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2018年11月26日月曜日

15.(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

理性、論理、「科学」の誤解

【(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)3つの誤り
 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。

 「哲学の迷誤は、論理と理性範疇のうちに、有用性を目的として世界を調整する(それゆえ、「原理的」には、有用な《偽造》をなす)手段をみとめる代わりに、そこには真理の標識が、したがって《実在性》の標識があると信ぜられたことにもとづいている。

じじつ、「真理の標識」は《原理的偽造のそうした体系の生物学的有用性》にすぎなかった。

しかも、動物という類は自己保存にもまして重大なことを何ひとつしらないのだから、じじつこの点において「真理」について語ってよかったのである。

ただ、人間中心的特異体質を、《事物の尺度》と、「実在的」と「非実在的」の基準とみなしたことにのみ、幼稚さがあった。要するにこれは、一つの被制約性を絶対化することであるからである。

ところが見よ、そのとき一挙に世界は「真」の世界と「仮象」の世界とに分裂した。

しかも、人間がそこに住まい、そこに住みつくようおのれの理性を工夫しておいた世界、まさしくこの世界が人間の不信を買ったのである。

形式を把手として利用し、世界を取りあつかいやすい算定しうるものたらしめる代わりに、哲学者たちの妄想は、私たちがそのうちで生きている別の世界がそれとは対応しないあの世界の概念が、これらの諸範疇のうちにあたえられていると、看破した・・・手段が、価値尺度であると、意図のいかんを断罪するものであるとすら、誤解された・・・

 意図されたのは、有用な仕方でおのれを欺くということであった。そのための手段が、雑然たる多様性を合目的的な扱いやすい図式へと還元する助けになるような定式や記号の捏造にほかならなかった。

 しかるに、ああ! そのとき、いかなる存在者もおのれを欺こうとは欲しない、いかなる存在者も欺いてはならない、―――したがってあるのはただ真理への意志のみであるとの、《道徳の範疇》が使いだされたのである。「真理」とは何か?

 矛盾の原理が範型をあたえたが、それは、そこへといたる道が探しもとめられている真の世界は、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえず、いかなる起源をもいかなる終極をももたないということにあった。

 これこそ、犯された最大の誤謬であった、地上で犯された誤謬の本来的宿業であった。

すなわち、実在性の標識は理性形式のうちにあると信ぜられたが、―――他方この理性形式は、実在性を支配するための、賢明な仕方で実在性を《誤解する》ためのものであったのである・・・

 ところが見よ、そのとき世界は偽となった。しかもそれは、《この世界の実在性をつくりなす》諸固有性、すなわち、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘、精密にこのもののためにほかならない。かくして全宿業が実現した。すなわち、

(一)いかにしてひとは、虚偽の世界、たんなる仮象の世界から脱却するか? (―――かつてはそれが、現実の世界、唯一の世界であった。)

(二)いかにしてひとは、仮象の世界の性格とは反対のものに能うかぎりおのれをならしめるか? (あらゆる実在の存在者とは反対のものとしての、もっと明瞭に言えば、《生との矛盾》としての、完全なる存在者という概念・・・)

 価値の全方向は《生の誹謗》をめざしていた。理性にもとづく独断論を認識一般と取りちがえることがでっちあげられた。そのため反対派の人々はいまや《科学》をもつねに忌避したのである。

 科学への道はこのように《二重に》遮断されていた。

第一には「真」の世界によせる信仰によって、第二にはこの信仰の反対者たちによって。

自然科学、心理学は、(一)その対象において断罪され、(二)その無垢を奪われてしまっていた・・・

 もっぱらすべてのものが連結され制約されている現実的世界においては、なんらかのものを断罪して《なきものと考える》とは、すべてのものをなきものと考えて断罪することにほかならない。

「このものは存在すべきではなかった」、「このものは存在すべきではないのに」という言葉は、一つの茶番である・・・この帰結を考えぬいてみれば、なんらかの意味で《有害で破壊的》であるものを除去しようと欲するなら、生の源泉は台なしにされる。いや、生理学がこのことを《もっと上手に》論証してくれる!

 ―――私たちにわかったのは、いかにして道徳が、(a)全世界観を《害毒する》か、(b)認識への、《科学》への道を遮断するか、(c)すべての現実的本能を解体し掘りくつがえすか(道徳がこの本能の根ざすところを《非道徳的》と感取するよう教えることによって)、ということである。

 私たちにわかったのは、最も聖なる名称や態度でもって身ごしらえしているデカダンスの怖るべき道具が私たちの面前でひと仕事しているということである。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八四、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.27-28、[原佑・1994])
(索引:理性,論理,科学)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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11.幸福な生は、それが唯一の「正しい」生であることを、自ら正当化する。幸福な生は、何らかの意味で調和的と思われるが、その客観的で記述可能な指標は、存在し得ない。倫理学は、表明され得ない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

幸福な生

【幸福な生は、それが唯一の「正しい」生であることを、自ら正当化する。幸福な生は、何らかの意味で調和的と思われるが、その客観的で記述可能な指標は、存在し得ない。倫理学は、表明され得ない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。

そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。

 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。

 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。

 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。

 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。

 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)
(索引:幸福な生,善き生)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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記号の意味、対象が存在するかどうかは、内的世界と同じ確実性は持たないし、誤謬も避けられない。しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界に関する判断を、敢行しなければならない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意味、対象の存在

【記号の意味、対象が存在するかどうかは、内的世界と同じ確実性は持たないし、誤謬も避けられない。しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界に関する判断を、敢行しなければならない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1.4)追加記載。

(1)記号の意義と意味

 記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
 (1.1)記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味
             =一つの対象

 (1.2)例。
 参照: 固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号   → 記号の意義   → 記号の意味
 あるいは
固有名

記号結合
表現

記号   → 記号によって  → 記号によって
       表現された     表示された
       対象の様態     特定の対象
※「記号」は「意義」を「表現する」。
※「記号」は「意味」を「表示する」。

宵の明星 → 太陽が沈んだ後、→(金星)
       西の空にどの星
       よりも先に、一
       番明るく輝いて
       いる星。

明けの明星→ 太陽が昇る前に、→(金星)
       東の空にどの星
       よりも後まで、
       一番明るく輝い
       ている星。

金星   → 太陽系で、太陽 →(金星)
       に近い方から二
       番目の惑星。

 (1.3) ある表現が、意義のみを表現しているのか、意味の現存を前提としているのかは、表現の意図によって支えられている。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
  (1.3.1)例えば「月は地球より小さい。」は、意義のみではなく、意味が前提されている。
  (1.3.2)例えば、月の表象について語ることが意図されているならば、「私がもつ月の表象」という表現を使わなければならない。
  (1.3.3)もちろん、前提された意図に対して、誤った表現がなされることもあり得るし、解釈者が意図を誤って解釈することもあり得よう。
 (1.4)「対象」は存在するのかという問題について。
  (1.4.1)内的世界の確実性に比べて、外的世界については疑いが完全に晴れるということはない。
  (1.4.2)また、誤謬は実際に起こり、我々は虚構の中に落ち込むこともある。
  (1.4.3)しかし、我々は誤謬の危険を冒しても、外的世界の諸物に関する判断を、思い切って敢行しなければならないのである。

 「かくて事態は了解可能となったように私には思われる。人間が思考できず、また彼がそれの担い手ではないようなあるものを彼の思考の対象にすることができないのだとしたら、彼はなるほど内的世界はもつが、環境世界はもたないことになってしまうだろう。しかしそれ[環境世界という考え]が誤謬に基づくことはありえないのか。私が「私の兄弟」という語に結び付けている表象は、私の表象ではないあるもの、それについて私がなにかを言明しうるようなあるものと対応している、と私は確信している。しかし私はその点で誤りうるのではないか。こうした誤謬は、実際に起こる。その場合我々は、我々の意図に反して、虚構のなかに落ち込んでいるのである。事実そのとおりである! 私がそれにより環境世界を獲得する歩みとともに、私は自分を誤謬の危険に曝すのである。そしてここで私は私の内的世界と外的世界とのさらなる区別に突き当たるのである。私が緑の視覚印象をもつことは、私には疑いえない。しかし私が菩提樹の葉を見るということは、それほど確かではない。余りに広く流布している見解に反して、我々は内的世界に確実性を見いだし、一方外的世界への我々の遠征に際しては、我々にとり疑いが完全に晴れるということは決してないのである。にもかかわらず、確からしさは、この際もまた、多くの場合、確実性からほとんど区別されないので、我々は敢えて、外的世界の諸物に関して判断を下すことができるのである。またそれどころか[内的世界のみを認めて、外的世界を否認する]一層大きな危険に屈服したくなければ、我々は誤謬の危険を冒してそのことを思い切って敢行しなければならないのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』73、フレーゲ著作集4、pp.225-226、野本和幸)
(索引:記号の意味,対象の存在)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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