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2018年10月17日水曜日

1.特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

習慣と社会的ルールの違い

【特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。さらに次の特性がある。
 (2.1)特定の行動の基準からの逸脱が、一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされる。また、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力が存在する。
 (2.2)行動様式に関する共通の基準が存在し、人々には批判的、反省的態度が存在する。
  (2.2.1)基準からの逸脱が、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (2.2.2)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (2.2.3)批判や要求をなす者も、批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (2.2.4)ただし、少数の常習的違反者は存在する。
 (2.3)観察可能な規則的、画一的な行動の事実は習慣の存在を示すが、社会的ルールの存在には、(2.2)のような「内的側面」が必要である。
  (2.3.1)批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。
  (2.3.2)社会の批判と一致への圧力によって、社会的ルールが存在する場合、諸個人は、束縛または強制の感覚、あるいはある種の感情を経験することがある。しかし感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。

 「社会的ルールと習慣には、たしかに類似点がある。

それは、どちらも当該の行動(たとえば教会で帽子を取ること)は必ずしも不変ではないとしても、一般的でなければならないということである。このことは、一定の状況になればその行動が集団の大部分によって繰り返されることを意味する。すでにのべたように、「人々は《通常》as a rule そうする」という句に含まれているのはそのぐらいのことである。

しかし、このような類似点があるとしても、次のような三つの顕著な違いがある。

 第一に、集団が《習慣》をもつためには、人々の行動が事実上、一致するだけで十分である。通常の仕方から逸脱しても何らかの形で批判されるような事柄である必要はない。

しかし、行動がこのように一般的に一致したり、まったく同一であったとしても、それだけではその行動を要求するルールが存在するためには十分ではない。

というのは、このようなルールが存在するためには、それからの逸脱は一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされるのであり、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力に直面するのである。もっとも、批判や圧力の形態はルールのタイプに応じて異なる。」

 「第二に、このようなルールが存在する場合、このような批判が実際に行なわれるのみならず、基準からの逸脱は、それに対する批判の《十分な理由》a good reason として一般的に受けいれられている。

逸脱に対する批判は、逸脱が生じそうな場合の基準への一致の要求がそうであるのと同様に、この意味において正当とみなされ、また正当化されるのである。

さらに、少数の常習的違反者は別として、このような批判や要求は、批判や要求をなす者とされる者の双方から一般的に正当とみなされたり、十分な理由をもってなされるのである。

集団がルールをもっていると言うことができるためには、集団のうちどれだけの人が、どの程度頻繁に、そしてどれぐらいの期間にこれらの種々の仕方で規則的な行動の様式を批判の基準として扱わなければならないのかという問題は、はっきりしていない。多少の毛があっても禿といわれる場合の毛髪の数に関する問題と同様、われわれはこの問題で煩わされる必要はない。

覚えておく必要があるのは、集団があるルールをもっているという陳述は、ルールに違反するだけでなく、ルールを自分や他人にとっての基準とみなすことを拒む少数者の存在と矛盾しないということだけである。」

 「社会的ルールを習慣と区別する第三の特徴は、すでにのべたところに含まれている。しかし、それは法理学において極めて重要であるのに非常にしばしば無視されたり、不正確にのべられたりしているので、ここで念入りに考察してみよう。それは、本書を通じてルールの《内的側面》internal aspect と呼ぶ特徴である。

ある習慣が社会集団において一般的であるという場合、この一般性は集団の大部分の人々の観察可能な行動についての事実にすぎない。

このような習慣が存在するためには、集団の構成員は一般的な行動について全然考える必要はないし、また当該の行動が一般的であるということを知ることさえ必要でない。まして彼らはその行動を教えようと努力したり、維持しようと意図したりする必要はさらさらない。各人は、他人が実際にそうしているように、それぞれ行動するだけで十分なのである。

しかし、これとは対照的に、社会的ルールが存在するためには、少なくともいくらかの人々が当該の行動を集団が全体として従わなければならない一般的基準とみなさなければならないのである。社会的ルールは、観察者が記録できる規則的、画一的な行動にみられる外的側面をもつ点では社会的習慣と共通しているが、それに加えて「内的」側面ももっている。

 ルールのこの内的側面は、ゲームのルールからでも簡単に説明されるだろう。

チェスの指し手は、クィーンを同じように動かす類似の習慣をもっており、外的な観察者は彼らがどういう態度でそう動かすかを知らなくてもその習慣を記録できるけれども、指し手の場合にはそれだけではない。その上、指し手達は、この行動様式に対する反省的、批判的態度をもっている。

彼らは、その様式をゲームをする人達すべてにとっての基準とみなすのである。各人は自分自身でクィーンを一定の仕方で動かすのみならず、そのような仕方でクィーンを動かすことはすべて適切なのだという「見解をもっている」。その見解は、逸脱が現にあったり、なされそうな場合における他人に対する批判および他人に対する一致への要求において表明されたり、また一方、人からこのような批判を受けたり、要求されたりする場合、それを正当だと認めることにおいて表明されるのである。

このような批判、要求、是認を表現するためには、広範囲の「規範的な」言語が使用される。

それには、「私(あなた)は、そのようにクィーンを動かすべきでなかった」、「私(あなた)は、そのようにしなければならない」、「それは正しい」、「それは誤っている」という表現がある。 

 ルールの内的側面は、外部から観察可能な身体的行動と対照をなす単なる「感情」の問題として、しばしば誤って説明される。

ルールが社会集団によって一般的に受けいれられ、社会の批判と一致への圧力によって一般的に支えられている場合、明らかに諸個人は、束縛または強制という心理的な経験に類似したことをしばしば経験するであろう。彼らが一定の仕方で行動するように「拘束されていると感じている」と言う場合、実際、彼らはこのような経験についてのべているのである。

しかし、このような感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって必要でも十分でもない。 

人々はあるルールを受けいれているが、強いられているというこのような感情は経験しない、と言っても矛盾ではない。必要なことは、共通の基準としての一定の行動の様式に対する批判的、反省的態度 a critical reflective atitude が存在しなければならないということと、この態度は(自己批判を含む)批判や、一致への要求において、さらにこのような批判や要求が正当であると是認することにおいてあらわれなければならない、ということである。

そして、それらはすべて「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」といった規範的な用語で特徴的に表現されるのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第4章 主権者と臣民,第1節 服従の習慣と法の継続性,pp.62-64,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),中谷実(訳))
(索引:社会的ルール,習慣,批判,ルールの内的側面,感情)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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