心身問題
【心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))】「これら三種類の概念の間には次の点で大きな違いがあると認めます。つまり、精神は純粋知性によってしか理解されません。身体すなわち延長、形、運動は純粋知性のみによっても理解されますが、想像力に助けられた知性によってはるかによく理解されます。最後に精神と身体との合一に属することがらは、知性だけによっても、想像力に助けられた知性によっても漠然としか理解されませんが、感覚によってきわめて明晰に理解されます。それゆえ、まったく哲学したことがなく感覚しか使わない人は、精神が身体を動かし身体が精神に作用することを少しも疑わないのです。彼らは両者を一つのものと見なします。つまりそれらの合一を理解しています。というのは、二つのものの間の合一を理解するとは、それらを一つのものと理解することだからです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四三年六月二八日、p.29、[山田弘明・2001])
(索引:心身問題、精神、身体、精神と身体との合一、感覚)
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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