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2021年12月2日木曜日

事実からは目標は導出できない。故に、政治とは政治的目標と実現方法の一つの選択である。それにもかかわらず、空想的で全体主義的な目標選択の誤りに陥らないためには、事実の評価から始めなければならない。従って政治的目標は、悪に対する漸次的闘いとなる。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する漸次的闘い

事実からは目標は導出できない。故に、政治とは政治的目標と実現方法の一つの選択である。それにもかかわらず、空想的で全体主義的な目標選択の誤りに陥らないためには、事実の評価から始めなければならない。従って政治的目標は、悪に対する漸次的闘いとなる。(カール・ポパー(1902-1994))

(1)事実から目標は導出できない
 (a)社会科学によって扱われる事実。
 (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。 
(2)事実から目標が導出可能とする反論
 (a)意思決定の仕方は、教育やそれと同じような事実の影響に依存してい る。
 (b)目標や意思決定もそれ自体が事実である。
(3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
 (a)目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究される。
 (b)目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究される。
(4)それにもかかわらず、最初に社会を構想してから、実現方法を考えるというアプローチを、批判することを試みる。
(5)事実の評価
 目標は事実に還元不可能である。では、目標は何から得られるのか。それは、単なる空想なのか。事実の評価から、我々は選択肢を作り、そして選択する。
(6)空想的な目標
 空想的な目標は、実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。
(7) 悪に対する漸次的闘い
 従って、政治的な目標選択は、悪に対する漸次的闘いとなる。
 

「1 ここで詳しく検討できませんが、議論の前提の一つは、政治では、次の二つの違った 問いを区別すべきだということです。つまり、次の二つについての問いです。  (a)社会科学(たとえば、権力の社会学)によって扱われる、社会学的な事実。  (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。  われわれの最初の命題は、目標や意思決定は事実と関係はするが事実から導き出すことは不 可能だ、ということです。目標や意思決定を事実から導き出そうとするどのような試みも誤り です。たとえば、何人も奴隷となってはならないと、意思決定したり、このことが実現した社 会を目標としたりすることはできます。しかし、この決定や目標は、すべての人は自由に生ま れるという事実と称されるものからは導き出せません。というのも、もしすべての人が自由に 生まれるということが事実だとしてさえも、なお人々を奴隷にすることを目標にできるからで す。また、もしすべての人が鎖につながれて生まれてくるとしてさえも、なお、人々を解放すべきと要求できるのだからです。言い換えると、どのような一連の事実を考慮に入れても、つねに 多くの目標や意思決定、たとえば、それらの事実を変更するとか、そのままにしておくとか、 そういった目標や意思決定が可能なのです(もし問題となる事実が変更不可能なら、そのとき これらの特定の事実に関してはいかなる目標も設定できません)。  目標や意思決定は事実に還元できないという主張は、しばしば異議を唱えられてきました。 たとえば、意思決定の仕方は、事実に、つまり、教育やそれと同じような影響に依存してい る。あるいはまた、目標や意思決定もそれ自体が事実である。したがって、目標や意思決定と 事実が、このように厳格で揺るぎない区分だとするのはばかげている、などと言われてきまし た。この場でこれらの反論に答えることは不可能ですが、私の本の中で、これらの反論には十 分に答えていると考えます。ここではこの目標や意思決定は事実に還元できないという主張を 当然としていただくようお願いしなければなりません。

  2 目標や意思決定は還元不可能だという主張を受け入れるなら、政治とは、政治目標とその 実現方法の選択であると見なさねばなりません。われわれは、そのような目標を実現可能なも のとして選択するでしょう。それらの目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究されるべきことです。そしてそれらの目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究されるでしょう。しかし、可能かつ実際に実現可能だという制約の中で、われわれ は自由な選択をする、つまりわれわれが自分たちの目標を自ら決定するのです。  この見方は、われわれの目標は歴史的ないし経済的必然性によって決定されると信じるすべ ての見方、ここでは論ずるつもりのない見方に反対しているのです。

  3 ここで私が描き出した政治の考え方は、実は私がしりぞけようとする一つの帰結に結び付 いているように見えます。しかし、そうだとしても、私はこの考え方を固く維持するつもりで す。その見かけ上の帰結とは次のことです。  もし政治が自由に選択された目標の実現なら、政治が取りうる唯一の合理的方法は以下のも のです。すなわち、最初にわれわれは自分たちの究極目的を決定しようとする、つまり、最初 にわれわれが(可能で実際に実現可能な社会のうちで)どのような種類の社会を最も好むかに ついて合意に辿り着こうとします。そして次に、この社会を実現する最上の方法を見つけよう とする、というものです。  ここで描き出した見方に、「空想主義」と名前を付けることにしましょう。理想社会が不可 能だとか、実行不可能だということは、この種の空想主義に対する妥当な反論ではないことを 理解することが重要です。不可能なあるいは実行不可能な社会を夢見ることは、ここでは関係 のないことです。というのも、そのような社会は不可能だ、あるいは実行委不可能だと容易に 批判できるからです。私が批判を試みるのは、はるかに重大なことなのです。つまり(その選 択が可能性と実行可能性の制約に制限されることは理解されているとしても)、「どんな種類 の社会をもちたいかをまず最初に決めましょう」などと言って政治問題にアプローチする、見 かけは合理的な方法、そのような方法の批判を私は試みるのです。     〔この箇所で草稿は終わっているが、以下のいくつかのメモ書き、及び構想も存在す る。〕

 社会問題の改革:人生の展望と生き方の相互調整の問題  われわれは事実から始めねばならない   目標は事実に還元不可能    われわれは事実の評価から始めねばならない  目標は事実に還元可能   われわれは目標から始めねばならない

 4 自由・正義・平等といった形式的原理ではなく、具体的社会、一連の新しい制度、社会生 活の様式。ん一連の新しい制度、社会生活の様式は...... 

5 実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。空想 主義的計画に対立するのは......

 6 (本からの)さらなる批判。変数を定数にする。変化の抑制や変化の制御 

7 悪に対する漸次的(Piecemeal)闘い

  同意

8 功利主義

9 なぜ最小限の要求か

10 開かれた社会の考え方は......であるのか〔削除された項目〕   空想主義と開かれた社会〔削除された項目〕 

11 いわゆる「人間を変質させる問題(Problem of Transforming Man)〔削除された項 目〕

12 空想主義と歴史主義と閉じた......〔削除された項目〕

13 空想主義の出自

  閉じた社会の崩壊

  改革の問題。完全改革(Complete adaptation)は不可能であろう。大規模な一括改革 (Wholesale adaptations)は《事実》不可能である。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,補遺 空想主義と「開かれた社会」,pp.145-148,ミネルヴァ 書房(2014),吉川泰生(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)







2021年11月30日火曜日

悪に対する闘いは公的な事柄であり、緊急度の高いときは、積極的善の犠牲が必要な場合もある。これに対して、希望や夢、美的理想や宗教的理想などの価値は、私的価値であり、公的な介入はそれらを堕落させ破壊してしまう。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する闘い

悪に対する闘いは公的な事柄であり、緊急度の高いときは、積極的善の犠牲が必要な場合もある。これに対して、希望や夢、美的理想や宗教的理想などの価値は、私的価値であり、公的な介入はそれらを堕落させ破壊してしまう。(カール・ポパー(1902-1994))



 「最も大きく最も具体的な悪と闘うことが最も緊急度の高い義務であり、より小さい悪に進 むにつれて緊急度は減少し、積極的善に進んだとき確実に緊急度は減少すると私は考える。最 高善が(「存在する」という言葉の何らかの興味のもてる意味において)存在するのか否か、 私は知らない。しかし存在するのなら、その実現は、私の観点からは、この世で最も緊急度が 低いだろう。私にとって、最高善は、他の比べれば、むしろ贅沢品という特徴を帯びていると いえる。そして、とりわけ、最大善の実現は大きな犠牲に値する、つまり大きな悪を我慢する に値するという考え方は、端的に有害だと思える。緊急度の高い具体的悪と闘うために必要と あらば、われわれは犠牲を、とくに積極的善を犠牲にするよう要求できる。しかし、遠くにあ る善のために、犠牲を要求したり、具体的な悪を我慢したりするという、代償を払うべきでは ない。  善の理論と呼べるものと、倫理学に関する私自身の見方を大雑把に比較すること以上に、こ のことについて話し続けられることはないと思う。そこで、この善の理論と私の見方の間の論 争とはまったく独立に私の提案を判断して頂くようお願いする。ただ、明らかにしておきたい が、私は積極的価値を重要でないと見なしているのではない。それどころか、希望や夢、美的 理想や宗教的理想以上に重要なものは、人生にまず存在しないのである。私の主張は、これら価値の世界は私的な世界、親しい友人と共有する世界であり、これらの価値を公的な世界に 強制しようとするなら、それらを堕落させ破壊してしまうのだというものである。積極的価値 は私的価値なのである。悪に対する闘いは公的な事柄である。もしある人が通りで転んで足を 骨折したら、その人を助けることは、疑いもなく、そこに居合わせた人すべての義務なのであ る。しかし、隣にいる人がビールを楽しめるよう保障してやることは私の義務ではないし、 ビールよりよいものがあると説得することも私の義務ではない。もちろん、その隣の人がとて も親しい友人だとすれば、まったく違ってくるかもしれないが。  積極的価値に結び付いた公共政策の唯一の責務は、われわれの選択の自由を見守ること、つ まり誰でも自分の意見を胸にしまい込むことを強制しないようにすることだと思われる。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,II,pp.134-135,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳),神 野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







次の詭弁に注意せよ。利他主義へ向う道徳的衝動を使って個人主義を攻撃し、集団主義へとねじ曲げ、自らの集団利己主義的な目的のために個人を犠牲にする。真実は、個人主義に基づく共感と責任が、自集団を超える利他主義へと導く。(カール・ポパー(1902-1994))

個人主義的利他主義

次の詭弁に注意せよ。利他主義へ向う道徳的衝動を使って個人主義を攻撃し、集団主義へとねじ曲げ、自らの集団利己主義的な目的のために個人を犠牲にする。真実は、個人主義に基づく共感と責任が、自集団を超える利他主義へと導く。(カール・ポパー(1902-1994))


(i)個人主義、集団主義、利己主義、利他主義
 (a)個人主義  (a')集団主義
 (b)利己主義  (b')利他主義
(a)人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである。(個人主義)
(a')個人はつねに、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならない。(集団主義)
(b)自己や自集団の利益を最優先に考える。(利己主義)
(b')他者や他集団の利益を考える。(利他主義)

(ii)集団主義的利己主義の詭弁
 自己の利益を最優先にすること(利己主義)への道徳的な反発感情を使って、個人の人格に最高の価値を認める考え(個人主義)を攻撃し、個人は集団のためにあるという考え(集団主義)にすり替え、自集団のみの利益のために個人を犠牲にする。(集団主義的利己主義)
(iii)真実は個人主義的利他主義にある
 真実は、個人の人格に最高の価値を認める(個人主義)が故に、他者の喜びや悲しみに関心を持ち(利他主義)、政治や社会への関心は、他者に対する共感と責任感を基礎とする。


 「さて、4つの用語(a)、(a')、(b)、(b')は、ある態度・要求・道徳的決定・道徳律を記 述する。これらの用語は事例を挙げれば容易に説明できる。集団主義から始めよう。集団主義 が最もよく例示されるのは、個人はつねに集団全体や共同体、たとえば、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならないというプラトンの要求である。「部分は全体 のために存在するが、全体は部分のためには存在しない......。あなた自身も全体のために創られ たのであり、あなたのために全体が創られたのではない」とプラトンは書いている。この引用 は、集団主義の例示というだけでなく、感情に強く訴えるものももっている。それは、たとえ ば、集団や部族への帰属願望といった様々な感情に訴えるのである。そして、このように訴え る要因の一つは、疑いもなく、利己主義や自分本位(b)に反対するという道徳的に訴える力で ある。プラトンが示唆し、後の集団主義者すべてがプラトンに従った点は、もし全体のために 自己利益を犠牲にできないのなら、その人は自己本位な人物であり、道徳的に堕落していると いうことである。  しかしながら、上述の小さな表を少し眺めれば分かるように、そうではないのである。集団 主義は利己主義と対立しないし、利他主義や自分本位でないことと同一でもないのである。集 団主義者は集団利己主義者でありうる。集団主義者は、他のすべての集団と対立して、自分自 身の集団の利益を自己本位に守るかもしれない。集合的利己主義ないし集団利己主義(たとえ ば、国家利己主義や階級利己主義)は非常にありふれたものだ。そのようなものの存在によっ て、集団主義が自分本位と対立しないことが申し分なく明確に示される。  他方、個人主義者たる反集団主義者は、同時に利他主義者でありうる。つまり他の個人を助 けるために進んで犠牲になれるのである。人は他人すなわち他の個人に、その人たちの喜びや 悲しみに、そしてその希望と涙に関心をもちうるのである。このように他の個人に直接関心を もつことは、共同体や集団への関心を必要としない。個人主義者だということが意味するの は、すべての人間個人のうちに見い出すのが、たとえば国家の利益といった、さらに別の利益 にとっての単なる手段でなく、目的そのものだということである。《個人主義者だということ は、自分自身の個人性を取り立てて深刻に考えることを意味しないし》、他人の利益より自分 自身の利益をより(あるいは同程度にですら)強調することも意味しないのである。  さて、われわれの小さな表をもう一度見ると、4つの立場の組み合わせのうち、2つが不可能 だと分かる。つまり、(a)と(a')の組み合わせと、(b)と(b')の組み合わせである。この組み 合わせが不可能なのは、個人主義を反集団主義として、集団主義を反個人主義として定義した からだ。そして、同じように、利己主義を自分本位として、利他主義を非自分本位として定義 できるだろう。《しかし、他の組み合わせはすべて成り立つのでる》。  つまり、(a)と(b)を結び付けて利己主義的な個人主義が作れ、あるいは、(a)と(b')を結 び付けて利他主義的な個人主義を作れるのである。そして、同じようにして、(a')と(b)を結 び付けて利己主義的な集団主義を作れ、さらに、(a')と(b')を結び付けて利己主義的な集団 主義を作れるのである。  ここに4つの立場があり、その一つを選ばねばならない、このことを理解するのが非常に重 要である。プラトン、そしてほとんどの集団主義者たちはプラトンと同じく、つねにこの事実 を曖昧なままにしておこうとした。つまり、個人主義と集団主義という二つの可能性しか存在 しないかのように語ったのである。しかも、(a)かつ(b')という立場を無視し、集団主義を唯 一の利他主義的態度、したがって唯一の道徳的態度だとして褒めたたえ、個人主義を利己主義 とつねに同一視したのである。しかし、集団主義について語るとき集団主義者たちが念頭にし ているのは、利他主義的集団主義(つまり、自分自身の共同体ではない他の共同体の権利の承 認)ではなく、利己主義的集団主義、つまり、自分たち自身の共同体の重視であった。このよ うにして、利他主義へ向う道徳的衝動は、集団主義へと向かう衝動へとねじ曲げられたのであ る。集団主義者はわれわれのもつ道徳的利他主義に訴えるのだが、それを自らの集団利己主義 的な目的のために使ったのである(そして同じことが、ファシストと共産主義者によってなさ れた)。  これまで話したことから明らかであろうが、私は個人的にはこれら4つの可能性のうち、(a) かつ(b')、つまり個人主義と利他主義の組合せを採用すべきだと、つまり、利他主義的個人主 義を採用すべきだと信じている。実際のところ、ソクラテスの時代よりこの方、この利他主義 的個人主義は多くの人の信条であった。思うに、これはまたキリスト教徒の態度でもあり、こ こで、キリスト教がもつ個人主義を例証する一節を、マーリン・デイヴィス卿の講演から引用 してもよかろう。マーリン・デイヴィス師はこう書いている。「まず第一に、神によって創られ、キリストによって贖われたのだから、人間の人格は永遠の価値をもつものだという確信を もって、キリスト教徒は政治に携わらなければならない」と。  このことが意味するのは、政治や社会へのわれわれの関心が、人間個々人に対するわれわれ の関心に、彼らを助けようと案じることに、そして彼らに対するわれわれの責任に、完全に基 づいていることである。これは、明確な個人主義――もちろん利他主義的個人主義――である。こ れは、(プラトンが、ファシストと同じく要求したように)《国家のために個人が存在すべ き》というのではなく、《国家は個人のために存在すべき》という要求につながるのであ る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第2部 ニュージーランドでの講義,第4章 道 徳的な人間と不道徳な社会――1940年,pp.118-120,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳), 神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)







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