2020年4月9日木曜日

実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))

量子論で、実験の概念が変わったか

【実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ハイゼンベルクも同様だ。「……科学の伝統的な要請によれば、……この世界を主観と客観(観測者と観測されるもの)に分けることができる。……この仮定は、原子物理学では許されない。つまり、観測者と対象の相互作用は、観測されている系に制御不可能な大きな変化を引き起こす。これは、原子レベルの過程に特有の不連続な変化のためである。」したがって、ハイゼンベルクは、「この世界の主観的な面と客観的な面を区別することが困難だというこの基本的な議論は、認識論にとってきわめて重要であるから、いま、これを振り返ってみるのは有益である」と主張する。
 こうしたこととは反対に、わたくしは、物理学者は実際上、1925年以前と根本的に同じやり方で測定し、実験しているのだと指摘したい。重大な違いがあるとすれば、「客観性」の度合いも増したが、それと同じくらいに測定の間接性の度合いも増したということくらいである。3、40年まえであれば、シンチレーションの計測などを「記録」するのに、物理学者は顕微鏡を通して見ていたが、いまでは写真乾板や自動計測器があり、「記録」はそれらがやっている。そして、写真フィルムや計数管の読みは(あらゆる実験、観察が理論に照らして解釈されなければならないように)解釈を必要とするものの、われわれが理論的に解釈したからといって、それらが物理的に「干渉され」たり、「影響を受け」たりすることなどあるわけがない。たしかに、実験的テストの多くは、いまでは大部分が統計的な性格のものだが、だからといって実験の「客観性」が劣るわけではない。それらの統計的な性格(それらは計数管やコンピュータによって自動的に処理されることが多い)は、観測者や主観や意識などの物理学への侵入などと言われているものとはなんの関係もない。対照的に、実験の処方や設定は、これまでいつでも、われわれの知識が変化することと大いに関係があったし、また、いまでもそうである。つまりそれは、《理論に依存する》のである。
 《理論》は、実験を設定し、その結果を解釈するさいの案内役となるが、もちろん、われわれが考案したものである。それは、われわれの「意識」が考案した産物である。けれどもこのことは、科学におけるその理論の位置づけとはなんの関係もない。理論の位置づけは、その単純性、対称性、説明力、そして批判的討論や決定的な実験的テストに理論がいかに耐えているかということに依存する。またそれが真理であるか(実在との一致)、あるいは真理にどれだけ近いかに依存する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序章「観測者」なき量子力学,1 量子論と「観測者」の役割,pp.54-55,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))

実在の一つのとらえ方

【私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 (6.2)観察と実験の役割
  観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
  私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。
 「このように理論とは、われわれ自身の発明であり、アイデアなのである。この点は、観念論的認識論者にはよくわかっていた。だが、そのなかには、実在と衝突するほど大胆な理論もある。それらは、テスト可能な科学理論である。じっさいに衝突すると、そこには実在があるのだとわかる。それは、われわれの考えがまちがっていると教えてくれるなにかである。これこそ、実在論者が正しい理由なのである。
 (なお、この種の情報、つまり実在による理論の却下とは、わたくしの見るところでは、実在から得ることができる唯一の情報である。これ以外はみな、われわれのつくりものである。こう考えれば、理論はすべて人間の見方によって色づけされているのに、なぜ研究が進むにつれてだんだん歪みが少なくなっていくのかがわかる。)」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序 1982年 量子論の実在論的で常識的な解釈について,pp.6-7,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:実在,真でないこと,観察と実験)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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波のうねりにも似た、偶然的で、予見されなかった危機、1回きりの独特な出来事の長い連鎖が、歴史である。ある世代が獲得した地盤が、次の世代に失われることもある。将来の運命は、私たち自身にかかっている。(カール・ポパー(1902-1994))

将来の運命

【波のうねりにも似た、偶然的で、予見されなかった危機、1回きりの独特な出来事の長い連鎖が、歴史である。ある世代が獲得した地盤が、次の世代に失われることもある。将来の運命は、私たち自身にかかっている。(カール・ポパー(1902-1994))】

次の命題への補足追加。

歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的なものである。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))
歴史に意味を与えるのは、私たち自身である
歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「偉大なイギリスの歴史家H・A・L・フィッシャーほどこの点を明晰に定式化した人はいません。彼はヒストリシズム〔歴史法則主義〕的な発展理論といわゆる歴史の発展法則をしりぞけましたが、同時に倫理的、経済的、政治的進歩の立場から歴史を評価しました。フィッシャーは次のように書きました。「わたくしよりも賢く教養ある人々は歴史のなかにひとつの意味、ひとつのリズム、ひとつの法則的な経過を見出した……しかしわたくしに見えるのはただ次から次に起こる予見されなかった危機、波のうねりにも似て次々に起こる危機であり、出来事の長い連鎖だけである。それらの出来事は、みなまったく独得であり、したがって一般化を許さず、歴史研究者に《ただひとつの》規則、すなわち、一般化とは対極にある偶然的なものや予見されなかったものを見失わないようにするがよい、という規則を勧告する。」したがって、フィッシャーは固有の発展傾向はないと言っているわけですが、しかしつづけて次のようにも言っています。「しかし、わたくしの立場は、シニカルな、あるいはペシミスティックなものと考えられてはならない。反対にわたくしの主張は、進歩の事実を歴史のページのなかに明晰判明に読むことができるということである。とはいえ、進歩は自然の法則ではない。ある世代が得た地盤は次に世代によって再び失われることもある。」したがって、政治的権力をめぐる闘争と混乱という無意味にして残酷な変動のなかにも、進歩は存在するわけです。しかし、その進歩をさらに確実にするような歴史の発展法則は存在しません。ですから、この進歩の将来の運命――したがってわれわれの運命――は、われわれ自身にかかっています。
 わたくしがここでフィッシャーを引用したのは、彼が正しいと信じるからばかりではありません。とりわけ、フィッシャーの考え――歴史はわれわれにかかっているという考え――が、歴史は、それに内在する機械的、弁証法的、あるいは有機的な法則をもっているという考え、言ってみれば、われわれは、歴史という人形劇のなかの人形にすぎない、あるいは、たとえば善の力、悪の力、あるいはプロレタリアの力と資本主義の力のような超人間的な歴史的諸力の対立抗争にもてあそばれる一個のボールにすぎないという考えよりも、いかに人間にふさわしく有意味なものであるかを指摘したかったからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.227-228,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,将来の運命,偶然)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月8日水曜日

19(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間の順序

【(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

(1)(b.3)追記。

時間とは何か?
 量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
(1)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a1とは、情報(b.1)を表現している。
  (a.2)状態 a1は、未来におけるAとBの相互作用を予測する。
  (a.3)量子力学の粒性
   AとBの相互作用の結果、
   実現する可能性のあるBの結果 biの総数は、有限である。
  (a.4)不確定性
   Bからは、常に新しい情報 biを得ることが可能である。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t1において、
   AとBの相互作用の結果が、b1である。
  (b.2)これは、AとBが過去経験してきたあらゆる相互作用の最終結果である。
  (b.3)これは、未来におけるAとBの相互作用を予測可能にするための整理作業でもある。
   参考:(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
   参考:(仮説)ある事物と他の事物の間の相互作用によって粒状の持続時間が現れる。この出来事から、起こり得る別の相互作用への推移の過程は、因果律に従う。世界は、出来事のネットワークであるが、現れた時間は、順序づけ可能とは限らない。

(2)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a2とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t2において、
   AとBの相互作用の結果が、b2である。
(3)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a3とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t3において、
   AとBの相互作用の結果が、b3である。
 「時間はすでに、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。

時間にさまざまな限定があるいっぽうで、単純な事実が一つある。事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。

 基本方程式に「時間」という量が含まれていないからといって、この世界は凍りついてもいないし、不動でもない。それどころかこの世界の至る所に、「父なる時間」によって順序づけられない「変化」がある。

無数の出来事は、必ずしもきちんと順序づけられておらず、ニュートン的な唯一の時間線に沿って、あるいはアインシュタインの優美な幾何学に従って分布しているわけでもない。この世界の出来事は、英国人のように秩序立った列は作らず、イタリア人のようにごちゃごちゃと集まっているのだ。

 それでも出来事は生じ、変化してゆく。拡散してちりぢりになり、めちゃくちゃになりはしても、静止することなく、生じる。

てんでんばらばらな速度で時を刻むいくつもの時計は、単一の時間を示すことなく、しかし各時計の針は互いに対して変化する。

基本的な方程式は時間という変数を含まないが、互いに対して変化する変数を含んでいる。

アリストテレスが述べているように、時間は変化を計測したものなのだ。変化を測るための変数の選び方はいろいろあるが、わたしたちが経験する時間の特徴をすべて備えた変数はどこにもない。しかしだからといって、この世界が絶えず変化しているという事実が消えるわけではない。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第2部 時間のない世界,第6章 この世界は物ではなく出来事でできている,pp.97-98,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間の順序)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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18.唯一の時間は存在せず、合理的な形で「現在」を定義できない。軌跡ごとに異なる経過期間があり、場所と速度に応じて異なるリズムが経過する。基本方程式は、時間に関して対称であり、時間の向きはマクロ的で偶然的な性質を持つ。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間とは何か

【唯一の時間は存在せず、合理的な形で「現在」を定義できない。軌跡ごとに異なる経過期間があり、場所と速度に応じて異なるリズムが経過する。基本方程式は、時間に関して対称であり、時間の向きはマクロ的で偶然的な性質を持つ。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

 「ここで、この本の第一部で試みた、深みへの長い急降下を振り返っておこう。

時間は唯一ではなく、それぞれの軌跡に異なる経過期間がある。そして時間は、場所と速度に応じて異なるリズムで経過する。

時間は方向づけられていない。過去と未来の違いは、この世界の基本方程式のなかには存在しない。それは、わたしたちが事物の詳細をはしょったときに偶然生じる性質でしかない。

そのような曖昧な視野のなかで、この宇宙の過去は妙に「特別な」状態にあった。

「現在」という概念は機能しない。この広大な宇宙に、わたしたちが理に適った形で「現在」と呼べるものは何もない。

時間の持続期間を定める基層は、この世界を構成するほかのものと異なる独立した実体ではなく、動的な場の一つの側面なのだ。

跳び、揺らぎ、相互作用によってのみ具体化し、最小規模に達しなければ定まらない側面……。だとすれば、時間の何が残るのか。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第1部 時間の崩壊,第5章 時間の最小単位,pp.92-93,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間とは何か)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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17.(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間とは何か

【(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

(1)(b)に追記。

時間とは何か?
 量子論は、実在する「事物」の状態の変化を記述しているのではなく、ある事物と他の事物の間のある相互作用から、起こり得る別の相互作用への推移の「過程」を記述する。相互作用の瞬間においてのみ「事物」の性質はあらわになる。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))
(1)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a1とは、情報(b.1)を表現している。
  (a.2)状態 a1は、未来におけるAとBの相互作用を予測する。
  (a.3)量子力学の粒性
   AとBの相互作用の結果、
   実現する可能性のあるBの結果 biの総数は、有限である。
  (a.4)不確定性
   Bからは、常に新しい情報 biを得ることが可能である。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t1において、
   AとBの相互作用の結果が、b1である。
  (b.2)これは、AとBが過去経験してきたあらゆる相互作用の最終結果である。
  (b.3)これは、未来におけるAとBの相互作用を予測可能にするための整理作業でもある。
   参考:(量子重力に関する仮説)質量に影響される重力場は揺らいで互いに重ね合わさり、相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。

(2)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a2とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t2において、
   AとBの相互作用の結果が、b2である。
(3)
 (a)ある物理的な系A(対象系)
  (a.1)Aの状態 a3とは、情報(b.1)を表現している。
 (b)他の物理的な系B(観測系)
  (b.1)時刻 t3において、
   AとBの相互作用の結果が、b3である。
 「時間の持続と隔たりを定める物理的な基層、すなわち重力場に、質量に影響される力学があるだけではない。

それは、何かほかのものと相互作用しないかぎり値が決まらない量子実体でもある。

相互作用が起きると持続時間は粒状になり、相互作用した相手との関わりにおいてのみその値が定まる。それでいて、宇宙のそのほかのすべてに対しては、不確かなままなのだ。
 時間は関係のネットワークのなかに溶け去り、もはや首尾一貫したキャンパスを織り上げてはいない。

揺らいで互いに重ね合わさり、特定のものに対しては具体になることもある(複数の)時空のイメージは、わたしたちからすればきわめて曖昧な像だが、微細な粒からなるこの世界に関していえることは、これで精一杯。わたしたちは今、量子重力の世界を覗いているのだ。」
(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第1部 時間の崩壊,第5章 時間の最小単位,p.92,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:時間とは何か)

時間は存在しない

カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史の意味とは何か

【歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「わたくしが主張しているのは、ただ、彼らが理解可能なことを言っているかぎりでは、間違ったことを言っていることが実に多いということ、またシュペングラー流の大胆な歴史予言の基礎として役立ちうるような科学的あるいは歴史的あるいは哲学的方法は存在しないということだけです。つまり、そうした歴史的予言が当たったとしても、それはまったく偶然の幸運にすぎません。そうした予言は、恣意的で、偶然的で、非科学的です。ところが、当然のことですが、強力な宣伝効果はもつことができるのです。十分に多数の人が西欧の没落を信じるようになりさえすれば、西欧は確実に没落することでしょう。つまり、そうした宣伝がなかったら西欧が隆盛を持続したであろうといった時でさえ、やはり没落することでしょう。なぜなら、理念は山を移すことができるからです。誤った理念でさえそうすることができるのです。しかし幸いなことには、誤った理念に対して真なる理念で闘うことも往々にして可能です。
 わたくしは以下において、まったくもって楽観的な思想をいくつか述べようと思っていますので、ここでは、その楽観主義が、未来についての楽観的な予言ととりちがえられることのないように警告しておきたいと思います。
 未来が何をもたらすかをわたくしは知りません。また、それを知っていると信じる人々をわたくしは信じはしません。わたくしの楽観主義は、過去および現在から学びうるものにのみかかわります。そしてわれわれが学ぶこととは、善きものも悪しきものも含めて、多くのものが可能であったし可能であるということであり、われわれは希望を捨てる理由をもってはいない――またよりよい世界のために働くことをやめる理由をもっていないということです。
 さて、歴史の意味にかんするわたくしの第一の否定的なテーゼにはらまれていたテーマを去って、より重要な肯定的なテーゼに立ち入ることにしましょう。
 わたくしの第二の主張は、《われわれ自身が》政治の歴史に意味を《与え》たり目標を《たてる》ことができるということ、しかも人間にふさわしい意味を与えたり、人間にふさわしい目標をたてることができるということでした。
 歴史に意味を与えるということについては、二つのまったく異なった意味で語ることができます。重要で基本的なのは、われわれの倫理的理念による《目標設定》という意味です。「意味を与える」という言葉の第二のあまり基本的でない意味で、カント派のテオドール・レッシングは歴史を「無意味なものへの意味付与」と表現しました。わたくしにとって正しいと思えるかぎりでのレッシングの主張はこうです。われわれが、たとえば、歴史の歩みのなかで、われわれの理念やまたとくにわれわれの倫理的理念――たとえば自由の理念や知による自己解放の理念――は、どのような状態にあるかという問いを発して歴史の研究に臨むならば、われわれはそれ自体としては意味をもたない歴史に意味を読み込もうと試みることはできる。われわれが「進歩」という言葉を、自然の法則としての進歩という意味で使用しないように注意しさえするならば、われわれはどのように進歩しまた退歩してきたか、また、われわれの進歩をいかに高価にあがなわねばならなかったかと問うことによって、伝承されてきた歴史からひとつの意味を手に入れることはできるとも言えます。ここにはまた、われわれの多くの悲劇的な誤り――目標設定における誤りや手段の選択における誤り――の歴史も属しています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.225-227,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,倫理的理念,目標設定,歴史の進歩,歴史の退歩)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史の「意味」は存在するか?

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ですから、わたくしの第一の主張はこうです。もしわれわれが歴史の意味ということで、歴史というドラマのなかに隠されている意味のことを考えるなら、あるいは、世界の政治史のうちに隠されているような、そして、おそらくは歴史家か哲学者によって発見されるような発展傾向とか発展法則のことを考えるなら、歴史の意味について語ることは拒否すべきである。
 ですから、わたくしの第一の主張は否定的です。その趣旨は、歴史の隠された意味は存在しないということ、それを発見したと信ずる歴史家や哲学者はとんでもない自己欺瞞にとらわれているということです。
 これは反して、わたくしの第二の主張はたいへん肯定的です。それは、われわれ自身が政治史にひとつの意味を、実現可能で人間にふさわしい意味を与えることができるというものです。とはいえ、わたくしはそれ以上のことを主張したいと思っています。なぜなら、わたくしの第三の主張は、われわれはそのような倫理的な意味付与あるいは目標設定が決して無益ではないことを歴史に対してもつ力が過小評価されるなら、歴史は決して理解されないことでしょう。こうした倫理的な目標は、疑いもなくしばしば恐るべき結果を生みだしたのですから。しかしわれわれは、過去のどの世代よりもカントが表現したような啓蒙の理念に多くの点で近づいています。とりわけ、知による自己解放の理念、多元的な社会秩序あるいは開かれた社会秩序の理念、および政治的な戦争の歴史に対して永遠平和という目標を告知するという理念に近づいています。われわれがこの目標設定に近づいたと言う場合、もちろんわたくしは、この目標が間もなく達成されるであろうとか、あるいはとにかく達成されるであろうという予言をしようとしているのではありません。挫折することもまたありうるのですから。わたくしの主張は次のような点にあります。ロッテルダムのエラスムス、イマヌエル・カント、フリードリヒ・シラー、ベルタ・フォン・ズットナー、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フェルスター、およびその他多くの人が承認をかち取るべく闘ってきた平和の理念は、こんにちともかくも外交官や政治家によって、あらゆる文明国間の国際政治の意識的な目標として承認され、そのための努力がなされているということです。そしてこれは、平和の理念のために闘ったあの偉大な先駆者たちの期待をうわまわっていますし、また25年前に期待されていたことをもうわまわっています。
 この法外なまでの成功にしても部分的な成功にすぎないこと、それはエラスムスやカントの理念からのみ生み出されたわけではなく、それ以上に、こんにち全人類を脅かしている戦争の危険の大きさへの洞察から生み出されたものであることをわたくしは認めます。しかしながら、そうであるからといって、こんにち平和を目標とすることが公に承認されているという事実が変わるわけではありませんし、また、この目標をどうすれば実現できるかを外交官や政治家が知らないという点に主としてわれわれの困難があるという事実が変わるわけでもありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.218-220,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,永遠平和,国際政治)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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生命は、単に、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているのではなく、環境世界への適応や様々な生命諸形態の案出において、何らかの能動的な問題解決、推測と誤謬の除去ともいえる方法で作用しているのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

生命とは問題解決

【生命は、単に、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているのではなく、環境世界への適応や様々な生命諸形態の案出において、何らかの能動的な問題解決、推測と誤謬の除去ともいえる方法で作用しているのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「悲観的イデオロギーに属するひとつの非常に重要なテーゼはこうです。生命の環境世界への適応や、すべての〔生命諸形態の〕案出(わたくしはこれを偉大なものと思っていますが)は、生命が何十億年ものあいだになし遂げたものであり、そしてこんにちでもわれわれが実験室で追構成できないものであるが、それらは案出ではなく、純粋な偶然の結果である。つまり、こういうことです。生命はそもそも案出しなかった。そこにあるすべては、純粋に偶然的な変異と自然淘汰のメカニズムである。生命の内部からの圧力は、自己増殖以外のなにものでもない。それ以外の一切は、われわれの相互的闘争、自然との闘争、しかも《盲目的》闘争から生じてくる。そして、(わたくしの考えでは偉大な出来事なのですが)太陽光線を栄養として用いるといったことは、偶然の結果である。
 〔これに対する〕わたくしの主張はこうです。これもまた、イデオロギーにすぎない、しかも古いイデオロギーの一部であって、ここには利己的遺伝子の神話さえもが属するし(遺伝子は共同によってのみ作用し生き延びうるというのに)、くわえて、今や真新しく素朴決定論的に「社会生物学」と称して息を吹き返した社会ダーウィニズムも属する。
 二つのイデオロギーの主要点をまとめておきたいと思います。
(1)旧、外部からの選択圧は殺害を通じて作用する。つまり、それは〔生物のあるものを〕除去する。したがって、環境は生命に対して敵対的である。
 新、内部からの能動的な選択圧は、よりよい環境、よりよい生態学的ニッチ、よりよい世界の探究である。それは、生命に対して最高度に友好的である。生命は生命のために環境世界を改善し、環境世界を生命に対して友好的なもの(そして人間にとって友好的なもの)にする。
(2)旧、有機体は〔環境世界に対して〕完全に受動的であって、〔環境世界によって〕能動的に選択される。
 新、有機体は能動的である。有機体は持続的に問題解決に従事する。生命とは問題解決である。解決はときとして新しい生態学的ニッチの選択あるいは構築である。有機体は能動的であるばかりでなく、その能動性は持続的に増大する。(われわれ人間に能動性を認めようとしないのは――決定論者はそうしているが――パラドックスである、とりわけ、われわれの批判的な精神的仕事を考慮に入れると。)
 海のなかで動物的生命が発生したとき――これは推測であるが――その環境世界は多くの領域でかなりの程度まで一様であった。にもかかわらず(昆虫はまったく無視するとしても)動物は、陸にあがる前に脊椎動物にまで発展していた。環境世界は、生命に対して一様に友好的であり、またそれに応じて無差別的であったが、生命の方は、見通せないほどさまざまな形態に差別化をとげた。
(3)旧、変異は純粋な偶然事である。
 新、有機体は、いつでも、生命を改善するような素晴らしい案出をしている。自然と進化と有機体、これらはすべて案出の才に富む。それらは、案出〔発明〕家として、われわれと同じように、推測と誤謬の除去という方法で働いている。
(4)旧、われわれは、残忍な除去を通して進化によって変革される敵対的な環境世界に生きている。
 新、最初の細胞は、何十億年後にあっても依然として、しかも今では数限りなく多い複写体のうちに生きている。どこに目を向けようとも、最初の細胞が存在する。それは、大地に園をつくり出し、緑の植物をつうじて、大気を作り変えた。またそれは、われわれの目を作り出し、青い空と星とに目を開かせた。うまくいっている。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第1章 知識と実在の形成――よりよき世界を求めて,IV,pp.37-39,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:生命,自然淘汰,適応,問題解決,推測と誤謬の除去)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020/04/08 第1版
2020/04/20 第2版
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1.著作名から調べる
2.人名から調べる
3.「命題集」というファイルは、何ですか?
4.なぜ、このような記述方法、形式を採用しているのですか?
5.著作の日本語訳のオリジナル文章を添付しているのは、なぜですか?
6.このサイトの基本的な考え方は、何ですか?

1.著作名から調べる

索引(人名、著作名、関連語句、翻訳者名)から、探します。
例えば、
フレーゲ『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』
フレーゲ『フレーゲ=フッサール往復書簡』
フレーゲ『意味と意義について』
フレーゲ『概念記法の科学的正当性について』
フレーゲ『幾何学の基礎について(1906)』
フレーゲ『算術の基礎』
フレーゲ『算術の基本法則』
フレーゲ『算術の形式理論について』
フレーゲ『思想--論理探究(1)』
フレーゲ『数学と数学的自然科学の認識源泉』
フレーゲ『数学における論理』
フレーゲ『論理学1』
フレーゲ『論理学2』

2.人名から調べる

索引(人名、著作名、関連語句、翻訳者名)から、探します。
例えば、
1806-1873_ジョン・スチュアート・ミル
1828-1877_西郷隆盛
1844-1900_フリードリヒ・ニーチェ
1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ
1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ_命題集
1854-1912_アンリ・ポアンカレ
1862-1943_ダフィット・ヒルベルト
1878-1949_グスタフ・ラートブルフ
1878-1965_マルティン・ブーバー
1879-1955_アルベルト・アインシュタイン
1889-1951_ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

3.「命題集」というファイルは、何ですか?

1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ
1848-1925_ゴットロープ・フレーゲ_命題集 ←このファイルは何ですか?

(1)個々の命題を、本当に正確に理解するには、その哲学者の全体の考えを理解する必要があります。このファイルは、少なくとも、掲載している命題について、全体的なつながりを明らかにすることを目的に作られています。
(2) 過去の哲学は、各々ある特定の真理を、他の哲学よりも明確に見ていたかもしれず、集録と評価が必要である。その際、各哲学に調和と統一を与えている根本的な思想や方法を壊さないようにすること。(フランシス・ベーコン(1561-1626))
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

4.なぜ、このような記述方法、形式を採用しているのですか?

個々の事柄に関して厳密さを欠くことなく、かつ全体が俯瞰できるような総括を与える得る、知識の記述方法がある。それが命題集である。(ムランのロベルトゥス(1100頃-1167))

 「かなり多くの人々に、著述を行うにあたって、その総括を論じることを約束しながら個々の事柄に深く立ち入るという習慣がある。そのため彼らは、個々の事柄に関して必要とされる厳密さを欠くようになり、またその総括も十分にまとまったものではないということになる。また、他のある人々は、著述を行う際に別な方法に従い、個々の事柄にまったく言及しないような仕方で総括を行おうとする。そのため実際には総括は、それが言及せずに放置した事柄については、ほとんど、あるいはまったく何も教えないということになるのである。」(中略)「したがって、個々の事柄を放置する人は総括を教えはしないし、個々の事柄の知識を軽んじる人は総括を教えることにはならない。というのも、この教え方の内にあるのは簡潔さではなく、簡潔さの偽りの類似だからである。」(中略)「それは魂を勉学への愛から完全に切り離し、また後には、いかなる努力によっても、より明瞭な教えを喜び楽しむために回復することがほとんどできないほどの曖昧な暗闇によって包んでしまうからである。つまりこの教え方は、精神を狭い所へ閉じ込め、どこかへ自由に出ていくことができないように、役に立たない簡潔さによってすべての考察の道を妨げるのである。」(中略)「不明瞭な簡潔さに対する嫌悪が冗長さを許す理由にはならないのと同様に、冗長さを避けることが不明瞭な簡潔さを許されるべきものとすることはないのである。」
(ムランのロベルトゥス(1100頃-1167)『命題集』中世思想原典集成 七 前期スコラ学 pp.750-751、中村秀樹)
(索引:)

前期スコラ学 (中世思想原典集成)


ムランのロベルトゥス(1100頃-1167)
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検索(命題集)

5.著作の日本語訳のオリジナル文章を添付しているのは、なぜですか?

 オリジナル文を読んで、教科書的な「解説」とあまりに違っていることに驚いたことはありませんか。この不満を解消するために、オリジナル文を添付しました。このサイトの情報も、もちろん、私の理解と解釈というフィルターを通っています。ぜひ、オリジナル文を熟読してください。新たな発見があるかもしれません。

6.このサイトの基本的な考え方は、何ですか?

(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Propositions of great philosophers)  「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2020年4月5日日曜日

無意識の精神機能におけるニューロン活動の持続時間は100ms以下である。このことは、意識されない問題解決のプロセスが極めて迅速に、効果的に進行できることを示唆している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【無意識の精神機能におけるニューロン活動の持続時間は100ms以下である。このことは、意識されない問題解決のプロセスが極めて迅速に、効果的に進行できることを示唆している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(d)追記。

意識現象の発現の仕方
 意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
 (i)話し始める過程、話の内容が、話が始まる前に既に無意識に起動され、準備されている。仮に、ある人が話す単語の一つ一つについてまず自覚してからでなければ話せないならば、一連の言葉を速やかに話すことが不可能になるだろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
 (ii)ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。
 (i)無意識の精神機能におけるニューロン活動の持続時間は100ms以下である。このことは、意識されない問題解決のプロセスが極めて迅速に、効果的に進行できることを示唆している。

 「(5) 無意識の精神機能がより持続時間の短いニューロン活動によって生み出されている場合、その精神機能はより速いスピードで進行することができます。信号へのアウェアネスがなくても信号の検出と選択反応を強制する私たちの実験から判断すると、無意識機能での神経活動の有効なタイム-オン(持続時間)は、約100ミリ秒以下というように、実に極めて短い可能性があります。このことから、問題解決に影響を与える一連の無意識プロセスが、個々の短いプロセスを次々とスピーディーに進行できることが示唆されます。このような敏捷さは、当然、無意識の思考を非常に効果的にします。それは、短時間継続する無意識の考えの要素が、込み入った問題の中にある一連の困難なステップを次々と達成していくことで成り立っています。逆に、一連の思考の中の各ステップで、アウェアネスが現れるまで人は先に進まないとしたら、プロセス全体の動きが5倍ほども鈍くなり、意識を伴った考えやその結果生じる行為への決断がのろのろとした作業となることでしょう。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),p.130,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識を伴わない精神機能

【ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(c)追記。

意識現象の発現の仕方
 意識作用には、意識を伴わない「精神機能」、ニューロン活動が先行する。感覚だけではなく、意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図、創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(a)体性感覚
 (i)意識を伴わない感覚信号の検出、ニューロン活動が先行する。
 (ii)適切なニューロン活動の持続時間が、ある程度増加することによって、感覚の意識が現れる。
 (iii) 意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
(b)他の感覚モダリティ(視覚、聴覚、嗅覚、味覚)でも、同様である。
(c)意識を伴う思考や感情、情動、自発的な行為を促す意図でも、同様である。
 (i)話し始める過程、話の内容が、話が始まる前に既に無意識に起動され、準備されている。仮に、ある人が話す単語の一つ一つについてまず自覚してからでなければ話せないならば、一連の言葉を速やかに話すことが不可能になるだろう。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))
 (ii)ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏も、無意識のパフォーマンスの働きによるものに違いない。実際、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告している。
(d)創造的なアイデア、問題の解決なども、同様であろう。



 「(3) ピアノやバイオリンなどの楽器の演奏または歌唱も、同様の、行為の《無意識の》パフォーマンスの働きによるものに違いありません。ピアニストがテンポの速い楽曲を演奏するときにはしばしば、目でもなかなか追えないほどの速さで両手の指がキーを連打しています。それでもなお、各々の(メロディーやキーの)進行の中で、それぞれの指が正しくピアノのキーを叩いていなければならないのです。すべての指の動きのアウェアネスの前にいちいち一定の遅延があるのならば、ピアニストがそれぞれの指の動きを《意識的に気づく》ことは不可能であるはずです。実際のところ、個々の指を動かす意図を自覚していない、と演奏者たちは報告しています。それよりも、音楽への感情移入を表現することに、彼らは集中していることが多いのです。そして、アウェアネスが生じるための私たちのタイム-オンの原則に基づくならば、こうした感情ですら、アウェアネスが少しでも発生する前に《無意識に》生じているのです。音楽を演奏していることを「考える」と、自分の表現力が不自然でぎこちないものになることを、演奏家や歌手は知っています。」(後略)
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.126-127,下條信輔(訳))
(索引:意識を伴わない精神機能)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))

理論は実証できない

【観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.2)~(3.3)追記。

(3)理論は実証できない
 真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (a)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (b)理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
  観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。
  (a)知識は、無《タブラ・ラサ》から始めることはできない。観察から始めることもできない。
  (b)ある観察や偶然の発見によって知識が進歩することは、時として可能ではある。
  (c)一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって既存の理論を修正できるかどうかにかかっている。
 (3.3)確実な知識の源泉はあるのか?
  (a)知識が事実であることを約束するような「知識の源泉」は、ない。
  (b)観察、論理的思考、知的直観、知的想像力は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を創造する際の助けになり、重要なものである。しかし、真理であることを約束してくれるわけではない。それどころか、誤りへと導いてしまうかもしれない。実際、私たちの理論のほとんど大部分は、誤りである。
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
  概念の世界は「先験的必然」でもなければ、論理的方法によって経験から導出し得るものでもなく、人間精神の一つの自由な創造物である。しかし、概念体系の妥当性の唯一の理由は、事実と経験による検証である。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している
 「さて、ここでこれまで論じてきたことを、8つのテーゼのかたちにまとめてみましょう。
1. 知識の源泉などありません。どんな源泉でも、どんな提案でもよいのです。けれども、いかなる源泉、提案も批判的検討の対象になります。歴史的な問いを扱っているのでないかぎり、われわれの情報の源泉をたどるよりも、むしろ主張された事実そのものを検討すべきです。
2. 科学論の問いは、本来、起源とはなんの関係もありません。われわれが問うのは、むしろ、ある主張が真であるかどうか――すなわち、それが事実と一致しているかどうかということです。
 そのような批判的な真理の探究の途中では、可能なかぎりのあらゆる議論が利用されます。もっとも重要な方法のひとつは、われわれ自身の理論に批判的に対峙し、とくに理論と観察のあいだの矛盾を探すことです。
3. 伝統は――生まれつきの知識は別にして――はるかに重要な知識の源泉です。
4. われわれの知識のかなりの部分が伝統に基づいているという事実は、伝統に反対すること、つまり反伝統主義の立場にはなんら意味がないことを示しています。しかし、だからといって、これを伝統主義を支持する根拠と見なしてはなりません。なぜなら、われわれに伝えられてきた知識(そして生まれつきの知識)のどんなに小さな部分も不死身ではなく、批判的に探究され、場合によっては、くつがえされるかもしれないからです。しかしそれにもかかわらず、伝統なしには知識は不可能でしょう。
5. 知識は無――《タブラ・ラサ》――から始めることはできませんが、かといって観察から出発できるわけでもありません。われわれの知識は既存の知識を修正し、訂正することによって進歩します。たしかに、ある観察や偶然の発見によって進歩することは、時として可能ですが、一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって《既存の》理論を修正できるかどうかにかかっています。
6. 観察も理性も、なんら権威ではありません。ほかの――知的直感や知的想像力などのような――源泉も重要ではありますが、同じく信頼に足るものではありません。それらはものごとをかなり明らかにしてくれるかもしれませんが、しかしわれわれを誤りへと導いてしまうかもしれないのです。それでも、これらはわれわれの理論の主たる源泉であり、そのようなものとしてかけがえのないものです。しかも、われわれの理論のほとんど大部分は、誤りなのです。観察と論理的思考、そして知的直感と想像力の重要な機能は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を批判的に検討する際の助けとなるという点にあります。
7. 明晰さには、それ自体知的な価値があります。厳密さや精密さは、そうではありません。絶対的精密性など到達不可能です。問題状況が要求している以上の厳密さを目指すのは、意味のないことです。」(中略)「
8. ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出します。この新たな問題は、もとの問題が難しければ難しいほど、また解決の試みが大胆であればあるほど、それだけいっそう興味深いものになります。世界のいろいろなものごとについて経験すればするほど、そしてわれわれの知識が深まれば深まるほど、《自分たちがなにを知らないのか》ということについての、つまり自分たちの無知についての知識がよりいっそう明確になり、はっきりと描き出されるのです。われわれの無知の主たる源泉は、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、われわれの知識には限界があるというところにあります。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第3章 いわゆる知の源泉について,pp.91-93,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:理論は実証できない,知識論,論理的思考,知的直観,想像力)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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