悟性の限界
【悟性の充分に直感しえぬ何ものかは、その困難自体の本性による場合もあるし、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】悟性の充分に直感しえぬ何ものかが現れたならば、そこに停まるべきである。それは、その困難自体の本性による場合もある。あるいは、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。それを、確認すること。
「探究すべき事物の系列において、われらの悟性の充分に直感しえぬ何ものかが現れたならば、そこに停まるべきである。そしてそれに続く他のものを吟味することなく、無益な労を避くべきである。」(中略)
「誰でも、何らかの困難の解決に当って前の諸規則を正確に守った上で、しかも上の規則によって何処かで停まることを命ぜられるに至るならば、その人は、求むる知識が如何なる手段を以ってしても見出されえないこと、しかもこれは自己の精神の過失のゆえでなく、その困難自体の本性或いは人間の身分がそれを妨げるがゆえであることを、確実に知るであろう。そしてこのことの認識は、事物自身の本質を示すところの認識に劣らず、立派な知識なのである。だから、この上さらに好奇心を拡げるような人は、健全な精神の人とは思われないであろう。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、pp.49-50、[野田又夫・1974])
(索引:悟性の限界)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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