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2018年11月22日木曜日

24.世界3とは何か?(カール・ポパー(1902-1994))

世界3とは何か

【世界3とは何か?(カール・ポパー(1902-1994))】

3 追加記載。

世界3とは何か

人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))

1【世界3は、世界1の対象でもある。】
 世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。

2【世界3は、単に世界1の特定の対象または個々の世界2の集まりとはみなせない、別の世界である。】
 2.1 しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。そして内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
 2.2 また、世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

3【世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である。】
 世界1に具現化されている世界3は、本のように符号化されたものもあれば、芸術作品のように世界1の対象の役割がより大きいものもあるが、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。
 3.1 私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。
 3.2 特別な本ではない場合は、世界1の対象は単に付随的な符号と思われるかも知れないが、例えば、ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみは、特定の対象としての世界1に依存している。しかし、その楽しみは歴史などの知識に基づく世界3に属している。
 3.3 例として、ミケランジェロの彫刻はどうだろう。この場合は、さらに世界1の対象の役割が大きくなる。しかし、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。

4【世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する。】
 4.1 世界3は、物理的対象としての世界1としては常に存在するにしても、いずれかの世界2が存在するときだけ存在すると言えるのか。それとも、世界2の記憶、意図の対象としていっさい存在しないときにも、存在すると言えるのか。
 4.2 世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。
 4.3 したがって、一度も演奏されなかったとしても、楽譜やレコードのように、記号化した形でのみ存在している対象もまた、世界3として存在する。
 参照: 世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。また、世界3の実在性を理解することは、世界3での新発見や創造と、未解決の問題を解決する探究の、前提条件である。(カール・ポパー(1902-1994))

5【世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である。】
  人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
 科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで実現されていると考えられ得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考えられ得るか。このように考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。

6【世界3の自律性:世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。】
  世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))
 6.1 世界3は、確かに最初は人間が作ったものであり、また人間の心の所産である。
 6.2 しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それは、ある程度の自律性を持っている。
 6.3 また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待っているかのようである。
 6.4 未知の諸結果が発見されるのを待っており、また、未解決の問題については、その解決が客観的に存在すると理解することが、発見と解決のための探究の重要な前提条件である。

 「P――世界3の対象が符号化されている世界1の成分と、世界2、世界3との間の関係についてつけ加えておきましょう。

もしわれわれがミケランジェロの彫刻をみるなら、われわれがみるのは、一方では、それが大理石の一片である限りで、もちろん世界1の対象であると考えられます。

他方、大理石の硬さのような、この彫刻の物質的側面でさえ、世界2が世界1の土台に符号化されたこの世界3の対象を観賞するためには無関係ではないでしょう。なぜなら、観賞は芸術家の物質との闘い、物質のもつ諸困難の克服にあり、それが世界3の対象のもつ魅力や意味の一部だからです。

ですから私は、符号化された世界3の対象がもつ世界1の側面を随伴現象に格下げすることを好みません――でもしばしばそうですが。

もしわれわれが、比較的よく印刷されてはいるがたいへんよいというわけではない本――例えば、特製本でないもの――を手にするなら、この本の世界1の側面はまったく不適当で、ある意味では随伴現象以上のものではなく、この本の世界3の内容に対する一種の興味のない付録以上のものではありません。

でも、ミケランジェロの像や本のいずれの場合でも、われわれ――われわれの世界2、われわれの意識的な自我――が真に接触するのは世界3の対象なのです。彫刻像の場合には、世界1の側面は重要ですが、それは世界1の対象を変化させ、形作ることにある世界3の仕事のゆえにのみ重要なのです。

どの場合でも、われわれが現実に見て、賞讃し、理解するのは、物質化された世界3の対象というより、むしろ物質化と無関係の種々の世界3の側面なのです。

例えば、古い版の書物は賞讃を受けるが、それはその歴史的重要性――これもまた世界3の一側面――のゆえにです。物質化された世界3の対象に対する世界2の楽しみ――ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみ――は、大部分それらに対する《理論的な知識》に基づいています。この理論的な知識はまた、世界3の側面が主要な役割をもつことを意味しているのです。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DXI章、(下)pp.783-784、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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