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2020年7月29日水曜日

次のような実験事実が存在する。幼児(生後14ヵ月)は、実験者がうっかり落とした洗濯バサミを、自然に拾いに行く。投げ落とした場合には、回収しようとしない。また、実験者が取れない対象物を取ろうと手を伸ばすと、拾いに行く。(フェリックス・ヴァーネケン)

他者の意図の理解と手助け

【次のような実験事実が存在する。幼児(生後14ヵ月)は、実験者がうっかり落とした洗濯バサミを、自然に拾いに行く。投げ落とした場合には、回収しようとしない。また、実験者が取れない対象物を取ろうと手を伸ばすと、拾いに行く。(フェリックス・ヴァーネケン)】

参考: 他者が対象物へ働きかける運動行為を見るとき、その対象物をつかむ、持つといった運動特性に呼応した、観察者が知っている運動感覚の表象が自動的に現れる。この表象が行為の「意味」であり、他者の「意図」である。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

(出典:scholar.google.com
Felix-Warneken の命題集(Propositions of great philosophers)
 「実際のところ、子どもたちが敏感なのは苦悩に対してだけではないように思われる。彼らは生まれながらの援助者であるようだ。たとえば、たった生後一四か月の子どもの付近に洗濯バサミを落っことしてみれば、あなたはその子の対応に驚くかもしれない。ハーバード大学の心理学者フェリックス・ワーケネンによれば、たとえ「まったく勧められたり褒められたりしなくとも」、その子は「そこまでハイハイして、洗濯バサミを拾い、あなたに返してくれるだろう」(Warneken and Tomasello 2009:397)。実験者が洗濯バサミを落っことすのではなく、投げ落とす場合には、幼児は通常回収しようとしない。別の実験では、ワーケネンと同僚たち(Warneken and Tomasello 2007)は、対象物が実験者には届かないが子どもには手の届くところに置かれた場合、幼児がどう対応するかテストした。実験者が対象物を取ろうと試みた(が取れなかった)とき、幼児はきまって実験者が対象物を回収する手助けをした。興味深いことに、幼児が行った手助けは報酬に影響されなかった。むしろ、幼児が手助けをしようとする傾向は実験者が対象物を取ろうと試みたか否かにのみ依存していた。実験者が対象物に手を伸ばさなければ、幼児は手助けをしなかったのだ。このことが少なくとも示唆しているのは、幼児は他者が目的をもつということだけでなく、他者が目的を達成するために手助けを必要としているということも認識することができた、ということである。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第5章 美徳と悪徳の科学、p.127、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:幼児の利他傾向)

進化倫理学入門


(出典:UNC Wilmington
スコット・M・ジェイムズの命題集(Propositions of great philosophers)  「道徳的生物を道徳的たらしめるものには、いくつかのことが関係していると考えられる。以下のものが道徳判断の形成についての概念的真理を表すと思われる。
(1)道徳的生物は禁止というものを理解する。
(2)道徳的禁止は我々の欲求に依存しないように思われ、
(3)法律のような人間の取り決めに依存するようにも思われない。むしろ、それらは主観的ではなく客観的なもののように思われる。
(4)道徳判断は動機と密接に結びついている。ある行為は間違っていると心から判断することは、少なくともその行為をするのを《差し控えたい》という欲求を含意しているようである。
(5)道徳判断は功罪の観念を含意する。道徳的に禁止されていると知っていることをすることは、処罰が正当化されうるということを含意する。
(6)我々のような道徳的生物は、自身の悪事に対して、ある特有の《感情的》反応を示し、そしてこの反応はしばしば我々を、その悪事の償いをするよう駆り立てる。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第3章 穴居人の良心、p.81、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:)

スコット・M・ジェイムズ(19xx-)
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2018年4月8日日曜日

問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))

自己の傾向性を信じて良いか

【問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))】
 問題:多くの偶然の出来事が起こるこの現実の世界においては、収支勘定が分からないような状況で、選択を迫られることが多い。このとき、後悔しないほどに〈善〉を完全に知るためには、無限といえるほどの知を所有する必要があるのではないか。また〈善〉を評価するにあたっても、われわれのためにだけ役立つものがいいのか、それとも他の人にも有益なものがいいのか、おのおのの価値をはっきり見なければならない。ところが、自分のためだけに生きる人も、他人のことで心を悩ませる性質の人も、この自分の性向を、それを一生持続させる十分強い理由によって支えており、この暗黙の感情が、理性に「その人の善」の完全性を承認させる。もし、そうだとしたら、〈善〉とはいったい何なのか。自然から与えられた感情にどこまでしたがうべきか。また、いかにしてそれを正すべきか。
 「むしろ私は確信していますが、人民の統治者たちを不意打ちし、最も有効な措置を検討する暇も与えないような多くの偶然の出来事は、(その人がいくら有徳であっても)至福を妨げる主たるものの一つだとあなたがおっしゃる後悔を、あとで引き起こすような行為をしばしばさせるのです。たしかに、善をそれが満足に貢献することができるのに応じて評価し、この満足をそれが喜びを生みだす完全性に応じて評価し、これらの完全性や喜びを情念を交えることなく判断する習慣は、無数の誤りから彼らを守るでしょう。
 しかしこのように善を評価するためには、善を完全に知る必要があります。そして現実の生において選択を迫られるすべての善を知るためには、無限の知を所有する必要があるでしょう。できるかぎりのすべての用心をしたと良心が証言するとき、人は満足せずにはおれない、とあなたは言うでしょう。しかし収支勘定が分からないときには、決してそういうことは起こりません。なぜなら、まだ考慮していないことがらについて、人はいつも考えを変えるからです。満足を、それを引き起こす完全性に応じて測るためには、われわれのためにだけ役立つものがいいのか、それとも他の人にも有益なものがいいのか、おのおのの価値をはっきり見なければなりません。後者は他人のことで心を悩ませる性質の人によって過度に評価され、前者は自分のためだけに生きる人によって過度に評価されます。それにもかかわらず、いずれの人も自分の性向を、それを一生持続させる十分強い理由によって支えています。身体や精神の他の完全性についても同じです。暗黙の感情が理性に完全性を承認させます。その感情はわれわれに生まれつきのものですから、情念と呼ばれるべきではありません。それゆえ、(自然から与えられた)感情にどこまでしたがうべきか、いかにしてそれを正すべきかを、どうかお教え下さい。」
(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年九月一三日、pp.125-127、[山田弘明・2001])
(索引:善と知識、利他傾向、利己傾向)

デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)


エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680)
検索(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ)

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