2020年5月9日土曜日

「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

「xが必要である」という言明

【「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

「xが必要である」という言明
(1)要求権、権原
 xに対する抽象的な要求権や権原を生み出す。
(2)社会道徳Sの存在
 (1.1)社会道徳Sの目的
  (a)人々は、自ら身を立てることができる。
 (1.2)社会道徳S
  (a)Sによって維持されている互恵性や協調という規範が存在する。
  (b)Sが社会道徳であるとは、コンセンサスの取り消しが、Sの内部ですら理解可能で自然なことであるということが判明するような、何らかの条件が確かに存在するということである。
  (c)規範遵守の再検討を公言可能にする理由
   (i)規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由が存在する。
   (ii)規範遵守の再検討の公言は、協調への期待に依拠する共有された感受性の内側で、道徳的に理解され得るものとみなされる。


「あるニーズ言明の場合、それらの言明は、あるものに対するニーズを伝えるのだが、そのものが必要となるということは、そのものに対する抽象的な権利や権原をまさに生み出すものの一部である。ここで示唆されているのは次のことである。すなわち、実際に存続しており、自ら身を立てるという共有された関心事を行為者に提案することに成功しているような、そうしたある社会道徳Sの目的のために、《条件Cのもとでのxに対する抽象的な要求権や権原》が存在する。そう言えるのはまさに以下の場合である。すなわち、《xは、それが条件Cのもとで否定されたり奪われたりすることで、否定され奪われた当該人物に、ある理由の部分ないしはすべてが与えられる(また、与えていると思われうる)ような何かであり、その理由とは、Sによって維持されている互恵性や協調という規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由である》、という場合である。要するに、もしそのような場合にxを奪われた犠牲者が、口にされたか前もって口にされなかったかする協調への期待のなかで、われわれを失望させるのならば、そのことは、この期待に依拠する共有された感受性の内側で道徳的に理解されうるものとみなされる、ということである。
 ある権利の存在のためのこうしたきわめて差し迫った条件がもつ完全な意味合いをつかむためには、それが依拠する想定を述べることが役立つであろう。それは、以下のような想定である。すなわち、コンセンサスの取り消しがS《の内部ですら》理解可能で自然なことであるということが判明するような《何らかの》条件――言い換えれば、Sに属する誰かが自らを不正に(それどころか正当化不可能な仕方で)犠牲になってきた者だと考えることをSが少なくとも許容するような何らかの条件――が確かに存在していたのでない限り、Sが社会道徳とみなされることはほとんどありえない、という想定である。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第1章 ニーズの要求、17、pp.41-42、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(訳))
(索引:ニーズ,ニーズの要求,社会道徳,要求権,権原,規範遵守の再検討)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)

デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)
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メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))

メタ倫理学と倫理学

【メタ倫理学は,特定の道徳的立場には拠らず,道徳的判断における真偽値の存在を疑い,あるいは真偽値の意味,道徳的表現の規則,機能を解明しようとする。これは,個別具体的な道徳的判断のための第一歩に過ぎない。(アンゼルム・W・ミュラー(1942-))】

(1)メタ倫理学的な問い、道徳的に中立な道徳哲学
 人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのか
 (a)道徳的判断における真偽値の存在
  そもそも道徳的発言について、正しいとか誤っていると語ることはできるのか。
 (b)道徳的判断における真偽値の意味
  どのような意味でなら、道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることができるのか。
 (c)道徳的表現の規則、機能
  概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能、およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。 (d)特定の道徳的立場は前提にしない
  特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。
(2)倫理的判断、道徳的判断
 人はいかに生きるべきか。それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いに答えること。

「メタ倫理学者は、人はいかに生きるべきかについて考察し、それについて言明する代わりに、人はいかに生きるべきかをどのように反省し、それを言葉にしているのかについて考察する。メタ倫理学者たちの言明は、人間の振舞いについての倫理〔学〕的判断、つまり道徳的判断とは別のレベルにある。彼らは、《これらの判断》についてだけ、しかも特定の道徳的な立場をとることを避け、中立的な距離を保ちつつ判断する。彼らによれば、概念分析の目的は、道徳的表現が用いられる際の規則と機能およびそれらが言語的および非-言語的文脈で担っている役割を明らかにすることによって、そうした表現を理解するための手助けとすることにある。また、メタ倫理学者は、どのような意味でなら道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることが《できる》のか、いや、そもそも道徳的発言について正しいとか誤っていると語ることは《できる》のかについて研究する。これに対して、それぞれのケースでどの判断が正しくどの判断が誤っているのか、それゆえどの振舞いはよくてどの振舞いは悪いのかという問いは、この倫理学観に従う限り、哲学の主題ではないことになる。
 たしかに、メタ倫理学者が考えているような道徳的に中立な哲学は可能かもしれない。道徳的な考えに関する概念分析と人間学的な理解が哲学にとって重要な課題であることは、いずれにせよまちがってはいない。にもかかわらず、この課題に《とどまりつづけようとする》道徳哲学には何かが欠けているように思われる。つまり、道徳的に中立な道徳哲学は、道徳が掲げる要求、すなわち自分が下した道徳的判断の真理性、自分とは異なる道徳的考え方の締め出し、これと真剣に取りくんでいないように思われるのである。もし道徳哲学が、哲学としてこれらの要求と真剣に取りくもうとするなら、これらの要求は受け入れられないとして拒否するか、さもなくば、少なくとも原則としては、どうしたら道徳的問いにおける真・偽を決定することができるかという問題を解明するかのどちらかを選ばなければならないだろう。」 (アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第1章 徳倫理学への道、p.23、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・上野哲(訳))
(索引:メタ倫理学,倫理学,道徳哲学,倫理的判断,道徳的判断)

徳は何の役に立つのか?


(出典:philosophy.uchicago.edu
アンゼルム・W・ミュラー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「私たちが彼に期待しているのは、むしろ、「幸福は価値あるもののすべてではない」という回答である。この言葉には《不合理なもの》は何もない。私たちが幸福を理性的な努力における比類のない究極の理由として《定義づけ》ようとするのなら別だが、それにもかかわらず、この回答ではまだ答えきれていない問題がもう一つある。
 有罪の判決を下された者の多くは、自らの手紙の中で揺れる気持ちを表現している。一方で彼らは、自分の家族や友人たちとそのまま生き続けたかったに違いない。他方で、彼らは、国家の不正に抵抗すれば死刑判決は免れないという《変更不可能な条件の下で》、つかみ損ねた自らの幸福よりも実際に自らが歩んだ道を、後になってさえ選ぶのである。その際、彼らは、自らが歩んだ道の方が、(上の第2の論点の意味で)《一層深い》幸福を自らに与える見込みがあったのだ、などと自分に言い聞かせることはでき《ない》。
 徳の「独自のダイナミズム」が、仲間のために身を捧げるという振舞いに、道徳的に中立な動機や観点よりも優位を与えることは間違いない。その限りでは、《有罪判決を下されたレジスタンスの闘志たちは》、自らが取った道を(たとえ後になってからでも)肯定《する以外はできなかった》のである。ただし、彼らだけでなく私たち自身も、徳が彼らの「ためになった」のであり、彼らに不利益をもたらしたわけではないことを《確信》していない場合には、この主張はシニカルな印象を与える。しかしながら、本章の考察も、そうした確信のための足場を提供できたわけではない。ひっとしたら、よい人間が手にしている信念には、いまだ神秘のベールに包まれた部分が残されており、哲学はそれをただ尊重し得るだけなのかもしれない。
(アンゼルム・W・ミュラー(1942-)『徳は何の役に立つのか?』第8章 理由がなくともよくあるべき理由、pp.236-237、晃洋書房(2017)、越智貢(監修)・後藤弘志(編訳)・衛藤吉則(訳))
(索引:)

アンゼルム・W・ミュラー(1942-)
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経済システムの有用性テスト:(1)協働のテスト:構成員たちを積極的に生産過程に参加させ,消費も全体制約に一致させるか(2)配分のテスト:様々な資源と人とを,必要な消費財,投資,産業,地域に最適配分できるか。(ジャコモ・コルネオ(1963-))

経済システムの有用性の判断

【経済システムの有用性テスト:(1)協働のテスト:構成員たちを積極的に生産過程に参加させ,消費も全体制約に一致させるか(2)配分のテスト:様々な資源と人とを,必要な消費財,投資,産業,地域に最適配分できるか。(ジャコモ・コルネオ(1963-))】

経済システムの有用性を判断するための2つのテスト
(1)協働のテスト
 (a)国家の構成員たちは、彼らの能力に応じて、生産過程に積極的に参加しようとするか。
 (b)社会は生産する以上には消費できない故に、彼らの消費は、経済全体の制約に一致するか。
(2)配分のテスト
 (a)人々の才能と労働力や天然資源が、可能な限り多くのニーズを満たすように用いられているのか、それとも、社会は資源を浪費しているのか。
 (b)例えば、異なる消費財の生産、消費と投資の代替可能性、産業Aと産業Bの間の代替可能性、地域Xと地域Yの間の代替可能性に対して、国民経済全体が持つ資源が最適に配分されるか。

 「こうして我々は、資本主義に代わりうる経済システムを判断するのに役立つ二重の基準にたどり着く。代替的な経済システムが経済的に有用であるためには、二つのテストに合格しなければならないのである。協働のテストと配分のテストである。
 第一のテストの問いは次の通りである。資本主義に代わるシステムによって、国家の構成員たちの間には十分に経済的な協働が生まれうるのか? ここで何よりも問題となるのは、彼らの能力に応じて生産過程に積極的に参加しようとする協力的な姿勢、そして自らの消費を経済全体の制約に一致させようとする個々人の心構えである。これは、社会は生産する以上には消費できないという理由に基づいている。このテストで我々は、個人的なインセンティブを解析し、また考察対象である経済システムが、経済的に意味のある行動を促すかどうかを把握しなければならない。
 第二のテストは次のような問いである。観察された代替的な経済システムは、相対的に効率的な資源配分を行うことができるのか? ここで問題となるのは、もし代替となる投入の可能性――例えば、異なる消費財の生産、消費と投資の代替可能性、産業Aと産業Bの間の代替可能性、地域Xと地域Yの間の代替可能性――がある場合には、人々の才能と労働力、そして天然資源といった、国民経済全体が持つ資源を利用する方法である。この問いはすなわち、資源が可能な限り多くのニーズを満たすように用いられているのか、それとも社会は資源を浪費しているのか、ということを意味している。
 真剣に捉えられるべき資本主義の代替案は、協働の問題と同様に配分の問題も解決しなければならない。この代替案は、個人が経済的に理性的な行動をとるよう動機づけなければならない。そして、手元にある資源を空間的にも時間的にも効率的に利用しなければならない。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第3章 ユートピアと財産共同性,pp.42-43,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))
(索引:)

よりよき世界へ――資本主義に代わりうる経済システムをめぐる旅


(出典:University of Nottingham
ジャコモ・コルネオ(1963-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「私はここで福祉国家の後退について別の解釈を提言したい。その解釈は、資本主義(市場システムと生産手段の私有)は、福祉国家を異物のように破損する傾向があるという仮説に基づいている。福祉国家の発端は、産業労働者の蜂起のような一度限りの歴史的な出来事であった。」(中略)「この解釈は、共同体がこのメカニズムに何も対抗しないならば、福祉国家の摩耗が進行することを暗示している。資本主義は最終的には友好的な仮面を取り去り、本当の顔を表すだろう。資本主義は通常のモードに戻る。つまり、大抵の人間は運命の襲撃と市場の変転に無防備にさらされており、経済的にも社会的にも、不平等は限界知らずに拡大する、というシステムに戻るのである。
 この立場に立つと、福祉国家は、資本主義における安定した成果ではなく、むしろ政治的な協議の舞台で繰り返し勝ち取られなければならないような、構造的なメカニズムである点に注意を向けることができる。そのメカニズムを発見するためには、福祉国家が、政治的意思決定の結果であることを具体的に認識しなければならない。」
(ジャコモ・コルネオ(1963-),『よりよき世界へ』,第11章 福祉国家を備えた市場経済,pp.292-293,岩波書店(2018),水野忠尚,隠岐-須賀麻衣,隠岐理貴,須賀晃一(訳))

ジャコモ・コルネオ(1963-)
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2020年5月8日金曜日

タカ-ハト・ゲームでは、取りにいく方が相対的優位性が大きい。しかし、両者が取りにいくと最も非効率な結果を招く。全体利益の最大化観点からは、譲歩の必要性が分かるが、どちらが譲歩するかで対立する。(フランチェスコ・グァラ(1970-))

タカ-ハト・ゲーム

【タカ-ハト・ゲームでは、取りにいく方が相対的優位性が大きい。しかし、両者が取りにいくと最も非効率な結果を招く。全体利益の最大化観点からは、譲歩の必要性が分かるが、どちらが譲歩するかで対立する。(フランチェスコ・グァラ(1970-))】
(f)タカ-ハト・ゲーム
 (f.1)各プレーヤーは、積極的に取りにいく方に、選好を持つ。
  (i)利益の期待値は、同じである。(期待値)
  (ii)積極的に取りにいく方は、相手に依存するリスクにさらされている。(リスク)
  (iii)積極的に取りにいく方が、相手に対する相対的優位性が大きい。(期待値の相対的優位性)
 (f.2)両者が積極的に取りにいけば、最も非効率な結果となる。この結果は、自制することへの選好を強める。逆に、両者が自制すると考えれば、積極的に取りにいくことへの選好を強める。すなわち、これらいずれも均衡状態ではない。
 (f.3)両者は、両者の利益の合計値を最大化する観点から見た場合、一方が譲歩することがより良いと知ることはできるが、どちらが譲歩するかで利害対立が存在する。
    プレーヤー1
プ   放牧  しない
レ  ┌───┬───┐
|放牧│0、0│2,1│
ヤ  ├───┼───┤
|しな│1、2│1、1│
2 い└───┴───┘

 「ソバト渓谷の放牧ゲームは、行列を用いて戦略型ゲームで表現することができるが、これは生物学において「タカ-ハト・ゲーム」、経済学においては「チキン・ゲーム」として知られているものである。ヌアー族とディンカ族は、新たな土地を見つけるたびに、意思決定をしなければならないが。図4・2において、戦略Gは「放牧(graze)」を表し、NGは「放牧しない(not graze)」を表している。彼らが同じ領域で放牧することに決めるならば、二つの部族のメンバーは争うことになり、それが全員にとって最悪の結果である(0,0)をもたらす。どちらの部族も自制するならば、彼らは衝突しないけれど畜牛を養育する機会を失い、(1,1)になる。最善解は、右上と左下にある二つの均衡のうちの一つに収束することである。そこでは、片方の部族が放牧し、もう片方がそれを認めるのである。しかし誰が譲歩するのだろうか。
 放牧ゲームは、非対称な均衡を持ったコーディネーション問題であり、どちらの均衡になるのかは誰が譲歩するかに依存する。しかし、プレーヤーたちは同一なので、なぜ彼らのうちの一方がより低い利得を受け入れるべきなのか。ここでの唯一の対称的な解決策は非効率的であるだけでなく、ゲームの均衡ですらないことに注目すべきである。その結果、どちらかのプレーヤーが遅かれ早かれ、一方的に逸脱すると期待できる。
 私たちの架空の物語は、ある解を「自明」なものとして際立たせるように設計されていた。物語の続きはこうである。
 “相手部族の領域に侵入することは簡単であったが、ヌアー族とディンカ族は紛争を避けることを望んだ。ヌアー族はかつての河床の北側で放牧し、ディンカ族は南側で放牧し続けた(図4・1b)。細かい砂の線は侵略者を物理的に妨げることができなかったが、各部族は喜んで、それを領土を分つ境界線として扱った。”
 境界線や領土は制度的存在物である。ヌアー族とディンカ族は、原初的な私有財産の制度を発展させたのである。しかし、この制度はゲーム理論的形式ではどのようにモデル化できるだろうか。境界線や領土は放牧ゲームに表現されてすらいないことに注意されたい(図4・2)。境界線や領土は、コーディネーション問題の解の発見に役立つ理論の外部にある特徴なのである。」
    プレーヤー1
プ   放牧  しない
レ  ┌───┬───┐
|放牧│0、0│2,1│
ヤ  ├───┼───┤
|しな│1、2│1、1│
2 い└───┴───┘


(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第4章 相関,pp.77-78,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:タカ-ハト・ゲーム)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
フランチェスコ・グァラ/Home Page
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集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))

集団間の衝突を激化させる6要因

【集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

(4)追加。

(1)偏狭な利他主義、部族主義
  人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ポール・ブルーム(1963-))
(出典:Yale University
ポール・ブルーム(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ポール・ブルーム(1963-)
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 人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。
 (a)協力集団は、部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。
 (b)そのために、協力できる集団内の他者と、そうでない集団外の他者を区別する。すなわち、《私たち》を《彼ら》から見分ける必要がある。
 (c)そして、《彼ら》より《私たち》をひいきにする。
(2)社会的な位置の識別、表示、行動調整
 人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちに、より近い人をひいきにする傾向がある。
 (a)私たちは、自分の社会的な位置を表現する能力を持っている。
 (b)私たちは、他者の社会的な位置を読み取る能力を持っている。
 (c)私たちは、読み取った内容に応じて行動を調整する能力を持っている。
 (d)私たちには、自分に近い人をひいきにする傾向がある。
(3)同心円状に広がる複数の部族
 私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。
 (a)もっとも近い血縁者や友人たち
 (b)遠い親戚や知人たち
 (c)種類や規模も様々な集団の一員となることで関係をもつ他人
  例えば、村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など
 (d)所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもの
(4)集団間の衝突を激化させる6つの心理的性向
 (a)他集団より自集団を優先させる
  人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 (b)集団独自の社会観、価値観、諸感情
  社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 (c)集団独自の道徳的約束事、個人、文書、伝統、神
  部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 (d)集団独自の公正、正義
  部族は、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 (e)集団独自の信念は、利害や社会的力関係から歪みやすい
  部族の信念には、簡単にバイアスがかかる。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
  (i)単純な利己心から生じる場合
  (ii)複雑な社会的力関係から生じる場合
 (f)他者に与える危害を過小評価
  周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。

 「本章では、部族間の衝突を激化させる6つの心理的性向を考えてきた。
 1.人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 2.社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 3.部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 4.部族は、その中の個人と同様に、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 5.部族の信念には簡単にバイアスがかかる。バイアスのかかった信念は、単純な利己心から生じる場合もあれば、より複雑な社会的力関係から生じる場合もある。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
 6.周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第3章 あらたな牧草地の不和,岩波書店(2015),(上),pp.128-129,竹田円(訳))
(索引:偏狭な利他主義,部族主義,社会観,価値観,感情,道徳観,正義観,信念)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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諸個人が価値の源泉であり、自身に起因する結果を所有する。他者もまた、私と同じ価値の源泉である。他者との自由な、合意に基づく交換は、その結果のすべてを正当化する。正しいか? 何が足りないのか?(立岩真也(1960-))

個人主義と自由主義

【諸個人が価値の源泉であり、自身に起因する結果を所有する。他者もまた、私と同じ価値の源泉である。他者との自由な、合意に基づく交換は、その結果のすべてを正当化する。正しいか? 何が足りないのか?(立岩真也(1960-))】

(2)根拠づけられない信念としての原理
 「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。先占の原理、因果の起点の原理、制御の原理。いずれも説得的ではない。しかしそもそも、これらは根拠づけを欠いた単なる信念なのである。(立岩真也(1960-))
 「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。

 (a)諸個人が価値の源泉であり、自身に起因する結果を所有する
  自身に内属するものを基点とし、それに起因する結果が自らのものとして取得され、その取得したものが自らの価値を示す。「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側にあって私に制御されるものである。
 (b)他者もまた、私と同じ価値の源泉である
  他者とは、選択意思を持ち、その意思のままに外界を動かせる存在である。私と同じ存在を同格の存在として認める。私と同格な存在としての他者を尊重する。
 (c)他者との自由な、合意に基づく交換
  他者に対して行う行為は、その者の同意がなければ許容されない。脅迫や強制ではなく、契約、契約に基づいた交換が関係の基本となる。
 (d)結果はすべて許容される
  自己決定なら、また合意があれば、全てが許容される。

「だがともかく、こういう図式が示される。自身に内属するものを基点とし、それに起因する結果が自らのものとして取得され、その取得したものが自ら(の価値)を示す。「私」という主体に因果の開始点、判断・決定の基点を認める。私が第一のものであり、それ以外のものは、その外側にあって私に制御されるものである。そしてこれは単に哲学者の著作の中にあるだけではない。これは、現実に近代の社会の中で作動するメカニ▽084 ズムなのであり、人の意識を捉える教えである。このことについては第6章2節で述べる。
 この図式の中で他者はどんな位置を占めることになるのか。もちろん、「私」を基点に置く論にしても、私の欲望を貫き通すこと、外界を制御し尽くすことが多くの場合に困難であることは知っている。事物、他者の抵抗に会うからである。まず、どんなに高度な技術を持っていても私達は自然界の法則を破ることはできない。私達は法則に従うしかなく、私達ができることはそれを利用することである。そして相手は私の言うことを聞いてくれない。しかし、それは外在的な制約条件、利害の対立として捉えられる。完全に自己を実現するのが不可能なのは偶然的、外在的な条件によるのであり、その障害が除去されれば、私の欲望はどこまでも進んでいくことになるだろう。
 といって、こういう考え方が、ただ他者を自分に対立する相手と見ているだけであるわけではない。私について言えることは他の者についても当てはまる。まず、主張の普遍性を求めればそうなる。また、自分についての権利を認めさせるためには、私と同じ他者に対しても権利を認めることである。その私、そして他者とは、選択意思を持ち、その意思のままに外界を動かせる存在である。私と同じ存在を同格の存在として認める。私と同格な存在としての他者を尊重する。他者に対して行う行為は、その者の同意がなければ許容されない。脅迫や強制ではなく、契約、契約に基づいた交換が関係の基本となる。▽085
 そしてこの「論理」は、第1章にあげた問題を「解決」してしまう。というより、問題の前を通り過ぎてしまう。自己決定能力を持つことが「人格」であることの要件とされる。能力に応じた配分が正当とされる。自己決定なら、合意があれば、全てが許容されることになる◆12。しかし、こうした帰結を受け入れられないという感覚がある。とすれば別の価値があるはずである。ではそれは何なのか。これが最初に立てた問題だった。だからこの「論理」は、問いを消去してしまうと同時に問いを誘発するものである。そしてその「論理」の底が抜けていることを以上で確認した。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,2 自己制御→自己所有の論理,[2]批判,<Kyoto Books生存学
(索引:個人主義,自由主義,所有権,自己制御,私的所有)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「人は有限の身体・生命に区切られ、他者と隔てられる。そこに連帯や支配も生じる。人々は、とくにその身体障害と呼ばれるもの、性的差異、…に関わり、とくにこの国の約100年、何を与えられ、何から遠ざけられたか。何を求めたか。この時代を生きてきた人たちの生・身体に関わる記録を集め、整理し、接近可能にする。そこからこの時代・社会に何があったのか、この私たちの時代・社会は何であったのかを総覧・総括し、この先、何を避けて何をどう求めていったらよいかを探る。
 既にあるものも散逸しつつある。そして生きている間にしか人には聞けない。であるのに、研究者が各々集め記録したその一部を論文や著書にするだけではまったく間に合わないし、もったいない。文章・文書、画像、写真、録音データ等、「もと」を集め、残し、公開する。その仕組みを作る。各種数値の変遷などの量的データについても同様である。それは解釈の妥当性を他の人たちが確かめるため、別の解釈の可能性を開くためにも有効である。
 だから本研究は、研究を可能にするための研究でもある。残されている時間を考慮するから基盤形成に重点を置く。そして継続性が決定的に重要である。仕組みを確立し一定のまとまりを作るのに10年はかかると考えるが、本研究はその前半の5年間行われる。私たちはそれを可能にする恒常的な場所・組織・人を有している。著作権等を尊重しつつ公開を進めていける仕組みを見出す。本研究では生命・生存から発し、各地にある企てと分業・連携し、この国での調査データ全般のアーカイブの拠点形成に繋げ、その試みを近隣諸地域に伝える。」
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立岩真也(1960-)
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「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。先占の原理、因果の起点の原理、制御の原理。いずれも説得的ではない。しかしそもそも、これらは根拠づけを欠いた単なる信念なのである。(立岩真也(1960-))

所有を正当化する理論の暗黙の前提

【「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。先占の原理、因果の起点の原理、制御の原理。いずれも説得的ではない。しかしそもそも、これらは根拠づけを欠いた単なる信念なのである。(立岩真也(1960-))】

(c)追加記載

(1)所有を正当化する理論の暗黙の前提
  「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。私は水を作ってはいない。様々なものの活動・作用によって存在しているもの、もともと誰のものでもないものが、何故、私のものになるのか。(立岩真也(1960-))
 (a)私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである
  私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。
 (b)私は、水を作ってはいない
  その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。私は、水を作ってはいない。
 (c)結論を導くための暗黙の前提
  世界に存在するものは、確かに誰のものでもなく、様々なものの活動・作用の結果によって存在している。しかし、所有という概念が意味を持つのは、人間が関わる場合だけである。人間が貢献し、作り出したとき、所有が正当化されるのである。
  (c.1)先占の原理
   もともと誰のものでもないものも、最初に触れた人が、そのものを取得し処分する権利を得る。
  (c.2)因果の起点の原理
   私が原因となっていれば、所有権を取得する。
  (c.3)制御の原理
   (i)私が制御し作り出していれば、所有権を取得する。
   (ii)しかし、自分の身体自体も、自分で作り出したといえるのか。根本的な意味においては、私が作り出したものなど、世界に何一つないともいえる。
   (iii)制御というが、自分の身体の内部器官は私が作り出したものでも、制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。
(2)根拠づけられない信念としての原理
 「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。

「(2)仮に世界が人間のためのものであるとしよう。それでも問題は残る。世界中を個々人の作為・制御によって実際に埋めつくすのは無理がある。そこで、そのものに最初に触れた人がそのものを取得し処分する権利があるということにする――「先占」というカント後期の主張が(この理由から彼はそれを言ったわけではないにしても)こういうものである。ともかく最初にその地に乗り入れた人がその土地を取得する権利があることになる。何にせよ先に手をつけた人、唾をつけた人が勝ちになる(cf.Nozick[1974=1989:292ff])。だがこれに私達は説得されるだろうか。
 (3)この論理は「私」が因果の起点であることを要請する。もし、私が「始まり」でなく、私の行為を起動した別のものがあるなら、そのものに結果の取得の権利と義務があることになってしまう。ゆえに、この条件を厳しくとれば、「自由意志」といった決▽080 して経験的には存在を検証されないようなものを存在させなければならない。自由意志は存在するかといった終わることのない論争が引き起されることになる◆10。
 (4)行為については3)のようなことが議論の対象となる。だが、その論争に関わらず少なくとも一つ確かなことは、身体そのものは私自身が作り出したものではないということである。私が作り出したものはこの世に何もないのだとさえ言える。それにしても、手足なら制御することもできよう。しかし、私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。すなわちこれは、制御されないもの(身体、そして能力の少なくともある部分、…)については、かえってその私的所有(処分)を、さらにそれが自身のもとに置かれること自体さえも、否定してしまうことになる。
 以上では因果関係における因果関係の度合い、「貢献」の度合いが問題にされる。貢献(度)についての疑問が当然生ずるということである。人間はこの世界があることにどれだけ貢献しているのか。ただ、このこと――因果関係のあり方を問題にする議論については第6章・第7章で検討する――より、ここで指摘したいのは次である。
 (5)とても単純で、より基本的な問題がある。この主張は、それ自体で完結する一つの主張・信念としてしか存在することができない。「自分が制御するものは自分のもの▽081 である」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,2 自己制御→自己所有の論理,[2]批判,<Kyoto Books生存学
(索引:私的所有,自己制御,先占の原理,制御の原理,因果の起点の原理)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「人は有限の身体・生命に区切られ、他者と隔てられる。そこに連帯や支配も生じる。人々は、とくにその身体障害と呼ばれるもの、性的差異、…に関わり、とくにこの国の約100年、何を与えられ、何から遠ざけられたか。何を求めたか。この時代を生きてきた人たちの生・身体に関わる記録を集め、整理し、接近可能にする。そこからこの時代・社会に何があったのか、この私たちの時代・社会は何であったのかを総覧・総括し、この先、何を避けて何をどう求めていったらよいかを探る。
 既にあるものも散逸しつつある。そして生きている間にしか人には聞けない。であるのに、研究者が各々集め記録したその一部を論文や著書にするだけではまったく間に合わないし、もったいない。文章・文書、画像、写真、録音データ等、「もと」を集め、残し、公開する。その仕組みを作る。各種数値の変遷などの量的データについても同様である。それは解釈の妥当性を他の人たちが確かめるため、別の解釈の可能性を開くためにも有効である。
 だから本研究は、研究を可能にするための研究でもある。残されている時間を考慮するから基盤形成に重点を置く。そして継続性が決定的に重要である。仕組みを確立し一定のまとまりを作るのに10年はかかると考えるが、本研究はその前半の5年間行われる。私たちはそれを可能にする恒常的な場所・組織・人を有している。著作権等を尊重しつつ公開を進めていける仕組みを見出す。本研究では生命・生存から発し、各地にある企てと分業・連携し、この国での調査データ全般のアーカイブの拠点形成に繋げ、その試みを近隣諸地域に伝える。」
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「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。私は水を作ってはいない。様々なものの活動・作用によって存在しているもの、もともと誰のものでもないものが、何故、私のものになるのか。(立岩真也(1960-))

所有を正当化する理論の暗黙の前提

【「私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである」。私は水を作ってはいない。様々なものの活動・作用によって存在しているもの、もともと誰のものでもないものが、何故、私のものになるのか。(立岩真也(1960-))】

(1)所有を正当化する理論の暗黙の前提
 (a)私は川から水を汲んできた。だから、この水は私のものである
  私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。
 (b)私は、水を作ってはいない
  その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。私は、水を作ってはいない。
 (c)結論を導くための暗黙の前提
  世界に存在するものは、確かに誰のものでもなく、様々なものの活動・作用の結果によって存在している。しかし、所有という概念が意味を持つのは、人間が関わる場合だけである。人間が貢献し、作り出したとき、所有が正当化されるのである。

「このように、多くの論者が生産・制御→所有という主張をしている。だが少しでも考えるなら、これは随分おかしな論理である。▽078
 (1)誰もが、一見してこれを随分乱暴な議論だと思うはずである。基本的にこの論理は、結果に対する貢献によってその結果の取得を正当化する論理である。しかし、この世にあるもののどれだけを私達が作っただろうか。例えば、私は川から水を汲んできた。私は牛から乳を絞った。確かに私にとってその水や牛乳が利用可能になるためにはそうした行為が必要だった。しかし、その水や牛乳があることに私はいったいどれほどの貢献をしたか。もちろん、このことはその「製品」がもっと「手のかかった」ものであっても言いうることである。つまりここでは、「作り出す」「貢献する」と言う時に、そもそも人間による営為しか考えられてはいない。こうした言明は人間の特権性――第5章で検討する――を前提にして初めて成立する。この論理が成立するためには、単に労働→取得というのではすまず、世界中のものが人間のものとしてあらかじめ与えられていなければならない。あるいは、この労働とは(馬や牛の労働ではなく、人間以外の全てのものの活動・作用ではなく)人間の労働でなければならないのである。これは神が世界を人間のものとして与えたのだというキリスト教的な世界観のもとでは自然なことかもしれない。ロックは「地とすべての下級の被造物が万人の共有のもの」だと、このことをはっきりと述べている◆09。しかし、このことを自明のこととして受け入れなければ、別である。このような「宗教」を信じず、なお人間の特権性を言おうとすれば、何か根拠を▽079 提出しなければならない。例えばエンゲルハートは次のように言う。

「動物は、自己を意識しておらず、自らを道徳法則に服するものと見なしえないかぎり、その一部が、利用されたり、作り変えられたり、あるいは、そのまま取られるような物件である。」(Engelhardlt[1986=1989:167])」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,2 自己制御→自己所有の論理,[2]批判,<Kyoto Books生存学
(索引:私的所有,自己制御)
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(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers) 「人は有限の身体・生命に区切られ、他者と隔てられる。そこに連帯や支配も生じる。人々は、とくにその身体障害と呼ばれるもの、性的差異、…に関わり、とくにこの国の約100年、何を与えられ、何から遠ざけられたか。何を求めたか。この時代を生きてきた人たちの生・身体に関わる記録を集め、整理し、接近可能にする。そこからこの時代・社会に何があったのか、この私たちの時代・社会は何であったのかを総覧・総括し、この先、何を避けて何をどう求めていったらよいかを探る。
 既にあるものも散逸しつつある。そして生きている間にしか人には聞けない。であるのに、研究者が各々集め記録したその一部を論文や著書にするだけではまったく間に合わないし、もったいない。文章・文書、画像、写真、録音データ等、「もと」を集め、残し、公開する。その仕組みを作る。各種数値の変遷などの量的データについても同様である。それは解釈の妥当性を他の人たちが確かめるため、別の解釈の可能性を開くためにも有効である。
 だから本研究は、研究を可能にするための研究でもある。残されている時間を考慮するから基盤形成に重点を置く。そして継続性が決定的に重要である。仕組みを確立し一定のまとまりを作るのに10年はかかると考えるが、本研究はその前半の5年間行われる。私たちはそれを可能にする恒常的な場所・組織・人を有している。著作権等を尊重しつつ公開を進めていける仕組みを見出す。本研究では生命・生存から発し、各地にある企てと分業・連携し、この国での調査データ全般のアーカイブの拠点形成に繋げ、その試みを近隣諸地域に伝える。」
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2020年5月7日木曜日

倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、原則のカタログによって解明する方法は、諸原則を批判的検討なしに前提にする。信頼に足る実践的方向づけを示し得る理論には、諸原則の根拠を問う方法が必要だ。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))

生命倫理学における再構成的モデルの問題点

【倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、原則のカタログによって解明する方法は、諸原則を批判的検討なしに前提にする。信頼に足る実践的方向づけを示し得る理論には、諸原則の根拠を問う方法が必要だ。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))】

(再掲)

生命倫理学における再構成的モデルの利点と欠点
 倫理的問題において、第一原理の合意を差し控え、複数の原則が衝突し合う構造を解明しようとする方法は、ある程度の合意形成が可能という利点があるが、問題解決への要求を抑制し、十分な解決を与え得ない。(ディーター・ビルンバッハー(1946-))
(1)利点
 (a)規範および規範適用における中程度のレベルでは合意形成が可能になる。
  (i)差し迫った道徳的現実問題の解決が、学術的な理論問題の解決に左右されることがない。根拠づけに関する倫理学的な議論、すなわち第一原則について合意が成立する場合は、はるかに少ない。
  (ii)かといって、純然たる手続き上の解決に委託されてしまうこともない。
 (b)複数の原則間の衝突が明確にわかる。
  (i)原則のカタログの方が、唯一の実質的または手続き上の原理を前提とするような倫理学に比べて、実際の道徳上の紛争における規範構造を、より分かりやすく示すことができる。
  (ii)最も頻繁に見られる規範の衝突は、同一状況に関連のある複数の原則に対して、さまざまに異なった重みづけをすることから生じる衝突である。
(2)欠点
 (a)問題解決への要求を抑制してしまう。
 (b)実践の場で生じるほとんどすべての道徳上の決定問題に、十分な解決を与えない。
 (c)原則の解釈と重みづけが様々に異なることから、最終的な判断を、個々人の判断力に委託してしまう。
 「再構成的モデルに関わる一般的な方法論上の問題は、純然たる再構成的な倫理学が内発的に、みずからの今後の進展や新たな問題状況への適応を決定するのではなく、ここでもまた、さまざまに異なった拡張、適応および新解釈を容認する、という点にある。つまり、そうすることによって、再構成的な倫理学は、現行の規範が不完全であったり不確実であったりするために方向づけが至急必要とされているまさにその分野で、その方向づけ機能を失うことになるのである。
 再構成的モデルが直面している、いま言及したばかりのこの実践問題は、再構成的モデルにとって中心的な理論問題の所在を示唆している。私自身の考えでは、この理論問題こそが、最も重大かつ影響範囲の大きい問題なのである。再構成の対象となるのは、いつでも、現代の一般に通用している道徳であるか、または、過去あるいは遠い過去の時代に通用していた道徳だけである。このような道徳を将来の問題に応用するとしたら、実用的な観点から〔この道徳の適否〕を思量する場合を別として、そこには、どのような正当化理由があるだろうか。道徳を規範倫理のために基準として役立てることを、どのような理由が正当化するのだろうか。むしろ、生命倫理学を含む倫理学の担うべき役割は、ただ現に通用している道徳に原則を当てはめるだけではなく、この道徳を丹念に吟味することではないだろうか。もしも、再構成的モデルの倫理学が、現在有力な原則の根拠をそれ以上問うことをせず、そうした原則が批判的検討を免れることになれば、この現在有力な原則が、全然根拠のないまま優位を占めることにはならないだろうか。道徳の内容は結局のところ歴史的状況に依存しているのに、方法論上の決定次第では、何の根拠も示されないままに権威が認められることにならないだろうか。
 生命倫理学で再構成的な倫理学モデルを利用することについては、それを支持する実用的な理由として、特に、決断を迫られる状況下での合意形成という理由が考えらえるかもしれない。しかしながら、実践的観点でも理論的観点でも満足が得られるのは、結局のところ第二の典型的な倫理学モデル、すなわち基礎づけ倫理学だけである。ただ基礎づけ倫理学だけが、信頼に足る実践的な方向づけ、およびその可能なかぎり包括的な理論的立証への要求に十分応えることができるのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,3 再構成的モデルの利点と欠点,pp.49-50,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:生命倫理学,再構成的モデル,第一原理,倫理的原則,基礎づけ倫理学)

生命倫理学: 自然と利害関心の間 (叢書・ウニベルシタス)


(出典:dieter-birnbacher.de
ディーター・ビルンバッハー(1946-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。」(中略)
 「そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-51,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:)

ディーター・ビルンバッハー(1946-)
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12.基礎的な思想、枠組み思考は、社会的構築物であり、諸個人の世界観と、政策決定の過程とを通じて深刻で現実的な影響を及ぼす。新たな状況や事実により変化し得るが、社会的背景が基盤にあるため、たいてい遅い。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

基礎的な思想、枠組み思考

【基礎的な思想、枠組み思考は、社会的構築物であり、諸個人の世界観と、政策決定の過程とを通じて深刻で現実的な影響を及ぼす。新たな状況や事実による変化し得るが、社会的背景が基盤にあるため、たいてい遅い。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(2)基礎的な思想、枠組み思考とは何か
 (2.1)思想は、社会的構築物である
  (a)社会的構築物
   思想や認識は、社会的構築物である。わたしがある信念を持ちたいと思うのは、ほかの人々が同じような信念を持っていることと関係している。
  (b)個人の思想が変わりにくい理由
   ほとんどの個人は、その証拠を自分で検証したりはしない。また、時間があったとしても、証拠を評価する能力をそなえている人はほとんどいない。
  (c)思想の社会的背景
   信念の社会的背景は決定的な意味を持つ。異なるグループのあいだに交流がほとんどなかったら、現実についての認識も異なってしまう。
 (2.2)思想は、現実的な影響を及ぼす
  (a)世界の見方への影響
   社会で築き上げられた思想と認識の一部は、私たちが世界を見るときにかける眼鏡のレンズとなる。
  (b)政策決定への影響
   これらの“思想”は、政策決定の過程を通じて、現実的な影響を及ぼし、その帰結が尾を引くこともある。
   参考: 公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))
 (2.3)思想の変化は、たいていゆっくり生じる
  (a)思想が、社会的構築物であることから、ほとんどの場合、社会的変化と信念の変化はゆっくりと生じる。
  (b)変化は理想の速度よりも遅く進むことが多い。そして、思想の変化が遅いことが、ときに社会の変化を遅くする要因のひとつになる。
 (2.4)思想の変化が生じるとき
  (a)ただし、知の分野や現実から別の流れが押し寄せて知的均衡を乱すと、状況が変わる。
  (b)なんらかの理由で、じゅうぶんな数の人が特定の考えかたに魅力を感じると、転換点が訪れるのかもしれない。

 「変化を起こす力を持つ思想もあるが、ほとんどの場合、社会的変化と信念の変化はゆっくりと生じる。ときには、思想と社会の変化の速さがずれてくる。信念と現実の相違がびっくりするほど大きいので、思想を――あるいは社会の変化を――再考せざるをえないときもある。

 変化は理想の速度よりも遅く進むことが多い。そして、思想の変化が遅いことが、ときに社会の変化を遅くする要因のひとつになる。

1776年の独立宣言で、すべての人間は平等に作られているという原則が明確に述べられたかもしれないが、アメリカがこの原則を取り入れた市民権法を制定するのは2世紀ほどあとのことであり、完全な平等はいまだに実現されていない。

 思想の変化が遅い理由のひとつは、思想や認識が社会的構築物だという点にある。わたしがある信念を持ちたいと思うのは、ほかの人々が同じような信念を持っていることと関係している。

国内や世界を旅すると、特定の思想――政府は必然的に非効率的だとか、政府が不況を引き起こしたとか、地球温暖化は捏造だとか――が一般通念になっているところもあれば、それとは正反対の思想が“真実”であると受け入れられているところもある。

ほとんどの個人はその証拠を自分で検証したりはしない。時間があったとしても、地球温暖化にかんする証拠を評価する能力をそなえている人はほとんどいないからだ。

しかし、自分たちが会話を交わし、信頼している他人が同じ信念を持っていれば、自分たちは正しいという確信が強まるだろう。

 このように社会で築き上げられた思想と認識の一部は、わたしたちが世界を見るときにかける眼鏡のレンズとなる。人種や身分などのカテゴリーが問題となる社会もあれば、ならない社会もある。しかし、すでに触れたように、これらの“思想”には現実の帰結が伴い、その帰結が尾を引くこともある。

 ある科学者たちが特定の信念に“はまってしまう”ことがあり、そういう場合、各個人は、ほかのじゅうぶんな数の科学者が信念を変えた場合にだけ信念を変える。しかし、大体は、自分以外の全員が信念を変えないかぎり、その特定の信念にはまったままだろう。

 信念と認識は社会的構築物であるという考えは、社会的信念がときにはかなりすばやく変化することを理解するのにも役立つ。なんらかの理由で、じゅうぶんな数の人が特定の考えかたに魅力を感じると、転換点が訪れるのかもしれない。その思想は新しい一般通念となる。

その場合、たとえば人種によるちがいという考えが、証明すべき概念から論駁すべき概念に移行する。

あるいは、信念そのものになんらかのスイッチがあって、たとえば不平等は市場経済が機能するために必要だという考えが、現代アメリカの不平等のレベルはアメリカ経済と社会の機能をそこなっているという信念へと変化するかもしれない。

新しい思想は一般通念の一部となるが、ただし、知の分野や現実から別の流れが押し寄せて知的均衡を乱すと、状況が変わる。


 信念の社会的背景は決定的な意味を持つ。異なるグループのあいだに交流がほとんどなかったら、現実についての認識も異なってしまう。同じことは、合法性や不平等の大きさについての議論にも言える。

一部のグループ(豊かなグループも貧しいグループもふくまれる)では、豊かな人々は主にみずからの勤勉さによって富を獲得してきたのであって、他人の貢献や幸運はささいな役割を果たしているにすぎないと信じられている。

別のグループは、まったく正反対の信念を持っている。

もっともなことながら、これらのグループは税制政策についても異なる見解を持っている。もしある個人がいま持っているものは自分の努力のみによって得た成果だと信じていたら、その人はあまり努力しないことをみずから選んだと思われる他人と、自分の富を分かち合おうとは思わないだろう。逆に、もしある個人が、自分の成功は主に幸運のおかげだとみなしていたら、その幸運がもたらしてくれた財産を進んで分ち合おうとするだろう。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.238-240,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:基礎的な思想,枠組み思考,社会的構築物,世界観,政策決定,社会的背景)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

憲法理論

【憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.4)追加。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
    難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
   (i)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (ii)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

立法趣旨  コモン・ロー……政治的権利
 │    の原理      │
 ↓      ↓      │
制定法   判例法上の    │
 │    実定的法準則   │
 ↓      ↓      ↓
個別の権利 個別の判決………法的権利

 (3.4)憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系
  憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、政治哲学、道徳哲学、様々な争点に関する判断を含み、裁判官や法学者ごとに不可避的に異なり、より具体的な階層の法理論に影響を及ぼす。
  (3.4.1)垂直的な配列関係
   (a)憲法、最高裁判所やその他の裁判所の判決、種々の立法府の制定法といった配列関係である。
   (b)憲法理論は、政治哲学や道徳哲学に関する判断を含む。
   (c)憲法理論は、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断を要求する。
   (d)憲法理論は、裁判官によって不可避的に異なったものになる。
   (e)垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。
  (3.4.2)水平的な配列関係
   単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が、同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。

 「いまやなぜ私が、我々の裁判官をハーキュリーズと呼んだかがおわかりであろう。彼はあらゆるコモン・ロー上の先例に対して、そして原理により正当化されうるかぎりで憲法更には制定法上の規定に対しても整合的な正当化を提供する抽象的かつ具体的な原理の体系を構成しなければならない。我々はハーキュリーズが正当化しなければならない判例の膨大な資料の中で、垂直的な配列関係と水平的な配列関係を区別することによって、この企ての大きさを把握することができる。垂直的な配列関係は権限の上下関係、すなわち公的な決定が下級レヴェルでなされた決定に対し規制力を有すると考えられるような上下関係を区別することによって与えられる。アメリカ合衆国においては垂直的な配列関係の大雑把な性格を明白に把握することができる。憲法的構成が最も高いレヴェルを占め、次にはその構造を解釈する最高裁判所やおそらくその他の裁判所の判決、次には種々の立法府の制定法、そしてこの下にコモン・ローを発展させる様々な裁判所の判決がそれぞれ異なったレヴェルを占めることになる。ハーキュリーズはこれらのレヴェルの各々の段階で原理による正当化を組み立てねばならず、しかもこの場合、この正当化は、より高いレヴェルの正当化を与えると解される諸原理と矛盾しないものでなければならない。これに対し、水平的な配列関係は、単にあるレヴェルでの判決を正当化すると解された諸原理が同じレヴェルでの他の判決に与えられる正当化とも矛盾すべきでないことを要請する。
 さて、ハーキュリーズが彼の卓越した技量を利用して、予めこの完全な原理の体系を構築することを意図し、もしある特定の判決を正当化するために必要とあれば、この法理論をもって訴訟当事者に立ち向かおうとしたと想定してみよう。彼は垂直的な配列関係に従って、先ず、それまでに彼が用いてきた憲法理論を提示し、それを更に詳述することから始めるであろう。その憲法理論は他の裁判官が展開する理論とは多かれ少なかれ異なっているかもしれない。というのも、憲法理論は政治哲学や道徳哲学に関する判断と同時に、制度的適合性に関する複雑な争点についての判断をも要求し、したがってハーキュリーズの判断は不可避的に他の裁判官が行う判断とは異なったものになるからである。垂直的な配列関係の高いレベルで認められるこれらの差異は、低いレヴェルで各裁判官が提出する理論体系に相当程度の影響力を及ぼすことになろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.145-146,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:憲法理論,憲法,先例,制定法,政治哲学,道徳哲学,争点,法理論)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2020年5月6日水曜日

個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会は、最も弱い人々を含む全ての人々の意見が反映可能な、合理的な熟議を通じた意思決定の制度を持ち、最も依存的な人々がニーズに応じて受け取るという格率を自明とみなす。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会

【個人的な善と共通善とが共に実現可能な社会は、最も弱い人々を含む全ての人々の意見が反映可能な、合理的な熟議を通じた意思決定の制度を持ち、最も依存的な人々がニーズに応じて受け取るという格率を自明とみなす。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(3)追加。

(1)人間に関する一つの重要な事実
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存することによって、はじめて生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))
 (1.1)傷つきやすさ
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい存在である。
  (a)幼年時代の初期
  (b)病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクト
  (c)一生の間、障碍を負い続ける場合
  (d)老年期
 (1.2)他者への依存性
  人は、他者に依存して生きる存在である。私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちの保護と支援を受けるからである。
(2)道徳哲学への影響
 (2.1)しばしば考えられてきた道徳哲学
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、健康で理性的な道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。道徳の問題は、私たちと「彼ら」の問題である。
 (2.2)事実に基づく真の道徳哲学の要件
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身であり、道徳の問題は私たち自身の問題である。
  (a)障碍に見舞われ、他者に依存せざるをえない事態は、私たちの誰もがその人生の折々に体験することであり、一人ひとりの個人が、そのような事態をどの程度体験することになるかはあらかじめ予測不可能である。
  (b)従って、病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者に対する利益は、特殊な利益ではなく、むしろ、社会全体にとっての利益であり、その社会で共通善とみなされているものの不可欠な要素をなす利益である。

(3)個人的な善と共通善とが共に達成される社会の条件
 個人的な善と、個人的な善を通じて達成される共通善とが共に、達成されるような、〈与えることと受けとること〉の諸関係を具現化しうる社会に要請されること。
 (3.1)合理的な熟議を通じた意思決定の手続き
  すべての者がアクセス可能で、全員の所産とみなし得るような、合理的な熟議を通じた意思決定の手続きが存在すること。
  (3.1.1)制度化された合理的な熟議の仕組み
   合理的な熟議を通じて、自立した実践的推論者たちの政治的意思決定に、表現を与えることが可能な、意思決定の手続きが存在すること。
  (3.1.2)すべての者がアクセス可能
   その意思決定の手続きには、訴えたい提案や反論や意見をもつ者すべてが、アクセスし得ること。
  (3.1.3)全員の所産とみなし得る意思決定
   熟議と、熟議を通じてもたらされる決定の双方が、コミュニティ全体の所産とみなされ得るような、一般的に受容可能な意思決定の手続きであること。
 (3.2)〈正しい気前のよさ〉という徳と矛盾しない諸格率
  (3.2.1)〈正しい気前のよさ〉という徳
   確立された正義の諸規範が、〈正しい気前のよさ〉という徳の実践と矛盾しないこと。
  (3.2.2)〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率
   自立した実践的推論者同士の間の諸規範は、〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率を満たすこと。
  (3.2.3)能力に応じて働き、できる限りニーズに応じて受けとるという格率
   ただし、他者に与え得る人々と、子どもや高齢者や障碍者といった最も依存的で、他者から受けとることを最も必要とする人々の間の諸規範は、「各人はその能力に応じて働き、かつまた、できる限りそのニーズに応じて受けとる」という格率を満たすこと。
 (3.3)様々な資質、能力を持つすべての人々の意見の反映
  (3.3.1)様々な資質、能力を持つすべての人々の意見
   自立した実践的推論能力を備えた人々と、そうした推論能力を限定的にしか備えていないか、まったく備えていない人々のいずれもが、コミュニティ内の熟議において、意見を表明し得ること。
  (3.3.2)意見表明が困難な人々の代理人の存在
   意見表明が困難な人々の代理人を務める能力と意志をもつ他者が存在するとともに、当該政治体制の中でそうした代理人の役割に公的な地位が付与されていること。

 「私たちの個人的な善と共通善がそれらを通じて達成されるような〈与えることと受けとること〉の諸関係を具現化しうる社会とは、政治的・社会的にみて、いかなるタイプの社会であろうか。そうした社会は次の三つの条件を満たしている必要があるだろう。すなわち、第一に、そうした社会は、特定のコミュニティのメンバーたちが共有された合理的な熟議を通じて共通の判断にいたることが重要な意義をもつすべてのことがらについて、〔まさにそのような手続きを通じて〕自立した〔実践的〕推論者たちがくだす政治的意思決定に表現を与える社会でなければならない。それゆえ、そうした社会には制度化された熟議の仕組みがなければならないし、そのような熟議の仕組みは、コミュニティのメンバーのうち、訴えたい提案や反論や意見をもつ者すべてがアクセスしうるようなものでなければならないだろう。また、熟議と熟議を通じてもたらされる決定の双方がコミュニティ全体の所産とみなされうるよう、意思決定の手続きは一般的に受容可能なものでなければならない。
 第二に、〈正しい気前のよさ〉が中心的な徳の一つとみなされる社会においては、確立された正義の諸規範がこの徳の実践と矛盾をきたさないことが必要であろう。さまざまな種類の〈正しい関係〉の維持に必要な、さまざまな種類の規範をそれ単独で包括的に説明しうる単純な公式など存在しない。自立した実践的推論者同士の間の諸規範は、マルクスが社会主義社会における正義の格率として提示した、〈各人はその貢献に応じて受けとる〉という格率を満たすものでなければならないだろう。また、〔一方における〕他者に与えうる人々と、〔他方における〕子どもや高齢者や障碍者といった、もっとも依存的で、他者から受けとることをもっとも必要とする人々の間の諸規範は、マルクスが共産主義社会における正義の格率として上記の格率を修正して提示した、「各人はその能力に応じて働き、かつまた、できるかぎりそのニーズに応じて受けとる」という格率を満たすものでなければならないだろう。もちろんマルクスは、彼が示した第二の格率は、いまだ実現不可能な未来の社会においてのみ適用可能であると考えていた。そして私たちも、経済的資源が無限に存在するわけではない社会では、この格率は不完全なしかたでしか適用されえないということ認識しておく必要がある。とはいえ、たとえ不完全な、あるいは、《ひどく》不完全なしかたであろうとも、ともかくこの格率が適用されないかぎり、私たちは次のような生活様式を維持することはできないだろう。すなわち、〔みずからの取り分を確保するうえで〕功績に訴えることとニーズに訴えることのいずれもが効果的である点に特徴をもつ生活様式を、それゆえ、自立した人々と依存的な人々の双方にとっての、また双方のための正義に特徴をもつ生活様式を維持することはできないだろう。
 第三に、そうした社会の政治機構は、自立した実践的推論能力を備えた人々と、そうした推論能力を限定的にしか備えていないか、まったく備えていない人々のいずれもが、右に述べたような正義の諸規範が要求していることは何かをめぐって交わされるコミュニティ内の熟議において、意見を表明しうるようなものでなければならない。そして、後者の人々についていえば、彼らがそのようなしかたで意見を表明しうるのは、彼らの代理人を務める能力と意志をもつ他者が存在するとともに、当該政治体制の中でそうした代理人の役割に公的な地位が付与されている場合だけである。
 それゆえ、ここで私が思い描いているのは、その社会の内部において次のことが当然視されているような政治社会である。すなわち、障碍に見舞われ、他者に依存せざるをえない事態は、私たちの誰もがその人生の折々に体験することであり、しかも一人ひとりの個人がそのような事態をどの程度体験することになるかはあらかじめ予測不可能であるということ。また、そうであるがゆえに、障碍をもつ人々が彼らのニーズを適切に表明できること、また、そうしたニーズが適切なしかたで満たされることは、ある特定の集団だけがその恩恵を受けるような特殊な利益ではなく、むしろ、その政治社会全体にとっての利益であり、その社会で共通善とみなされているものの不可欠な要素をなす利益であるということ。これらのことが当然視されているような政治社会である。だとすれば、そのようなしかたで理解された共通善を達成するために必要な諸々の構造を備えた社会とは、いかなる種類の社会であろうか。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第11章 共通善の政治的・社会的構造,pp.185-187,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:個人的な善,共通善,熟議を通じた意思決定)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

陳述(事実確認的発言)と行為遂行的発言

【陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2)追記。

(1)真偽値を持つ陳述(事実確認的発言)には特別な発語媒介的な目的が存在しておらず「純粋」であると感じたり、行為遂行的発言には陳述が持つ真偽値は持たないように感じることがあるが、いずれも表面的な見方である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(2)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つであり、あらゆる状況、目的、聞き手、諸条件における適用を追求している。また、行為遂行的発言は、陳述の真偽値に相当する「値」、用語をそれぞれ持つ。
 (a)陳述(事実確認的発言)は、様々な行為遂行的発言の一つである。
  事実確認的発言は、発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目し、事実との対応という過度に単純化された概念を使用しているが、本質的に発語内行為の側面を持つ。あらゆる状況、あらゆる目的、いかなる聴き手に向かっても、条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態を追求している。
 (b)様々な行為遂行的発言の「真偽値」
  様々な行為遂行的発言についても、陳述(事実確認的発言)と似たような、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が存在する。それが、いかなる用語で語られ、いかなることを意味するかを明らかにすることができる。

 「さて、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別に関してさらに論ずるべきこととして最後に何がのこされているであろうか。実際のところ、この区別に関してわれわれが考えていたことは次のようなものであったと言うことができるであろう。
(a)事実確認的発言ということで、われわれは、言語行為における(発語媒介的なものは別として)発語内行為の側面を取り去り、もっぱら発語行為に注目している。さらに、われわれは、事実との対応という過度に単純化された概念を使用している。過度に単純化されたといえる理由は、この種の発語行為も、本質的に発語内行為の側面をもたらすものであるからである。われわれはむしろ、あらゆる状況において、あらゆる目的のために、いかなる聴き手に向かっても、等々のいかなる条件においても述べて正しいと思われる表現の理想的形態(ideal)を追求しているのである。そして、この理想的形態はときに実現されることもある。
(b)行為遂行的発言ということで、われわれは、発言のもつ発語内の力に可能なかぎり注意を向け、事実との合致という観点を無視して抽象化しているのである。
 おそらく、この抽象化のいずれもそれほどに適切なものではないであろう。実は、ここにはおそらく二つの極があるのではなく、むしろ、そこには一つの歴史的発展があるのみというべきであろう。そして、ある場合には事実確認的発言の例として物理学書中の数学公式を利用したり、また、ある場合には、たとえば行為遂行的発言の例として、単純な執行命令の布告や単純な名前の賦与を利用したりして、われわれは、現実の生活におけるこの二種の発言の発見に近づこうとしているのである。そして、まさにこの種の発言のさまざまな事例、たとえば「私は陳謝します」とか、さしたる理由もなく述べられたときの「猫がマットの上にいる」などの極端な事例によって、かの二種類の異なる発言があるという見解を導いたわけである。陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないしかし、真に結論すべきことが、(a)発語行為と発語内行為との区別の必要性と、(b)個々の種類の発語内行為に関して、すなわち、警告、推定、評決、陳述、記述などに関して、第一に、それらが適切ないし不適切とされるための、第二に、それが「正しい」ないし「間違い」とされるための特定の仕方が何であるかということ、すなわち、それらを肯定的あるいは否定的に評価するためにいかなる用語が用いられ、またそれらがいかなることを意味するかということを、それぞれの種類に応じて、批判的に確立することの必要性ということとの、(a)、(b)の二点であることは確実である。この問題は広汎な広がりをもち、「真」か「偽」かという単純な区別に落ち着くことはないであろう。またさらに、陳述をその他から区別するということで終わることもないであろう。なぜならば、陳述は、発語内行為の種類に属するあまたある言語行為のなかの一つにすぎないからである。
 さらに、発語内行為だけでなく、発語行為もまったくの抽象の産物である。すべての真正な言語行為は、同時にこの両者なのである。このことは、用語行為、意味行為等が単なる抽象の産物であるという事情に類似している。しかしもちろん、われわれは、さまざまな可能な言い誤り、すなわちこの場合では、それらの行為を遂行する際に生じ得るさまざまな型のナンセンスを利用して、このような抽象の結果であるさまざまな「行為」を区別しているのである。まさにこの点に関して、われわれが冒頭の講義においてナンセンスの種類の分類に関して述べたことを想い起こしてみることは有益なことであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.242-245,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:陳述,事実確認的発言,行為遂行的発言,真偽値)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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