政治的理念としての純一性
正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(a) 公正な手続の結果はすべて正義である
正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義である。
(b)結果としての正義が公正である
政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり、公正な手続とは言えない。
(c)公正と正義は別の理念
公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある。
(d)政治的理念としての純一性
これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。
「理念の間の衝突は、政治においてはごくあたりまえのことである。たとえ我々が純一性を 拒否し、我々の政治活動を公正と正義と手続的デュー・プロセスだけに基づかせた場合であっても、公正と正義という二つの徳がしばしば相反する方向へと我々を導いていくことがあるだ ろう。ある哲学者たちは、正義と公正のうちの一方が終局的には他方から導出されると信ずる ことから、これら二つの徳の間の根本的な衝突の可能性を否定する。ある人々は、正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義であると主張している。これが、公正としての正 義と呼ばれる理念の極端な形態である。また他の人々は、政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり公正な手続とは言えない、と考えている。これ は、正義としての公正という逆の理念の極端な形態である。また大抵の政治哲学者は――そして 私の考えるところでは大多数の人々は――公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある、といった中間的な見解を採っている。 もしそうであるならば、通常の政治において我々がどの政治的綱領を支持すべきかを決定す る際に、二つの徳のどちらかをしばしば選択しなければならないことになる。我々は、多数決 ルールこそ政治において機能しうる最も公正な決定手続であると考えるかもしれないが、同時 に我々は、時として――おそらく非常にしばしば――多数派が個人の権利に関して不正な決定を下 すことを知っている。それでは我々は、多数決ルールをそのまま適用したのではある経済的集 団にとって正当な量に満たない持ち分しか割当てないおそれがあるという理由で、当の集団に 対してそのメンバー数によって正当化される以上の特別な投票上の力を与えることによって、 多数決ルールに修正を加えるべきであろうか。また、言論の自由や他の重要な自由を多数派が 制限してしまうことを防止するために、民主主義的権力に憲法上の制約を加えることを我々は 受け容れるべきだろうか。これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを――少なくとも前記の二つの理念の一つについて人々 の見解が対立するときは――第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,純一性は適合するか, 未来社(1995),pp.282-283,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |