2020年4月25日土曜日

いかに奇妙で愚かと思われても、当人以外に無関係な行為ならば、不快の念の表明や、哀れみの感情からの助言は許されるが、怒りや恨みの感情を抱き、制裁を加える必要があると考えるのは、不当でり誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

当人以外に無関係な行為

【いかに奇妙で愚かと思われても、当人以外に無関係な行為ならば、不快の念の表明や、哀れみの感情からの助言は許されるが、怒りや恨みの感情を抱き、制裁を加える必要があると考えるのは、不当でり誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3.1)へ追記。

  (2.2.3)ある人の行為が、他人に関係するとき
   他人に危害が及ぶ行為は排除されるが、行為しないことによって他人に危害が発生する場合や、他人の利益になる行為は、個人の自由に任せる長所や、社会の管理による弊害を考慮して、義務とすべきか考える必要がある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

   (2.2.3.1)ある人の行為によって、他人に危害が及ぶとき
    その行為をしないように、強制することが正当である。
    (a)(例)他人の権利の侵害、損失や損害を与えること、権利によって正当化できない行動、他人との関係での嘘と欺瞞、他人の弱みにつけこむ不正で卑劣な行動。
    (b)行動の背景にある性格も道徳的には非難の対象となり得る。
    (例)冷酷な性格、悪意と意地の悪さ、反社会的で憎むべき感情である嫉妬、偽善と不誠実、原因につりあわない怒りと恨み、他人を支配したがる性格、過分な利益を得ようとする貪欲、他人を貶めることに満足感を得る高慢、自分と自分の利益を何よりも重視する利己主義。

   (2.2.3.2)ある人が行動しなかったことによって、他人に害を与えることになるとき
    (a)この場合も、他人に与えた被害について責任を負うのが当然である。
    (b)ただし、強制力の行使は、はるかに慎重にならなければならない。責任を問うのは、どちらかといえば例外である。だが、責任が明白で重大なことから、例外として責任を問うのが適切な場合はかなり多い。
     (例)利己的な理由で他人に被害が及ぶのを防がないこと。
    (c)考えるための事例
    ・命の危険にさらされている人を助けること。
    ・虐待されている弱者を保護するために干渉すること。
   (2.2.3.3)ある人の行為によって、他人の利益になるとき
    (a)各人にその行動をとるよう強制するのが適切だともいえるものが多数ある。
    (b)逆に、社会による強制が好ましくない場合。
    ・自由意思に任せておく方が、本人が全体として良い行動をとる可能性が高い場合。
    ・社会が管理しようとすると、より大きな害悪が生まれると予想される場合。
    (c)考えるための事例。
    ・裁判所で証言すること。
    ・社会のために必要な防衛などの共同の仕事に参加して、応分の義務を果たすこと。
   (2.2.3.4)義務と考えられている行為
    行動をとらなかったときに、社会に対する責任を問われることになる。

 (2.3)個人の自由の領域
  (2.3.1)ある人の行為が、本人だけに関係しており、他人には関係がないとき
   いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

   (a)いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。
    いかに奇妙で愚かと思われても、当人以外に無関係な行為ならば、不快の念の表明や、哀れみの感情からの助言は許されるが、怒りや恨みの感情を抱き、制裁を加える必要があると考えるのは、不当でり誤りである。
    (i)各人は、自分自身の身体と心に対して、絶対的な自主独立を維持する権利を持っている。
    (ii)ただし、子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。
    (iii)仮に、愚かに思え、気高さや自尊心を欠いていると思われても、また個人の資質の欠陥の程度が極端であっても、道徳とは関係なく、悪ではない。
    (iv)嫌悪を感じ不快の念を表明し、哀れみの感情を持ち本人が被るだろう悪評と害悪を避ける方法を教えることはできる。しかし、怒りや恨みの感情を抱き、その人物に制裁をくわえる必要があると考えるのは、誤りである。
   (b)ある人に、物質的にか精神的にか「良い」行為をさせたいとき。
    (i)その当人にある行動を強制したり、ある行動を控えるように強制することは、正当ではない。ましては、その「良い」行為をしなかったことを、処罰するのは不当である。
    (ii)忠告したり、理を説いたり、説得したり、懇願することは、正当である。

  (2.3.2)他人が影響を受けるが、自由に自発的に騙されることなく選択可能なとき
   他人に影響を与えるにしても、影響を受けているのが、自由に、自発的に、騙されたわけではなく、同意して行動に参加している人だけである場合も、「直接的な影響を受けない」ケースに含まれる。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   (a)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。
 「要するに私の主張はこうだ。個人の行動と性格のうち本人の幸福に影響を与えるが、その人と関係する他人の利益には影響を与えない部分に問題があったとき、本人が被るべき不便は、他人から受ける悪評と切り離せない不便だけだと。他人に被害を与える行動に対しては、まったく違った対応が必要になる。他人の権利を侵害する行為、他人に損失や損害を与え、自分の権利によって正当化できない行動、他人との関係での嘘と欺瞞、他人の弱みにつけこむ不正で卑劣な行動は、さらには利己的な理由で他人に被害が及ぶのを防がないことすらも、道徳に反するとして非難の対象とするのが当然であり、深刻な場合には社会による報復と制裁の対象とするのが当然である。これらの行動だけでなく、これらの行動の背景にある性格も道徳に反しており、非難の対象とするのが当然であって、憎悪されることもある。冷酷な性格、悪意と意地の悪さ、とりわけ反社会的で憎むべき感情である嫉妬、偽善と不誠実、原因につりあわない怒りと恨み、他人を支配したがる性格、過分な利益を得ようとする貪欲、他人をおとしめることに満足感を得る高慢、自分と自分の利益を何よりも重視し、あいまいな点はすべて自分に都合よく解釈する利己主義といった性格はすべて悪徳であり、道徳に反する性格だとされて嫌われる。これとはまったく違うのが前述の点、つまり、個人のみに関係する資質での欠陥である。この欠陥は本来、道徳という観点で非難されるべきものではなく、欠陥の程度が極端であっても邪悪だととはいえない。その人の愚かさを示しているか、気高さや自尊心の欠如を示しているとしても、道徳の問題になり非難の対象になるのは、周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときだけである。自分に対する義務とされているものは、それが同時に他人に対する義務になる状況がないかぎり、社会に対する義務ではない。自分に対する義務という言葉は、思慮分別以上のものを意味する場合には、自尊心をもつことか自分を磨くことを意味するが、これらのいずれに関しても、他人に対して責任を負うことはない。これらの点で他人に対する責任を個人に負わせても、人類にとって利益にならないからである。
 個人に賢さか気高さが欠けている場合に当然の結果として他人に低く評価されることと、他人の権利を侵害したときに非難されることの違いは、言葉のうえだけのものではない。社会に管理の権利がある領域で不快な行動をとっているのか、それとも社会にそのような権利がないことが分かっている領域で不快な行動をとっているのかによって、その人物に対するわれわれの感情と行動は大きく違う。本人の行動が不快なだけであれば、不快の念を表明できるし、不快な人物や不快なものに近づかないようにすることもできる。しかし、その人物に制裁をくわえる必要があるなどと考えてはならない。その人が自分の過ちで罰を受けているか、今後に受けることを考えるべきだ。自分の失敗によって自分の生活を損なっているのであれば、その点を理由にさらに苦しめてやろうなどと考えるべきではない。罰を与えたいと望むのではなく、本人の行動によって本人に跳ね返ってくるはずの害悪を避けるか解消する方法を教えて、罰を軽くするように努力すべきだ。その人に対して哀れみの感情をもつだろうし、嫌悪するかもしれないが、怒りや恨みの対象にはならない。その人を社会の敵であるかのように扱うべきではない。関心や懸念を示して好意的に接することはないにしても、正当だといえるのはぎりぎりのところ、付き合いを止めて好きなようにさせておくことまでである。これに対して、個人としてであれ集団としてであれ、他人を保護するために必要な規則をやぶった場合には、事情がまったく違う。その人の行動によって悪影響を受けるのは本人ではなく、他人である。社会はすべての成員を保護する責任を負っているので、その人に報復しなければならない。処罰を与えることを明確な目的として掲げ、その人に苦痛を与えなければならず、その苦痛が十分に厳しいものになるようにしなければならない。この場合には、その人を犯罪者として裁判にかけ、何らかの判決を下したうえ、何らかの形で刑罰を執行しなければならない。これに対して個人のみに関係する欠陥の場合には、社会はその人に苦痛を与える立場にはなく、例外は、社会の人びとがその人に認めているのと同じ自由を行使して自分自身の問題を処理したとき、それに伴ってその人が受ける苦痛だけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.172-175,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:当人以外に無関係な行為)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2020年4月24日金曜日

陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言としての陳述

【陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

参考: 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3.1)追記。

(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為


 「われわれの研究すべきものが文では《なく》、むしろ一つの発言状況において一つの発言を行うことであるということをいったん悟るならば、陳述することは一つの行為を遂行することであるということが理解されないということはもはやほとんどあり得ないことであろう。さらに、陳述するということを、すでに発語内行為についてわれわれが述べたことと比較するならば、陳述するということは他の発語内行為の場合とまったく同程度に「了解の確保」ということを不可欠とするような種類の遂行であるということが理解されるだろう。すなわち、もし私が述べたことが了解されなかったり、聞こえなかったりするとき、はたして私は陳述したことになるのか否かという疑問は、私が述べたことを抗議として受け取らない人がいたとするならば、私はそっと(sotto voce)警告したことになるのかそれとも依然として抗議したことになっているのかという疑問とまったく同じものである。さらに、陳述は「命名」とまったく同程度に「効力を生じさせる」のである。たとえば、私が何かを陳述したとき、そのことによって私は別の陳述を行わなければならなくなるというようなことが起こる。しかも、私が行うその別の陳述は先に行なった陳述によって適当なものとなったり不適当なものとなったりすることになる。また、相手の行なう陳述や評言も以降は、私に対する反論となるかならないかのいずれかとなり、あるいはまた私に対する反駁となるか否かのいずれかとなる。また、かりに陳述が反応を惹き起こさないことがあるとしても、そのことはいずれにせよ発語内行為のすべてにとって本質的なことではない。しかも、陳述を行う際に、われわれは実際あらゆる種類の発語媒介行為を遂行しており、またそのことは許されているのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.232-233,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言,陳述,事実確認的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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12.欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却への罠

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考:欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 「自分がある「低劣」な衝動にかられ、自分の好まぬ動因に動かされて行為をするのを見、またまさにそれをする瞬間には嫌悪を感じるかもしれないようなことをするのを見、あとになってあのとき自分は「自分でなかった」のだとか、「自分をしっかり統御していなかった」のだとか反省する心理的経験は、こうした考え方・言い方に属しているものである。

自分というものを自分のなかの批判的・理性的な要素と同一視するのである。

自分の行為の生みだすさまざまな結果は問題とはなりえない。なぜなら、それは自分の統制下にはないものだから。ただ自分の動機だけが統御できるものなのだ。これは世間を無視し、人間や事物をつなぐ鎖から離脱した孤立的な思想家の信条である。

このような形態においては、この学説はまず第一義的に倫理的信条であって、政治的信条ではぜんぜんないと見られるかもしれない。

ところが、それの政治との関連は明々白々なのであって、自由主義的個人主義の伝統のなかには、少なくとも自由の「消極的」概念と同じくらいに、深く浸透しているのである。


 真の自我と
いう内なる砦に逃げ込んだ理性的賢者の概念がその個人主義的形態において現れてくるのは、ただ外部の世界がとくに圧制的で残虐かつ不正であることが明らかになったときのみであるかにみえるということは、おそらく一言ふれておくだけの価値はあるであろう。 

「自分のなしうることを欲し、自分の欲することを行うひとは、真に自由である」と、ルソーは言った。

幸福なり正義なり自由(いかなる意味のものであれ)なりを求めているひとが、やりたいことをする道があまりに塞がれてしまっているために、ほとんどなにひとつできないという世界にあっては、自分自身へと引き籠ってしまう誘惑は抗しがたいものとなってくるであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.38-39,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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11.欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

催眠術、洗脳、識閾下の暗示

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】
参考:自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 「カントの心理学、さらにストア派やキリスト教徒の心理学も、人間におけるある要素――「心のうちなる要塞」――は〔いかなる外的〕規制・調整からも守られうるものだ、と想定していた。

催眠術、「洗脳」、識閾下の暗示、等々の技術の発展によって、このア・プリオリな想定は、少なくとも経験的仮説としては、信憑性に乏しいものとなってしまった。」


(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,p.37,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:催眠術,洗脳,識閾下の暗示,内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法と仮説-演繹法推理

【正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(再掲)

(1)先例からルールを発見する帰納的方法
  先例が関わるある事実の言明と、あるルールとから、先例の決定が導出可能であるような一般的ルールを発見できたとしても、同様に導出可能なルールは一意には決まらない。あるルールの選択には、別の諸基準が必要となる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (a)関連のある先例から、一般的ルールを発見して定式化する。
 (b)その一般的ルールが、その先例によって正当化されるための必要条件は、その事件の事実の言明と、抽出された一般的ルールとから、先例における決定が導き出されることである。
(2)一般的ルールは、一意には決まらない
 (a)しかし一般的に、ある先例の決定を導く一般的ルールは、他にも無数に存在している。その一般的ルールが唯一のものとして選択されるためには、その選択を制約する別の諸基準が存在するはずである。
 (b)一般的ルールを正当化する諸基準とは何だろうか。
  (i)ある理論は、その事件にとって重要なものとして扱われるべき諸事実の選択基準が、そのような諸基準だと考える。
  (ii)他の理論によれば、その先例を検討する後の裁判所が、論理上可能な諸ルールのなかから通常の道徳的、社会的諸要因を比較考量した後で選択するであろうルールである。
(3)別の理論は、一般的ルールを経由せずに、先例を利用する。
 (2.1)今回の事例と重要な点で十分に類似している先例を推論する。
 (2.2)その先例を典型例として、今回の事例も同じように決定する。

《説明図》
(1)
先例が関わる  ある一般的
ある事実の言明 ルール
 │┌──────┘
 ↓↓
先例の決定a

(2)
どの事実が 通常の道徳的、社会的
重要か   諸要因を比較考量
 ↓       ↓
先例が関わる  ある一般的
ある事実の言明 ルール1
 │┌──────┘
 ││
 ↓↓
先例の決定a

 「過去の判例を一般的ルールの適用例であると考えるとしても、そこに含まれている演繹法の適用の反対を指示するために「帰納法」という言葉を用いることは、誤解を招く恐れがあるだろう。というのは、その言葉は、諸科学において、すでに観察された個々の事実から一般的な事実命題とか観察されていない個々の事実についての言明が推理されたり、確証されたりする時に用いられている蓋然的推理の様式との実際以上の類似性を示唆しているからである。「帰納法」という言葉はまた、完全な帰納法として知られている演繹的推理の形式あるいは直感的帰納法として言及されることのある一般命題発見の方法――本当の、あるいはそのようにいわれている方法――との混同を招くことにもなるであろう。
 けれども、先例の使用に含まれている演繹法の適用の反対もまた科学的手続の重要な一部であることは事実であり、それは仮説的推理ないし仮説――演繹法推理として知られている。したがって、反対事例による反証を回避するために行なわれる科学的仮説の漸進的精密化の作業のなかに見られる観察と理論の相互作用と、裁判所が、一般的ルールを、それが広範囲のさまざまな判例と矛盾しないようにするために、また正義に反した、あるいは望ましくない結果を生むその定式化を避けるために精密化していく仕方との間には、一定の興味深い類似性がある。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.118,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説-演繹法推理,法,仮説的推理,判例,一般的ルール)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月23日木曜日

10.自由な意志によって目的を設定する個人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

個人の価値

【自由な意志によって目的を設定する個人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考

(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

参考

 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「というのは、そもそも人間の本質が人間が自律的存在たるところ――諸価値の作者、目的それ自身の設定者、そしてそれらの価値ないし目的の究極的権威はまさしくそれらが自由な意志によって意志されるという事実に存する――にあるとするならば、なによりも悪いことは、人間を自律的存在ではなく、原因として働くさまざまな諸影響によってもてあそばれる自然物として取り扱うこと、つまり、外的な刺激のままに動かされ、その選択もかれらの支配者によって――暴力の威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ――操作されうるような、そういう被造物〔人間〕として取扱うことである。

人間をこのように扱うということは、あたかも人間が自己決定的なものでないかのごとくに扱うことである。

「なんぴともわたくしに、そのひとの流儀でわたくしが幸福であることを強いることはできぬ」と、カントは言った。「温情的干渉主義は想像しうるかぎり最大の専制主義である」。

なぜなら、それは人間を自由なものとしてではなく、自分にとっての材料――人間という材料 human material ――であるかのごとく取扱うことであるから。

温情に満ちた改革者は、他の人間のではなく、自分自身の自由意志で採用した目的にしたがって、そのひとびとを型にはめようとするのである。

ところで、いうまでもなくこれは、まさしく初期の功利主義者たちが勧めたところの政策であった。

エルヴェシウス(およびベンタム)は、人間がその情念の奴隷となる傾向性に抵抗するのではなく、これを利用するのがよいと考えた。もしその方法によって「奴隷」が幸福にされうるものならば、褒賞なり懲罰なりを鼻先にぶらさげて誘惑したらよい――これは他律性なるもののおよそいちばん極端な形態である――としたのである。

しかしながら、人間を操作し、社会改革者だけには見えてもそのひとたちには見えない目標へと人間を押しやることは、かれらの人間的本質を否定し、かれらを自分自身の意志をもたぬ対象物として扱うことであり、したがってまたかれらの人間としての品位をけがすことになる。

このゆえに、ひとに嘘をつくこと、あるいはひとをだますこと、すなわち、ひとをかれら自身のではなく、わたくしの独立に思い描いた目的のための手段として利用する――たとえそれがかれら自身のためであるにしても――ことは、事実上、かれらを人間以下のもとして扱うことであり、かれらの目的がわたくしの思い描いた目的よりもその究極性・神聖性においてはるかに劣るものであるかのように振る舞うことになるわけである。

かれらが意志せず、また同意しなかったことをやらせるように強制することを、わたくしはいったいなにものの名において正当化することができるのだろうか。

それは、かれら自身よりも高いところにあるなにかの価値の名においてのみである。

けれども、カントの考えたように、あらゆる価値は人間が創りだしたものであり、そうである限りにおいてのみ価値と名づけるのであるとしたならば、個人よりも高い価値というものは存在しないはずである。

だとすると、ひとが意志せず、同意せぬことを強制するのは、かれら自身よりも究極的ならざるなにものかの名においてひとを強制することである

――つまり、わたくしの意志に、あるいは幸福なり便宜なり安全なり便利さなりへのだれか他のひとの特定の渇望に、ひとを屈服させることなのだ。

わたくしが自分ないし自分のグループが要求するあるものを目的として狙い定め、そしてそのために他のひとびとを手段として利用しているということになる。

しかしながら、これはあるべき人間の本質に矛盾し、結局において自家撞着をきたす。

人間に干渉し手出しをし、かれらの意志に反してあなた自身の型に押し込めようとする一切の形態、あらゆる思想統制および思想調整は、それゆえ、人間のうちの、人間を人間たらしめ人間の価値を究極的なものたらしめるところのものの否定であることになる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.34-37,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:個人の価値,温情的干渉主義,思想統制,人間の価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法と国内法の根本的な違い

【国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考: 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「根本的なルールなしに存在するもっとも単純な形態の社会構造のために、根本的なルールをつくろうとする努力のなかには、たしかに何かこっけいなものがある。それはまるで裸の野蛮人が本当は目に見えない種々の現代の服を着ているに《ちがいない》と言い張るようなものである。不幸にもここにおいてもまた混乱が引き続く可能性がある。根本的なルールについては、当該社会(個人からなろうと、国家からなろうと)が行為の一定の基準を義務的なルールとして単なる事実の空虚な繰り返しのようなものであると考えるよう説得されるかもしれない。これは「諸国家は、それらが慣習的に行動してきたように行動すべきである」という国際法のために示唆された聞きなれない根本規範の立場である。なぜならそれは、一定のルールを受けいれる者が、ルールは順守されるべきであるというルールをもまた順守しなければならないということ以上を言っていないからである。これはルールのセットが拘束力をもつルールとして国家により受けいれられたという事実の無益な繰り返しにすぎない。
 またいったんわれわれが国際法は根本ルールをもた《なければならない》という仮定から離れるなら、直面する問題は事実の問題である。ルールが国家間の関係で機能するとき、ルールの実際の性格はどんなものであろうか。観察されるべき現象のさまざまな解釈はもちろん可能である。しかし国際法のルールのために妥当性の一般的基準を与える根本的なルールはないということ、および実際に働いているルールは体系をなすものではなく、ルールのセットであり、その中に条約の拘束力を与えるルールがあるということがのべられよう。多くの重要な事柄に関して、国家間の関係は多辺的条約により規律されていることは真実であり、これらは当事者でない国をも拘束するだろうということがときとして主張されている。もしこのことが一般に認められるなら、そのような条約は実際立法的制定法であり、国際法はそのルールの妥当性のために独特な基準をもつことになるだろう。そうならば、体系の実際の特色をあらわす根本的な承認のルールが公式化されうるだろうし、それはルールのセットが実際に国家により順守されているという事実の空虚な繰り返し以上のものであろう。たぶん現在の国際法は、構造的にそれを国内体系へと近づける上にのべた形態や他の形態を受けいれる移行の段階にあると言える。もしこの移行が完成されたら、そしてそのときに、今日においては根拠が薄くて欺瞞的にさえみえる形態上の類似も実体を得て、国際法の法的「性質」に関する懐疑論者の最後の疑いもそのとき葬られるであろう。この段階にいたるまでは、類似はたしかに機能と内容におけるものであって、形式におけるものではない。機能における類似は、いくらかは前節で吟味したように、どのように国際法が道徳と異なるかを考えるときに、もっとも明らかにあらわれる。内容における類似は、国内法および国際法に共通であり、法律家の技術を一方から他方へ転用することを可能にする一連の原則、概念および方法にある。「国際法」'international law'という表現の発明者であるベンタムは、国際法は国内法に「十分類似している」というだけで、そのことを弁護した。これに対して二つの注釈をつけるのがよいだろう。まず第一に、この類似は内容についてであって形式についてではない。第二に、この内容の類似において、国際法ほど国内法に近いような社会的ルールは他にはない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.254-255,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月21日火曜日

9.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。

みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。

わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。

わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。

自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。

他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。

自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。

わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。

いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。

ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールとしての国際法

【国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「国内法と国際法の間には、ここでいくらか吟味する価値のある形態上の類似がある。ケルゼンおよび多くの現代の理論家達は、国内法と同様に国際法も「根本規範」ないしはわれわれが承認のルールと呼ぶものをもつし、また実際もたなければならないと主張した。それを参照することによって体系の他のルールの妥当性が評価されるのであり、それによってルールは一つの体系を形成するというものである。これに反対する見解によれば、この構造の類似は偽りであり、国際法はこのような方法では結合されていない責務に関する別々な第1次的ルールの単なるセットである。国際法学者の通常の用語法においては、国際法は慣習のルールのセットであり、そのなかの一つに条約に拘束力を与えるルールがある。この仕事に関係する人々にとって、国際法の「根本規範」を公式化することはたいへん困難であったことはよく知られている。この位置を占めるもののなかには、《合意は拘束する》pacta sunt servandaという原則も含まれる。しかしながらいかに広くその言葉を解釈したとしても、この原則は、国際法の下におけるすべての責務が「合意」から生じるわけではないという事実と矛盾するように思えるので、ほとんどの理論家はこの原則を捨てさった。そこでこの原則は、「諸国家はそれらが慣習的に行動しているように行動すべきである」というあまり知られていない、いわゆるルールにとって代わられた。
 われわれは、国際法の根本規範についての上の公式化やその他の公式化の長所を議論するのではなくて、国際法はそのような要素をもたなければならないという前提を問題としてみよう。ここにおいて最初の、そしてたぶん最後の疑問は、なぜわれわれはこれを《先験的な》前提とし(なぜならそうされているのが実情だから)、国際法のルールの実際の性質に予断を下すべきであるかということである。なぜなら社会は、その構成員に対し「拘束力をもつ」ものとして責務を課すルールがあれば、たとえそのルールが単に別々なルールのセットとみなされ、何らかのもっと根本的なルールによって統一されず、あるいは根本的ルールからその効力を引き出さないとしても、存在しうるだろうということはたしかに考えうる(そしてしばしばそういう場合があったであろう)からである。ルールの単なる存在は、そのような根本的なルールの存在を含まないことは明らかである。ほとんどの現代社会にはエチケットのルールがあり、われわれはそれが責務を課すとは考えないけれども、それらのルールが存在しているとたしかに言えるだろう。しかしわれわれは個々のルールの効力がそこから引き出されるエチケットの根本的なルールを探そうとはしないし、見い出すこともできないだろう。そのようなルールは体系をなしているのではなく、単なるセットであり、もちろん問題がエチケットよりももっと重要であるところでは、この形態の社会統制の不便さは無視できない。それらについてはすでに第5章でのべた。しかしもしルールが実際に行為の基準として受けいれられ、義務的ルールに特有なしかるべき形態の社会的圧力により支えられているならば、それらが拘束力をもつルールであるということは、たとえこの単純な社会構造の形態においては、国内法におけるように個々のルールの効力を体系のある究極のルールに照らして証明するものを欠いているとしても、そのことで十分なのである。
 体系となっているのではなく単なるセットであるルールについてもちろん多くの質問をすることができる。たとえばそれらの歴史的起源について質問し、あるいはそのルールの成長を助けた原因に関して質問することができる。またそのルールによって生活している人々に対するその価値について質問することができるし、彼ら自身それに従うよう道徳的に拘束されていると考えているのか、あるいは何か別の動機から従うのかをたずねることができる。しかし、国内法のように根本的規範ないし承認の第2次的ルールで強化された体系のルールに関してはたずねることはできるが、より単純な場合にはたずねることのできない一種の質問がある。すなわち、より単純な場合にわれわれは「体系のどの究極的な規定から、別々のルールはその効力もしくは『拘束力』を引き出すのであろうか」とたずねることはできない。なぜならそのような規定はないし、また何も必要としないからである。だから根本的なルールないし承認のルールが、責務のルールないし「拘束力をもつ」ルールの存在のための一般に必要な条件であると仮定することはまちがいである。これは必要物ではなくぜいたく品 a luxuryであり、構成員が別々のルールを一つずつ受けいれるようになるばかりでなく、妥当性の一般的基準により画された一般的クラスのルールをも前もって受けいれることに関与するような進歩した社会体系に見い出されるものである。より単純な形態の社会においては、ルールがルールとして受けいれられたかどうかを知るには待たなければならない。承認の根本的なルールをもつ体系においては、ルールが実際につくられる以前に、《もし》それが承認のルールの要件に適合しているならそれは効力をもつ《だろう》と言うことができる。
 同様の問題点は別の形でも示されるだろう。そのような承認のルールが別々のルールの単純なセットに付け加えられたとき、それは体系の利益および確認の容易さをもたらすばかりでなく、それは新しい形態の陳述をはじめて可能にする。これはルールの効力についての内的陳述である。なぜなら今われわれは、新たに、「体系のどの規定によりこのルールは拘束力をもつものとされるのか」、あるいはケルゼンの言い方で「体系の内部で何がその妥当性の理由なのか」をたずねることができるからである。これらの新しい質問の答は、根本的な承認のルールにより与えられる。しかしより単純な構造においては、ルールの効力は何らかのもっと根本的なルールを参照することによっては示されえないけれども、このことは、ルールやその拘束力あるいは効力について何らかの疑問が説明されないまま残されているということを意味するものではない。そのような単純な社会構造におけるルールが、なぜ拘束力をもつのかは不思議なことであるとし、それはわれわれが根本的なルールを見い出した場合にのみ解決されるものであると言うことは当たらない。単純な構造のルールは、より進歩した体系の根本的なルールと同様に、もしそれらが拘束力をもつものとして受けいれられ機能しているなら、拘束力をもつのである。しかしながらさまざまな形態の社会構造についてのこれらの純然たる真実は、統一性および体系という望ましい諸要素が実際には見られないところで、それらを執拗に探究することにより、曖昧にされやすい。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.251-253,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:第1次的ルール,国際法,根本規範)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.3)追加。


(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 (2.3)国際法の事実にあっていない。
  (a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得る。
  (b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりする。
  (c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域において、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するというのは、事実に反することが分かる。

 「第三に事実の問題がある。われわれは、国家は自己に課した責務にのみ拘束さ《れう》るという今批判した《先験的な》主張と、国家は異なった体系の下では他の方法で拘束されうるのだけれども、実際に今日の国際法のルールの下では国家にとって他の形態の責務は存在しないという主張とを区別しなければならない。もちろんその体系はすべて合意から成りたつ形態であるということも可能である。合意により成りたつという見解に対する賛成と反対は、法学者の論文、裁判官の意見、さらに国際裁判所の裁判官の意見、および国家の宣言のなかに見い出される。諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが、上の見解が正しいかどうかを示しうる。現代国際法は、たしかに大部分は条約法であり、したがって前もっての合意なしに国家に対し拘束力をもつと思われるルールが、実際は合意にもとづいていることを示すため念入りな試みがなされた。もっともその合意は「黙示的に」のみ与えられ、あるいは「推定」されなくてはならないのだけれども。国際的責務の諸形態を一つのものに還元しようとする試みは、すべてが虚構であるわけではないが、少なくともそのいくらかは、「黙示の命令」tacit command の観念と同じ疑惑を呼び起こす。それは、すでに見たように、はるかにもっともらしいものであるが、同様に国内法の単純化を形成するためにもくろまれたものである。
 すべての国際的責務は拘束される当事者の合意から生じるという主張の詳細な検討はここではできないが、この理論に対する二つの明白で重要な例外に注意しなければならない。第一は新国家の場合である。1932年にイラクが、1948年にイスラエルがしたように、新しい独立国家が成立したとき、それがなかんずく条約に拘束力を与えるルールを含んだ国際法の一般的責務に拘束されることは決して疑われたことはない。ここにおいて新国家の国際的な責務を「黙示の」あるいは「推定された」合意におく試みは、まったく古くさいように思える。第二の場合は、領土を得たり他の何らかの変化をなした国が、以前にはそれを順守したり、違反したりする何らの機会をもたず、またそれに対して合意を与えたり指し控えたりする何らの機会をもたなかったルールのもとにおける責務の影響を、そのことによってはじめて受ける場合である。もし以前には海に接していなかった国家が海岸の領土を得たとしたら、そのことによってその国家は、領海および公海に関するすべての国際法のルールに従わなければならないことは明らかである。その他に、主として一般条約あるいは多辺的条約の非当事者に対する効果に関して、もっと議論の余地のある場合がある。しかしすべての国際的責務はみずから課したものであるという一般理論は、あまりにも多くの抽象的な独断と、あまりにも事実をかえりみないことによって想定されたという疑念を、これら二つの重要な例外は、正当化するのに十分である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.243-245,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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9.災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

まだ間に合う

【災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】

『戦争においても、多くのほかの重要なことがらにおいても、もう手遅れだというので準備が投げやりにされているという事態を、これまでたびたび目にしてきた。

 ところが後になって、あのとき準備をしていたならまだ間にあったはずだったことがわかってきて、それを怠ったばかりに重大な損害をこうむることがはっきりしてくるものである。

 このようなことになるのも、一般にものごとの進歩や速度は予想されるよりもはるかにのろいからである。したがって、君が一ヶ月でやりおおせると判断していたことを三ヶ月も四ヶ月もたって完成できないでいるということが、しばしばおこるものである。この断章は重要である。君の心すべきことだ。』(C162)

『戦争のばあいにはなおさらのことだが、災厄が迫っているときに、もう手遅れだと考えて、救済策をほどこすのをはねつけたり、おろそかにすることがあってはならない。

 というのは、災厄の進行速度は、われわれが考えているよりはるかにのろいことが多いからだ。それは災厄そのものの本来の性格であるのと、さまざまな障害物につきあたるからである。

 したがって、もうおそすぎると判断したために君がとりあげなかった救済策も、間に合うことがよくあるものである。私は、たびたびこのことを経験したのである。』(B173)
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540),『リコルディ』,日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』,C162,B172,講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



(出典:wikipedia
フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Propositions of great philosophers)  「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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2020年4月20日月曜日

国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 「だから現在の異議に対するもっとも簡単な答は、それが考察すべき問題の順序を逆にしているということである。われわれは、国際法の諸形態がどのようなものであるか、そしてそれらは単なる空虚な形態なのかどうかを知ってはじめて、諸国家はどのような主権をもっているかを知りうるのである。この原則が無視されたため、多くの法的議論は混乱してきた。だから「意思主義」あるいは「自己制限」の理論として知られている国際法の理論を、この考えの下で考察することは有益である。これらの理論は、すべての国際的責務を約束から生じる義務のようにみずから課したものとして取り扱うことにより、国家の(絶対)主権を国際法の拘束力あるルールの存在と調和させようと試みた。実際このような理論は、政治学における社会契約論を国際法に当てはめたものである。政治学における社会契約論は、法に従う責務は拘束される人々がお互いになし、あるいは場合によっては彼らの支配者となした契約から生じる責務であるとすることによって、個人は「本来」自由で独立であるにもかかわらず、国内法に拘束されるという事実を説明しようとした。われわれはここにおいては、この理論が文字通り受けとられた場合になされる周知の異議を考察しないし、また単に理解に役立つ類比として受けとられる場合のこの理論の価値をも考察しない。その代わりにわれわれは、国際法の意思主義理論に反対する3つの議論をその歴史から引き出すことにしよう。
 まず第一に、これらの理論は、諸国家はみずから課した責務にのみ拘束され「うる」ということをどうして知るのか、あるいは国際法の実際の性質の検討に先だって、国家の主権に関するこの見解がなぜ受けいれられるべきなのかということを、まったく説明することができない。そのことがしばしば繰り返されてきたという事実のほかに、その見解を支持するものが何かまだあるだろうか。第二に、諸国家は主権をもつのでみずから課したルールにのみ従いまた拘束され《うる》ということを示そうとする議論には、何か一貫しないものがある。「自己制限」理論の非常に極端な形態においては、国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられない。これは事実とはたいへん矛盾しているけれども、少なくとも一貫性という長所をもっている。すなわちこれは、国家の絶対主権はいかなる種類の責務とも両立しないのであり、だから国家はイギリス議会のように、自己を拘束できないという単純な理論である。しかしながら、国家は約束、協定あるいは条約によってみずから責務を課すことができるとするあまり極端でない説は、国家はみずから課したルールにのみ従うという理論とは矛盾する。なぜなら、話されたものであれ、書かれたものであれ、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるためには、ルールがはじめから存在し、それは国家がしかるべき言葉によって行なうと約束したことを行うよう国家は拘束されると規定していなければならないからである。みずから課した責務という観念そのもののなかに前提されているそのようなルールは、《その》義務的な性質をそのルールに従うというみずから課した責務から引き出せないことは明らかである。
 ある国家が行なうように拘束されているすべての個々の《行動》は、理論的には、たしかに約束からその義務的な性質を引き出すだろう。それにもかかわらず、そう言えるのは、約束その他が責務を生じるという《ルール》が何らかの約束とは別に、国家に適用されている場合にのみである。個人あるいは国家からなる社会において、約束、協定あるいは条約の言葉が責務を生じるために何が必要かつ十分であるかを言えればそれは、そのことを規定し、それらの自己拘束作用のための手続を明記したルールが、普遍的である必要はないが一般的に認識されていることである。それらが認識されているところでは、それらの手続を意識的に用いる個人あるいは国家は、欲しようと欲しまいと、そのことによって拘束されるのである。このように社会的責務のもっとも自発的な形態でさえ、それらに拘束される当事者の選択とは関係なしに、拘束力をもつルールを含んでいる。だからこのことは、国家の場合においては、国家主権はすべてのそのようなルールからの自由を要求するという仮定とは一致しない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.242-243,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2020年4月19日日曜日

闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

知による自己解放

【闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「啓蒙主義もロマン派も、世界史のうちに、とりわけ、闘いあう理念の歴史、信仰闘争の歴史を見ています。この点ではわれわれは一致しています。しかし、啓蒙主義をロマン派から分かつものは、これらの理念に対する態度です。ロマン派が尊重するのは、信仰の真理内容がたとえどのようなものであろうとも信仰そのものであり、信仰の強さと深さです。ここにロマン派が、啓蒙主義を軽蔑するもっとも深い根拠があると言ってよいでしょう。なぜなら、啓蒙主義は信仰そのものには――倫理における場合を除いて――不信をもって対立するからです。啓蒙主義は、信仰を単に容認するだけでなく、高く評価もしますが、啓蒙主義が評価するものは、何と言っても、信仰そのものではなく真理です。絶対的真理のようなものが存在すること、われわれはこの真理に近づくことができるということ、これが、ロマン派の歴史的相対主義とは対立する啓蒙哲学の根本的確信です。
 しかし、真理に近づくことは容易ではありません。ただひとつの道、つまり、われわれの誤りを通っていく道があるのみです。われわれの犯した誤りからのみわれわれは学ぶことができるのです。そして他人の誤りを真理への歩みと評価する用意のある者、自分自身の誤りを《さがして》、それから解放されようとする者だけが学ぶのであると言えましょう。
 知による自己解放の理念は、たとえば自然支配の理念と同じものではありません。それはむしろ、誤りからの、誤った信仰からの《精神的》自己解放の理念です。それは、自分自身の理念を批判することによる精神的自己解放の理念です。
 啓蒙主義が狂信とファナティックな信仰を断罪したのは、単に有用性の根拠からでもなく、また、政治や実際生活においてはもっと冷静な醒めた態度による方がより前進できると期待したからでもありません。狂信的信仰に対する断罪は、むしろ、われわれの誤りを批判することによる真理探究という理念から帰結してくることがらなのです。そして、そのような自己批判および自己解放は、多元主義的雰囲気のなかでのみ、つまり、われわれの誤りと他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能なのです。
 ですから、啓蒙主義の主張した知による自己解放の理念は、われわれをわれわれの理念と同一視する代わりに、われわれはわれわれ自身の理念から身を引き離すことを学ばねばならないという理念をはじめから含んでいます。理念のもつ精神的威力が認識されるならば、誤った理念のもつ精神上の圧倒的影響力から自己を解放するという課題が生じてきます。真理を探究し誤謬から解放されるために、われわれは、われわれ自身の理念を、われわれが闘う理念と同様に、批判的に考察できるよう自らを教育しなければなりません。
 これは決して相対主義への譲歩ではありません。なぜなら、誤謬の観念は真理の観念を前提するからです。他の人が正しく、そしておそらくはわれわれが間違ったのだと認めることは、肝要なのは立場のみであるとか、相対主義者の言うように、誰もが自分の立場からすれば正しく、他の立場からは正しくないのだということを意味するものではありません。西欧の民主主義において多くの人は、自らがしばしば誤っており、相手の方が正しいことを学んできました。しかし、この重要な教訓を吸収した人々のうち、余りにも多くの人々が相対主義に落ち込んでしまいました。自由で多元主義的な社会を創ろう――知による自己解放のための枠組みとして――というわれわれの大きな歴史的課題において、こんにちわれわれにもっとも必要なのは、相対主義者あるいは懐疑論者にならずに、またわれわれの確信のために闘う勇気と決心を失わずに、自分たちの理念に批判的に向かいあうことを可能にするような態度に向けて、われわれ自身を教育することです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.233-235,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:知による自己解放,開かれた社会,寛容,誤謬からの解放)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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