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2022年7月8日金曜日

人間は、自らの在り方を選択できる自由意志を持っており、道徳哲学により欲望や情念を離れ、弁証法により理性を用い、自然哲学と神学により真理に近づく。過去さまざまな哲学や宗教が生み出されたが、そのなかには同一の真理が象徴的に表現されている。(ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494))

人間の尊厳について

人間は、自らの在り方を選択できる自由意志を持っており、道徳哲学により欲望や情念を離れ、弁証法により理性を用い、自然哲学と神学により真理に近づく。過去さまざまな哲学や宗教が生み出されたが、そのなかには同一の真理が象徴的に表現されている。(ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)『人間の尊厳について』 ) 


https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000864834-00










2022年2月8日火曜日

真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志と逃れ難いもの

真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私の自由の範囲を拡大できない。逃れ難いものとしての自然法則、言語、諸命題で認識できる諸法則、これらで認識できる外的世界、物質、他者、私自身に関する諸事実である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)私の支配の外にある要因
 真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させ、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、無制限ではない。

(2)逃れ難いもの、自然法則、言語、諸命題で認識できる諸事実、諸法則
 私が合理的で正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。

(3)物質、他者、私自身に関する諸事実、諸法則
 私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう に助けてくれる

(4)真の選択、偽りの選択、逃れ難いもの
 真の選択と偽りの選択とを区別する過程で、それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりなく、私は自分には逃れ難い本性があるのに気づく。


「いわずもがなのことであるが、次のようなことは言っておく必要があると思う。未来につ いて、未来の事実がしっかりと固まってすで形成されたものと見るのは、物の見方として虚偽 である。われわれ自身の行動と他の人々の行動を、全体としてあまりに強くて抵抗しえないよ うな力によって説明しようとするのは、もともと事実によって説明してよいことの範囲を超え ているから、経験的に誤りである。この理論は、極端な形態にまで押しつめれば、決定なるも のを一撃で粉砕してしまう。つまり、私は私自身の選択によって決定されるということになる であろう。そうでないと信じること――例えば決定論、宿命論、偶然論などに立って――は、それ 自体で一つの選択であり、むしろそれ故に一層卑怯な選択である。けれども、このような傾向 はまさしくそれ自身で人間の特性の一つの現れであると論じることも、たしかに可能である。 未来を――過去との対称的な対比で――変更不可能なものと見なすこのような傾向、あるいは言い 訳を求め、逃避主義的な夢想に走り、責任から逃亡しようとするのは、それ自体が心理的な事 実である。自己欺瞞とは、もともと私が意識的に選べないものである。私がこのような結果に なるとは知りつつも、しかしその結果を避けないように行動することもあるであろう。しか し、選択と強制された行動との間には差異がある。強制そのものが、過去の強制されざる選択 の結果であったとしても、両者は別である、私の抱いている幻想が、私の選択の分野を決定す る。己を知ること――幻想を破ることがこの分野を変える。つまり、現実に(いわば)何ものか が私を選択しているにもかかわらず、私は自分がそれを選択したのだと考えるのではなく、私 が真に選ぶことを《より》可能にするのである。しかし、真の選択と偽りの選択とを区別する 過程で(それがいかにして区別されるのか、私がその幻想をいかにして見抜くかにかかわりな く)、私は自分にはのがれがたい本性があるのに気づく。私にはできないものが、いくつかあ る。私が(論理的にいって)合理的ないし正気であれば、一般的命題を信じないわけにはいか ない。あるいは、正気であれば、一般的な言葉を使わないわけにはいかない。肉体を有しなが ら、重力に引かれないわけにはいかない。おそらくある意味では、その両者をそれぞれ同時に 試みることはできるであろうが、それでも、合理的であるということは、私がそれに失敗する ということを意味しているはずである。私自身の本性や他の物や人の本性、さらには私とそれ らの物や人を支配する法則について私が知っていることは、私が精力を浪費し誤用しないよう にたすけてくれる。それは、偽りの主張と言い訳をあばき出す。責任をあるべきところに固定 し、偽りの無実の申し立てと真に無実の人々にたいする偽りの非難をしりぞける。しかしそれ は、真にそして恒久的に私の支配の外にある要因によって決定された境界線を越えてまで、私 の自由の範囲を拡大できはしない。これらの要因は、説明したからといって無くなるわけでは ない。知識の増大は、私の合理性を増大させるであろう。そして無限の知識は、私を無限に合 理的にしていくことであろう。それは私の力、私の自由を増大させるかもしれない。しかしそ れは、私を無限に自由にすることはできない。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.263-265,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月7日月曜日

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由への障害から自由意志を考える

選択が真の自己決定であるかどうかの解明は困難であっても、選択肢を制限する障害は因果的に理解可能である。自由であるとは、選択には互いに競合するいくつかの可能性、開かれた道が存在することを前提としており、障害を理解したり障害から解放されるには、合理性や知識が関わってくる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)選択における障害、自由の程度
 私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別する基本的な特徴であり、自由には選択行為にたいする障害がないことによって定められる程度があるということが、中心的な想定になっている。
《概念図》
 因果的変化(決定論的)
  状態1→状態2
 因果的変化(非決定論的)
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つに変化
 選択
  状態x→状態n (n=1,2,3,...)
  ・可能な状態nのうちの一つを選択
  ・可能でない状態は障害がある状態
  ・障害は因果的法則の結果である

(2)自由な選択は先行する諸条件によって完全には決定されていない
 選択は、それ自体が先行する諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性、開かれた道を前提としている。


(3)選択肢を制限する障害は、因果的に理解可能
 非決定論的な因果的変化のどの特定部分が人間の自由意志に相当するのかを指し示すことや、またその変化が、なぜ自らの能動、自己決定と考えられるのかの解明が困難であっても、選択肢を制限する障害は、因果的に理解することができ、これは、合理性と知識に緊密に関わる。

(4)障害の例
 障害は多様であり、充分には認識できない。物理的なもの、精神的なもの、社会的要因、個人的要因。地理的条件、牢獄の壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威。心理的であ る場合は、恐怖感、コンプレックス、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神経症、精神病など。

(5)障害からの解放手段
 道徳的自由、合理的な自己統制、すなわち何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること、確かにこれら全ては障害からの解放をもたらすであろう。



「私の見るところ通常の思想と言語では、自由とは人間を人間以外の一切のものから区別す る基本的な特徴であり、自由には程度――選択行為にたいする障害がないことによって定められ る程度があるということが、中心的な想定になっている。ここでの選択は、それ自体が先行す る諸条件によって決定されていない、少なくとも全面的には決定されていないと見なされてい る。他の問題におけると同様、ここでも通常の感覚の方が間違っているのかもしれない。しか しそれに反駁する責任は、それに賛成しない人の側にある。通常感覚が自由の障害がどれだけ 多様であるかを充分に意識していないということもある。障害は物理的でも精神的でもある。 「内的」でもあり、「外的」でもある。あるいは両者の要素の複雑な混合でもある。社会的要 因や個人的要因、あるいはその両者のために解明が困難であり、おそらく解明は概念的に不可 能かもしれない。通常の意見は、この問題を過度に単純化しているのかもしれない。しかし私 の思うに、それは本質については――、自由とは行動にたいする障害がないということにかか わっているという点については正しい。これらの障害は、われわれの意図の実現を妨げる物理 的な力――自然のものか人間によるものかは問わず――から成る場合もある。地理的条件、牢獄の 壁、武装した人々、食住その他生活に必要なものが欠如するという脅威(意図的に武器として 用いられるか、意図せざるものかにかかわりなく)などがそうである。また障害が心理的であ る場合もある。恐怖感、「コムプレックス」、無知、錯誤、偏見、幻想、夢想、強迫観念、神 経症、精神病など、多種多様な非合理的要因である。道徳的自由、合理的な自己統制――何が問 題であるか、何が自分の行動の動機であるかを知っていること、他人や自分自身の過去の影 響、あるいは自分の集団や文化の影響から生じるまだ認識されていない力からの独立、内省し 合理的に検討すれば根拠がないことが判るような希望、恐怖、願望、愛情、憎悪、理想などを 破壊すること――たしかにこれらすべては障害からの解放をもたらすであろう。その障害の一部 には、人類の進路におかれたものの中でもっとも恐るべき、かつ陰険なものも含まれているで あろう。プラトンからマルクスとショーペンハウエルにかけての道徳論者は、この障害につい て鋭い、しかし散発的な洞察を行ってきた。しかしその力が全体として充分に理解されるよう になったのは、ようやく精神分析学の登場とその哲学的含意が知覚されるようになった今世紀 のことであった。この意味での自由概念の有効性を否定し、それが合理性と知識にたいして緊 密な論理的依存関係にあることを否定するのは、愚かなことであろう。自由がすべてそうであ るように、この自由も障害の除去から成り、あるいはそれに依存している。この場合の障害と は、人間の力の全面的な行使――人がいかなる目的を選ぼうと――にたいする心理的な障害物のこ とである。しかしこの障害は、それがいかに重要で、これまでいかに不充分にしか分析されて こなかったにせよ、障害の一部分でしかない。他の部類の障害、他のよりよく認識されている 形態の自由を無視して、このような障害だけを強調すれば、問題が歪曲されていくことになる であろう。そして私の思うに、ストア派からスピノザ、ブラッドレー、スチュアート・ハムプ シャーにかけて、自由を自己決定にだけ限定してきた人々は、まさにこの歪曲を行ってきたの である。  自由であるとは、強制されざる選択ができるということである。そして選択は、互いに競合 するいくつかの可能性――少なくとも二つの邪魔のない「開かれた」道を前提としている。それ はまた、いくつかの道を開いておくような外的な状況にかかっているであろう。人や社会が享 受している自由の幅について語る時にわれわれの念頭にあるのは、思いにその人と社会の前に 開かれている道の広さないし幅、いわば開かれている扉の数と、その扉がどれだけ広く開かれ ているかということである。しかしこの譬喩は不完全である。実際には「数」と「幅」だけで は不充分だからである。いくつかの扉が他の扉よりもはるかに重要であることもある。個人と 社会の生活にとって、その扉の奥にある利益の方が、はるかに中心的な関心事であることもあ ろう。ある扉は他の開かれた扉に続き、ある扉は閉ざされた扉へと続いている。現実の自由が あり、また可能性としての自由もある。それは、現存ないし潜在的な力――物理的ないし精神的 な力のもと、いくつかの閉ざされた扉をどれだけ容易に開くことができるかにかかっている。 それにしても、いかにして一つの状況を他の状況に照らして測定できるのであろうか。例えば、物質的な必要と安楽さが充分に保障されているという意味で、他人によっても状況によっ ても妨害されていないが、しかし言論と結社の自由は許されていない人がいるとしよう。他方 でより大きな教育の機会、他の人々との自由な交流と結社の機会を有しているが、例えば政府 の経済政策のためにぎりぎりの生活必要物資しか入手できない人がいるとしよう。この二人の どちらがより大きく自由かをどのようにして決定できるであろうか。この種の問題は常に生じ てくるであろう。それは功利主義の著作で、むしろあらゆる形態での非全体主義的な政治の実 践で充分にお馴染みのことである。しかし、たとえ硬くしっかりした基準を提出できないとし ても、人ないし社会の自由の尺度はもっぱら選択可能な可能性の幅によって決定されていると いうことは、依然として事実である。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.285-288,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月6日日曜日

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの選択、評価、判断

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)理解すべき自己は存在するのか
 人が自らを理解すれば、たとえそれが自由の充分条件ではないとしても、その時はじめて自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということを前提としている。

(2)理解するのでなく自ら選択するのではないのか
 (a)選択が自己を創造する
  理解すべき自己があるということ自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。
 (b)選択回避は責任回避
  選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。
 (c)社会的圧力は絶対的ではない
  自由に対する障害である社会的圧力などの存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人に、利用できない手段ではない。
 (d)影響があるにしても自らの選択である
  他人の圧力、同調行動への教師や友人や両親の圧力、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動による影響も、もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだ。

(3)選択しないことも一つの選択
 選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。

(4)私の選択、評価、判断である
「事実」は決して自ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏見、感情にしたがって、私は語る。




「しかしこの見解については、もっと根本的な批判があり、それを考察しておかねばならな い。人が自らを理解すれば(たとえそれが自由の充分条件ではないとしても)、その時はじめ て自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということ――人間の本性と呼 ぶに相応しい構造があり、それはあるがままの事実として存在し、法則に従い、自然的研究の 対象であるということを、前提としている。このこと自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。そのため人は、自然や社会の避けがた い法則の作用――例えば、無意識の精神の働き、不変の心理的反射作用、社会進化の法則の働き など――にあまりにも多くのことを帰着させがちである。この流派に属する批判者たち(彼らは ヘーゲルとマルクス、キェルケゴールの双方に多くを負っている)は、自由にたいするいくつ かの悪名高い障害――例えばJ・S・ミルが大いに論じた社会的圧力など――は、客観的な勢力で はないという。つまりその存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人には利用できない手段――個人の欲するがままに起こすことができない革命や急進的改革によってのみ変革できるといった性質のものではないと、いうのである。ここで論じ られているのは、それと正反対のことである。私は他人の圧力を受けているわけではない、ま た同調行動をとるよう学校の教師や友人や両親の圧力を受けているわけでもない、さらには私 には如何ともしようのないやり方で、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動に よって影響されているわけでもない。もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだと、いうのである。私が《せむし》、ユダヤ人、ニグロなど として嘲笑され、侮辱されたとしよう。あるいは裏切り者という疑いをかけられていると感じ て、気落ちしているとしよう。しかしそれは、私を支配している他人の見解や態度、つまりそ のような人々の《せむし》、人種、叛逆についての意見と評価を、私が承認することを選んだ からにすぎないのである。私は常にそれを無視し、あるいはそれに抵抗することができる。そ のような意見、基準、見方をせせら笑うことができる。そしてその時、私は自由である。まさ しくこれが、異なった前提の上に建てられているとはいえ、ストアの賢人ゼノンの肖像を描い た人々が抱いていた理論である。私が公衆の感情、あるいはあれこれの集団や人の価値に屈服 したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力――人的であれ非人格的なものであれ 外的な力の責任ではない。私としては、そのような影響力は抵抗しがたいと考え、私の行動を しきりにそのせいにしたがるであろうが、しかしそれは非難あるいは自己非難を避けようとし ているからにすぎない。このような批判者によれば、私の行動、私の性質、私の人格は神秘的 な実体、何らかの仮説的な一般的(因果的)諸命題の型の中の一要素ではなく、選択ないし選 択しないという型のおける一つの主体である。選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。私が自己に批判的で事実を直視するならば、自分が責任を他に転嫁しているのだという ことを発見するであろう。このことは、理論の領域にも実務の領域にもともに当てはまる。例 えば私が歴史家であるとすれば、歴史上重要な要因についての私の見解はさまざまな個人や階 級の評判を高めたり低めたりしたいという私の願望に深く影響されているかもしれない。それ は私の側の自由な評価の行為であると、論じられるであろう。私がいったんこのことを意識す るようになると、私は私の意志にしたがって選び判断できるようになる。「事実」は決して自 ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏 見、感情にしたがって、私は語る。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.260-262,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自分に病的盗癖があることを知った病的盗癖者は、放置か抵抗かの選択肢を獲得する。選択は成功するとは限らないが、知らなければ抵抗できず、知識はいくらか能力を高める。しかし、ある自己知識は、他の能力と自由を減少させるかも知れず、必ずしも自由の総額を増やすわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自己知識と自由意志

自分に病的盗癖があることを知った病的盗癖者は、放置か抵抗かの選択肢を獲得する。選択は成功するとは限らないが、知らなければ抵抗できず、知識はいくらか能力を高める。しかし、ある自己知識は、他の能力と自由を減少させるかも知れず、必ずしも自由の総額を増やすわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a) 動機、意図、選択、理由、規則
 合理的行動とは、その行為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則すなわち因果的、統計的、有機的な法則だけでは説明できない行動で ある。

(b)因果の連鎖でもなくランダムでもない
 合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中の単なる要 素とはなっていないような思想である。

(c)泥棒と病的な盗癖を持つ者
 ある人を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。

(d) 自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者
 人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があることを知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。
 (i)放置するのか抵抗するのか
  彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかし彼がこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある。
 (ii)つねに変更できるのか
  気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。
 (iii)いくらか能力が高まる
  ある傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる。それに対して、自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。

(e) 自己知識と自由の総額
 自己知識は、私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題は経験的な問題であり、それに対する答えは個々の状況にかかっている。
 (i)知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。
 (ii)ある分野での能力と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれない。
 (iii)認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。


「問題をこのように提出することは、合理性と自由とは何であるかを問うことである。少な くともそれに向かって、長い道を歩むことである。合理的思想とは、その内容、少なくともそ の結論が何らかの規則と原理に従っており、因果の連鎖ないし出鱈目の連鎖の中のたんなる要 素とはなっていないような思想である。合理的行動とは、(少なくとも原則としては)その行 為者ないし観察者によって動機、意図、選択、理由、規則などの観点から説明でき、自然の法 則――因果的、統計的、「有機的」、その他同じ論理的型の法則――だけでは説明できない行動で ある(動機、理由などによる説明と、原因、蓋然性などによる説明とが「範疇的」に別のもの であるのか、したがって原則として対立しないし、むしろ互いに無関係であるのかという問題 は、もちろんきわめて重要な問題であるが、ここではそれを提起するつもりはない)。ある人 を泥棒と呼ぶことは、その限りで彼に合理性を認めることである。彼に病的な盗癖があるとい うのは、合理性を認めないことである。人間がどこまで自由であるかが、自分の行動の根源に ついて彼がどこまで知っているかに直接にかかっているとすれば、自分に病的盗癖があること を知っている病的盗癖者は、その限りで自由である。彼は盗みをやめることができず、またや めようとはしないかもしれない。しかしかれがこの事実を知っているかぎり、彼はいまやその 衝動に抵抗するか(たとえ失敗せざるをえないとしても)、それともそれを野放しにするかの 選択ができる立場にある――と主張されるのであるが――から、彼は一層合理的になるだけでなく (この点には論駁の余地はなさそうである)、一層自由になることになるであろう。果たし て、常にそうであるということになるであろうか。気質や因果関係を私が自分で自覚している ということは、それを操作ないし変更させる能力があるということと同じであろうか。その自 覚が、必ずや私にそのような能力を与えるということになるであろうか。知識はすべて自由を 増大させるという言葉には、もちろん明白な意味がある。けれどもその意味はきわめて陳腐で ある。私に癇癪の発作を起こしたり、階級意識を感じたり、ある種の音楽にたいして陶酔する 傾向があることを自分で知っている場合、私はそれに応じて生活を演ずることができる――「で きる」という言葉のある意味で。それにたいして自分で知らない場合には、そうはできない。 つまり私はいくらか能力を高め、その限りで自由を得ている。しかしこの知っていることが、 他のある点では私の能力を低めることになるかもしれない。私が癇癪の発作や何か苦痛の(あ るいは逆に快適な)感情の起こってくるのを予感した場合、私は何か他の形で私の能力を自由 に行使するのを躊躇して、何か他の経験を得られなくなるかもしれない。詩を書き続けたり、 いま読んでいるギリシャ語のテキストを理解したり、哲学を考えたり、あるいは椅子から立ち 上がったり――そういったことができなくなるかもしれない。言い換えれば、ある分野での能力 と自由の増大にたいする代価として、他の分野での能力と自由を失うかもしれないのである (この点については、やや異なった文脈で後で立ち返ることにする)。また私は、癇癪の発 作、階級意識、インドの音楽にたいする耽溺などが起こってきたことを認識したとしても、そ のような感情を必ずしも統制できなくなっているかもしれない。古典的著作家たちの意味する 知識とは、「何をなすべきか」についての知識ではなくて事実についての知識であり、それは、ある目的や価値に加担したことをあたかも事実についての発言であるかのように偽装し、 あるやり方で行動するという決意を表明しないでそれを記述したものかもしれない。それはと もかく、私が他の人々について知っているのと同じように私自身についても知っていると主張 するとすれば、たしかにその知識の根源は私自身であり、私の確信は一層強いとしても、この ような自己知識は私の自由の総額を増大させもすれば、減少させもするように思われる。問題 は経験的な問題であり、それにたいする答えは個々の状況にかかっている。すでに述べた理由 によって、知識を得ればそれだけある点で私は自由になるという事実から、それが必ずや私の 享受する自由の総額を増大させるという結論にはならないのである。それは片手で与えたもの をもう一方の片手でより多く取り返し、自由を減少させるかもしれないのである。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.257-260,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志に関する諸問題

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)外的世界、他者、自己に関する事実
 重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。
 (a)基本的な想定
   (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。


(2)外的世界
 人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か。
 (a)外的世界が必要との主張
  例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。
 (b)内なる砦への退避
  ストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。

(3)どこまでが私の意志なのか
 事物と非合理的な生物から成る 外的世界と、主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのか。

(4)目的とは何なのか
 一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか。
 (a)客観的な目的があるとの主張
  ある者は、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張した。
 (b)目的は主観的であるとの主張
  目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されている。
 (c)目的はいかに知られるのか
  この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあるもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの か。




「つまり重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去するという結論である。哲学者(そして神学 者、劇作家、詩人)は、それぞれ人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か、そのような一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか、そして事物と非合理的な生物から成る 外的世界と主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのかについて、大きく意見を異 にしている。ある思想家は、本性の達成はこの地上において可能である(あるいはかつて可能 であったか、いつの日にかは可能であろう)と考え、また他の思想家は可能ではないと考え た。あるものは、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張したが、この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推 論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあ るもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの かについては、意見が異なっていた。また他のものは、その目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されていると信じていた。さらにいえ ば、例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば――人がいわばトロイ最後の王 プリアモスの不運に苦しめられるならば――、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。それにたいしてストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。彼らはさらにこれに加えて、意識的に独立と自立を求める人々、つまり 自分には支配できない外的な力の《おもちゃ》になることからの逃避を求める人々には、誰で も原則としてこの自己達成に必要な距離をおくことができるという、客観的な信念を抱いてい た。これらすべての見解に共通する想定として、次の点を挙げることができよう。  (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。そしてそ の知識は自動的に、暗闇でつまずかないように、そして所与の事実――事物と人の本性、それを 支配する法則――からして失敗を運命づけられている方針に努力を浪費しないですむようにして くれる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.255-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

真の自由とは何か

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。



「この理論によると、人間の行動が方向を誤った感情――例えば、存在していないものにたい する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪など――を原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。この見解では、合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、ある いはそれを無視ないし誤解している偽りの行動の説明ということになるであろう。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。したがって 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるか、逆にいえば、同じ効果、つまり(行動主体がどのような説明ないし正当化を試 みるかにかかわりなく)選択の結果であるかのように装って同じ行動を生み出すとしても、ど の程度まで何か隠された心理的、生理的条件によっていないかによって、人間は自由である。 ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。つまり、このような意 図と目的を持っていることが、彼の行動の充分条件ではないが、必要条件であるといってよい 場合である。自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である――彼が自分の行動をどう説明しようと、彼の表面の明白な動機と方針がいかに変化 しようとも、その事実には変わりはない。彼がどのような理由を挙げるにせよ、彼の行動が明 白に同じと予言できる時には、彼は自分には統制できない力の手中に握られており、したがっ て自由でないと、われわれは考える。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.256-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

バーリン選集2 時代と回想 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド



アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月19日水曜日

26.人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))

因果の法則と自由意志

人間の歴史も因果の法則には従っているに違いなく、歴史の規則性やパターンも認識できるだろう。しかし、それがあっても人間には、選択の自由がつねに残されている。また、科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する。 (アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)人間の歴史も因果の法則には従う
 因果の法則は、人間の歴史に適用できる。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、また恐らく現在もなお誤って考えているよりも、はるかに狭いことには、多くの経験的証拠がある。歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。
(b)法則やパターンがあっても選択の自由は残されている
 それにもかかわらず、そのような法則やパターンでも、何らかの選択の自由を残しており、人間の行為は、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されているわけではない。
(c)科学的な知識は自由を増やし、無知は自由を削減する
 知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、我々の活動をより効果的にし、我々の自由を拡張するのに役立つ。また、無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見は自由を削減する。


「ごく平凡ではあるが、私が一度も離れたことのない見方を、いくつかここで繰り返してお きたい。因果の法則は人間の歴史に適用できる(カー氏には失礼ながら、この命題を否定する のは狂気の沙汰と私は考えている)。歴史は、主として個人の意志間の《劇的な葛藤》ではな い。知識、とりわけ科学的に確立された法則の知識は、われわれの活動をより効果的にし、わ れわれの自由を拡張するのに役立つ。この自由は無知および無知のかもす幻想・恐怖・偏見に よって削減されやすい。自由な選択の範囲が、かつて人びとが考えたよりも、またおそらく現 在もなおあやまって考えているよりも、はるかに狭いことは、多くの経験的証拠がある。私の 知る限りでも、歴史における客観的なパターンは識別できるであろう。そして更に、私はただ つぎのことを主張しているだけだということを繰り返して言わねばならぬ。即ち、そうした法 則やパターンでも、何らかの選択の自由を残していると考えられるのでなければ――そして、行 動の自由が、先行する諸原因によってそれ自体完全に決定されている選択により、決定されて いるにすぎないような自由に止まらぬと考えるのでなければ――、われわれは現実についての見 方を、いままでとは違った方向で再建しなければならないだろう、そしてこの仕事は、決定論 者が考えているよりも、遥かに大変なものである、と。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,I,pp.50-51,みすず書房(2000), 小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2021年11月25日木曜日

「心」が量子状態に影響を及ぼすという証拠はない。また、量子的な非決定性が自由意志の本質とも思えない。行為を決定している何らかの意味での現在の心の状態を、何らかの意味での「心」が変えることができるとき、はじめて真の自由意志と言える。 (ポール・デイヴィス(1946-))

 自由意志

「心」が量子状態に影響を及ぼすという証拠はない。また、量子的な非決定性が自由意志の本質とも思えない。行為を決定している何らかの意味での現在の心の状態を、何らかの意味での「心」が変えることができるとき、はじめて真の自由意志と言える。 (ポール・デイヴィス(1946-))


「心が、逆に、量子的な頭脳に反作用を及ぼし、偶然の釣り合いを傾けることができるかどうかに関し (ESP実験を除いて)起こるという証拠は存在しません。 量子的なわずかな効果を増幅し て、頭脳が使うことのできるような水準の電気信号を作ることができることを示す必要があるのです。 たとえ、心が頭脳に働きかけることができたとしても、それがほんとうの自由意志になるのか、また 自由意志に意味があるのかさえ、明らかではありません。もし心自身が非量子的で決定論的なら、心 がある行為をするために頭脳を使おうと決めたとき、 なぜ心が一連の特定の行動に入ってくるのか、 その正当性を見いだす必要があります。行動を開始させる精神状態は過去の心の状態と頭脳が心に及 ぼす影響力によって完全に決まっているので、心は、自分のことは何も支配していない、 ニュートン のたんなる自動機械となります。その行動はまったく過去と現在の出来事の帰結なのです。 もし、逆 に、心が量子系のように非決定的なら、心はでたらめな揺らぎ (制御できない気紛れ)に従い、任意 性がその決定に忍び込んできます。 いずれにしても、伝統的な自由意志の概念に近いものだとは思え ません。もし心が過去の心の状態を変えることができ、 それによって未来のみならず、現在をも変え ることができたなら、はじめて真の自由意志となるでしょう。 そのとき、それ自身を含んで、自由意志が欲する、いかなる宇宙を構成することも自由であり、無限に、それを破壊し、構築することも 可能となります。もちろん、エヴェレットの多宇宙理論では、ある意味でこのようことが起こりま すが、意志の自由性はまったく幻想です。可能な世界はすべて現実に起こり、心り返し分裂して 莫大な数の世界に分布します。 心はそれぞれその運命を支配していると思っていが、運命はすべ て実際に平行して達成されているのです。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『他の世界』(日本語書籍名『宇宙の量子論』),第10章 超時間,pp.294-295,地人書館,1985,木口勝義)


【中古】 宇宙の量子論 /ポール・C.W.デーヴィス(著者),木口勝義(著者) 【中古】afb






2021年11月22日月曜日

拒否するという決定は、まさに意識されている故に、先行する無意識過程の結果なのか、あるいは、行為を促す衝動と拒否に影響を与える要因のせめぎ合いの中における能動的な制御なのか、これが問題である。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

拒否は能動的な意志の発動なのか

拒否するという決定は、まさに意識されている故に、先行する無意識過程の結果なのか、あるいは、行為を促す衝動と拒否に影響を与える要因のせめぎ合いの中における能動的な制御なのか、これが問題である。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


拒否が、無意識過程の結果なのか、意識的な意志の発動なのかを、考察するための整理である。
(a)皮質への刺激では、感覚のアウェアネスは主観的に遅延する一方、皮質下の経路への刺激は、主観的に遅延しない。
(b)無意識の信号の検出は、この信号へのアウェアネスがある場合、正確な検出と一致する可能性もある。
(c)しかし、その同じ内容に気づくようになるには、皮質下経路への刺激の 持続時間はおよそ400ミリ秒増加する必要がある。
(d)内発的な、自由で自発的な活動において、行為を促す意図へのアウェアネスは、脳プロセス がプロセスを無意識に始動した後、約400ミリ秒間遅延する。
(e)意識的な意志のアウェアネスには、行為を促す意識的な衝動の内容と、意 識を伴う拒否に影響を与える要因の内容も含み、意図しあるいは拒否する一方のみ意識化されるというわけではないだろう。
(f)拒否するという決定の基となる要因は、拒否に先行する無意識プロセスによって事実上発生する可能性もある。同時に、先行する無意識プロセスがなく、直接実行されている可能性もある。


「明らかに、拒否するという決定を意識するということはまさに、その事象に気づいている ことを意味します。このことと私の提案とは、どのようにつじつまを合わせることができるの でしょうか? おそらく、私たちはアウェアネスの概念を再検討しなくてはならないでしょ う。とりわけ、アウェアネスとその内容とが、それらをともに発生させる皮質プロセスの中で どのように関係しているか、を。アウェアネスはそれ自身が独自の現象であり、その内容、す なわちその人が気づき始めることの中身とは区別しなければならないことを、私たちの研究は これまで示してきました。 たとえば、感覚刺激のアウェアネスは、体性感覚皮質と皮質下の経路(視床または内側毛 帯)両方への連発刺激と同じような持続時間を必要とする場合があり得ます。しかし、この二 つの場合において、これらのアウェアネスの《内容》は異なります。皮質への刺激では、感覚のアウェアネスは主観的に遅延する一方、皮質下の経路への刺激は、主観的に遅延しません。 無意識の精神プロセスの内容(たとえば、信号へのアウェアネスなしで正確に信号を検出する こと)は、その信号へのアウェアネスがある場合、その意識的な内容(正確な検出)と一致す る可能性があります。しかし、その同じ内容に気づくようになるには、皮質下経路への刺激の 持続時間はおよそ400ミリ秒増加する必要があるのです!(リベット他(1991年)参照) 内発的な、自由で自発的な活動において、行為を促す意図へのアウェアネスは、脳プロセス がプロセスを無意識に始動した後、約400ミリ秒間遅延します(前の節で扱った、「「今、動 こう」という状況の中での、事象の生起順序」参照)。ここで発生するアウェアネスは、意志 プロセス全体に適用されると考えられます。これには、行為を促す意識的な衝動の内容と、意 識を伴う拒否に影響を与える要因の内容も含みます。ある事象のアウェアネスは、全体の事象 の内容の中の一つの事項に制約される必要がありません。 拒否するという決定の基となる要因は、拒否に先行する無意識プロセスによって事実上発生す るという可能性は、排除されていません。しかし、拒否を促す意識的な決定は、先行する無意 識プロセスによる直接的な指定なしで実行される可能性があります。つまり、先行する一連の 無意識な脳プロセス全体によって与えられた運動プログラムを、人は意識的に受容または却下 できます。しかし、拒否しようとする決定のアウェアネスは、先行する無意識のプロセスを必 要とし、そのアウェアネスの内容(拒否しようとする実際の決定)は、先行する無意識プロセ スという同じ必要条件があてはまらない、特別な特質を持つのです。[訳注=ここでは著者は 「拒否する決定も意志決定である以上、他の意志決定と同様400ミリ秒先立つ無意識的プロセ スを必要とするのではないか。そうなると、論理的に無限後退してしまう」という批判に、応 えようとしている。]」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.172-173,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

2021年11月20日土曜日

もし、意識を伴う拒否が、先行する無意識な過程の結果であるなら、拒否は意識的な選択とは言えない。それは、先行する無意識プロセスを必要とせず、起動されつつある行為の単なる意識化とは異なる制御機能であり、能動的な意志の発動なのではないか。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志

もし、意識を伴う拒否が、先行する無意識な過程の結果であるなら、拒否は意識的な選択とは言えない。それは、先行する無意識プロセスを必要とせず、起動されつつある行為の単なる意識化とは異なる制御機能であり、能動的な意志の発動なのではないか。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


「意識ある拒否には、先行する無意識の発生源があるのだろうか? ここで私たちは、意識を伴った意志の発達と出現の場合と同様、意識的な拒否そのものにつ いても先行する無意識プロセスに発生源があるかという可能性について考えなければならない でしょう。もし拒否そのものが無意識に起動し、発展するものであるのならば、拒否という選 択は、意識的な原因事象というよりも、《やがて自覚化される》無意識の選択ということにな ります。適切なニューロンの活性化のわずか約0.5秒後に、脳はある対象へのアウェアネスを 「生み出す」ことを、私たちのこれまでの証拠は示しています(第2章、およびリベット (1993年、1996年)参照)。 拒否を選択した無意識の起動でさえも、無意識とはいえ本人による正真正銘の選択であり、 依然として自由意志のプロセスであるとみなすことができる、と提案した人もいます(たとえ ばベルマンス(1991年))。自由意志についてのこのような意見が容認できるものでないこと に私は気づきました。このような意見によれば、人は意識的に自分の行為をコントロールする ことができないことになります。この場合、人は無意識に始動した選択にのみ、気づくことに なります。先行するどのような無意識プロセスの本質に対しても、直接的な意識を伴ったコン トロールをすることがまったくできないということになります。しかし、自由意志プロセスと いうときには、行動すべきか否かの選択について、人は意識的に責任を負うことができるとい うことが含意されています。私たちは、意識的なコントロールの可能性がなければ、無意識に実行する行為についてその人への責任を問いません。 たとえば、精神運動性のてんかんの発作やトゥレット症候群(社会的に眉をひそめられるよ うな言葉での罵り叫ぶ)の患者の行為は、自由意志に基づくものとはみなされません。それな らばなぜ、健常な人物に無意識にある事象が発生し、それがその人自身の意識的なコントロー ルも及ばないプロセスである場合にも、それはその人自身が責任を負わなければならない自由 意志に基づく行為だとみなされなくてはならないのでしょうか? このような考えに代わって、意識を伴う拒否は、先行する無意識プロセスを必要としなけれ ば、その直接的な結果でもないという考えを私は提案します。意識を伴う拒否は制御機能であ り、行為への願望に単に《気づく》こととは異なります。どのような心脳理論においても、ま た心脳同一説においてさえも、意識を伴う制御機能の性質に先行し、これを決定する特定の神 経活動が必要とされるような論理的な必然性はありません。また、先行する無意識プロセスが 特定の発達をすることなしに、制御プロセスが現れる可能性を否定する、実験的な証拠もあり ません。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.170-172,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

行為が期待されている直前の時点、100~200ms前であっても、予定した行為の拒否が可能であることが、実験 的に示される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

拒否としての自由意志

行為が期待されている直前の時点、100~200ms前であっても、予定した行為の拒否が可能であることが、実験 的に示される。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


「行動しようとする衝動の拒否、という経験は、私たちは日ごろよく経験しています。予測 される行為が、社会的に受け入れがたいものである場合あ、その人の全人格や価値観と合わな いものである場合に、これは特によく起こります。実際に、行為が期待されている直前の時 点、100~200ミリ秒前であっても、予定した行為の拒否が可能であることを、私たちは実験 的に示してきました。しかしこれは、実験的に限定された検証でした。自然発生的な拒否にお いては、電気的な筋肉の活性化がなく、そこを起点に時間を遡って何秒という時点の頭皮の電 気活動をコンピュータに記録されることができないわけですから、このことは検証できませ ん。したがって技術的に、あらかじめ予定した時間に実行するように計画された行為の拒否に 関する研究だけしか、行うことができません。被験者は、「時計」のある時点、たとえば10秒 の印のところで、行為を準備するように指示を受けます。しかし、被験者は予定していた時間 での行為を100~200ミリ秒前に拒否することになります。被験者が行動しようとする期待を 感じている報告と一致して、拒否を行うよりも1、2秒前にかなりの大きさのRPが発生します。 しかし、このRPの発生は、被験者が行為を拒否し、筋肉反応が現れなくなると、あらかじめ予 定していた時点のおよそ100~200ミリ秒前のところで横ばいになります。観察者は、行為を 予定した時点になったら、コンピュータに起動信号を送ります。このことによって、人は行為 を予定していた時点の直前100~200ミリ秒以内に、その行為を拒否できることが少なからず 示されました。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.161-162,下條信輔(訳))




マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

自由意志は意志プ ロセスを起動しない。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断したり、行為を実行させる(または誘因となる)ことで、その結果を制御できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志

自由意志は意志プ ロセスを起動しない。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断したり、行為を実行させる(または誘因となる)ことで、その結果を制御できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

「強迫反応性障害(OCD)は、行為を促す自発的な衝動と拒否機能の役割の異常な関係につ いて、興味深く適切な例を提示します。たとえばOCDの患者は、何度も繰り返し手を洗うと いった、特定の行為を繰り返し実行しようとする意識を伴った衝動を経験します。この患者に は、衝動を毎回拒否し、その行為をし続けないようにする能力が明らかに欠けているのです。 カリフォルニア大学ロサンゼルス校の神経学者であるJ・M・シュワルツとS・ベグレイ(2002 年)が行った非常に興味深い臨床調査では、OCD患者を訓練して、行為せずにはいられない衝 動を積極的に拒否する能力を改善することができました。患者は衝動的なプロセスを意識的に 拒否するように努力ことを学び、やがてOCDの症状を克服しました。積極的な「精神力」が、 行動せずにはいられない衝動を拒否する原因として作用すると解釈しなければならず、そのた めこの意識的な精神力は決定論的唯物主義者の観点からは説明がつかず、解決できない、と シュワルツとベグレイは提案しました。最近では、行動の暴力的な患者がこうした暴力の衝動 を拒否できるように訓練し始めた、とサンフランシスコのある精神科医が私に教えてくれまし た。 こういったことすべてが、私の意識的な拒否機能についての意見と合致しており、自由意志 がどのように作用するかという私の提案を強力に支持しています。つまり、自由意志は意志プ ロセスを《起動》しません。しかし、意志プロセスを積極的に拒否し、行為そのものを中断し たり、行為を実行させる(または誘因となる)ことで、その結果を制御することができます。 [訳注=この部分は、一見すると脳一元の決定論に見える自身の研究結果と、自由意志を擁護 する健全な常識的立場をなんとか矛盾なく両立させようとする、著者リベットの努力の跡、と 見ることができる。その骨子は、メンタルプロセスを二つに分け、行動への最初の衝動は無意 識裡に生理学的に起動されるが、それを止める「権利」は自由意志が有する、というものであ る。S・コズリンの「序文」に見るように、この考え方は主観的な現象と合致するばかりか、カ オス、複雑系などの影響を受けたモダンな脳観とも相性がよい。しかし反面で、この「最初の 衝動」と「抑制の意志決定」をそんなにきれいに切り分けられるのか、という疑問も提起す る。たとえば、ある行為をし続けていて、「そろそろ止めようか」という「抑制の意志決定」 はどちらに属するのか、議論の余地が残る。]」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.167-168,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

今、動こう」とする自発的なプロセスは、無意識に始動する。意識ある自己は、このプロセスを始動できなかった。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志とは何なのか

「今、動こう」とする自発的なプロセスは、無意識に始動する。意識ある自己は、このプロセスを始動できなかった。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

「哲学者ジョン・R・サール(2000年aとb)は、「『意識ある自己』が理由に基づいて行動 し、行為を《始動する》能力がある場合に、自発的な行為は現れる」、と主張しています。し かし、「今、動こう」とする自発的なプロセスは無意識に始動することを、私たちは発見しま した。したがって、意識ある自己はプロセスを始動できなかったはずです。行為が意識ある自 己によって発生しなくてはならない理由があるとすれば、それがいかなる理由であっても、予 定することや選択を決定したりするカテゴリにぴったりとあてはまるはずです。この種のプロ セスは、最終的な「今、動こう」とするプロセスとは明らかに異なることを、私たちは実験的 に示してきました。結局のところ、人は、まったく行動することすらせずに、ある行為につ いて計画し、思考することができるのです! 実験的に判明しているすべての証拠を考慮に入 れなかったことから、サールが哲学的に生み出したモデルは苦境に立たされます。彼のモデル のほとんどは検証されておらず、検証不能ですらあるのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.158-159,下條信輔(訳))
(索引:)








マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]

2021年11月16日火曜日

予測不可能性や絶対的非決定性は、自由意志の本質ではない。それは、物理法則、遺伝子、過去の経験、神経回路に組み込まれた価値判断のメカニズムに従ってはいても"自律的"な決定というものがある。過去の経験、思考、価値観から選択肢を導出し、欲求や情動と熟慮のなかで選択する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

自由意志の本質

予測不可能性や絶対的非決定性は、自由意志の本質ではない。それは、物理法則、遺伝子、過去の経験、神経回路に組み込まれた価値判断のメカニズムに従ってはいても"自律的"な決定というものがある。過去の経験、思考、価値観から選択肢を導出し、欲求や情動と熟慮のなかで選択する。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

「量子的な現象が何らかの働きに影響を及ぼしていたとしても、その本質的な予測不可能性 は自由意志という概念にそぐわない。哲学者のダニエル・デネットが詳しく論じているよう に、脳に純粋な形態のランダムさを帰属させても、「いかなる種類の価値ある自由」ももたら さない。私たちは、自分の身体が、トゥレット症候群患者の無作為のひきつりやチック症のよ うに〔どちらも、突発的で自己制御できない体の動きや発生が生じる〕、亜原子レベルで生じ る制御不可能な逸脱によってランダムに振り回されることを望んでいるのか? 自由の概念か らこれほどかけ離れた考えはないだろう。

 「自由意志」について議論するとき、私たちはもっと興味深い何かを意味する。自由意志に 対する私たちの信念は、正常な状況のもとでは、高次の思考、価値観、そして過去の経験に よって意思決定を導き、下位レベルの不必要な衝動をコントロールする能力が私たちに備わっ ているという考えを表現する。私たちは自律的な決断を下すとき、すべての選択肢を考慮し、 そのなかからもっとも気に入ったものを選び出すことで自由意志を行使する。確かに、自発的 な選択には偶然性が入り込む余地があるが、それは本質的なものではない。私たちの自発的な 行為のほとんどはランダムどころではなく、選択肢を慎重に検討し、もっとも気に入ったもの を意図的に選び出して実行されるのである。

 この自由意志の概念は、量子力学に訴えずとも、標準的なコンピューターシステムとして実 装し得る。人間のグローバル・ニューロナル・ワークスペースは、感覚入力および記憶からす べての必要な情報を集めて統合し、その結果を評価し、それについて好きなだけ時間をかけて 熟考したうえで、実際の行動を導く。これこそが、私たちが意思決定と呼ぶところの行為だ。 

  したがって自由意志について考察するにあたっては、私たちは意思決定に関して二つの直感 を明確に区別しなければならない。一つは根本的な非決定性という疑わしい考えで、もう一つ は自律性という尊重すべき考えだ。脳の状態は原因なしに引き起こされるのではなく、物理法 則から逃れられない。物理法則を免れられるものなど何一つない。しかし意思決定は、行動を 起こす前にその長所と短所を慎重に検討しつつ、いかなる妨害もなしに自律的になされれば、 純粋に自由なのである。この条件に当てはまれば、たとえそれが究極的には遺伝子、それまで の人生、そして神経回路に組み込まれた価値判断のメカニズムによって引き起こされたのだと しても、私たちはその行為を自発的な決定と呼べる。自然に生じる脳活動の変動のゆえに、自 分の決定は自分自身にさえ予測できない。だがこの予測不可能性は、自由意志を定義する特徴 ではないし、ましてや絶対的な非決定性と混同すべきではない。重要なのは自律的な意思決定なのだ。」

(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店 (2015),pp.365-366,高橋洋(訳))<b

意識と脳 思考はいかにコード化されるか [ スタニスラス・ドゥアンヌ ]









2020年5月3日日曜日

人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

感情や意図の共有能力と残虐行為

【人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)問題:人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
 (1.1)感情や意図の共有
  感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
 (1.2)残虐行為が存在するという事実
(2)仮説
 (2.1)科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係する
  共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度、政策の関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
  (2.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
    暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
  (2.1.2)科学的な事実と制度、政策の関係の問題
   (a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
   (b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
   (c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
  (2.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
   (a)社会性と人間の自由意志の関係
    人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
   (b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
    一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。

 「人は人と出会うと、感情や意図を伝えて共有する。人と人とは意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びついている。これがわかってみると、この《事実》は社会的行動の根本的な出発点なのではないかと私には思える。しかし伝統的な分析哲学では、意識しての行動や人と人との違いを強調するあまり、こうしたことがほとんど無視されてきた。一方、私たちはまた別の事実も突きつけられている。それは文字どおり残虐な世界だ。この世では毎日いたるところで残虐行為が起こっている。私たちの神経生物学的機構は共感を生むように配線され、ミラーリングと意味の共有をするように調整されているはずなのに、なぜそんなことになってしまうのか?
 私の考えでは、これには三つのおもな要因がある。第一に、模倣暴力という現象で見たように、共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせる可能性がある。これはいまのところ仮説でしかないが、非常に信憑性の高い仮説だと思う。もし裏づけが取れれば、この神経科学上の事実はぜひとも政策決定に役立てるべきである。とはいえ、実際にはそうはならないだろう。理由は二つある。第一に、私たちの社会は科学的データを政策策定に使えるような態勢には少しもなっていない。とくに模倣暴力のような事例では、金銭的利害と言論の自由との複雑な関係が絡んでくるから、なお難しい。これは簡単に答えの出ない厄介な案件だが、科学全般、そしてその一部である神経科学を、象牙の塔や市場だけに閉じ込めておくのは決して得策ではないと思う。現状ではどんな発見も神経疾患の薬物治療を発達させることに適用されるだけで、社会全般の幸福を促進するために適用されることはめったにない。神経科学上の発見が政策決定に実際に役立てられること、またそうすべきであることを、せめて公開の場で討論できるようになればと思う。こうした考えはいまのところほとんど現われていないが、絶対に必要なことだと確信する。
 神経科学を政策に反映させようとする考えに抵抗が生じる第二の理由は、自由意志をいう大切な概念が脅かされるのではないかという恐れに関係している。その恐れが模倣暴力に関する議論にも結びついているのは明らかだ。ミラーニューロンについての研究は、人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。伝統的に、個体行動の生物学的決定論の一方には、それと対比をなすものとして、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。しかしミラーニューロンの研究は、私たちの社会の掟のほどんどが、私たちの生物学的仕組みによって決められていることを示している。この新たな知見にどう対処すればいい? 受け入れがたいとして拒否するか? それともこれを利用して政策に反映し、よりよい社会をつくっていくか? 私はもちろん後者に与する。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.327-329,塩原通緒(訳))
(索引:感情,意図,残虐行為,制度,政策,社会性,自由意志)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
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2019年11月14日木曜日

精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

心理学の教育

【精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.4)心理学 追加。

 (5.3)論理学
    論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 (5.4)心理学
  (5.4.1)精神の能力の解明
   (a)精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか。
   (b)高度な精神作用は、どの程度まで観念連合によって説明がつくのか。複合的能力の構成要素は、一体何であるのか。
   (c)観念連合以外の基本的な諸原理を、どこまで認めなければならないのか。
  (5.4.2)精神と物質の関係
   (a)物質は、精神の能力との関係においてのみ存在する観念であるのか。
   (b)あるいは、物質は精神とは独立して存在している事実なのか。もし、独立しているとすれば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識を持つことができるのか。
   (c)知識の限界はどこにあるのか。
  (5.4.3)人間の自由意志の問題
   (a)人間の意志は自由であるのか。
   (b)それとも、人間の意志は、種々の原因によって決定されているのか。
  (5.4.4)時間と空間
   (a)時間・空間とは、現実に存在するものなのか。
   (b)時間・空間とは、感性的能力の形式なのか。
   (c)時間・空間とは、観念連合によって作り出された複合観念であるのか。
  (5.4.5)心理学の教育の効用
   (a)精神の能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などについて、論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることによって、以下の効用がある。
    (i)成功例と失敗例
     人間の知性の成功と失敗例を知ることができる。
    (ii)解決済と未解決問題の区別
     既に完全に解決のついた問題と、未解決な問題とを知ることができる。
   (b)論争があるような問題について考察することは、解決に向けての向上心を燃え立たせ、思考訓練にもなり、以下のような効用がある。
    (i)信念の根拠
     われわれの心の中の最も奥深い所にある確信の、根拠はいったい何なのかを考えさせる。
    (ii)言語の意味の解明
     習慣的に用いている語句の真の意味内容を考えさせる。また、言語の正確な使用を、益々強く求めるようになる。
    (iii)正しい論理の使用
     与えられた証明が正しいのかどうかを判断するとき、より注意深く、より厳密になる。

 「例えば、観念連合の法則がその一つであります。心理学は、そのような法則から成り立っている限り、――私はここでは法則そのものについて語っているのであって、議論の多いその適用についてではありません――化学と同じように実証的かつ確実な科学であり、科学として教えられるのにふさわしい学問であります。ところが、われわれが、以上のような既に容認されている真理の範囲を超えて、哲学の色々な学派の間で依然として論争されている諸問題、例えば、高度な精神作用はどの程度まで観念連合によって説明がつくか、他の基本的な諸原理をどこまで認めなければならないか、精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか、そしてこの複合的能力の構成要素は一体何であるか、という類の問題、とりわけ、いみじくも「形而上学の大海」と言われた領域にまで乗り出して、例えば、時間・空間とは、われわれの無意識の印象のように、現実に存在するものなのか、あるいはカントによって主張されているようなわれわれの感性的能力の形式なのか、あるいはまた、観念連合によって作り出された複合観念であるのか、物質と精神はわれわれの能力との関係においてのみ存在する観念であるのか、あるいは独立して存在している事実なのか、もし後者であるならば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識をもつことができるのであるか、またその知識の限界はどこにあるのか、人間の意志は自由であるのか、それとも種々の原因によって決定されているのか、更に、この二説の真の相違点は一体どこにあるのか、というこの種の問題、つまり、最も思考力に富んだ人々や、このような問題に専念して研究してきた人々の間でさえも未だに見解の一致を見るに到っていない問題に立ち入るならば、高度な思索を要求する領域に特に専念していないわれわれがこれらの問題の根底を究めようといかに努力しても、いかなる成果も期待しえないし、またその様な努力がなされるとも思われません。しかしながら、かかる論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることも、一般教養教育の一部なのであります。人間の知性の成功と失敗、その完璧な成果とともにその挫折を知ることや、既に完全に解決のついた問題とともに、未解決な問題があることに気付くことも、教育上有益であります。多くの人々にとっては、このような論争の的となっている問題を概括的に見るだけで十分であるかもしれませんが、しかし教育制度というものは多数の人々のためにのみ存在するのではありません。それはまた、思想家として人の上に立つべき使命を担う人々の向上心を燃え立たせ、彼らの努力に手を貸す役割を果たさなければなりません。そして、実は、このような人々を教育するためには、あの形而上学的な論争によって与えられる思考訓練ほど有益なものは他にほとんどありません。と言いますのも、そのような論争は、本質的には、証拠の判定、信念の究極的根拠、われわれの心の中の最も奥深い所にある確信に根拠を与えるための諸条件、更にまた、われわれが幼児期以来あたかもすべて知り尽くしているかのように用いてきた語句で、しかも人間の言語の根底に位置するものであるにもかかわらず、形而上学者を除いては誰も完全に理解しようと努めなかった語句の真の意味内容に関わる問題であるからであります。形而上学的問題の研究の結果、どんな哲学的見解をもつようになるかは別として、その種の問題の議論を通じて、人は必ずものごとを理解しようとする意欲が更に強まり、思考と言語の正確な使用を益々強く求めるようになり、証明が一体どんな性質のものであるかを認識しようとする際、より注意深く、より厳密になります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(6)心理学(精神科学),pp.56-58,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:心理学,精神の諸能力,精神と物質,自由意志,時間と空間)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月8日木曜日

25.正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理

【正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】


(3)事例。
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「私たちは、功利性は不確実な基準であって、すべての人が異なった仕方でそれを解釈しているし、それ自体が根拠をもっていて世論の揺らぎとは無関係な正義による不変で不滅で明白な指令以外に確実なものはないと絶えず告げられる。

ここから、正義に関する問題については論争の余地がなく、正義を規則とみなせば、どのような事例に適用しても数学の証明のようにほとんど疑問の余地がなくなると思うかもしれない。

このことは事実から遠く離れており、何が正しいのかについては、何が社会にとって有用なのかについてと同じように、多くの見解の相違や多くの議論がある。

異なった国民や個人は異なった正義の観念をもっているだけでなく、同一の個人の心のなかでさえ、正義は何らかの単一の規則、原理、格率ではなく、多くのものからなっており、それらの指令はつねに一致するとはかぎらないし、それらの中から選び取るときには、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれるのである。

 たとえば、他の人への見せしめのために人を処罰することは不正義であり、処罰はそれを受ける人の善を目的としているときにのみ正義にかなっていると言う人がいる。

まったく反対のことを言って、その人の利益のためといって分別ある年齢に達している人を罰するのは、問題になっているのがその人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰ももっていないのだから、横暴で不正義であるが、他の人に害悪が及ぶのを防止するためには、これは自己防衛という正当な権利の行使であるから、正当に罰を与えることができると主張する人もいる。

また、オウエン氏は、犯罪者が自らの性格を作り出したのではなく、教育や取り囲んでいた環境が人を犯罪者にしたのであり、それらについてその人は責任がないのだから、処罰はとにかく不正義であると主張している。

これらの見解はすべて非常にもっともらしいし、この問題が単に正義に関するものの一つとして論じられ、正義の根底にありその権威の源泉となっている原理にまで掘り下げられることがないならば、どのようにしてこれらの論者を論破することができるかは私にはわからない。

というのは、実際にこれらの三つの主張はいずれも明らかに真の正義の規則に立脚しているからである。

第一のものは、一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに他の人の利益のためにその人を犠牲にするという広く認められている不正義に訴えている。

第二のものは、自己防衛という広く認められている正義と、人が自分の善は何であるかということについて他の人に従うように強要されるという一般に認められた不正義に訴えている。

オウエン主義者は、本人がどうしようもできないことに関して人を罰することは不正義であるという一般に認められた原理を持ち出している。

自らが選んだもの以外の正義の格率も考慮しなければならないようにならないかぎりは、いずれの論者も得意げにしている。しかし、それらの複数の格率がつき合わされると、それぞれの論者は、他の論者とまったく同じ程度の自己弁護論を並べ立てるだけのように思われる。

彼らのうち誰も、同じような拘束力をもっている他の正義の観念を踏みにじることなく、自らの正義の観念を押し通すことはできない。これらが難点であり、これまでずっとそのように思われてきた。

そして、それらを克服するというより避けるために多くの工夫が考案されてきた。

三つのうち最後のものからの逃げ込み場として、人々は意志の自由と呼ぶものを考え出し、徹底的に憎むべきような意志をもった人を罰することは、そのような状態になったのはそれまでの環境の影響によるものではないと思われないかぎり、正当化することはできないと考えている。

その他の難問から逃れるために都合のよい工夫は契約という擬制であり、それによって、いつのことか分かっていないある時代に社会の全構成員が法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられることに同意し、その結果として、彼らを自分たちの利益あるいは社会の利益のために罰するという、このようなことをしなければ手にすることができなかったような権利を彼らの立法者に与えたとされる。

この巧妙な考えは難点を全面的に取り除くものと考えられ、危害を被ると思われる人の同意を得てなされることは不正義ではないということを意味する「同意あれば危害なし(Volenti non fit injuria)」という、もう一つの一般に認められている正義の格率に基づいて処罰を与えることを正当化するものと考えられた。

この同意が単なる擬制ではないとしても、この格率はそれが取って代ろうとした他の格率よりも優越した権威をもっていないということを指摘する必要はほとんどない。

むしろ、この格率は正義の原理というものがいい加減でいびつな仕方でできあがってくることを示している教訓的な実例である。

この特殊な格率は法廷での急場しのぎの一助として使われるようになったものであり、法廷は、詳細に検討しようとするとより大きな害悪がしばしば生じてくるだろうという理由から、時にはきわめて不確実な推論で納得せざるをえない。

しかし、法廷でさえこの格率をつねに遵守できてはいない。というのは、詐欺を理由として、あるいは時にはほんの些細な誤解や誤認を理由として、法廷は自発的な契約を無効にすることを認めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.331-334,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:正義の原理,個人の自由,正当防衛,責任の原理,決定論,意志の自由,同意あれば危害無し,社会契約)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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