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2022年1月9日日曜日

およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

唯一の正しい解釈が存在するのか

およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.3.4.3)唯一の正しい解釈が存在するのか
(a.1)純一性の原理で唯一の解釈に到達できるのか
 事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は、一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 

(b.1)本質的に、選択しかないのではないか
 解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆することは誤りである。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない。

(c.1)従って、単に自らの政治的判断ではないのか
 明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。

(d.1)在る法ではなく在るべき法ではないのか
 彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということに過ぎないのではないのか。

(d.2)現に存在する責務
 純一性の精神は、同胞関係の基礎を持つ。すなわち、総体的な政治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択することは、裁判官が自分の属する共同体から現に負っている責務である。
(c.2)選択は責務に従っている
 全体としてより公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ずる解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。すなわち、自らの恣意的な道徳理念を持ち込んで判断しているのではない。
(a.2)判断は、純一性が許容し要求するもの
 およそ判断は、選択には違いない。しかし、純一性の理念は明確でそれが許容する選択肢は、恣意的なものではない。また、より適正と判断するのは裁判官個人には違いない。しかし、彼は自分の属する共同体への連帯責務を基礎に判断しており、恣意的なものではない。



「第二の反論はもっと洗練されている。今度は批判者は次のように主張する。「情緒的損害 の諸事例の解釈として何らかの唯一の正しい解釈が存在するという想定は不合理である。我々 はこれらの事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 ハーキュリーズは明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。確かに、この種の状況において彼に はそのような仕方で法を宣言する以外に選択の余地はない。しかしこの場合、彼が自らの政治 的選択によって何が《法》であるかを発見したのだと主張することは詐欺である。彼は、何が 法であるべきかについて自分自身の意見を示しているにすぎないのである」と。  この反論は多くの読者にとって強力なものに見えるだろう。そして我々も、この反論が実際 に主張している以上のことを主張していると思わせることによって、当の反論の説得力を弱め ないように注意すべきである。この反論は、慣例主義の考え方を、つまり、慣例が尽きたとこ ろで裁判官は立法の正しい規準に従って自由に法を改善することができる、という考え方を復 権しようと試みているわけではないし、ましてやプラグマティズムの考え方を、すなわち、裁 判官は常に法を自由に改善することができ、ただ戦略上の考慮によって抑制されるにすぎな い、という考え方を復権しようと試みるわけでもない。この反論は、適合性のテストを通過し た複数の解釈のどれか一つを裁判官が選択しなければならないことを認めている。ただそれ は、このテストを通過する解釈が複数あるときは最善の解釈など存在しえないと主張する。こ の反論は、上で私が構成したようなかたちをとるかぎり、純一性としての法という一般的な観 念の内部からの反論であり、純一性としての法という観念を詐欺による腐敗から守ろうとして いるのである。  この反論は正鵠を射ているだろうか。ハーキュリーズが自分の判断を法についての判断とし て提示することがどうして詐欺になるのだろうか。ここでも再び、少々異なる二つの答えが―― 反論を更に具体的に展開する二つの方法が――ありうるだろう。これら二つを区別し、それぞれ につき考察を加えないかぎり、我々は前記の反論の正しさを保証することはできない。まずこ の反論をより具体的に展開する一つのやり方は、次のように述べることである。「ハーキュ リーズの主張が詐欺的である理由は、(5)と(6)の解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆するからで ある。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない」と。これは私が第2章で詳しく論じた道徳的懐疑論からの挑 戦である。この挑戦については今ここで更に何がしかのことを付言しないわけにはいかない が、このために私は新しい批判者を利用することにし、この批判者について独自の一節をもう けて道徳的懐疑論の挑戦を考察することにしたい。これに対して、前記の反論を更に具体的に 展開する第二のやり方は、懐疑論には依拠しない。それは次のように主張する。「たとえ道徳 が客観的なものであっても、そして、ハーキュリーズが最終的に採用した予見可能性の原理は 客観的により公正であり、正義に一層かなっているという彼の見解が正しいとしても、彼は詐 欺師である。彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということにすぎず、それゆえ彼は詐欺師なのである」と。私がここで考察しよう と思うのは、この第二のタイプの反論である。」(中略)  「我々は純一性の精神を同胞関係の中に位置づけた。しかし、ハーキュリーズが総体的な政 治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択する方法をとらずに、何か別の方法を用いて判 決を下すべきことになれば、この精神は踏みにじられてしまうだろう。我々は自分たちの政治 共同体原理の共同体として取り扱うことを欲しており、だからこそ純一性を一つの政治理念と して受容するのである。そして、原理の共同体の市民は、あたかも画一性が彼らの望むすべてであるかのごとく、単に共通の原理を目指しているのではなく、政治が見出しうる最善の共通 原理を目指すのである。純一性は正義と公正から区別されるが、次のような意味でこれら二つ の価値と結合している。つまり、純一性以外に公正と正義をも欲する人々の間でのみ純一性は 意味をもちうる、ということである。それゆえ、ハーキュリーズが全体としてより適正と信ず る――より公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ず る――解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。彼は、まさに純一性がそれを許容すると同時に要求するような時点と方法にお いて当の選択を行う。それゆえ、まさにこの時点において彼は純一性の理念を放棄したのだ、 という主張は深い誤解に基づいていることになる。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,幾つかの周 知の反論,未来社(1995),pp.403-405,407小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月7日金曜日

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の諸部門と純一性について

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)法の諸部門
 法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。

(b)事案の法部門への割当てとその影響
 通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。
(c)プラグマティズム法学の主張
 プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すれば、これが異なった法部門に属することを主張する。
(d) 純一性としての法の主張
 (i)純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれない。
 (ii)しかし他 方、純一性としての法は、解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。 
 (iii)諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みる。すなわち、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論をめざすことによって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。


「法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。ロー・スクールは 教科過程を法の分野別に区分し、ロー・スクールの図書館も論文も同じく分野別に区分するこ とで、経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。法をめぐる議論や司法上の議論は これらの伝統的な区別を尊重している。通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。  法を諸部門へと区分することは、それぞれ異なった理由によるが慣例主義とプラグマティズ ムの両者の考え方に適合している。法の諸部門は伝統に基礎を置いており、これは慣例主義を 支持するように思われる。そして、これらの諸部門は、プラグマティストが例の高貴なる虚言 を語る際に操作可能な戦略を提供してくれる。つまり、プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すればこれが異なった法部門に属することを主張できるからである。これに対して、 純一性としての法は、法を諸部門へと区分することに対してもっと複雑な態度をとる。その一 般的な精神は、このような区分を断罪する。なぜならば、純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれないからである。しかし他 方、純一性として法は解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。  ハーキュリーズは、諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みること で、前記の競合する要請に答えようとする。彼は、法を諸部門へと区分する実践を説明する際 に、当の実践を最善の光のもとに示すような説明を見い出そうと努める。諸部門の間に設けら れた境界は、一般の人々の見解と普通は一致している。例えば、多くの人々は故意の加害行為 が不注意による加害行為よりも強い非難に値すると考えており、国家がある人間に対して彼が 惹起した損害の賠償金を支払うように要求する場合と、同じく国家がある人間を犯罪について 有罪と宣告する場合とでは、非常に異なった種類の正当化が必要となること、等々についても 同様である。この種の一般的な意見に合わせて法の諸部門を区別すれば予測可能性は促進さ れ、公職者が突然に解釈を変えて法の広汎な諸領域を根絶やしにしてしまうようなことも未然 に防げるわけであり、しかも純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方でこ れを達成できるのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,法――情緒的 損害の問題,未来社(1995),pp.389-390,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



2022年1月5日水曜日

実定法に最良の正当化を与え得る諸原理の体系が存在する。立法は諸原理に整合的であり(純一性の立法上の原理)、法の解釈は諸原理に基づき(公正観念の純一性)、司法もこれに従う(純一性の司法上の原理)。これら諸原理はより普遍的なものであるべきと考えられ(正義観念の純一性)、法の総体系を導き、純一性を与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

純一性としての法

実定法に最良の正当化を与え得る諸原理の体系が存在する。立法は諸原理に整合的であり(純一性の立法上の原理)、法の解釈は諸原理に基づき(公正観念の純一性)、司法もこれに従う(純一性の司法上の原理)。これら諸原理はより普遍的なものであるべきと考えられ(正義観念の純一性)、法の総体系を導き、純一性を与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(6.3.1)公正観念の純 一性
 立法府が掌握すると想定された権威を正当化するため に必要な政治原理は、当の立法府が制定した法律が何を意味するかを決定する際にも充分な効 力を与えられるべきである。
(6.3.2)正義観念の純一 性
 立法府の諸決定の大部分を正当化するために必要な道徳原理は、それ以外の法においても認められねばならない。
(6.3.3)手続的デュー・プロセスの純一性
 法のある部分を執行する際に正確さと効率性を、正しく均衡のとれた仕方で調整するものと考えられた訴訟手続は、不正確な評決が 惹き起こす道徳的危害の種類と程度の相違を考慮に入れながら他のあらゆる場合にも同様に採用されねばならない。
(6.3.4) 原理の整合性と首尾一貫性
 これらの幾つかの要求は、原理の整合性や首尾一貫性をそ れ自体で価値あるものと見なし、このような整合性や首尾一貫性を信奉することを正当化する。

(6.3.5)純一性の立法上の原理
 立法行為によって法を創造する人々に対して、法を原理において整合的なものとして保持するように要求する。

(6.3.6)純一性の司法上の原理
 何が法であるかを決定する責任を負った人々に対して、前述の如く原理において整合的なもの として法を解釈し適用すべきことを要求する。

(6.3.7)プラグマティズム法学への批判
 (a)過去の効力を認めないのは誤り
  純一性としての法は、過去それ自体にある種の特別な効力を認めるべきではない、というプラグマティストの主張とは反対に、どのような仕方で、 またどのような理由で過去それ自体に対してこの種の効力を裁判所において認めるべきなのか を説明してくれる。
 (b)法をばらばらな個別的判決の集合と見るのは誤り
  純一性としての法は、なぜに裁判官たちは彼らが運用する法の総体を 一つのまとまった全体として考えねばならず、一つずつ自由に創造したり修正することがで き、他の部分については戦略的な関心をもつだけでいいような、ばらばらな個別的判決の集合として考えてはいけないのかを説明してくれる。


「私は、法的権利の観念に対するプラグマティストの挑戦にかこつけて、通常の政治及びこ れに内在する政治的徳の区別に関する前記の議論を開始した。もし純一性というものを正義及 び公正と並ぶ別個の政治的徳として我々がこれを受け容れるならば、このような権利を承認す るための一般的で非戦略的な論証が我々に与えられたことになる。ある共同体の公正観念の純 一性は次のことを要求する。すなわち、立法府が掌握すると想定された権威を正当化するため に必要な政治原理は、当の立法府が制定した法律が何を意味するかを決定する際にも充分な効 力を与えられるべきである、とそれは要求するのである。また、ある共同体の正義観念の純一 性は次のことを、すなわち、立法府の諸決定の大部分を正当化するために必要な道徳原理は、 それ以外の法においても認められねばならないことを要求する。そして手続的デュー・プロセ スという観念の純一性は次のことを要求する。すなわち、法のある部分を執行する際に正確さ と効率性を正しく均衡のとれた仕方で調整するものと考えられた訴訟手続は、不正確な評決が 惹き起こす道徳的危害の種類と程度の相違を考慮に入れながら他のあらゆる場合にも同様に採 用されねばならない、と要求する。これらの幾つかの要求は、原理の整合性や首尾一貫性をそ れ自体で価値あるものと見なし、このような整合性や首尾一貫性を信奉することを正当化す る。そしてこれらの要求は、私がこれから主張しようと思うこと、すなわち、優雅さの盲目的 崇拝ではなく純一性こそ我々が現に知っているような法の生命であることを示唆しているので ある。  純一性の諸要求を、二つのより実際的な原理へと分割するのが有益だろう。第一は純一性の 立法上の原理であり、これは立法行為によって法を創造する人々に対して、法を原理において整合的なものとして保持するように要求する。第二は純一性の司法上の原理であり、これは、 何が法であるかを決定する責任を負った人々に対して、前述の如く原理において整合的なもの として法を解釈し適用すべきことを要求する。第二の原理は、過去それ自体にある種の特別な 効力を認めるべきではない、というプラグマティストの主張とは反対に、どのような仕方で、 またどのような理由で過去それ自体に対してこの種の効力を裁判所において認めるべきなのか を説明してくれる。また、この第二の原理は、なぜに裁判官たちは彼らが運用する法の総体を 一つのまとまった全体として考えねばならず、一つずつ自由に創造したり修正することがで き、他の部分については戦略的な関心をもつだけでいいようなばらばらな個別的判決の集合と して考えてはいけないのかを説明してくれるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),pp.266-267,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義、プラグマティズム法学、純一性としての法

法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6)法の3つの観念
(6.1)慣例主義(conventionalism)
 過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が、予測可能性と、この拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きる。
(6.2)プラグマティズム法学(legal pragmatism)
 裁判官は過去との整合性それ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきである。
(6.3)純一性としての法(law as integrity)
 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していくことで、市民の間に一種の 平等が生み出されていく。そして、この平等は市民の共同体をより真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。


 「第一に、法と強制の間に想定された結合関係はそもそも正当化されうるだろうか。公権力 は過去の政治的決定「に由来する」権利や責任に合致したやり方でのみ行使されるべきだ、と 要求することに何か意味があるのだろうか。第二に、もしこのことに意味があるとすれば、そ れは何か。第三に、「に由来する」という言葉をどのように理解すれば――過去の決定との整合 性をどのように観念すれば――前記の「意味」に最も善く奉仕することになるのか。法観念がこ の第三の問いに対してどんな解答を与えるかによって、当の観念が承認する具体的な法的権利 や責任が確定する。  以下に続く数章で我々は相互に対立し合う三つの法観念を区別し、これら三つの観念を、前 記の一連の問題に対する解答として考察するだろう。これら三つの法観念は私が前記のモデル に従って慎重に構成したものであり、それぞれ我々の法実務についての三つの抽象的な解釈を 示している。ある意味でこれらの観念は新奇なものと言えるかもしれない。これらの観念は、 私が第1章で説明した法理学の様々な「学派」に正確に対応しているわけではない。むしろ、 最初に考察される二つの観念に関しては、そのいずれについても、私の説明と精確に一致する ようなかたちで当の観念を擁護するような法哲学者は一人もいないだろう。しかし各々の法観 念は、たとえこれらが意味論的な主張ではなく今や解釈的な主張として再構成されていても、 法哲学の文献に顕著にみられるテーマや理念を充分に捉えており、私が提示する三つの観念の 間の議論のほうが、法哲学の文献によくみられる陳腐な論争より一層啓発的である。私はこれ ら三つの観念を「慣例主義」(conventionalism)、「プラグマティズム法学」(legal pragmatism)、そして「純一性としての法」(law as integrity)と呼ぶことにした い。後で私は、これらの観念のうち最初のものは、当初は一般市民の法理解を表現しているよ うに見えても、最も説得力のない観念であること、そして、第二の観念のほうがより有力な観 念であり、この観念は我々の議論の舞台を政治哲学をも含めるような仕方で拡張することに よってのみ論駁されうること、そして更に、第三の観念が万事を考慮したうえで最善の解釈と 言えること、すなわち、法律家や法学教師や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを最善の 仕方で解釈しているのは第三の観念であることを論ずるだろう。  法に関する我々の「概念的」な記述が提起する第一の問いに対し、慣例主義は肯定的な解答 を与えている。慣例主義は、法と法的権利の理念を是認する。更に第二の問いに対する解答と して慣例主義は、法による強制の趣旨が――すなわち、過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が――予測可能性に尽きること、そしてまた、 予測可能性という拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きることを主張する。――もっとも、 我々が後に見るように、法とこれらの価値(予測可能性や手続上の公正)との間の正確な関係 については、慣例主義者の間でも見解の分かれるところであるが――。次に、第三の問いに対す る解答として慣例主義は、我々が要求すべき過去の決定との整合性がとる形態に関し、厳密に 限定された説明を与えている。すなわち、権利や責任が過去の決定に由来すると言えるのは、 これらが過去の決定の中に明瞭に含まれているか、法職にある人々の全体が慣例的に重要視して いる方法ないし技術によって明瞭なものとされうる場合に限られる。慣例主義によれば、政治 道徳は、過去に対してこれ以上の敬意を払うよう要求することはない。それゆえ、慣例の効力 が尽きた場合、裁判官は何らかの完全に前向きな判決の根拠を捜し出さなければならない。  法概念に関して私が示唆した観点からすると、プラグマティズム法学は懐疑的な法観念であ る。私が右で挙げた第一の問いに対して、それは否定的な解答を提示する。すなわち、裁 判官の判決は過去に下された他の政治的決定と合致したものでなければならず、訴訟当事者に はこの種の合致を要求する何らかの権利があると想定され、判決はこのような権利によって チェックされねばならない、といった要請を行うことによって共同体に何か真の利益が生まれ るという考え方をそれは否認する。プラグマティズム法学は、我々の法実務に関してこのよう な要請とは非常に異なった解釈を与えている。この立場によると、裁判官は過去との整合性―― これがいかなる形態の整合性であれ――をそれ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきなのである。従って厳密に言うとプラグマティストは、法概念に関する私 の説明で展開されているような法や法的権利の観念を拒絶していることになる。もっとも、 我々が後で見るように、人々があたかも何らかの法的権利を有している「かのように」裁判官 が時として行動すべきことを、戦略上の理由が要求するのであるが。  純一性としての法は、慣例主義と同様に、法および法的権利を心底から受け容れている。し かし、第二の問いに対してそれは慣例主義とは非常に異なった解答を与えている。純一性とし ての法が想定するところによれば、法の拘束は、単に予測可能性や手続上の公正をもたらした り、その他何らかの道具的な仕方で社会の利益になるのではなく、むしろ、市民の間に一種の 平等を生み出すことによって社会の利益になるのである。そして、この平等は市民の共同体を より真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。第三の問いに対して純一性の立場が与える解答も――すなわち、法が要求 する過去の政治的決定との整合性とはどのような性格の整合性か、という点に関する説明も―― 前記のことと呼応して、慣例主義が与える解答とは異なっている。その主張によれば、権利と 責任が過去の決定に由来し、したがって法的なものと見なされるのは、単にそれらが過去の決 定の中に存在する場合だけに限られない。当の明示的な決定を正当化する際に前提とされてい るような個人的及び政治的な道徳から権利や責任が導出される場合も、これらを過去の決定に 由来する法的権利ないし法的責任と見なすべきである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第3章 法理学再論,法概念と法観念, 未来社(1995),pp.160-163,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




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