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2019年8月2日金曜日

22.利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

徳への欲求

【利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)善とは何か。
 (1.1)それ自体が快楽であるものか、快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはない。
 (1.2)例えば、音楽のような何らかの快楽や、健康のように苦痛を回避することは、それ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。
 (1.3)上の原理を基礎として、行為として何が「正しい」のかが解明できる。
(2)欲求とは何か。
 (2.1)それ自体が快楽であるものを得ようとする情念、苦痛から逃れようとする情念である。
 (2.2)それ自体が快楽であるものを得るための手段も、それ自体として望まれるようになり、そして、当初の目的以上に、強く望まれるようになる場合がある。次の例がある。
  (a)金銭欲:金銭を所有したいという欲求は、しばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。
  (b)権力欲、名誉欲:もともとは、私たちの他の願望を実現するために、計り知れないほど助けとなる手段となるために、強く望まれるようになった。
 (2.3)すべての欲求は、善の源泉である。しかし、欲求の中には、個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねない場合もあり、「全体の幸福を促進する」という原理から、それらの欲求を制御する必要性が要請される。
(3)目的と意志とは何か。
 当初に欲求された、それ自体が快楽であるものを得ること、または苦痛から逃れることを「目的」として、その手段を熟慮する。「意志」とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。
 (3.1)意志は、善のための手段である。
  意志は、習慣化された作用である。意志は、善のための手段であって、それ自体が善であるわけではない。習慣化によって、人間の感情と行為に確実性がもたらされ、ある人の感情と行為が、他の人にとって信頼のできるものとなる。
(4)欲求、意志と行為の関係
 (4.1)徳とは何か。
  「正しい」目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用、すなわち正しい「意志」を持つこと。
  (a)徳は、善のための手段である。
   意志が、善のための手段であるとすれば、徳も善のための手段である。しかも、最も重要な手段である。徳は、個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにする。
  (b)利害関心を離れた徳への欲求
   徳それ自体を望む人は、徳を意識することが快楽であるか、徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいるのである。仮に、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいと感じる。
  (c)利害関心から欲求された徳
   徳を快楽、徳の欠如を苦痛と感じない人が、それでも徳を望むとすれば、利害関心から、すなわち自分や大切に思っている人にとって、別の利益があるかもしれないという理由を持っていることも、あり得るだろう。

 「功利主義理論は人々が徳を望むことを否定したり、徳は望まれるべきものではないと主張しているのだろうか。

まったく反対である。それは、徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきであるとも主張している。

何らかの徳を徳たらしめた当初の条件についての功利主義道徳論者の見解がどのようなものであったとしても、そして、行為や性向は徳以外の別の目的を促進するからこそ有徳であるということをどれほど信じていようとも(彼らは実際にそうしているのだが)、このことが認められ、この説明に基づいて何が《有徳》なのか決定されたならば、

功利主義道徳論者は、究極目的のための手段として善であるものの筆頭に徳を位置づけるだけでなく、徳以外の目的に注意を向けることがなくても個人にとって徳がそれ自体として善になりうることを心理的事実として認めるだろう。

そして、精神がこのように――個々の事例においては、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいものとして――徳を大事にしていないならば、精神は正しい状態にも、功利性に適合した状態にも、全体の幸福にもっとも資する状態にもないと考えている

この見解は幸福原理から少しも逸脱していない。幸福を構成する要素はきわめて多様であり、それぞれの要素は[幸福の]総量を増すと考えられるときにのみ望ましいのではなく、それ自体として望ましいものである。

功利性の原理は、たとえば音楽のような何らかの快楽や、たとえば健康のように苦痛を回避することが、幸福と名づけられた何らかの集合的なもののための手段と見なされるべきだとか、そのような理由によって望まれるべきだとは言っていない。それらはそれ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。それらは手段であるだけでなく目的の一部である。

功利主義理論にしたがえば、徳は自然的にも本来的にも目的の一部ではないけれども、そうなりうるものである。そして、利害関心を離れてそれを大事にする人にとっては徳はそうなっているのであり、幸福のための手段としてではなく自らの幸福の一部として望まれ大切にされているのである。
 このことをさらに明らかにするためには、他の何かにとっての手段でなかったなら関心をもたれることはなかったが、それを手段とする何かに結びつけられることによって、もともとは手段であったものがそれ自体として望まれるようになり、そしてこの上なく強く望まれるようになるのは徳だけではないということを思い起こすのがよいかもしれない。

たとえば、金銭欲についてはどう言えばよいだろうか。金銭はもともとは輝く水晶の塊のように望まれるようなものではなかった。その価値はそれによって買うものの価値しかなく、[金銭欲は]別のものにたいする欲求であり、それ自体はその欲求を満足させる手段である。にもかかわらず、金銭欲は人生においてもっとも強い原動力の一つであるだけでなく、多くの場合、金銭はそれ自体として、そしてそれ自体のために望まれている。

金銭を所有したいという欲求はしばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。金銭以上の、金銭によって達成される目的に向けられていたあらゆる欲求が減退しても、金銭を所有したいという欲求はさらに強くなっていく。それゆえ、金銭は何らかの目的のために望まれているのではなく目的の一部として望まれているというのが正しいように思われる。

幸福のための手段であったものが、それ自体が個々人の幸福についての考えの重要な要素となっているのである。

権力や名誉のような人生における重大な目的の大部分についても同じことが言えるだろう。これが言えるのは、直接的な快楽がある程度は付随していて、少なくとも表面的にはそれが内在的なものであると自然に思えるものを別にすればであるが、金銭についてはこれは当てはまらない。

とはいえ、権力や名誉の本来的な魅力のうちもっとも強いものは、私たちの他の願望を実現するために計り知れないほど助けとなるということであり、これが権力や名誉とその他のあらゆる欲求の対象との間に生み出された強い連想であり、この連想によって、権力や名誉に対する直接的欲求はしばしば見られるように強いものになり、一部の人々にとっては他のあらゆる欲求をしのぐくらい強いものとなる。

この場合には、手段が目的の一部となっており、それが手段であったような他のどの目的よりも重要な目的の一部となっているのである。

以前は幸福を獲得するための手段として望まれていたものがそれ自体として望まれるようになったのである。

けれども、それ自体として望まれているときには、それは幸福の《一部》として望まれていたのである。人はそれを手に入れるだけで幸福になる、あるいは幸福になれると考えている。そして、それを手に入れることができないと不幸になる。

それを望むことは、音楽を愛好したり健康を望むことがそうであるように、幸福を望むことと異なるものではない。それらは幸福に含まれている。それらは幸福への欲求を構成している要素の一部である。幸福は抽象的な観念ではなく具体的なものの集まりであり、これらはその一部なのである。

功利主義的基準はこのことを認め同意している。このような自然の配列がなかったとしたら、人生は貧相なものであり、幸福の源泉としてきわめて不十分なものしかもたらさないだろう。

自然の配列によって、もともとは私たちの基礎的な欲求を満足させることとは関係なかったけれども、その助けとなったり、そうでなければ関連づけられていたものが、それ自体として、永続性という点でも、それが及びうる人間のあり方の領域という点でも、強さという点ですらも、基礎的な快楽以上に大きな価値をもった快楽の源泉となったりするのである。

 功利主義的な考えにしたがえば、徳はこのような種類の善である。

快楽にとって役立つことや、とりわけ苦痛を防ぐことを除けば、それにたいする本来的な欲求や動機はない。しかし、上述のようにしてできた連想によって、それ自体が善であるように思われるようになり、そのようなものとして、他の善と同じように強く望まれるようになる。

ただし、徳への欲求と金銭・権力・名誉への欲求の間には、利害関心をはなれた徳への欲求を涵養することほど個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにするものはないのに対して、後者の欲求はすべて個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねないことがあり、しばしばそうしているという違いがある。

したがって、功利主義的基準は、全体の幸福を促進するよりも侵害するようにならない程度までそれらの後天的欲求を許容し是認しつつ、徳への欲求を全体の幸福にとって他の何よりも重要なものとして、可能なかぎり涵養することを命じ要求している。


 これまでの考察から、幸福以外に実際に望まれているものはないという結論が引き出される。

それ自体ではなく何らかの目的のための手段として、究極的には幸福のための手段として望まれているものは何であっても、それ自体が幸福の一部として望まれており、そうならないかぎり、それ自体が望まれることはない。

徳をそれ自体として望む人は、徳を意識することが快楽であるか徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいる。実際に快楽と苦痛は別々に存在していることはほとんどなく、ほとんどいつも一緒に存在しているから、同一人物が徳を身につけている程度に応じて快楽を感じながら、徳をそれ以上身につけていないことによって苦痛を感じる。

徳を身につけていることが何ら快楽をもたらさず、徳を身につけていないことが何ら苦痛をもたらさないとしたら、人は徳を大事にしたり望んだりしなくなったり、自分や大切に思っている人にとって別の利益があるかもしれないという理由だけから徳を望むようになったりするだろう。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.304-308,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:徳への欲求,金銭欲,権力欲,名誉欲,善,欲求,目的,意志,徳)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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