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2020年3月27日金曜日

どんな精緻な物理理論であっても、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている。認識論的に微妙な問題は、五感の確実さ(、言語、論理、数学の基礎と限界)を問うところまで必要になろう。(伊勢田哲治(1968-))

認識論

【どんな精緻な物理理論であっても、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている。認識論的に微妙な問題は、五感の確実さ(、言語、論理、数学の基礎と限界)を問うところまで必要になろう。(伊勢田哲治(1968-))】
 「哲学的な認識論では、われわれは五感を通してしか世界について知ることができず(五感に加えて「理性」やら「直観」やらが世界についての知識を与えるかという問題はもちろんあるがそれをとりあえずおくならば)、五感を通して見えるもの(現象)からどうやってその背後の世界についての知識を得るのか、われわれはどうやって世界について知っていると言いうるのかが問題となってきた。デカルトのデーモンはまさにそうした問題構成になっている(われわれが五感を通して得る情報がすべてデーモンの与える幻覚のようなものかもしれないという可能性をわれわれは排除できるのか)。
 この伝統的な認識論の観点からいえば、どんなによく検証された科学理論も、最終的にはその確実さの根拠をわれわれの五感の確実さに頼っている(実験そのものは精巧な実験装置で行われるにしても、その結果をわれわれが取り入れて理論の取捨選択に用いるためにはどこかで五感を経由する必要がある)。こうした伝統的な認識論の枠組みで考える者にとっては、物理理論は五感を通してわれわれが得た情報に基づいて受容された二次的な存在だという感覚があると思われる。すると、物理理論の教えるところと五感から得られる情報が食い違っても、どちらも究極的には五感に依拠しているわけだからどちらを採用するかはまた別の問題、というようなスタンスも出てくるだろう。」
伊勢田哲治(1968-)『〈現在〉という謎』の感想伊勢田哲治のウェブサイト
(索引:認識論)

(出典:中公新書
伊勢田哲治(1968-)(Collection of propositions of great philosophers)
伊勢田哲治(1968-)
伊勢田哲治@tiseda
Daily Life
伊勢田哲治のウェブサイト

2018年1月16日火曜日

真理探究の方法を見出すためには、この方法を探究するための他の方法の探究が必要だというように、限りなく遡る探究はあり得ない。こうした方法では、およそどんな認識にも到達しないであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

鉄を鍛える喩え

【真理探究の方法を見出すためには、この方法を探究するための他の方法の探究が必要だというように、限りなく遡る探究はあり得ない。こうした方法では、およそどんな認識にも到達しないであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 「さてどんな種類の認識が我々にとって必要かを知っての上は、我々が認識すべきものをこうした認識によって認識する道すなわち方法が講ぜられなくてはならない。これがなされるためにまず注意すべきは、この際無限につづく探究はあり得ないということである。すなわち、真理探究の最上の方法を見出すためにはこの真理探究の方法を探究する他の方法が必要でなく、また第二の方法を探究するために他の第三の方法が必要ではない、このようにして無限に進む。実際こうした方法では、我々は決して真理の認識に到達しないであろう、いや、およそどんな認識にだって到達しないであろう。この関係は確かに物的道具における関係と同じであって、この後者の場合同じ工合に議論がなされ得る。すなわち、鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を鍛える力がないことを証明しようとしても無駄であろう。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(三〇)、pp.28-29、[畠中尚志・1992])
(索引:認識論、鉄を鍛える喩え)

知性改善論 (岩波文庫)


(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)
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最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

鍛冶屋の喩え

【最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、しかも何一つ道具をもっていない場合、最初は堅い石とか何か無定形な鉄塊とかを鉄床にし、鎚の代りに石塊を用いる。そして、まず自分の使う道具である、鎚、鉄床、火箸を製作する。哲学においても、同様である。最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、真理の吟味に特に必要なことを探究する必要がある。人間認識とは何であるか、それはどこまで及びうるか。これを探ねることほど、有益なことはありえない。しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は為すべきことである。
 「実にこの方法は、機械的技術の中、他の技術の助けを要せずしてみずからの道具の作り方を自身に教えることのできる技術、に似ている。実際、誰かがその中の一つ、例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、しかも何一つ道具をもっていない場合、まず最初は、堅い石とか何か無定形な鉄塊とかを鉄床として用い、鎚の代りに石塊を採り、木片を火箸の形につくり、他の同様なものを必要に応じて集めねばならないであろう。そしてこれらを準備した後、直ちに刀剣とか甲冑とか、その他鉄で作られるどんなものをも、他人の使用のために鍛えようとはせず、何よりもまず、鎚、鉄床、火箸、その他自分の使う道具を製作するであろう。この例がわれわれに教えるところ、われわれは、今いる手始めの段階では、方法によって準備されたというよりむしろわれらの精神に生来具わっていると見られる、或る整わない規則しか、見出せないのであるから、そういう規則を用いて、直ちに哲学者の論争を鎮めるとか、数学者の難問を解くとかいうことを、試みるべきではない。かえって、それらの規則をば、まず、真理の吟味に特に必要なすべての他の事柄を全力を挙げて探究するに、用いるべきなのである。なぜなら、これを発見することが、幾何学や自然学やその他の学問において提出されるを常とするどの問題よりも、困難であるという理由は、明らかに存しないからである。
 さて今の場合、人間認識とは何であるか、それはどこまで及びうるか、を探ねることほど、有益なことはありえない。それゆえわれわれはこの二つの問題をただ一つの問題に総括し、これをすべてに先立って既述の諸規則に従い吟味すべきであると考える。しかもこれは、少しでも真理を愛する人ならば、誰でも一生に一度は為すべきことである、なぜならこの研究の中には真の認識手段及び全方法が含まれているからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第八、pp.54-55、[野田又夫・1974])
(索引:認識論、鍛冶屋の喩え)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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