ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年11月17日日曜日

自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活の改善に貢献するという仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。これが教育の究極目的である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

教育の究極目的

【自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活の改善に貢献するという仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。これが教育の究極目的である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5)教育の究極の目的は何か
 (5.1)同胞の生活の改善、人類への貢献
  (a)人間性と人間社会が変化する過程で、日々新たな問題が発生し、解決が求められる。このような諸問題を解決できるための、能力を高めること。
  (b)何らかの点で、人類を現在よりもより賢明に、より善良にする方法を探究すること。
  (c)人間生活のすべての側面を、現在よりももっと合理的な基盤に置く方法を探究すること。
 (5.2)各個人が為すべきこと
  (a)ささやかな貢献をする
   誰でも、自分の知性を活用して、ささやかでも同胞の生活をある程度改善することができる。
  (b)最善の思想を理解する
   また、我々の時代の独創的な精神の持ち主達によって産み出された最善の思想に精通する努力をすること。
  (c)最善の思想を育てる土壌、世論の質を向上させる
   なぜなら、独創的で最善の思想も、多くの人たちの理解と歓迎、激励、援助という土壌がなければ、大きく育たないからである。
  (d)もちろん、人によっては自ら人類に対して独創的な貢献をする者もいることだろう。
 (5.3)真の報酬とは何か
  (a)同胞の生活の改善、人類への貢献という目的は、本来なら、報酬が与えられるなどということを、考えなければ考えないほど、純粋で善いものであることは言うまでもない。
  (b)しかし、期待を決して裏切ることのない、いわば、利害を超越した報酬がある。同胞の生活の改善、人類への貢献という仕事は、この世界と人間に関する多種多様な興味と探究心を喚起し、その人の人生を価値あるものにしてくれる。すなわち、報酬はこの仕事そのものに内在しているのである。

 「諸君は、今こそ、細々とした商売上のあるいは職業上の知識よりもより重大なかつはるかに人間を高尚にする諸問題についてある程度の見識を獲得し、人間のより高尚な関心事すべてに諸君の精神を活用する術を習得すべき時期であります。諸君がこのような能力を身につけて、実生活の仕事のなかに入って行かれるならば、仕事の合間に見出される僅かな余暇でさえも、空費されることなく、高貴な目的のために利用されることでありましょう。退屈さが興味を圧倒するという最初の難関を突破し、そして更にある時点を通り過ぎて、今迄の苦労が楽しみに変わるようになると、最も多忙な後半生においても、思考の自発的な活動によって、知らず知らずに精神的能力は益々向上し、また教訓を通じて日常生活から学ぶ方法を会得するようになります。もし諸君が、青年時代の勉学において究極の目的――この究極の目的に向かって行われればこそ青年時代の勉学は価値があるのでありますが――この究極の目的を見失わなければ、少なくともそうなることでありましょう。では、この究極の目的とは何であるかと申しますと、そしてそのような目的がわれわれの胸中にあることで、われわれは、絶えず高度な能力を働かせるようになり、また、年を経るとともに貯めてきた学識や能力を、何らかの点で人類を現在よりもより賢明に、より善良にする方法、あるいは人間生活のすべての側面を現在よりももっと合理的な基盤に置く方法があれば、それを支援するために惜しみなく費やすいわば精神的資本と考えるようになります。われわれのなかで、人並みな機会が与えられれば、その機会を利用し、そして今までに覚えた知性の活用の仕方を応用して、同胞の生活をある程度改善しうる能力を備えていない人は誰一人いません。このささやかな貢献を結集してより大きなものにするために、われわれの時代の独創的な精神の持ち主達によって産み出された最善の思想に精通する努力を常に致しましょう。この努力を通じて、われわれは、どんな社会運動がわれわれの助力を最も切実に必要としているかが分かるようになり、そしてまた、こうすることがわれわれの最大の務めであるように、良き種子が岩石の上に落ちて、もしも土の上に落ちたならば芽を出し、繁茂しえたのに、土に達することなく朽ちて行くというようなことのないようにすることができます。諸君は、将来、人類の福祉に知的な側面で寄与する人々を歓迎し、激励し、援助する立場の人々の一員となります。そしてまた、諸君は、もしその機会があるならば、人類に知的恩恵を施す人々のなかに加わるべき人々であります。意気消沈している時は、そのような機会がないように思われるかもしれませんが、そんなことで勇気を失ってはなりません。機会を捉える方法を知っている人は、機会というものは自分で創り出すこともできるということに気がついています。われわれの実績は、われわれの所有する時間の多寡に左右されるのではなく、むしろその利用法次第であります。諸君や諸君と同じ環境にある人こそ、次の世代を担う国の希望であり、人材であります。次の世代が遂行すべき使命を担っている大事業のほとんどすべては、諸君達の誰かが成し遂げなければなりません。確かに、そのなかのいくつかは、私が今こうして話し掛けている諸君に比べれば、社会から受ける恩恵がはるかに少なく、教育を受ける機会もほとんど与えてもらえなかった人々によって成し遂げられることもあるでしょう。私は、地上における報いにせよ、天上における幸福にせよ、報酬を眼前に示して、諸君をそそのかすつもりは毛頭ありません。どちらであろうと、報酬が与えられるなどということを考えなければ考えないほど、われわれにとっては良い事なのであります。しかしただ一つ、諸君の期待を決して裏切ることのない、いわば、利害を超越した報酬があります。なぜそうなるかと申しますと、それは、ことのある結果ではなく、それを受けるに値するという事実そのものに内在しているものであるからです。では、それは一体何であるかと申しますと、「諸君が人生に対して益々深く、益々多種多様な興味を感ずるようになる」ということであります。それは、人生を十倍も価値あるものにし、しかも死に至るまで持ち続けることのできる価値であります。単に個人的な関心事は、年を経るに従って、次第にその価値が減少して行きますが、この価値は、減少することがないばかりか、増大してやまないものなのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,8 結論,pp.85-88,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:教育,教育の究極目的,同胞の生活の改善,人類への貢献,利害を超越した報酬)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月29日月曜日

14.人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

法や社会制度、教育と世論の重要性

【人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3) 追記。

《目次》
(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)苦痛と快楽
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
 (1.3)幸福とは何か
 (1.4)平穏と興奮
 (1.5)人類全体への愛情
 (1.6)精神的涵養
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則


(1)人間の行為の究極的目的
 (a)行為の人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)苦痛と快楽
  できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
  苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か
  幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
  (c)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。

 (1.4)平穏と興奮
  平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。

 (1.5)人類全体への愛情
  自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
   この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.6)精神的涵養
  精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。


 「功利主義を攻撃する人がめったに正しく認めようとしてくれないことを私は再び繰り返して言っておくが、何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく関係者すべての幸福である。

自分自身の幸福か他の人々の幸福かを選ぶときには、功利主義は利害関係にない善意ある観察者のように厳密に公平であることを当事者に要求している。

ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致である。

その理想にもっとも早く近づく手段として功利性は次のことを求めるだろう。

第一に、法や社会制度があらゆる個人の幸福や(あるいは実際的に言えば)利害をできるかぎり全体の利害と一致させるようなものであること、

第二に、人間の性格にたいして大きな力をもっている教育や世論が、自らの幸福と全体の善の間には、とりわけ全体の幸福が求めるような行為を消極的にでも積極的にでも実行することと自らの幸福の間には切ることのできない結びつきがあるということを各人の心に抱かせるためにその力をもちいることである。

そうすれば、全体の善に反するような行為を押し通して自らの幸福を得ようと考えることはできなくなるだけでなく、全体の善を増進するという直接的な衝動があらゆる個人にとって行為の習慣的な動機のひとつとなり、それに伴う感情が各人の感情のなかで大きく重要な位置を占めるようになるだろう。

功利主義道徳論を非難する人がこのような正しい特徴によってそれを心に思い描くならば、彼らが支持するであろう他の道徳論がもっている長所のうち功利主義道徳論に欠けているものが何なのか、他の倫理体系が促すと考えられている、より美しくより賞賛すべき形での人間本性の発展というのはどのようなものなのか、そして、その体系は功利主義者が利用できないどのような行為の動機にもとづいて指令を実行させるのか、私には分からない。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.279-280,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:法,社会制度,教育,世論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2018年4月21日土曜日

徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))

徳とは何か

【徳とは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。この習性は、思考や教育から生み出される。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 一般に徳とよばれるものは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。習性は思考を生みだし、逆に思考が習性を生みだす。さらに、良い教育が生まれながらの欠陥を正すのに、大いに役立つことも確かである。
 「一般に徳とよばれるものは、精神をある思考にしむける、精神のうちの習性である。したがって、これらの習性は、思考とは異なるのだが、そうした思考を生みだしうるし、また逆に、そうした思考によって生みだされうる。」(中略)「しかしながら、次のこともまた、確かである。良い教育は、生まれながらの欠陥を正すのに大いに役立つこと。自由意志とは何か、自由意志を善く用いようとする確固たる決意を持つことから生じる利益がいかに大きいか、また他方、野心家たちを悩ませる心労がすべていかに空しく無益であるか、の考察にしばしば専心するならば、自己のうちに高邁の情念を起こし、ついで高邁の徳を獲得できること。そしてこの高邁の徳は、いわば他のあらゆる徳の鍵であり、情念の乱れすべてに対する全体的な治療法であるから、この考察は注目する値打ちが大いにある、と思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一六一、p.142、[谷川多佳子・2008])
(検索:徳、習性、高邁、教育)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2