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2018年9月7日金曜日

1.猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

猫の眼差し

【猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「動物の眼はひとつの偉大な言語を語る能力をそなえている。

動物の眼は、その見つめる眼指しのなかにすっかりやどっているときは、音声や身振りの助けなどは要することなく、ただそれ自体によって、いかなる言葉にもおとらず強力に、自然界に閉じこめられている存在の秘密、すなわち生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語るのだ。

このような秘密の境位を知っているのは動物だけである。

ただ動物だけがそれをわれわれのまえに開くのである、――ただ開かれこそすれ、明かされることのないその秘密の境位を。

この場合その秘密をうかがわせる言語とは、不安そのもの、――すなわち植物的な安全界と精神的な冒険界とのあいだに揺れ動いている被造物の不安そのものが語る言語である。

この言語は、われわれが人間と呼ぶところの「宇宙の精神的な冒険」にまだゆだねられていない自然が、精神の最初の一触を受けて発する吃語なのである。だがこの吃語が伝えることができるものは、人間の言語によっては決して再現されないであろう。

 私は時おり猫の眼を見つめる。この飼いならされた動物は、われわれがときどきそんな想像をすることがあるように、あのほんとうに《もの言うような》眼指しで見つめる能力をわれわれからおくりあたえられたわけではなく、ただ、――原始的な無心さと引きかえに――われわれ人間という非動物(怪物)にそのような眼指しを向ける能力を受け取ったのである。

だがこのとき、その眼指しのなかには、その眼指しの夜明けないし日昇のなかには、驚きや問いかけに類するようなあるものもはいりこんだのだ、本来その眼指しには不安こそこもってはいても、そのような驚きや問いかけに類するものは、たぶんまったく欠けているものだろうに。

さてこのような動物である猫が、私に見つめられているうちに、その気配を察してほのかに輝いてきた眼指しでもって、疑いなく私に問いかけはじめたのである、

《あなたがわたしのことを想ってくださるようなことがあるのでしょうか? 

ほんとうはただ、わたしをなぐさみにしようとしているのではないでしょうか?

 わたしはあなたと関わりがあるのでしょうか? 

わたしはあなたにとって存在しているのでしょうか? 

わたしは存在しているのでしょうか? 

これは何なのですか、あなたのところからこちらにやってくるものは? 

これは何なのですか、わたしをとりまいているものは? 

これは何なのですか、このわたしにふれているものは? これは何なのです?!》。

(ここでの《わたし》とは、自我なき自己表示の言葉という、われわれのものではないひとつの言葉を仮りにこう言いかえてみたものであり、《これ》とは、関係の力が完全に実現しているときに人間の眼指しから流れ出てゆく作用と考えていただきたい。)

そのとき猫の眼指しは、あの不安そのものを語る言語は、大きく日昇していた――が、そうおもった瞬間にもう没してしまっていた。

私の眼指しはむろんそれよりも長続きした。しかし、それもやがて関係力の流れ出る眼指しではなくなってしまっていた。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.128-129、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:猫の眼差し)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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