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2018年11月18日日曜日

21.世界と人間に関する最も自明な真理のみから要請される責務の第1次的ルールが存在し、このルールを受け入れる多数派の態度と、逸脱への社会的圧力だけで維持される、肉体的強さが同じ程度の人々から構成される社会が存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

責務の第1次的ルール

【世界と人間に関する最も自明な真理のみから要請される責務の第1次的ルールが存在し、このルールを受け入れる多数派の態度と、逸脱への社会的圧力だけで維持される、肉体的強さが同じ程度の人々から構成される社会が存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
 (2.1)人間が互いに接近して共存する場合に犯しやすい誤り
  (a)暴力の勝手な行使
  (b)盗み
  (c)欺罔
(3)集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会の特徴
 (3.1)責務の第1次的ルールは、人間が犯しやすい誤りを抑制する何らかのルールを含む。
  (a)暴力の勝手な行使の制限
  (b)盗みの制限
  (c)欺罔の制限
 (3.2)ルールを受け入れ内的視点から見られたルールによって生活する人々と、社会的圧力の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出される。
 (3.3)非常に緩やかに組織されている社会が存続し得るには、次の条件が必要である。
  (3.3.1)社会が、おおよそ同じような肉体的強さをもつ人々から構成されていること。
  (3.3.2)ルールを受け入れる人々が多数であり、ルールを拒否する人々が恐れる程度の社会的圧力を維持できること。

 「立法機関、裁判所、公機関をまったくもたない社会を想定することはもちろん可能である。

事実、原初的社会に関する多くの研究は、このことがありえたと主張するだけでなく、これまでに責務のルールとして特徴づけてきたようなそれ自身の基準的行動様式に対して集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会生活を詳細に描写している。

この種の社会構造はしばしば「慣習」からなるものだと言われている。しかし、この用語は使わないことにしよう。なぜならば、それは、慣習のルールはたいへん古く、他のルールほど社会的圧力によって支えられていないという含みをしばしばもつからである。

これらの含みを避けるために、このような社会構造を責務の第1次的ルール primary rules of obligation からなるものと呼ぼう。社会がそのような第1次的ルールのみで存続していこうとする以上、人間の性質やわれわれの住んでいる世界についていくらかのもっとも自明な真理を認めたならば、必ず満たさなければならない一定の条件がある。

これらの条件の第一として、人間が互いにたいへん接近して共存する場合、犯しやすいが一般に抑制しなければならない、暴力の勝手な行使、盗み、欺罔を何らかの形で制限するルールが存在しなければならない。

われわれが知っている原初的社会では、共同生活に奉仕し貢献するといういろいろな積極的義務を個人に課しているさまざまな他のルールとともに、そのようなルールは事実いつも見られるものである。

第二に、そのような社会にも、既述したようにルールを受けいれる人々と社会的圧力の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出されるであろう。

しかし、もし社会がおおよそ同じような肉体的強さをもつ人々からなっていて、しかも非常にゆるやかに組織されていても、それが存続しうるには、後者は少数でしかありえないことは明らかである。というのは、そうでなければルールを拒否する人々は恐れるほどの社会的圧力を感じないだろうからである。

このこともまた、われわれの原初的社会に関する知識によって確証されるのであって、そこでは意見の一致しない人や悪人がいるが、多数は内的視点から見られたルールによって生活しているのである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.100-101,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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