理性、論理、「科学」の誤解
【(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】(1)真に実在する世界
真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)3つの誤り
(4.1)誤り1:「科学」の誤解
理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
(4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
(4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
(4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
(4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
(4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
(4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
(4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
「哲学の迷誤は、論理と理性範疇のうちに、有用性を目的として世界を調整する(それゆえ、「原理的」には、有用な《偽造》をなす)手段をみとめる代わりに、そこには真理の標識が、したがって《実在性》の標識があると信ぜられたことにもとづいている。
じじつ、「真理の標識」は《原理的偽造のそうした体系の生物学的有用性》にすぎなかった。
しかも、動物という類は自己保存にもまして重大なことを何ひとつしらないのだから、じじつこの点において「真理」について語ってよかったのである。
ただ、人間中心的特異体質を、《事物の尺度》と、「実在的」と「非実在的」の基準とみなしたことにのみ、幼稚さがあった。要するにこれは、一つの被制約性を絶対化することであるからである。
ところが見よ、そのとき一挙に世界は「真」の世界と「仮象」の世界とに分裂した。
しかも、人間がそこに住まい、そこに住みつくようおのれの理性を工夫しておいた世界、まさしくこの世界が人間の不信を買ったのである。
形式を把手として利用し、世界を取りあつかいやすい算定しうるものたらしめる代わりに、哲学者たちの妄想は、私たちがそのうちで生きている別の世界がそれとは対応しないあの世界の概念が、これらの諸範疇のうちにあたえられていると、看破した・・・手段が、価値尺度であると、意図のいかんを断罪するものであるとすら、誤解された・・・
意図されたのは、有用な仕方でおのれを欺くということであった。そのための手段が、雑然たる多様性を合目的的な扱いやすい図式へと還元する助けになるような定式や記号の捏造にほかならなかった。
しかるに、ああ! そのとき、いかなる存在者もおのれを欺こうとは欲しない、いかなる存在者も欺いてはならない、―――したがってあるのはただ真理への意志のみであるとの、《道徳の範疇》が使いだされたのである。「真理」とは何か?
矛盾の原理が範型をあたえたが、それは、そこへといたる道が探しもとめられている真の世界は、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえず、いかなる起源をもいかなる終極をももたないということにあった。
これこそ、犯された最大の誤謬であった、地上で犯された誤謬の本来的宿業であった。
すなわち、実在性の標識は理性形式のうちにあると信ぜられたが、―――他方この理性形式は、実在性を支配するための、賢明な仕方で実在性を《誤解する》ためのものであったのである・・・
ところが見よ、そのとき世界は偽となった。しかもそれは、《この世界の実在性をつくりなす》諸固有性、すなわち、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘、精密にこのもののためにほかならない。かくして全宿業が実現した。すなわち、
(一)いかにしてひとは、虚偽の世界、たんなる仮象の世界から脱却するか? (―――かつてはそれが、現実の世界、唯一の世界であった。)
(二)いかにしてひとは、仮象の世界の性格とは反対のものに能うかぎりおのれをならしめるか? (あらゆる実在の存在者とは反対のものとしての、もっと明瞭に言えば、《生との矛盾》としての、完全なる存在者という概念・・・)
価値の全方向は《生の誹謗》をめざしていた。理性にもとづく独断論を認識一般と取りちがえることがでっちあげられた。そのため反対派の人々はいまや《科学》をもつねに忌避したのである。
科学への道はこのように《二重に》遮断されていた。
第一には「真」の世界によせる信仰によって、第二にはこの信仰の反対者たちによって。
自然科学、心理学は、(一)その対象において断罪され、(二)その無垢を奪われてしまっていた・・・
もっぱらすべてのものが連結され制約されている現実的世界においては、なんらかのものを断罪して《なきものと考える》とは、すべてのものをなきものと考えて断罪することにほかならない。
「このものは存在すべきではなかった」、「このものは存在すべきではないのに」という言葉は、一つの茶番である・・・この帰結を考えぬいてみれば、なんらかの意味で《有害で破壊的》であるものを除去しようと欲するなら、生の源泉は台なしにされる。いや、生理学がこのことを《もっと上手に》論証してくれる!
―――私たちにわかったのは、いかにして道徳が、(a)全世界観を《害毒する》か、(b)認識への、《科学》への道を遮断するか、(c)すべての現実的本能を解体し掘りくつがえすか(道徳がこの本能の根ざすところを《非道徳的》と感取するよう教えることによって)、ということである。
私たちにわかったのは、最も聖なる名称や態度でもって身ごしらえしているデカダンスの怖るべき道具が私たちの面前でひと仕事しているということである。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八四、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.27-28、[原佑・1994])
(索引:理性,論理,科学)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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