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2018年11月19日月曜日

22.第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールの不確定性、静的な性質、非効率性

【第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)密接に結びつけられた小さな集団ならば、第1次的ルールのみからなる単純な社会構造でも存続が可能だろう。
 (1.1)血縁によるきずな
 (1.2)共通の心情、信念のきずな
(2)それ以外では、第1次的ルールのみからなる単純な社会統制の形態では、次の欠陥が現れる。
 (2.1)ルールの不確定性
  (2.1.1)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルールなのかを確認する標識がない。
  (2.1.2)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
 (2.2)ルールの静的な性質
  (2.2.1)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
   (i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
   (ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
   (iii)その行為が、義務的なものとなる。
  (2.2.2)ルールの衰退の過程が存在する。
   (i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
   (ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
   (iii)その行為が、顧みられなくなる。
  (2.2.3)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。
  (2.2.4)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用も、第1次的ルールの範囲には入っていない。
 (2.3)ルールの非効率性
  (2.3.1)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他の欠陥より早く矯正される。
  (2.3.2)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されている。
  (2.3.3)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。
  (2.3.4)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。

 「現在の目的にとって以下の考察がより重要である。

血縁、共通の心情、信念のきずなで密接に結びつけられており、安定した環境におかれた小さな社会のみが、そのような公的でないルールの制度だけでうまくやっていけることは明らかである。

その他の場合では、そのような単純な社会統制の形態は欠陥のあるものにならざるをえず、さまざまな点で補完を必要とするだろう。

まず第一に、集団の生活の基礎となっているルールは体系を形づくっていないので、単に別々の基準のセットであり、そこにはもちろん人々の特定の集団が受けいれているルールであるということのほかには、それを確認するまたは共通の標識がないだろう。

この点において、それらはわれわれ自身のエチケットのルールに似ている。したがって、何がルールであるかや、あるルールの正確な範囲はどうかについて疑いが生じた場合、権威ある典拠を参照するとか、この点についての言明が権威をもつ公機関に問い合わせるとかによって疑いを解決する手続は存在していないだろう。

というのは、明らかに、そのような手続そして権威ある典拠や人を認めるということは、《仮定上》この集団は責務ないしは義務のルールしかもたないにもかかわらず、それとは異なったタイプのルールの存在を前提するからである。第1次的ルールからなる単純な社会構造での欠陥を、その不確定性 uncertainty と呼ぼう。

 第二の欠陥はルールの静的 static 性質である。そのような社会で知られているルールの唯一の変化の形は、成長のゆるやかな過程とそれとは逆の衰退の過程とであろう。

前者では、かつて任意的と考えられていた一連の行為がまず習慣的またはありふれたものとなり、ついで義務的となるのであり、後者の場合には、かつてはきびしく処理されていた逸脱がまずゆるやかに扱われ、ついでかえりみられなくなる。

そのような社会では、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しないだろう。

というのは、ここでもまた、社会生活の唯一の基礎となっている責務の第1次的ルールとは異なるタイプのルールの存在が前提されて、このことは可能になるからである。

極端な場合、ルールははるかに強い意味で静的である。このことは、おそらくいかなる現実の社会においても決して完全には実現されないけれども、考慮に値するものであって、これを矯正するのは法にとってたいへん特徴的なものだからである。

この極端な場合には、一般的なルールを意識的に変更する手段がないばかりではなく、個々の場合ルールから生じる責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえないだろう。各人はただあることをなしたり、あるいは控えたりする固定した責務や義務を負うだけであろう。

なるほど、他人がこれらの責務の履行から利益を得るだろうという場合が非常にしばしばあるかもしれない。しかし、責務の第1次的ルールしかない場合には、彼らは拘束されている人を履行から免除したり、履行から手に入るだろう利益を他人に移転するどんな権能をもたないだろう。

というのは、免除や移転というような作用は責務の第1次的ルールでの個人の最初の地位を変化させるからであり、これらの作用が可能であるためには、第1次的ルールと異なった種類のルールが存在しなければならない。

 この単純な社会生活の形態の第三の欠陥は、ルールを維持する社会的圧力が散漫なため生じる《非効率性》inefficiency である。認められているルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こるし、そして最小の社会以外はどこでも、もし違反の事実を最終的にそして権威的に確定する権能を特別に与えられた機関がなければ、それはたえまなく続くだろう。

そのような最終的かつ権威的な決定の欠如は、それと結びついたもう一つの弱点から区別されねばならない。これはルール違反に対する処罰そしてそのほかの物理的な作用や力の行使を含む社会的圧力の形態が特別な機関によって管理されないで、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されているという事実である。

違反者を捕え罰する集団の非組織的な作用に費やされる時間の浪費、そして「制裁」の公的な独占がないための自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐が重大であるのは明らかである。

しかし、法の歴史によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如はより重大な欠陥であることがはっきりと示されている。というのは、多くの社会ではこの欠陥を他の欠陥よりもずっと以前に矯正しているからである。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.101-103,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:第1次的ルールの不確定性,静的な性質,非効率性)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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