2021年12月26日日曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法律家の判断

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


自らが属する社会の制度的倫理を、どのように明らかにするのか。
(i)まず、当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従う方法がある。すなわち社会的に存在しているルールである。
 (a)批判:存在するかどうかが事実問題だとしても、それをどうやって知るのか。
 (b)批判:それが知られたとしても、なぜ、それが採用されなくてはならないのか。
(ii)次に、自己自身の判断に従う方法がある。
 (a)批判:仮説的に、個人の能力を超えるような法的、社会的、倫理的な洞察力を有する法学者なら、判断可能かもしれないが、現実的な裁判官の判断に関する理論としては、不適切ではないのか。


「我々が次のようにいうと仮定してみよう。ハーキュリーズは彼の属する社会の制度的倫理を明らかにするに際し、自己自身の判断に従うべきではなく、制度的倫理が何であるかに関し て当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従わなければならない、と。この忠告に対して は二つの明白な反論が考えられる。第一に、ハーキュリーズは、何が大多数の成員の支持を受 けた判断であるかをどのようにして認識することができるのか、この点が明らかでない。通常 人が堕胎を承認せず、あるいは堕胎を犯罪とする立法を支持しているからといって、彼らが自 己の政治的立場を反省し、合衆国憲法により前提され、首尾一貫して適用されてきた尊厳の概 念により自己の立場が支持されるか否かを十分に考察してきたとは必ずしも言えないだろう。 それはある種の弁証法的な技術を要する非常に複雑な問題であり、この技術は、通常人が自己 の立場を自覚的に防禦する際には明らかに認められるものの、自覚的な反省なしに投票におい て示される彼の政治的選択がこの種の吟味を経てきたものであると、当然にみなされてよいこ とにはならない。  しかし、人間の尊厳は堕胎の権利を要請しないと通常人が判断したことにハーキュリーズが 納得したとしても、ハーキュリーズがなぜその争点に関し通常人の意見を決定的なものとして 受け容れなければならないか、という疑問が残る。ハーキュリーズが通常人は誤っていると考 えた場合、すなわち社会の概念が要請する内容に関して通常人の哲学的見解が誤っている、と 彼が考えた場合を想定してみよう。もしハーバートがその立場にあったとすれば、彼が通常人 の判断に従うことには十分な理由があるだろ。ハーバートは次のように考える。すなわち実定 法上の法準則が漠然としていたり、不確定な場合には、訴訟当事者はそもそも制度的権利を有 することはなく、それ故自分が到達した判決は一個の新たな立法である、と考えるだろう。彼 がどのような判決を下しても、当事者が現実に権利として有するものを彼が自らの手で奪うよ うなことはなく、したがって彼が立法行為をするときは自己を多数派の代理人とみなすべきで あるという論証は、少なくとも一応適切な論証と思われる。しかしながらハーキュリーズとし ては、この問題に関してかかる見解をとることはできない。彼は、自分が決定しなければなら ない問題が当事者の制度的権利に関する問題であることを了解している。彼が通常人の見解に ならって判決を下しても、もしこれが誤った判決である場合には、彼は当事者から彼らが権利 として有するものを奪うことになる、ということを了解している。ハーキュリーズもハーバー トも、通常の容易な法的問題を一般公衆の意見に付託するようなことはしないであろう。しか し、ハーキュリーズは、容易な事案においてのみならず難解な事案においても当事者は権利を 有していると考え、それ故、難解な事案の場合にも一般公衆の意見に付託することはしないで あろう。  もちろん、難解な事案における当事者の権利に関して裁判官の下す判決が、正しくない場合 があるだろう。そこで、最後のあがきとばかりに、この事実を盾にとり反論が試みられるかも しれない。この反論は、ハーキュリーズの用いるテクニックが、仮説上偉大な倫理的洞察力を 有するハーキュリーズ自身にとっては適切なものであることを「議論上は」認めながらも、同 じテクニックがそのような洞察力を有していない裁判官に対しても一般的に適切であることを 否定するであろう。しかしながら、我々としてはこのチャレンジを評価する際に、他に採りう る道を注意深く考慮に入れなければならない。裁判官が法的権利について過誤を犯した場合、 その過誤が原告に有利に作用したか被告に有利に作用したかを問わず、それ自体、これは不正 義の問題となる。上記の反論は、裁判官も誤りを免れず、いずれにせよしばしば意見を異にす るが故に、彼らが過誤を犯すことを指摘するのであるが、言うまでもなく我々も社会的批評家 として、過誤が犯されうることは承知している。ただ我々は、いつ過誤が犯されたかを知るこ とができない。我々もハーキュリーズではないからである。それ故我々としては、異なった役 割を担いうる人々それぞれがもつ相対的な能力を判断し、このような判断に基づいて、全体的 に過誤の数の減少が期待されるような、判決のテクニックを採り入れなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.163-164,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会倫理

社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「もちろん、ハーキュリーズの技術は、しばしばある種の問題につき、社会一般の倫理に反する判決を要求することもあるだろう。たとえば過去の憲法判例の正当化のどれをとっても、 堕胎支持の判決を要求する程度に十分強力な自由主義原理が常に含まれており、判決の正当化 でこの原理を含まないようなものが全く存在しない場合を考えてみよう。このハーキュリーズ は、社会一般の倫理感がどれほど強く堕胎を非難していようと、堕胎支持の判決を下さなけれ ばならない。この場合、彼は社会の倫理的信念を排除して、彼自身の信念を強要しているわけ ではない。彼はむしろ社会の倫理が当該争点につき矛盾していると判断するのである。つま り裁判官により解釈された憲法規定の正当化として提示されるべき憲法倫理自体が、堕胎とい う一定の争点につき社会が抱くある特定の判断を拒否しているのである。この種の衝突は、個 人道徳の内部ではよく起こることである。そこで、もし我々が政治理論において社会倫理とい う概念を使用しようとするならば、この社会倫理内部にも同様の衝突が起こることを認めねば ならない。もちろん、この種の衝突がいかに解決されるべきかについては疑いの余地がない。 諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。 この制度的権利は、社会の憲法倫理により明確に示されており、それ故、ある見解がどれほど 広く受け容れられていようと、これが憲法倫理と一致しないかぎり、ハーキュリーズはこの見 解に対抗し、上記の制度的権利を擁護しなければならない。  これら仮説的に示された諸事例から明らかなごとく、ハーバートに対し意図された反論は、 ハーキュリーズへの反論としては的はずれなものとなる。ハーキュリーズの裁判理論のどの部 分をとっても、彼自身の政治的信念と、彼が社会全体の政治的信念と考えるものとの間の選択 が問題にされることはない。むしろ逆に、彼の理論は社会倫理についての含まれた一定の観念を法的問 題にとって決定的に重要なものとして、特定化するのである。すなわちこの観念によれば、社 会倫理とは、法や社会の諸制度が前提とする政治的倫理を意味する。もちろん彼は、この倫理 的原理の内実を把握するためには彼自身の判断に依拠しなければならない。しかし、この種の 依拠は、既に区別された第二のタイプの不可避的な依拠であり、彼は何らかの段階で不可避的 に自己の判断に依拠せざるを得ないのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.158-159,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.4.3.3)過誤とすることの正当性
 しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤 と解してよいわけではない。
(a)当該理論が、いかなる過誤をも認めない理論よりも、強い正当化であることを示すこと。
(b)当該理論が、他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、強い正当化であることを示すこと。
(c) 制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚
 制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、かつての決定を生み出す可能性のないことを示す。
(d)自らの論証による
 政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることとは関係なく、それ自体不正であることを示す。


「以上のことはかなり明快である。しかしハーキュリーズは過誤の理論の第二の論点につい てはもっと苦労しなければならない。彼は先例の一般的慣行に彼が結びつけた正当化によっ て、制定法及びコモン・ロー上の判決全体のために、原理体系の形をとった一層詳細な正当化 を組み立てるように要請される。しかし正当化されるべきものの一部を過誤とか名づけるような 正当化は、一見したところでは、そのようなことを行わない正当化よりも弱いものと思われ る。したがって彼の過誤の理論の第二部では、それにもかかわらず、いかなる過誤をも認め ず、あるいは他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、当の正当化の方が強い正当化である ことが示されねばならない。この証明は理論構成に関する単純な規則を単に演繹することでは ありえない。しかしハーキュリーズが、先例と公正との間に以前確立された関係を念頭に置く ならば、この関係は彼の過誤の理論に対し二つの指針を示唆するであろう。第一に、公正は、単なる歴史としての制度史ではなく、未来へと存続するものとして政府が提示した政治的プロ グラムとしての制度史に関わる。つまりそれは先例のもつ未来向きの意味を捉えているので あって、過去向きの意味を捉えているのではない。もし制定法であれ判決であれ、以前に下さ れた何らかの決定が、今や法曹その他関連分野の広範囲の人々により遺憾の念をもってみられ ていることをハーキュリーズが発見するならば、まさにこの事実によって当該決定は欠陥のあ るものとして他から識別されるのである。第二に彼は、首尾一貫性を要求するような公正の論 証のみが、一般的には公権力、そして特殊的には裁判官が応えねばならない唯一可能な構成の 論証ではない、ということを思いださなければならない。もし彼が首尾一貫性の論証とは全く 別に、特定の制定法あるいは判決が社会自体の公正観念からみて不正なるが故にこれを間違っ たものと信ずるならば、この信念の故に当の決定は、欠陥のあるものとして十分識別されうる のである。もちろん彼は、正当化全体の垂直的構造を顧慮しながら上記の指針を適用しなけれ ばならず、それ故低いレヴェルの決定は高いレヴェルの決定に比べ、より欠陥ありとされやす いことになる。
 したがってハーキュリーズは過誤の理論の第二部において、少なくとも二つの格率を適用す ることになるだろう。もし彼が、制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、立法府や裁判所がある法的決定を採用する際にかつては十分な説得力をも ちえた特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、そのような決定を生み出す可能性 のないことを示すことができるならば、当の原理を支持する公正の論証は根拠を失うことにな る。もし彼が政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることと は関係なく、それ自体不正であることを示しうるならば、当の原理を支持する公正の論証は覆 されたことになる。ハーキュリーズはこれらの区別が他の裁判官の実務においても広く認めら れていることを見出し、満足するであろう。彼の職務の法理論上の重要性は、難解な事案に関 して彼が今や創造した理論の新奇さに存するのではなく、それがまさに広く受け容れられてい る点に存するのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモ ン・ロー,木鐸社(2003),pp.153-154,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]





ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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