2020年4月13日月曜日

異論を唱えるたった一人に対してであっても、彼を沈黙させるのは不当であり、特別の害悪がある。それは、人類全体や次世代にも及び得る被害をもたらす。その異論が正しい場合も、間違っている場合も。なぜか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

言論の自由

【異論を唱えるたった一人に対してであっても、彼を沈黙させるのは不当であり、特別の害悪がある。それは、人類全体や次世代にも及び得る被害をもたらす。その異論が正しい場合も、間違っている場合も。なぜか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「国民は、みずから実行するのであれ、政府に要求して実行させるのであれ、言論を統制するために強制力を行使する権利をもっていない。こうした権力はそもそも不当である。最善の政府であっても、最悪の政府の場合と同様に、このような強制力を行使するのは不当である。世論にしたがって行使されるのであっても、世論の反対を無視して行使されるときとくらべて、有害さに変わりがないか、もっと有害である。人類の意見がほぼ一致していて、たったひとり異論を唱える人がいる場合、そのひとりを沈黙させるのは、意見の違うひとりが権力を握っていて圧倒的多数の意見を沈黙させるのと変わらないほど不当な行為である。意見というものがそもそも本人以外にとって何の価値もなく、ある意見をもつことを禁じられても本人以外は何の被害も受けないのであれば、被害を受ける人がごく少数なのか多数なのかで、ある程度の違いがあるともいえよう。しかし、意見の発表を禁じることには特別の害悪があり、人類全体が被害を受ける。そのときの世代だけでなく、後の世代も被害を受ける。そして、発表を禁じられた意見をもつ人以上に、その意見に反対する人が被害を受ける。その意見が正しかった場合、自分の間違いをただす機会を奪われる。その意見が間違っている場合にも、間違った意見にぶつかることによって、真理をそれ以前よりしっかりと、活き活きと認識する機会を奪われるのだから、意見が正しかった場合とほとんど変わらないほどの被害を受けるのである。
 発表を禁じられた意見が正しいと想定した場合と間違っていると想定した場合とは、それぞれ別に考えていく必要があり、それぞれの場合で議論すべき点が違っている。発表を禁じようとしている意見が確かに間違った意見だと断言することはそもそもできないし、たとえそう確信していても、その意見の発表を禁じるのが害悪であることに変わりはない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.40-42,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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他人が影響を受ける場合でも、自由で自発的な選択が可能な場合や、影響が間接的な場合には、個人の自由の領域である。例として(a)思想・良心の自由、(b)嗜好の自由、目的追求の自由、(c)団結の自由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

思想・良心の自由など

【他人が影響を受ける場合でも、自由で自発的な選択が可能な場合や、影響が間接的な場合には、個人の自由の領域である。例として(a)思想・良心の自由、(b)嗜好の自由、目的追求の自由、(c)団結の自由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(c)(d)(e)追記。

   (2.2.3.2)ある人の行為が、本人だけに関係しており、他人には関係がないとき。
   いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

    (a)いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。
     (i)各人は、自分自身の身体と心に対して、絶対的な自主独立を維持する権利を持っている。
     (ii)ただし、子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。
    (b)ある人に、物質的にか精神的にか「良い」行為をさせたいとき。
     (i)その当人にある行動を強制したり、ある行動を控えるように強制することは、正当ではない。ましては、その「良い」行為をしなかったことを、処罰するのは不当である。
     (ii)忠告したり、理を説いたり、説得したり、懇願することは、正当である。

    (c)他人に影響を与えるにしても、影響を受けているのが、自由に、自発的に、騙されたわけではなく、同意して行動に参加している人だけである場合も、「直接的な影響を受けない」ケースに含まれる。
    (d)直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
    (e)個人の自由の領域の例
     (i)良心、思想と感情、意見と感想の自由がある。
      ・実際的か思想的かを問わず、科学か倫理か宗教かを問わず、自由である。
      ・言論、出版などの表現の自由は、「他人に影響を与える部分」に入るが、思想の自由そのものと変わらないほど重要であり、実際には思想の自由と切り離すことはできない。
     (ii)嗜好の自由と目的追求の自由がある。
      ・自由の結果は、本人が受け入れること。
      ・仮に、愚かか不合理か誤っていると思われたとしても自由である。
     (iii)個人間の団結の自由がある。
      ・どのような目的ででも団結する自由が認められなければならない。
      ・団結にくわわる人は成人であり、強制や欺瞞によらないことが条件である。

 「だが、個人と切り離したものとして社会を考えたとき、社会の利害にはせいぜいのところ間接的にしか関係しない分野の行動がある。個人の生活と行動のうち、本人にしか影響を与えないか、他人に影響を与えるにしても、影響を受けているのが、自由に、自発的に、だまされたわけではなく同意して行動に参加している人だけである部分のすべてがここに入る(ここで本人にしか影響を与えないとは、直接に直に影響を与えることがないという意味である。どのようなことでも、本人に影響を与える点は、本人を通じて間接には他人に影響を与えるからであり、このような間接的で付随的な影響を根拠とする反論については、第4章で扱う)。したがって、この部分は個人の自由の領域である。この部分に入るのは以下の点である。第一に、意識という内面の領域である。良心の自由がもっとも広い意味で認められなければならず、思想と感情の自由、意見と感想の完全な自由が、実際的か思想的かを問わず、科学か倫理か宗教かを問わず、すべての分野にわたって認められなければならない。言論、出版などの表現の自由は、個人の行動のうち他人に影響を与える部分に入るので、別の原理で扱うべきだと思えるかもしれないが、思想の自由そのものと変わらないほど重要であり、自由を認めるべきだとする根拠も大部分重なるので、実際には思想の自由と切り離すことはできない。第二に、この原理からいえることだが、嗜好の自由と目的追求の自由がある。自分の性格に適した人生を計画する自由、自分が好む行動をとる自由であり、その結果を本人が受け入れるのであれば、他人に害を与えないかぎり、愚かか不合理か誤っていると思われたとしても、他人に妨害されることなく自由に行動できなければならない。第三に、以上の個人の自由から生まれるものとして、同じ制限の下でではあるが、個人間の団結の自由がある。つまり、他人に害を与えないかぎり、どのような目的ででも団結する自由が認められなければならない。ただし、団結にくわわる人は成人であり、強制されたりだまされたりしていないことが条件である。
 これらの自由がほぼ尊重されているのでないかぎり、どのような政治体制をとっていても、その社会は自由だとはいえない。そして、これらの自由が絶対的なものとして無条件に認められているのでないかぎり、その社会は完全に自由だとはいえない。自由という名に値するのは、他人の幸福を奪おうとしないかぎり、そして、幸福を得ようとする他人の努力を妨害しないかぎり、みずからの幸福をみずからが選んだ方法で追求する自由だけである。人はみな、自分の健康を自分で守る権利をもっており、身体の健康であろうと、頭や心の健康であろうと、この点に変わりはない。各人が自分の好む生き方を選べるようにする方が、幸福な生き方についての人びとの判断を各人に押しつけるよりも、人類は大きな利益を得られるのである。
 この原則は新しいものではまったくなく、自明の理ではないかと思う人もいるだろうが、実際には、現在の世論や慣行の一般的傾向にこれほど真向から対立する原則はない。社会はもてる知識や能力を活用して、各人の社会的行動が理想の姿に近づくよう強いるために努力してきたが、個人的な行動に関しても、同じ努力を傾けてきた。古代の共和国は個人の行動を隅々まで規制する権限が政府にあると考えていたし、当時の哲学者はこの見方を支持していた。そう考えたのは、国民のひとりひとりが頭と身体を鍛えているかどうかが国にとって重大な関心事だったからである。強力な敵に囲まれた小さな共和国では、このような姿勢も当然だったといえるかもしれない。外国の攻撃や国内の反乱によっていつ滅亡しても不思議ではない状況にあり、ごく短期間、気を緩め、自制心を緩めただけで国の存亡が危うくなりかねないので、自由を認めれば長い目でみて好影響が得られるとしても、それを待つわけにはいかなかったのだ。これに対して現代では、国の規模がもっと大きいうえ、何よりも政教分離によって、良心の問題は宗教指導者が扱い、世俗の問題はこれとは別の政治指導者が管理しているので、個人の生活の細部まで法律で干渉することはできなくなった。しかし、道徳面での抑圧の仕組みがあり、社会に関係する問題よりも個人のみに関係する問題について、主流の意見からの逸脱に厳しい姿勢をとってきている。人びとが道徳感情を形作るときにもっとも強い影響を受ける宗教がほぼいつも、人間の行動をすべての面にわたって統制しようとするカトリック教会の野心か、そうでなければ清教徒の精神によって支配されてきたからである。そして、こうした過去の宗教にもっとも強く反対してきた現代の改革派にも、人びとの魂を支配する権利を主張する点で、教会や宗派に劣らない人がいる。とくにオーギュスト・コントがそうで、『実証政治学体系』で主張された社会制度は、法的な手段ではなく社会的な手段によってではあるが、個人に対する社会の専制の確立を目的としており、その厳しさは、古代の哲学者のなかでもとりわけ厳格な規律を求めた人が政治の理想として考えたものすら上回っている。
 思想家のなかにはこのような主張があるが、世間一般の見方でも、世論の力によって、さらには法律の力すら使って、個人に対する社会の権力を不適切な分野にまで拡大しようとする傾向が強まっている。そして、いま起こっている変化はすべて、社会の力を強めて個人の力を弱めていこうとするものなので、個人に対する不当な干渉という害悪は、放置しておけば消えていくのではなく、逆にさらに手に負えないものになっていく状況にある。人間は支配者としてであろうが、市民としてであろうが、自分の意見と好みを行動の規則として他人に押しつけようとする傾向をもっており、この傾向は人間性に付随する最善の感情と最悪の感情のうちいくつかによって強く支えられているので、権力を制限しないかぎり、この傾向を抑制するのはまず不可能である。そして、権力は弱まっているどころか強まっているのだから、道徳的な確信によって権力の乱用に強い歯止めをかけないかぎり、現在の状況ではこの傾向がさらに強まっていくと覚悟しておかなければならない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.31-35,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:思想・良心の自由,嗜好の自由,目的追求の自由,団結の自由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2020年4月9日木曜日

私たちの言葉や直感が、自分たちの発見した事柄に馴染まなかったとしても、言葉や直感は、限られた経験をもとにして作られたものであり、正確さに欠け、この世界の豊かな構造を把握しきれないだけなのかもしれない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

言葉や直感の役割

【私たちの言葉や直感が、自分たちの発見した事柄に馴染まなかったとしても、言葉や直感は、限られた経験をもとにして作られたものであり、正確さに欠け、この世界の豊かな構造を把握しきれないだけなのかもしれない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
   参考:(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
   参考:(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

   参考:(仮説)ある出来事の発生から、起こり得る別の出来事への推移の過程は因果律に従い、過去・現在・未来の違いは決して幻ではない。しかし全ての出来事が、宇宙全体の包括的で連続的な一つの順序に従って整列可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
 「自然はそこに存在しており、わたしたちはそれを少しずつ発見してきた。かりにわたしたちの語法や直感が自分たちの発見した事柄に馴染まなかったとしても、それはそれ、馴染もうと努めるしかない。
 現代のほとんどの言語では、動詞に「過去」、「現在」、「未来」の活用がある。だがこのような語法は、この世界の現実の時間構造について語るには不向きなのだ。なぜなら現実は、もっと複雑だから。このような語法は、わたしたちの限られた経験をもとにして作られた――自分たちの作っているものが正確さに欠け、この世界の豊かな構造を把握しきれないということに気づく前に作られたのだ。
 客観的で普遍的な現在は存在しない、という発見を掘り下げようとしたときにわたしたちが戸惑うのは、ひとえに過去、現在、未来という絶対的な区別にもとづいてつくられた語法に従っているからだ。このような区別は、じつはある程度までしか有効ではない。自分たちのすぐそばの「ここ」においてのみ有効なのだ。現実の構造は、この語法の前提となっているものと同じではない。何らかの出来事が「ある」、あるいは「あった」、あるいは「あるだろう」とはいえても、何らかの出来事がわたしにとっては「あった」があなたにとっては「ある」という状況を語る語法は存在しないのだ。
 語法が不適切だからといって、混乱したままでいるわけにもいかない。」(中略)
 「自分たちの言葉や直感を、なんとしても新たな発見に沿わせようと四苦八苦している最中なのだ。「過去」や「未来」が普遍的な意味を持たず、場所が変わればその意味も変わる、という発見に。それ以上でも、それ以下でもない。
 この世界には変化があり、出来事同士の関係には時間的な構造があって、それらの出来事は断じて幻ではない。出来事は全体的な秩序のもとで起きるのではなく、この世界の片隅で複雑な形で起きる。ただ一つの全体的な順序にもとづいて記述できるようなものではないのだ。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第2部 時間のない世界,第7章 語法がうまく合っていない,pp.111-112,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:言葉や直感の役割)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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検索(カルロ・ロヴェッリ)
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20.(仮説)ある出来事の発生から、起こり得る別の出来事への推移の過程は因果律に従い、過去・現在・未来の違いは決して幻ではない。しかし全ての出来事が、宇宙全体の包括的で連続的な一つの順序に従って整列可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間の順序

【(仮説)ある出来事の発生から、起こり得る別の出来事への推移の過程は因果律に従い、過去・現在・未来の違いは決して幻ではない。しかし全ての出来事が、宇宙全体の包括的で連続的な一つの順序に従って整列可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】
   参考:(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
   参考:(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

 「自分たちが、宇宙を一筋のきちんとした時間の連続として整列させられないからといって、変化するものがいっさいないとはいえない。

単に、さまざまな変化が順序づけられた線に沿って一列に並んでいるわけではない、というだけのことなのだ。

この世界の時間の構造はもっと複雑で、さまざまな瞬間がずらずらと一直線につながっているわけではない。でもだからといって、変化が存在しないとか、幻だとはいえない。

 過去と現在と未来の違いは決して幻ではない。それは、この世界の構造なのだ。だがその構造は、現在主義のそれとは違う。出来事同士の時間の関係は思っていたより複雑だが、それでも構造は存在している。

親子関係は全体の順序を確定しないが、親子関係が幻だとはいえない。全員がずらっと一列に並んでいないからといって、わたしたちの間にまったく関係がないということにはならないのだ。

変化や出来事の発生は、決して幻ではない。ここまででわかったこと、それは、この世界の変化が包括的な順序に従って生じているわけではないという事実だ。

 ではここで、最初の問いに戻るとしよう。「現実」とは何か。何が「存在」しているのか。

「この問いは間違っている」というのがその答えだ。

この問いはすべてを意味し、何ものをも意味しない。なぜなら「現実」という言葉は曖昧で、意味がたくさんあるからだ。「存在」という言葉に至っては、さらに多くの意味がある。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第2部 時間のない世界,第7章 語法がうまく合っていない,pp.109-110,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間の順序,過去,現在,未来)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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検索(ループ量子重力理論)

実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))

量子論で、実験の概念が変わったか

【実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ハイゼンベルクも同様だ。「……科学の伝統的な要請によれば、……この世界を主観と客観(観測者と観測されるもの)に分けることができる。……この仮定は、原子物理学では許されない。つまり、観測者と対象の相互作用は、観測されている系に制御不可能な大きな変化を引き起こす。これは、原子レベルの過程に特有の不連続な変化のためである。」したがって、ハイゼンベルクは、「この世界の主観的な面と客観的な面を区別することが困難だというこの基本的な議論は、認識論にとってきわめて重要であるから、いま、これを振り返ってみるのは有益である」と主張する。
 こうしたこととは反対に、わたくしは、物理学者は実際上、1925年以前と根本的に同じやり方で測定し、実験しているのだと指摘したい。重大な違いがあるとすれば、「客観性」の度合いも増したが、それと同じくらいに測定の間接性の度合いも増したということくらいである。3、40年まえであれば、シンチレーションの計測などを「記録」するのに、物理学者は顕微鏡を通して見ていたが、いまでは写真乾板や自動計測器があり、「記録」はそれらがやっている。そして、写真フィルムや計数管の読みは(あらゆる実験、観察が理論に照らして解釈されなければならないように)解釈を必要とするものの、われわれが理論的に解釈したからといって、それらが物理的に「干渉され」たり、「影響を受け」たりすることなどあるわけがない。たしかに、実験的テストの多くは、いまでは大部分が統計的な性格のものだが、だからといって実験の「客観性」が劣るわけではない。それらの統計的な性格(それらは計数管やコンピュータによって自動的に処理されることが多い)は、観測者や主観や意識などの物理学への侵入などと言われているものとはなんの関係もない。対照的に、実験の処方や設定は、これまでいつでも、われわれの知識が変化することと大いに関係があったし、また、いまでもそうである。つまりそれは、《理論に依存する》のである。
 《理論》は、実験を設定し、その結果を解釈するさいの案内役となるが、もちろん、われわれが考案したものである。それは、われわれの「意識」が考案した産物である。けれどもこのことは、科学におけるその理論の位置づけとはなんの関係もない。理論の位置づけは、その単純性、対称性、説明力、そして批判的討論や決定的な実験的テストに理論がいかに耐えているかということに依存する。またそれが真理であるか(実在との一致)、あるいは真理にどれだけ近いかに依存する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序章「観測者」なき量子力学,1 量子論と「観測者」の役割,pp.54-55,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))

実在の一つのとらえ方

【私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 (6.2)観察と実験の役割
  観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
  私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。
 「このように理論とは、われわれ自身の発明であり、アイデアなのである。この点は、観念論的認識論者にはよくわかっていた。だが、そのなかには、実在と衝突するほど大胆な理論もある。それらは、テスト可能な科学理論である。じっさいに衝突すると、そこには実在があるのだとわかる。それは、われわれの考えがまちがっていると教えてくれるなにかである。これこそ、実在論者が正しい理由なのである。
 (なお、この種の情報、つまり実在による理論の却下とは、わたくしの見るところでは、実在から得ることができる唯一の情報である。これ以外はみな、われわれのつくりものである。こう考えれば、理論はすべて人間の見方によって色づけされているのに、なぜ研究が進むにつれてだんだん歪みが少なくなっていくのかがわかる。)」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序 1982年 量子論の実在論的で常識的な解釈について,pp.6-7,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:実在,真でないこと,観察と実験)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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波のうねりにも似た、偶然的で、予見されなかった危機、1回きりの独特な出来事の長い連鎖が、歴史である。ある世代が獲得した地盤が、次の世代に失われることもある。将来の運命は、私たち自身にかかっている。(カール・ポパー(1902-1994))

将来の運命

【波のうねりにも似た、偶然的で、予見されなかった危機、1回きりの独特な出来事の長い連鎖が、歴史である。ある世代が獲得した地盤が、次の世代に失われることもある。将来の運命は、私たち自身にかかっている。(カール・ポパー(1902-1994))】

次の命題への補足追加。

歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的なものである。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))
歴史に意味を与えるのは、私たち自身である
歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「偉大なイギリスの歴史家H・A・L・フィッシャーほどこの点を明晰に定式化した人はいません。彼はヒストリシズム〔歴史法則主義〕的な発展理論といわゆる歴史の発展法則をしりぞけましたが、同時に倫理的、経済的、政治的進歩の立場から歴史を評価しました。フィッシャーは次のように書きました。「わたくしよりも賢く教養ある人々は歴史のなかにひとつの意味、ひとつのリズム、ひとつの法則的な経過を見出した……しかしわたくしに見えるのはただ次から次に起こる予見されなかった危機、波のうねりにも似て次々に起こる危機であり、出来事の長い連鎖だけである。それらの出来事は、みなまったく独得であり、したがって一般化を許さず、歴史研究者に《ただひとつの》規則、すなわち、一般化とは対極にある偶然的なものや予見されなかったものを見失わないようにするがよい、という規則を勧告する。」したがって、フィッシャーは固有の発展傾向はないと言っているわけですが、しかしつづけて次のようにも言っています。「しかし、わたくしの立場は、シニカルな、あるいはペシミスティックなものと考えられてはならない。反対にわたくしの主張は、進歩の事実を歴史のページのなかに明晰判明に読むことができるということである。とはいえ、進歩は自然の法則ではない。ある世代が得た地盤は次に世代によって再び失われることもある。」したがって、政治的権力をめぐる闘争と混乱という無意味にして残酷な変動のなかにも、進歩は存在するわけです。しかし、その進歩をさらに確実にするような歴史の発展法則は存在しません。ですから、この進歩の将来の運命――したがってわれわれの運命――は、われわれ自身にかかっています。
 わたくしがここでフィッシャーを引用したのは、彼が正しいと信じるからばかりではありません。とりわけ、フィッシャーの考え――歴史はわれわれにかかっているという考え――が、歴史は、それに内在する機械的、弁証法的、あるいは有機的な法則をもっているという考え、言ってみれば、われわれは、歴史という人形劇のなかの人形にすぎない、あるいは、たとえば善の力、悪の力、あるいはプロレタリアの力と資本主義の力のような超人間的な歴史的諸力の対立抗争にもてあそばれる一個のボールにすぎないという考えよりも、いかに人間にふさわしく有意味なものであるかを指摘したかったからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.227-228,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,将来の運命,偶然)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年4月8日水曜日

19(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間の順序

【(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

(1)(b.3)追記。

時間とは何か?
 量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
(1)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a1とは、情報(b.1)を表現している。
  (a.2)状態 a1は、未来におけるAとBの相互作用を予測する。
  (a.3)量子力学の粒性
   AとBの相互作用の結果、
   実現する可能性のあるBの結果 biの総数は、有限である。
  (a.4)不確定性
   Bからは、常に新しい情報 biを得ることが可能である。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t1において、
   AとBの相互作用の結果が、b1である。
  (b.2)これは、AとBが過去経験してきたあらゆる相互作用の最終結果である。
  (b.3)これは、未来におけるAとBの相互作用を予測可能にするための整理作業でもある。
   参考:(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
   参考:(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。

(2)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a2とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t2において、
   AとBの相互作用の結果が、b2である。
(3)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a3とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t3において、
   AとBの相互作用の結果が、b3である。
 「時間はすでに、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。

時間にさまざまな限定があるいっぽうで、単純な事実が一つある。事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。

 基本方程式に「時間」という量が含まれていないからといって、この世界は凍りついてもいないし、不動でもない。それどころかこの世界の至る所に、「父なる時間」によって順序づけられない「変化」がある。

無数の出来事は、必ずしもきちんと順序づけられておらず、ニュートン的な唯一の時間線に沿って、あるいはアインシュタインの優美な幾何学に従って分布しているわけでもない。この世界の出来事は、英国人のように秩序立った列は作らず、イタリア人のようにごちゃごちゃと集まっているのだ。

 それでも出来事は生じ、変化してゆく。拡散してちりぢりになり、めちゃくちゃになりはしても、静止することなく、生じる。

てんでんばらばらな速度で時を刻むいくつもの時計は、単一の時間を示すことなく、しかし各時計の針は互いに対して変化する。

基本的な方程式は時間という変数を含まないが、互いに対して変化する変数を含んでいる。

アリストテレスが述べているように、時間は変化を計測したものなのだ。変化を測るための変数の選び方はいろいろあるが、わたしたちが経験する時間の特徴をすべて備えた変数はどこにもない。しかしだからといって、この世界が絶えず変化しているという事実が消えるわけではない。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第2部 時間のない世界,第6章 この世界は物ではなく出来事でできている,pp.97-98,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間の順序)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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18.唯一の時間は存在せず、合理的な形で「現在」を定義できない。軌跡ごとに異なる経過期間があり、場所と速度に応じて異なるリズムが経過する。基本方程式は、時間に関して対称であり、時間の向きはマクロ的で偶然的な性質を持つ。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間とは何か

【唯一の時間は存在せず、合理的な形で「現在」を定義できない。軌跡ごとに異なる経過期間があり、場所と速度に応じて異なるリズムが経過する。基本方程式は、時間に関して対称であり、時間の向きはマクロ的で偶然的な性質を持つ。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

 「ここで、この本の第一部で試みた、深みへの長い急降下を振り返っておこう。

時間は唯一ではなく、それぞれの軌跡に異なる経過期間がある。そして時間は、場所と速度に応じて異なるリズムで経過する。

時間は方向づけられていない。過去と未来の違いは、この世界の基本方程式のなかには存在しない。それは、わたしたちが事物の詳細をはしょったときに偶然生じる性質でしかない。

そのような曖昧な視野のなかで、この宇宙の過去は妙に「特別な」状態にあった。

「現在」という概念は機能しない。この広大な宇宙に、わたしたちが理に適った形で「現在」と呼べるものは何もない。

時間の持続期間を定める基層は、この世界を構成するほかのものと異なる独立した実体ではなく、動的な場の一つの側面なのだ。

跳び、揺らぎ、相互作用によってのみ具体化し、最小規模に達しなければ定まらない側面……。だとすれば、時間の何が残るのか。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第1部 時間の崩壊,第5章 時間の最小単位,pp.92-93,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間とは何か)

時間は存在しない


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17.(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間とは何か

【(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

(1)(b)に追記。

時間とは何か?
 量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
(1)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a1とは、情報(b.1)を表現している。
  (a.2)状態 a1は、未来におけるAとBの相互作用を予測する。
  (a.3)量子力学の粒性
   AとBの相互作用の結果、
   実現する可能性のあるBの結果 biの総数は、有限である。
  (a.4)不確定性
   Bからは、常に新しい情報 biを得ることが可能である。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t1において、
   AとBの相互作用の結果が、b1である。
  (b.2)これは、AとBが過去経験してきたあらゆる相互作用の最終結果である。
  (b.3)これは、未来におけるAとBの相互作用を予測可能にするための整理作業でもある。
   参考:(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。

(2)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a2とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t2において、
   AとBの相互作用の結果が、b2である。
(3)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a3とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t3において、
   AとBの相互作用の結果が、b3である。
 「時間の持続と隔たりを定める物理的な基層、すなわち重力場に、質量に影響される力学があるだけではない。

それは、何かほかのものと相互作用しないかぎり値が決まらない量子実体でもある。

相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。それでいて、宇宙のそのほかのすべてに対しては、不確かなままなのだ。
 時間は関係のネットワークのなかに溶け去り、もはや首尾一貫したキャンパスを織り上げてはいない。

揺らいで互いに重ね合わさり、特定のものに対しては具体になることもある(複数の)時空のイメージは、わたしたちからすればきわめて曖昧な像だが、微細な粒からなるこの世界に関していえることは、これで精一杯。わたしたちは今、量子重力の世界を覗いているのだ。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第1部 時間の崩壊,第5章 時間の最小単位,p.92,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間とは何か)

時間は存在しない

カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
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歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史の意味とは何か

【歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「わたくしが主張しているのは、ただ、彼らが理解可能なことを言っているかぎりでは、間違ったことを言っていることが実に多いということ、またシュペングラー流の大胆な歴史予言の基礎として役立ちうるような科学的あるいは歴史的あるいは哲学的方法は存在しないということだけです。つまり、そうした歴史的予言が当たったとしても、それはまったく偶然の幸運にすぎません。そうした予言は、恣意的で、偶然的で、非科学的です。ところが、当然のことですが、強力な宣伝効果はもつことができるのです。十分に多数の人が西欧の没落を信じるようになりさえすれば、西欧は確実に没落することでしょう。つまり、そうした宣伝がなかったら西欧が隆盛を持続したであろうといった時でさえ、やはり没落することでしょう。なぜなら、理念は山を移すことができるからです。誤った理念でさえそうすることができるのです。しかし幸いなことには、誤った理念に対して真なる理念で闘うことも往々にして可能です。
 わたくしは以下において、まったくもって楽観的な思想をいくつか述べようと思っていますので、ここでは、その楽観主義が、未来についての楽観的な予言ととりちがえられることのないように警告しておきたいと思います。
 未来が何をもたらすかをわたくしは知りません。また、それを知っていると信じる人々をわたくしは信じはしません。わたくしの楽観主義は、過去および現在から学びうるものにのみかかわります。そしてわれわれが学ぶこととは、善きものも悪しきものも含めて、多くのものが可能であったし可能であるということであり、われわれは希望を捨てる理由をもってはいない――またよりよい世界のために働くことをやめる理由をもっていないということです。
 さて、歴史の意味にかんするわたくしの第一の否定的なテーゼにはらまれていたテーマを去って、より重要な肯定的なテーゼに立ち入ることにしましょう。
 わたくしの第二の主張は、《われわれ自身が》政治の歴史に意味を《与え》たり目標を《たてる》ことができるということ、しかも人間にふさわしい意味を与えたり、人間にふさわしい目標をたてることができるということでした。
 歴史に意味を与えるということについては、二つのまったく異なった意味で語ることができます。重要で基本的なのは、われわれの倫理的理念による《目標設定》という意味です。「意味を与える」という言葉の第二のあまり基本的でない意味で、カント派のテオドール・レッシングは歴史を「無意味なものへの意味付与」と表現しました。わたくしにとって正しいと思えるかぎりでのレッシングの主張はこうです。われわれが、たとえば、歴史の歩みのなかで、われわれの理念やまたとくにわれわれの倫理的理念――たとえば自由の理念や知による自己解放の理念――は、どのような状態にあるかという問いを発して歴史の研究に臨むならば、われわれはそれ自体としては意味をもたない歴史に意味を読み込もうと試みることはできる。われわれが「進歩」という言葉を、自然の法則としての進歩という意味で使用しないように注意しさえするならば、われわれはどのように進歩しまた退歩してきたか、また、われわれの進歩をいかに高価にあがなわねばならなかったかと問うことによって、伝承されてきた歴史からひとつの意味を手に入れることはできるとも言えます。ここにはまた、われわれの多くの悲劇的な誤り――目標設定における誤りや手段の選択における誤り――の歴史も属しています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.225-227,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,倫理的理念,目標設定,歴史の進歩,歴史の退歩)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史の「意味」は存在するか?

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ですから、わたくしの第一の主張はこうです。もしわれわれが歴史の意味ということで、歴史というドラマのなかに隠されている意味のことを考えるなら、あるいは、世界の政治史のうちに隠されているような、そして、おそらくは歴史家か哲学者によって発見されるような発展傾向とか発展法則のことを考えるなら、歴史の意味について語ることは拒否すべきである。
 ですから、わたくしの第一の主張は否定的です。その趣旨は、歴史の隠された意味は存在しないということ、それを発見したと信ずる歴史家や哲学者はとんでもない自己欺瞞にとらわれているということです。
 これは反して、わたくしの第二の主張はたいへん肯定的です。それは、われわれ自身が政治史にひとつの意味を、実現可能で人間にふさわしい意味を与えることができるというものです。とはいえ、わたくしはそれ以上のことを主張したいと思っています。なぜなら、わたくしの第三の主張は、われわれはそのような倫理的な意味付与あるいは目標設定が決して無益ではないことを歴史に対してもつ力が過小評価されるなら、歴史は決して理解されないことでしょう。こうした倫理的な目標は、疑いもなくしばしば恐るべき結果を生みだしたのですから。しかしわれわれは、過去のどの世代よりもカントが表現したような啓蒙の理念に多くの点で近づいています。とりわけ、知による自己解放の理念、多元的な社会秩序あるいは開かれた社会秩序の理念、および政治的な戦争の歴史に対して永遠平和という目標を告知するという理念に近づいています。われわれがこの目標設定に近づいたと言う場合、もちろんわたくしは、この目標が間もなく達成されるであろうとか、あるいはとにかく達成されるであろうという予言をしようとしているのではありません。挫折することもまたありうるのですから。わたくしの主張は次のような点にあります。ロッテルダムのエラスムス、イマヌエル・カント、フリードリヒ・シラー、ベルタ・フォン・ズットナー、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フェルスター、およびその他多くの人が承認をかち取るべく闘ってきた平和の理念は、こんにちともかくも外交官や政治家によって、あらゆる文明国間の国際政治の意識的な目標として承認され、そのための努力がなされているということです。そしてこれは、平和の理念のために闘ったあの偉大な先駆者たちの期待をうわまわっていますし、また25年前に期待されていたことをもうわまわっています。
 この法外なまでの成功にしても部分的な成功にすぎないこと、それはエラスムスやカントの理念からのみ生み出されたわけではなく、それ以上に、こんにち全人類を脅かしている戦争の危険の大きさへの洞察から生み出されたものであることをわたくしは認めます。しかしながら、そうであるからといって、こんにち平和を目標とすることが公に承認されているという事実が変わるわけではありませんし、また、この目標をどうすれば実現できるかを外交官や政治家が知らないという点に主としてわれわれの困難があるという事実が変わるわけでもありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.218-220,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,永遠平和,国際政治)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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生命は、単に、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているのではなく、環境世界への適応や様々な生命諸形態の案出において、何らかの能動的な問題解決、推測と誤謬の除去ともいえる方法で作用しているのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

生命とは問題解決

【生命は、単に、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているのではなく、環境世界への適応や様々な生命諸形態の案出において、何らかの能動的な問題解決、推測と誤謬の除去ともいえる方法で作用しているのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「悲観的イデオロギーに属するひとつの非常に重要なテーゼはこうです。生命の環境世界への適応や、すべての〔生命諸形態の〕案出(わたくしはこれを偉大なものと思っていますが)は、生命が何十億年ものあいだになし遂げたものであり、そしてこんにちでもわれわれが実験室で追構成できないものであるが、それらは案出ではなく、純粋な偶然の結果である。つまり、こういうことです。生命はそもそも案出しなかった。そこにあるすべては、純粋に偶然的な変異と自然淘汰のメカニズムである。生命の内部からの圧力は、自己増殖以外のなにものでもない。それ以外の一切は、われわれの相互的闘争、自然との闘争、しかも《盲目的》闘争から生じてくる。そして、(わたくしの考えでは偉大な出来事なのですが)太陽光線を栄養として用いるといったことは、偶然の結果である。
 〔これに対する〕わたくしの主張はこうです。これもまた、イデオロギーにすぎない、しかも古いイデオロギーの一部であって、ここには利己的遺伝子の神話さえもが属するし(遺伝子は共同によってのみ作用し生き延びうるというのに)、くわえて、今や真新しく素朴決定論的に「社会生物学」と称して息を吹き返した社会ダーウィニズムも属する。
 二つのイデオロギーの主要点をまとめておきたいと思います。
(1)旧、外部からの選択圧は殺害を通じて作用する。つまり、それは〔生物のあるものを〕除去する。したがって、環境は生命に対して敵対的である。
 新、内部からの能動的な選択圧は、よりよい環境、よりよい生態学的ニッチ、よりよい世界の探究である。それは、生命に対して最高度に友好的である。生命は生命のために環境世界を改善し、環境世界を生命に対して友好的なもの(そして人間にとって友好的なもの)にする。
(2)旧、有機体は〔環境世界に対して〕完全に受動的であって、〔環境世界によって〕能動的に選択される。
 新、有機体は能動的である。有機体は持続的に問題解決に従事する。生命とは問題解決である。解決はときとして新しい生態学的ニッチの選択あるいは構築である。有機体は能動的であるばかりでなく、その能動性は持続的に増大する。(われわれ人間に能動性を認めようとしないのは――決定論者はそうしているが――パラドックスである、とりわけ、われわれの批判的な精神的仕事を考慮に入れると。)
 海のなかで動物的生命が発生したとき――これは推測であるが――その環境世界は多くの領域でかなりの程度まで一様であった。にもかかわらず(昆虫はまったく無視するとしても)動物は、陸にあがる前に脊椎動物にまで発展していた。環境世界は、生命に対して一様に友好的であり、またそれに応じて無差別的であったが、生命の方は、見通せないほどさまざまな形態に差別化をとげた。
(3)旧、変異は純粋な偶然事である。
 新、有機体は、いつでも、生命を改善するような素晴らしい案出をしている。自然と進化と有機体、これらはすべて案出の才に富む。それらは、案出〔発明〕家として、われわれと同じように、推測と誤謬の除去という方法で働いている。
(4)旧、われわれは、残忍な除去を通して進化によって変革される敵対的な環境世界に生きている。
 新、最初の細胞は、何十億年後にあっても依然として、しかも今では数限りなく多い複写体のうちに生きている。どこに目を向けようとも、最初の細胞が存在する。それは、大地に園をつくり出し、緑の植物をつうじて、大気を作り変えた。またそれは、われわれの目を作り出し、青い空と星とに目を開かせた。うまくいっている。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第1章 知識と実在の形成――よりよき世界を求めて,IV,pp.37-39,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:生命,自然淘汰,適応,問題解決,推測と誤謬の除去)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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