極的に努力できるような社会の命令以外には、外的な束縛を何も人々が感じていない場合は、人間の諸能力の状態はまったく異なってくる。たしかに、部分的にしか民主政的でない統治体制の下で、市民としての特権を十分には得ていない人々でも、このような自由を行使することはあるだろう。しかし、平等なスタート地点に立って、自分が属していない集団の感情や性向におもねることができるかどうかに自分の成功がかかっていると感じなくてもよいのであれば、どんな人の自助や独立独行にも大きな刺激が付け加わる。国制の外に置かれ、ドアの内側で協議するのではなくその外から自分の運命の裁定者に懇願するしかないのなら、一人の個人も、また、はるかにそれ以上に一つの階級も、大いに意気阻喪する。性格に対して活気を与えるという自由の効果の最大値が得られるのは、当人が他者と同様に十分な特権を持つ市民として振る舞っているときか、そうなることを期待しているときだけである。
 こうした感情の問題以上にいっそう重要なのは、市民が一時的に交替で何らかの社会的役割を果たすよう時折要求されることで、実践的訓練が市民の性格に及ぶことである。大半の人々のの日常生活に考え方や感じ方を広げるものがどれほど少ないかは、十分に考慮されていない。人々の仕事は決まりきったくり返しの仕事である。愛の労働ではなく、日々の必要を満たすという、最も原初的な形をした自己利益のための労働である。仕事の結果も仕事の過程も、個人を超えて広がる思考や感情を精神にもたらさない。啓発的な書物が手近にあっても、読む気にさせる刺激がない。しかも、ほとんどの場合、個人は自分よりもはるかにすぐれた教養を持つ人物に接する機会を持たない。こういう人に、公共のための何らかの仕事を与えることは、ある程度は、これらすべての不足を補う。もし事情が許して相当量の公的な職責が許されれば、それでこの人は教育ある人物となる。」(中略)
 「これ以上にもっと有益なのは、ときたまであっても私人としての市民が公的職務に参加することで与えられる教育の道徳的部分である。この職務にある間は、市民は自分の利益以外の利益を秤量するよう求められる。主張が対立する場合は自分の個人的な好き嫌いとは別のルールに従うことが求められ、共通善が存在理由となっている原理原則をどんな局面でも適用するよう求められる。また、同じ職務の中で、こうした考え方や物事の進め方にいっそう馴染んでいる人たちと一緒になるのがふつうである。そうした人たちの研鑽のおかげで、自分の理解に理由が与えられ、一般的利益への自分の想いが刺激される。自分が公共の一部であって、公共の利益は何であれ自分の利益でもあると実感させられるのである。公共精神のこうした学校が存在しない場合は、切迫した社会状況でなくても、私人は法を遵守し政府に服従する以外にも社会に対する義務を負っている、という自覚は出てこない。公共と自分を同一視する非利己的な感情も生まれない。利益や義務に関するあらゆる思考や感情は、個人と家族の中に吸い込まれてしまう。こういう人は、集団的利益や他者と共同追求する目的を考えず、他者と競合する目的や何らかの程度で他者を犠牲にするような目的しか考えない。隣人は共同利益のための共通の営みに従事していないので、味方や仲間ではなく競争相手でしかない。こうして、公的道徳が本当に消滅してしまう一方で、私的道徳ですら損ねられてしまう。仮にこれが物事の普遍的で唯一可能な状態であるならば、立法家や道徳家が望めるせいぜいのところは、社会の大部分を無邪気に並んで草を食べている羊の群れにすることだろう。
 これまでの考察の積み重ねから明らかなように、社会のあらゆる必要を十分に充足できる唯一の統治体制は、すべての国民が参加する統治体制である。どんな参加でも、最小限の公的職務への参加でさえ、有益である。どこであってもその社会での改善全般の程度が許容する限りで、参加は最大であるべきである。また、万人が国家の主権的権力の分有を認められることほど、最終的に望ましいことはない。とはいえ、一つの小さな町よりも大きな社会では、公共の行うの何かごく小さな部分以外に全員が直接に参加することは不可能だから、完全な統治体制の理想型は、代議制でなければならない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第3章 理想の上で最善の統治形態は代議制統治である,pp.62-64,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治の条件,統治体制への関与,公共の利益)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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