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2022年2月24日木曜日

19.この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理的・技術的手段と目的、価値

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)不合理な目的と合理的・技術的手段との分裂
 公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率的手段を見出すことのできる自らの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
(b)何らかの実現手段と、別の自由な目的
 人間は、豊かになるため市場に足を向け、そのための最も効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、それを使って何をしようがかまわないとも想定されている。
(c)自由な目的と、その実現手段
 ほとんどの時代や地域で、人の振る舞う方法は、その人の本質の根本的表現であると見做されている。すなわち、目的があって、それを実現するための手段と行為がある。
(d)何らかの実現手段が価値を主張する
 二つの領域、すなわち技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他方の領域に侵入を試み始めるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値である、それらは究極の価値ですらある、我々は「合理的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間が現れるのだ。
(e)実現手段から切り離された目的
 その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間も現れる。しかし、こうした運動はすべて、自らが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのである。



「この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配のもっとも深遠なる遺産とは、合理 的・技術的手段とそれが奉仕する根本的には不合理な目的のあいだの直感的分裂を、あたかも 常識であるかのようにみせかけてきたことにある。

まず国家レベルでこのことはいえる。そこ で公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率 的手段をみいだすことのできるみずからの能力に、誇りをおぼえている。

その目標が、文化的 繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。

それとおなじことが個 人レベルでもあてはまる。そこでは、人間は、豊かになるため市場に足をむけ、そのための もっとも効率的な計算をすると想定されている。

だが、いったん貨幣を手にしたら、マンショ ンを買おうが、レースカーを買おうが、消えたUFOの探索費用にあてようが、あるいは、子ど もに気前よくばらまこうが、それを使ってなにをしようがかまわないとも想定されている。

こ うしたことはあまりに自明視されているので、これまで歴史的に存在してきたほとんどの人間 社会では、そうした分裂が考えられもしなかったことなど、想起するのもむずかしい。

ほとん どの時代や地域で、ひとのふるまう方法[ひとのとる手段]は、そのひとの本質[目的]の根 本的表現であるとみなされているのである。

しかし、このように二つの領域――技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域――に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他 方の領域に侵入を試みはじめるかのようにみえる。

合理性ないし効率性はそれ自体価値であ る、それらは究極の価値ですらある、われわれは(それがなにを意味していようと)「合理 的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間があらわれるのだ。

その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間もあらわれる。

しかし、こうした運 動はすべて、みずからが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのであ る。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.54-56,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2019年8月23日金曜日

特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

善とは何か

【特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)何かが「善」であるとは、どのようなことなのか。
 (1.1)価値ある目的の手段としての善
  (a)目的:何か別の善を為すこと、何か別の善を得ることである。
  (b)目的を達成する手段は「善」である。
  (c)例として、ある種の技能を持つこと、ある種の機会を与えられること、ある時ある場所に身を置くこと。
 (1.2)価値ある社会的役割に内在する善
  (a)社会的役割:社会的に確立された特定の実践があり、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値を持つと考えられている。
  (b)ある人が社会的役割を果たしている場合、その活動は「善」である。
  (c)例として、ある漁船の乗組員の一員としての善、ある家族の母親としての善、チェスの選手やサッカー選手としての善。
(2)特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうちどれを選択し、実践的に顧慮して追求することが「善」なのか。また、なぜそれが「善」なのか。
 (2.1)ある目的のために、ある種の資質や能力を高めることが善である。しかし、そもそも何のために、何をなすことが善なのか。
 (2.2)ある社会的役割を担いつつある活動に従事することは善である。しかし、そもそも何のために、人としていかなる存在であることが善なのか。

 「以上の考察は、何かに善を帰するのに、少なくとも三種類のやりかたがあることを示唆している。
 まず第一に、私たちが何かを一つの手段として《のみ》評価することによって、それに善を帰する場合がある。ある種の技能をもつことや、ある種の機会を与えられることや、ある時ある場所に身を置くことは、それらが、人が何か別の善い者になることを、あるいは何か別の善をなすことを、あるいは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて、善である。つまり、こうしたことがらはたんに、それ自体として善であるような何か別のことがらの手段《として》善いことなのである。では次に、第二のタイプの善について考えよう。誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善いと判断することは、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値をもつものとして評価される正真正銘の善であるという場合にかぎり、その行為者を善いと判断する、ということである。そうした〔ある活動に内在する〕善が〔ある特定の行為者の特定の行為によって〕そこに生じているのか否か、また、そうした善はそもそもどのようなものなのかということは、そうした問題に特徴的なこととして一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。ある特定の実践に内在する諸々の善を達成することに秀でているということは、たとえば、ある漁船の乗組員の一員《として》、ある家族の母親《として》、あるいはチェスの選手やサッカー選手《として》、善いということだ。それは、それ自体として価値ある諸々の善を適切に評価することができ、それらを生みだすことができるということである。しかるに、一人ひとりの個人にとっては次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善〔を追求すること〕がその人の人生の中である特定の場を占めることは、その人にとって善いことであるのか否か、という問題である。また、個々の社会にとっても次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善が、その社会における共同の生の営みの中である一定の場を占めることが、その社会にとって善いことであるのか否か、という問題である。それゆえ〔これらの問題に答えるためには〕私たちは〔何かに善を帰することにかかわる〕第三のタイプの判断を行う必要がある。
 ある一組の善、すなわち、〔それ自体として追求されるに値する〕正真正銘の善〔の追求〕が私個人の人生の中である従属的な場を占めることが、私自身と他者たちにとって最善のことである場合もあれば、それらが私個人の人生の中でいかなる場も占めないことがそうである場合もあるだろう。かつてゴーギャンは、絵を描くことの善が《彼の》人生においていかなる場を占めるべきかという問題に直面した。画家《としての》ゴーギャンにとっては、タヒチに行くという選択は最善の選択であったかもしれない。だが、かりにそうであったとしても、その選択がヒト《としての》ゴーギャンにとって、あるいは父親《としての》ゴーギャンにとって最善の選択であったということにはならない。それゆえ私たちは次の二つの問いを区別する必要がある。すなわち、なぜある種の善は善であるのかという問い、つまりそれらがそれら自体として価値あるものとみなされるべき善であるのはなぜかという問いと、特定の状況下にある特定の個人ないしは特定の社会にとって、それらの善をその個人ないしはその社会のメンバーたちによって実践的に顧慮され追求されるべき対象とみなすことが善いことであるのはなぜかという問いを区別する必要がある。そして、ある個人にとって、ないしはあるコミュニティにとって、その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善かについての私たちの判断こそが、この〔何かに善を帰する〕第三のタイプの判断の実例である。そうした判断において私たちは、一人の個人や個々の集団が、ある役割を担いつつある形態の活動に従事している行為者や行為者集団《として》のみならず、ヒト《として》も、いかなる存在であることが、また、何をなすことが、また、いかなる資質や能力を備えていることが最善であるのかについて、無条件的な判断をくだしている。そして、このような判断こそがヒトの開花についての判断なのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.87-90,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:善,価値ある目的の手段としての善,価値ある社会的役割に内在する善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

2019年8月3日土曜日

23.意志とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。意志は善のための手段であり、目的を実現する傾向があるが、目的が習慣化し、快・不快、欲求、真の善から乖離する場合もある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意志

【意志とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。意志は善のための手段であり、目的を実現する傾向があるが、目的が習慣化し、快・不快、欲求、真の善から乖離する場合もある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)(3.3)追記。
(4.2)~(4.4)追記。


(1)善とは何か。
 (1.1)それ自体が快楽であるものか、快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはない。
 (1.2)例えば、音楽のような何らかの快楽や、健康のように苦痛を回避することは、それ自体として、それ自体のために望まれており、望ましいのである。
 (1.3)上の原理を基礎として、行為として何が「正しい」のかが解明できる。
(2)欲求とは何か。
 (2.1)それ自体が快楽であるものを得ようとする情念、苦痛から逃れようとする情念である。
 (2.2)それ自体が快楽であるものを得るための手段も、それ自体として望まれるようになり、そして、当初の目的以上に、強く望まれるようになる場合がある。次の例がある。
  (a)金銭欲:金銭を所有したいという欲求は、しばしばそれを使用したいという欲求よりも強い。
  (b)権力欲、名誉欲:もともとは、私たちの他の願望を実現するために、計り知れないほど助けとなる手段となるために、強く望まれるようになった。
 (2.3)すべての欲求は、善の源泉である。しかし、欲求の中には、個人を彼の属している社会の他の構成員にとって有害にしかねない場合もあり、「全体の幸福を促進する」という原理から、それらの欲求を制御する必要性が要請される。

(3)目的と意志とは何か。
 当初に欲求された、それ自体が快楽であるものを得ること、または苦痛から逃れることを「目的」として、その手段を熟慮する。「意志」とは、目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用である。
 (3.1)意志は、善のための手段である。
  意志は、習慣化された作用である。意志は、善のための手段であって、それ自体が善であるわけではない。習慣化によって、人間の感情と行為に確実性がもたらされ、ある人の感情と行為が、他の人にとって信頼のできるものとなる。
 (3.2)目的は、習慣化する場合がある。
  習慣化された場合には、何かを望んでいるからそれを意志するようになるのではなく、しばしば何かを意志するからそれを望むようになる。
 (3.3)目的は、欲求と乖離する場合がある。
  当初に欲求された目的が、自分の性格や感受性が変わって快楽が減退したり、目的を追求しているうちに、苦痛が快楽を大幅に上回ってくるような場合もある。

(4)欲求、意志と行為の関係
 (4.1)徳とは何か。
  「正しい」目的を堅持して、手段である行為を遂行し続ける習慣化された作用、すなわち正しい「意志」を持つこと。
  参照:利害関心を離れた徳への欲求は、金銭欲や権力欲、名誉欲と同様に、快楽を追求し苦痛から逃れるという究極目的のための手段が、それ自体として望まれるようになった習慣化された欲求である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)徳は、善のための手段である。
   意志が、善のための手段であるとすれば、徳も善のための手段である。しかも、最も重要な手段である。徳は、個人を社会の他の構成員にとって好ましいものにする。
  (b)利害関心を離れた徳への欲求
   徳それ自体を望む人は、徳を意識することが快楽であるか、徳がないことを意識することが苦痛であるかのいずれか、あるいは両方の理由から、徳を望んでいるのである。仮に、徳が生み出す傾向にあり、それがあるから有徳とされるような望ましい結果を生み出さないとしても、それ自体が望ましいと感じる。
  (c)利害関心から欲求された徳
   徳を快楽、徳の欠如を苦痛と感じない人が、それでも徳を望むとすれば、利害関心から、すなわち自分や大切に思っている人にとって、別の利益があるかもしれないという理由を持っていることも、あり得るだろう。
 (4.2)無意識な行為
  欲求や目的を意識することなく為される行為。行為が終わった後に、はじめて意識されることもある。
 (4.3)意志による悪い習慣的行為
  目的が習慣化しており、欲求からも乖離してしまっている行為。例として、悪質で有害な耽溺という悪弊に陥っている人の例。
 (4.4)意志による善い習慣的行為
  目的は欲求と適合しており、目的を追求するために、熟慮された手段が継続的に遂行されている。

 「ありうる反論は、欲求は究極的には快楽や苦痛の除去以外にも向けられることがあるかというものではなく、意志は欲求とは別のものであるというものだろう。

つまり、確固とした徳をもった人間、あるいはその他の目的がしっかりと定められている人は、目的をもくろんでいるときに得られたり目的が成就したときに得られたりするであろう快楽について考えたりすることなく目的を達成するし、性格が変わったり受動的感受性が弱まっていくことによってそれらの快楽が大幅に減退していったり、目的を追求しているうちに苦痛が快楽を大幅に上回るようになっていったりしたとしても、目的に向かって努力を重ねるだろう。

これらすべてのことは私は完全に認めているし、このことについて他のところで他の誰にも劣らずはっきりと強く述べている。

能動的な現象である意志は受動的な感性の状態である欲求とは別のものであり、もともとは欲求から派生したものであったが、やがて根を生やし、親株から分かれることもある。

したがって、習慣となっている目的の場合、何かを望んでいるからそれを意志するようになるのではなく、しばしば何かを意志するからそれを望むようになる。

 しかし、これは習慣の力というよく知られた事実の一例にすぎず、けっして道徳的な行為の場合に限定されるものではない。

人はもともとは何らかの動機から始めた多くのどうでもよいことを習慣で続けている。これは無意識になされ行為が終わった後になってはじめて意識されることもあれば、自覚的な意欲によって始められたが、その意欲が習慣となっていて、悪質で有害な耽溺という悪弊に陥っている人によくあるように、熟慮した上での選好に反しているかもしれないような習慣の力でなされている場合もある。

第三の、最後の場合として、確固とした徳をもっている人や熟慮した上で堅実にはっきりした目的を追求しているすべての人々の場合のように、個別事例における意志による習慣的行為が、別の場合に優勢な一般的意図と矛盾することなく、それを実現している場合がある。

このように理解される意志と欲求の区別はれっきとしたきわめて重要な心理的事実である。

しかし、この事実が意味しているのは、私たちの身体の他のあらゆる器官と同じく、意志は習慣の影響を受けやすいということと、それ自体としてもはや望んでいないことを習慣から意志したり、意志するがゆえにそれを望んだりする場合があるということのみである。

とはいえ、意志は当初は完全に欲求によって生み出されたものであるということも真実であり、この欲求という言葉には、快楽を引きつける作用とともに苦痛に抵抗する作用も含まれている。

正しいことをしようとする確固とした意志をもっている人についてはこれくらいにして、有徳であろうとする意志がまだ弱く、誘惑に負けがちで、十分に信頼のおけないような人について考察することにしよう。

このような意志はどのような手段によって強くすることができるだろうか。

有徳でありたいという意志が十分に強くないときに、それはどのようにして教え込んだり呼びおこしたりすることができるだろうか。

人に徳を《望ませる》こと――徳について快楽と結びつけて、あるいは徳がないことを苦痛と結びつけて考えさせること――によるしかない。

正しいことをおこなうことを快楽と結びつけたり不正なことをおこなうことを苦痛と結びつけることによって、あるいは快楽が一方に、苦痛が他方に自然に伴うということを明らかにして印象づけ、人の経験に刻みこむことによって、有徳でありたいという意志を呼びおこすことが可能になるし、この意志は確立されれば、快楽や苦痛について考えることがなくても働くようになる。

意志は欲求の子であるが、親の支配から抜け出ると習慣の支配下に入る。習慣の結果であるものを本質的に善であると推定することはできない。

徳が習慣によって支えられるようになるまでは、徳に駆り立てるような快楽や苦痛との連想による作用が的確で一貫した行為にとって十分に頼りにならないというわけではないとしたら、徳という目的が快苦とは独立すべきであると望むことには何の理由もないだろう。

感情にとっても行為にとっても習慣こそが確実性をもたらすものであり、正しいことをしようとする意志がこのように習慣的に独立なものになるくらいまで涵養されるべきなのは、ある人の感情や行動を完全に信頼できるということが他の人にとって重要だからである。

言い換えれば、意志のこのような状態は善のための手段であって、それ自体は本質的に善ではない。そして、これは、それ自体が快楽であるものか快楽を得たり苦痛を避けるための手段であるものを別にすれば、人間にとって善であるものはないという理論とも矛盾しない。

 この理論が正しいとすれば、功利性の原理は証明されたことになる。そうなのかどうかは、良識ある読者の判定に委ねなければならない。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第4章 功利性の原理についてのどのような証明が受け入れ可能か,集録本:『功利主義論集』,pp.309-311,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:意志,目的,手段,欲求,快・不快,善)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年4月6日土曜日

5.(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの法哲学

【(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.7)追加。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
 (2.7)ベンサムの法哲学
  (2.7.1)法律の規定を検証するための、人間本性の原理を体系的に考察すること。
  (2.7.2)法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として、実際的な見地から法律を見ることの模範を示すこと。
  (2.7.3)法観念一般、法体系の観念やそれらの中に含まれている様々な一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃すること。
   (i)曖昧さは、明確さと正確さによって対処すること。
   (ii)細部は、一般論によってではなく細部によって論ずること。
   (iii)既存のものが悪いことを示すだけではなく、具体的な改善案を提示すること。
  (2.7.4)すべての法律を、体系的に配列された一法典に転換すること。
   (a)従来の法典
    (a.1)専門用語が明確に定義されていない。
    (a.2)その結果、専門用語の意味を知るために、絶え間なく過去の判例を参照する必要がある。
   (b)体系的な法典
    (b.1)解釈のために必要なものを、すべて含む。
    (b.2)法典の修正や改善に必要な情報が、つねに整えられている。
    (b.3)法典の構成要素、諸要素間の関係、命名法、配列の仕方等、体系化方法を明確にする。
    (b.4)体系の全体構成において、不足要素が明確にされており、追加が容易にできる。
  (2.7.5)「司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった」。

 「栄誉はすべて彼のものである――彼の特別な資質以外には何もこれを成し遂げることはできなかっただろいう。

彼の不屈の忍耐力、他の人の意見によって支援されることを必要としない自立心、きわめて実際的な性分、総合的な習性――そして、とりわけ独自の方法が必要であった。

形而上学者は曖昧な一般論を武器としてこの主題にしばしば取り組んだが、自分たちが見いだしたままで進展させることはなかった。

法律は実際的な問題である。そこで検討されなければならないものは手段と目的であって、抽象観念ではなかった。

曖昧さは曖昧さによってではなく、明確さと正確さによって対処された。

細部は一般論によってではなく細部によって論じられた。

このような主題においては、既存のものが悪いことを示すだけでは何らかの進展を図ることはできず、どのようにすればそれらを良いものにできるかを示すことも必要であった。

ベンサム以外には、私たちが読んだことのあるどのような偉人もこのことをするのに適任ではなかった。彼はそれを決定的に成し遂げた。これらの著作[著作集]とこれから続いて出版される巻を見ていただきたい。

 ベンサムが成し遂げたことの詳細については立ち入ることはできない。ある程度の要約を作るだけでも数百頁が必要になるだろう。

私たちの評価を少数の項目のもとにまとめておくことにしよう。第一に、彼は法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として実際的な見地から法律を見ることの模範を示した。

第二に、彼は法観念一般、法体系の観念やそれらのなかに含まれているさまざまな一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃した。

第三に、彼は《法典化》(codification)、言い換えれば、すべての法律を成文の体系的に配列された一法典に転換することの必要性と実現可能性を実証した。

それは、単一の定義を含んでおらず、あらゆる専門用語の意味を知るために絶え間なくそれまでの判例を参照しなければならないナポレオン法典のような法典ではなく、解釈のために必要なものをすべてその中に含み、法典そのものを修正したり改善したりするための準備がつねに整えられているような法典である。

彼はそのような法典がどのような部分から成り立っているか、そして部分同士はどのような関係にあるかを示し、彼らしい区別と分類によって、その命名法と配列の仕方はどのようなものでなければならないか、あるいはどのようなものになりうるかを示すために多くのことをなした。

彼がやり残したことについても、彼は他の人が多少とも簡単にできるようにしておいた。

第四に、彼は民法が備えようとしている社会の緊急事態や民法のもろもろの規定を検証する人間本性の原理を体系的に考察した。この考察は、精神的利益が考慮されなければならないときはつねに(私たちがすでにほのめかしたように)不完全なものであるが、物質的利益を保護するために策定されるあらゆる国の法律にとっては優れたものである。

第五に、(注目すべき仕事がすでになされていた刑罰という主題については言うまでもないことだが)彼は、司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった。

彼がその原理をひとつ残らず確立させたので、実際の制度を示そうとするときでさえするべきことはほとんど残されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.141-142,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:ベンサムの法哲学,法律,人間本性,目的と手段,法典)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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