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2018年11月9日金曜日

17.難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

難解な事案と在る法、在るべき法

【難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))】

(1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
 (1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
 (1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
(2)日常言語においても、次のような事実がある。
 (2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
 (2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
 (2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 「もし倫理学における「非認知主義的」理論やその他類似の理論を反証することが、在る法と在るべき法との区別に関係するもので、この区別をある点で破棄したり、何か弱めたりすると主張するためには、一層突っ込んだそして厳密な議論をしなければならない。

ハーバード・ロー・スクールのフラー教授(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))がそのさまざまな著作の中で展開している以上に、この方向での議論をはっきりと展開している人物はいない。そこで、その主要な論点だと思われるところを批判することで、この論文を終えたい。

その論点は、意味が明確で議論を呼ぶことのない法的ルールないし法的ルールの意味の明確な部分ではなく、当初から問題があることが感じられており、具体的ケースにおいてルールの意味について議論がなされる場面でのルールの解釈を考察するときに再び私たちの前に現われてくるものである。

どのような法体系においても、法的ルールの適用される範囲が、立法者が現実に考えたこと、あるいは、考えたと思われる具体的な事例の範囲に限られることはない。

これが実際のところ、法的ルールと命令との重要な違いの一つである。

ところが、立法者が考えた事例、もしくは、考えたであろう事例を超える事例にルールを適用していると考えられる場合に、このような新しいケースへのルールの拡張は、しばしば、ルールを解釈する者の意識的な選択や命令のようには見えない。

それは、そのルールに新しい、拡張的な意味を与える決定とも見えないし、また、立法者が、たとえば18世紀に死んだのだがもし20世紀まで生きていたならば、言うであろうことの推測とも見えない。

そうではなく、そのルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある特定の現存、物故の人物にというよりもルール自体に(ある意味で)帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。

功利主義者は、このような古いルールの新しいケースへの解釈的な拡張を、司法立法と記述するのだが、これはこの現象を正しく扱っていない。

これでは、新しいケースを過去のケースと同様に扱うという意識的な承認や決定と、ルールの下に新しいケースを包摂することが、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化することになるという認識(この認識には意識的なところはほとんどないし、また、任意的なところすらほとんどない)との違いについての手掛かりが与えられない。


 おそらく、多くの法律家や裁判官は、補完し明確化するという言いまわしの中に、彼らの経験にぴったり合致するものを感じるであろう。

そうでない者は、これは、功利主義者の表現では司法「立法」、現代のアメリカの用語で言えば「創造的選択」という言葉でうまく語られている事実を、ロマンティックに解釈したものだと考えるかもしれない。

 この問題点を明確にするために、フラー教授は、法とは無関係な例を哲学者のウィトゲンシュタインから借りてきているが、啓発的な例であると思われる。
 『ある人が私に向かって「その子供たちにゲームを教えてやりなさい」と言う。そこで私はダイスを使うゲームを教える。すると、相手は「私はその種のゲームを考えていなかった」と言う。彼が私に命令した時に、ダイスを使うゲームを排除することが彼の念頭になければならないのだろうか。』

 この例はたいへん重要なことに触れているように私には思われる。おそらく次のような(区別可能な)論点がある。

第一に、私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、仮定的な人間に共通の目的を考慮して解釈しているので、反対のことが明示的に指示されるまでは、幼い子供にゲームを教えろという指図を、他の文脈では「ゲーム」という言葉が自然にギャンブルの意味に解釈されることもあろうが、ギャンブルを教えてやれという命令とは解釈しない。

第二に、たいへんしばしばあることだが、話し手がその言葉のそのような解釈を聞いて、「そうだ、それが私の言いたかったことだ。〔ないし「それが私がずっと考えていたことだ。」〕あなたがこの具体的なケースを私に示してくれるまでは思い至っていなかったがね」ということがある。

第三に、前もってはっきりと心に描かれていなかった個別具体的なケースが曖昧に表現された指図の範囲の中に入ると、たいてい他人と議論したり相談したりした後でのことだが、認識したとしよう。この認識のあり方を記述するのに勝手にそのケースをそのように扱うように決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。

これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのかを、ないし、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。――これらの言い回しはフラー教授が同じ論文の後の部分で使用している。

 フラー教授が例に挙げた種類のケースに注意を向けることで、道徳的議論の性格についての哲学的議論は、多くの実りを得るものと私は信じている。

このようなケースに注目することは、「目的」と「手段」との間は鋭く分離しており、「目的」について議論するときには互いに非合理的に働きかけることができるだけで、合理的議論は「手段」についての議論のためのものであるという見解を矯正するものを提供する助けになろう。

しかし、この論点が、在る法と在るべき法との区別の主張が正しいものかどうかとか賢明なものかどうかという問題にどれほど関係しているかといえば、私は実際にはほとんど関係していないと考える。

よく考えてみると、法的ルールを解釈する際に、ある解釈がルールのたいへん自然な精密化や明瞭化なので、それを「立法」だとか「法創造」だとか「命令」だとか考えたり呼んだりすることがうまくそぐわないもののように思える場合があるというのがこの議論の趣旨である。

そして、そのような場合について、在るルールと在るべきルールを区別することは――少なくとも「べき」の持つある意味においては――誤解を招くであろう、という議論である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.92-94,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:難解な事案,在る法,在るべき法,半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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