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2018年10月21日日曜日

「責務を負っている」ルールは、社会生活の維持や、社会にとって非常に重要なものの維持に必要だと考えられており、また人々の互いに衝突する利害に関わる点で、「すべきである」ルールとは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「すべきである」と「責務を負っている」

【「責務を負っている」ルールは、社会生活の維持や、社会にとって非常に重要なものの維持に必要だと考えられており、また人々の互いに衝突する利害に関わる点で、「すべきである」ルールとは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
(2.3)(2.4)追記。

「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を示している点では同じであるが、異なる社会的状況を表している。その違いは、何か。
(1)「すべきである」
 例:エチケットや正しい話し方のルール
(2)「責務を負っている」
 (2.1)ルールに従うことが重要なことであり、一般に強く求められている。
 (2.2)ルールから逸脱し、または逸脱しようとすることは重大なことであり、社会的圧力が大きい。
  (2.2.1)もとはまったく習慣的なものであったであろう。
  (2.2.2)恥、自責の念、罪の意識という感情の働きによって支えられている場合もあるだろう。
  (2.2.3)分散している敵対的、批判的な社会的反作用によって、支えられている場合もあるだろう。
  (2.2.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もあるだろう。
 (2.3)「責務を負っている」社会的ルールは、社会生活そのものを維持し、その社会において非常に重んじられているものを維持するのに、必要なルールであると思われている。例えば、
  (a)暴力の自由な行使を制限するルール
  (b)社会集団の中である一定の役割や役目を果たす人が、何をなすべきかを定めているルール
  (c)正直であること、誠実であること、約束を守ることを求めるルール
 (2.4)「責務を負っている」社会的ルールは、人々の互いに衝突する利害に関わる。
  (a)責務は、他人に利益を与える。
  (b)責務を負っている人は、自己が望んでいることを自制し、利益を犠牲にする側面がある。
(3)社会的圧力の種類によって、「道徳的責務」や「法」の始原的形態を分類、区別したくなるかもしれない。しかし、同一の社会的ルールの背後には、異なるタイプの社会的圧力が並存することもあるだろう。より重要な分類は、「すべきである」と「責務を負っている」の区別なのである。

 「責務の他の二つの特徴は当然のことながらこの主要なものに付随しているのである。

この重大な圧力を支えとするルールが重要だと考えられるのは、社会生活そして社会生活の特徴として非常に重んじられているものを維持するのに、ルールが必要なものと思われているからである。

典型的には、暴力の自由な行使を制限するルールのような明らかに必要なルールは、責務という観点で考えられるのである。

そして、正直であること、誠実であること、約束を守ることを求めるルールや、社会集団のなかである一定の役割や役目を果たす人が何をなすべきかを定めているルールも、「責務」あるいはおそらくよりしばしば「義務」という観点から考えられている。

第二に、これらのルールが要求する行為は、他人に利益を与えると同時に義務を負っている人がしたいと望んでいる事柄と衝突するかもしれないことが一般的に認められる。

したがって、責務や義務はその性質上犠牲や自制を含むものであると考えられており、そして責務ないし義務と利益とのたえまない衝突の可能性は、すべての社会において法律家と道徳家の自明の理の一つとなっている。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.96-97,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:すべきである,責務を負っている)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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