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2021年12月19日日曜日

あるものが存在するという言明(孤立した純粋存在言明)は、反証不可能である。存在しないことは、経験では実証できないからである。しかし、その否定、あるものが存在しないという言明が反証可能であり、科学的に意味のある言明なら、もとの存在言明も意味のある言明である。(カール・ポパー(1902-1994))

存在言明について

あるものが存在するという言明(孤立した純粋存在言明)は、反証不可能である。存在しないことは、経験では実証できないからである。しかし、その否定、あるものが存在しないという言明が反証可能であり、科学的に意味のある言明なら、もとの存在言明も意味のある言明である。(カール・ポパー(1902-1994))



「ある種の言明はテスト可能なので科学に属するが、《その否定》はテスト可能でないとわ かり、したがって境界設定線の下に位置づけられなければならないといった事態が生じうる。 そしてこれは重要なケースであることが判明する。実際これは、最も重要で最も厳しくテスト 可能な言明――《科学的普遍法則》――について当てはまるのである。わたくしは『科学的発見の 論理』で次のように勧告した。すなわち、これらの法則は、ある種の目的のために、「いかな る永久機関も存在しない」(これはしばしば「熱力学の第一法則についてのプランクの定式 化」と呼ばれる)といった形で、つまり《存在言明の否定》の形で表現されるべきである、 と。これに対応する存在言明――「永久機関が存在する」――は、「海蛇が存在する」と共に、境 界設定線の下の部分に入る。これに反して「大英博物館には海蛇が展示されている」は、容易 にテストできるので、優に線上の部分に入る。しかし、孤立した純粋存在言明はテストするす べがない。  孤立した純粋存在言明がテスト不能なものとして、また科学者の関心の範囲外に落ちるもの として分類されるべきであるという見解の適切性を、ここで論証するいとまはない。ただわた くしは次の点だけは明らかにさせたいと思う。《もし》この見解が受け入れられると《すれ ば》、形而上学的言明を無意味と呼んだり、あるいはわれわれの言語から締め出したりするの は、おかしいであろう。なぜなら、もし存在言明の《否定》を有意味なものとして受け入れる ならば、われわれは存在言明そのものをも有意味なものとして受け入れなければならないからである。  わたくしがこの点を強調せざるをえなかったのは、わたくしの立場が反証可能性または反駁 可能性を(境界設定のではなく)《意味》の基準として採用する提案だと、あるいは存在言明 をわれわれの言語から、もしくは科学の言語から締め出す提案だと、繰り返しいわれてきたか らである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第11章 科学と形而上学との境界設定,第2節 この問題に対するわたくし自身の見解,pp.490-491,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳), 石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月17日金曜日

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア主義の批判

政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法によっては必ずしも常に取り除けない。(カール・ポパー(1902-1994))



「社会のある理想状態をわれわれの一切の政治的行為が貢献すべき目的として選ぶユートピ ア的方法は暴力を生み出しやすい、ということは次のようにして論証できる。政治的行為の究 極的目的を科学的に、あるいは純粋に合理的な方法によって決定することはできないので、理 想の状態とはどのようなものであるべきかに関する意見のさまざまな相違は、議論の方法に よっては必ずしも常に取り除けない。理想状態についてのこのような意見の相違は、少なくも 部分的には、宗教的意見の相違の性格をもつであろう。そして、これらの相異なったユートピ ア的諸宗教のあいだには、いかなる寛容もありえないのだ。ユートピア的目的は合理的な政治 的行為と議論の基礎としての役を果たすものと目論まれており、したがってこの目的がはっき りと定まっている場合にのみ、はじめてそのような行為は可能となるであろう。それゆえユー トピア主義者は、自分と同じユートピア目的を共有せぬ、また自分と同じユートピア宗教を信 仰しない、競争相手の他のユートピア主義者たちを、説得して自分の側につけるか、さもなけ れば粉砕してしまうかのいずれかをしなければならなくなる。  しかし、ユートピア主義者はもっとそれ以上のことをせざるをえない。かれは競合するすべ ての異端的見解の排除と駆遂とをきわめて徹底的におこなわざるをえない。なぜなら、ユート ピア的目標への道は長く、したがってかれの政治的行為が合理的であるためには、これからさ き長期間にわたって目的を不変に保つ必要があり、これをなしとげうるのは、競合している ユートピア的諸宗教を粉砕するにとどまらず、そのような諸宗教の一切の記憶をできるかぎり 駆遂してしまう場合だけだからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.662-664,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))

我々は必ず間違える

我々は必ず間違えることがあり、また知識の大部分が他の人々に負っているという事実を忘れてはならない。たとえ穏やかな説得であっても、自分の知っている知識や信念や実例を、もし絶対的に確信しているならば、恐らく暴力を生み出すであろう。宗教戦争と魔女狩りの歴史を思い出せ。(カール・ポパー(1902-1994))



「わたくしが合理的態度あるいは合理主義的態度と呼ぶものが、ある程度の知的謙譲を前提 にしていることがわかるであろう。自分は時として考え違いをするものだということに気づい ている人びと、自分の誤りをいつもきまって忘れてしまうということのない人たちだけが、お そらくこの態度をとることができよう。この態度は、われわれが全知でなく、われわれの知識の大部分が他の人びとのおかげをこうむっている、という自覚から生まれる。それは、あらゆ る訴訟手続の二つの規則――第一に、常に双方の言い分を聞くべきであるという規則、第二に、 訴訟の当事者には適正な判断が下せないという規則――を、意見を闘わせる分野全般にまで、で きるかぎり移して適用しようとする態度である。  社会生活において互いに相手と対処しあうとき、この合理的態度を実際に行動に移す場合に のみ、はじめて暴力を避けることができる、とわたくしは信じている。これ以外の態度はすべ て――たとえ穏やかな説得でもって他人に対処し、自分が所有を誇るすぐれた洞察力にもとづく 議論や実例によって、また自分がその真理性を絶対的に確信している議論や実例で相手を納得 させようとする一方的な試みでさえ――おそらく暴力を生み出すであろう。いかに多くの宗教戦 争が愛と優しさを説く宗教のために闘われたかを、われわれの誰もが覚えている。また、永劫 の地獄の業火から人びとの魂を救おうとする正真正銘の親切心から、いかに多くの人間が生き ながら火あぶりにされたかを、われわれはよく覚えている。意見の領域でわれわれが権威主義 的な態度を放棄する場合にのみ、そして、互酬の態度、つまり進んで他人から学ぼうとする態 度を確立する場合にのみ、はじめてわれわれは信心と義務感によって喚起されるもろもろの暴 力行為を抑制することが期待できる。  合理的態度の急速な普及を妨げている多くの障害がある。その主要な障害の一つは、討論を 合理的にするのは常に二人がかりでのことである、という点である。当事者のそれぞれが、相 手から学ぼうとする用意ができていなければならないのである。相手から説得されてしまうよ りは相手を射殺してしまった方がましだ、と考えるような人間とは合理的な討論をすることは できない。いいかえると、合理的態度には限界がある。それは寛容の場合と同じである。不寛 容な者でもすべて寛容するという原理を、無条件に受け入れてはならない。もし受け入れるな らば、わが身を滅ぼすことになるばかりか、寛容の態度そのものをも滅ぼすことになろう。 (すべてこれらのことは、合理的態度は《互酬互譲》の態度でなければならない、というわた くしの先の指摘に示されている。)  右に述べたことからもたらされる一つの重要な帰結は、攻撃と防御との区別があいまいにさ れるのを許してはならない、ということである。われわれはその区別を強調しなければなら ず、また攻撃的侵略と侵略への抵抗とを識別するのを職務とするさまざまの(国内的および国 際的)社会制度を支持し発展させなければならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第18章 ユートピアと暴力,pp.656-657,法 政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))



カール・ポパー(1902-1994)





思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))

思想の自由と真理

思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))




(a)討論の効果、目的
 批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。
(b)共通フレームの神話
 討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っている。
(c)批判的合理主義の価値観
 必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。
(d)多様な経歴、立場、価値観
 この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。

「思想の自由および自由な討論は、さらにこれ以上のいかなる正当化も実際に要しない根本 的な自由主義的価値である。それにもかかわらず、これらのものは真理の探求において演じる 役割の見地から実用主義的にも正当化できる。真理は顕現しない。しかも、手に入れるのは容 易ではない。真理の探求には、少なくとも、次のことどもが必要である。
 (a)想像力
 (b)試行錯誤 
 (c)(a)と(b)および批判的討論を経由してのわれわれの偏見の漸次的発見。  ギリシャ人に由来する西欧合理主義の伝統は、批判的議論の――もろもろの命題や理論を反駁 すべく試みることによって検査し試験する――伝統である。この批判的合理的方法は、証明の方 法、つまり真理を究極的に確定する方法と取り違えられてはならない。またそれは、常に合意 が得られることを保証する方法でもない。そうではなくて、この批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。  討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っているとわたくしは思う。必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。バベルの塔〔共通の言語〕がない とあらば、われわれはそれを工夫して作り出すべきである。自由主義者は意見の完全な一致を 望みはしない。かれが望むことはただ、もろもろの意見が互いに豊かになり、その結果として もろもろの考えが成長していくことである。誰にでも満足のいくように問題が解決される場合 でさえ、その問題を解決することにおいて、意見の分かれざるをえない多くの新しい問題が生 み出されるのである。これは、遺憾とされるべきことではない。  自由で合理的な討論は〔私事ではなく〕公の事柄であるけれども、世論は(どのようなもの であれ)このような討論から生み出されるのではない。世論は科学によって影響されることが ありうるし、また科学に判定を下すことがありうるけれども、世論は科学的討論の産物ではな い。  しかし、合理的な討論の伝統は、政治の分野に、討論による統治の伝統、およびそれと共に 異なった見解に耳を傾ける習慣、正義感の増大、そして妥協への気構え、を生み出す。  こうして、批判的討論の影響を受けて、また新しい問題の挑戦に応じて、変化し発展するも ろもろの伝統が、通常「世論」と呼ばれるものの多くにとってかわり、世論の果たすべきもの とみなされている諸機能を引き継ぐことを、われわれは期待するものである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第17章 世論と自由主義的原理,第4節 自由 な討論についての自由主義的理論,pp.648-649,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣 壽郎(訳),森博(訳))




カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月16日木曜日

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

弁証法論理学の誤り

弁証法論者が主張する、進歩にとっての矛盾の重要性は事実である。しかし、発展を推進するのは、 観念のうちにある神秘的な力などではなく、ひとえに、矛盾を許さないという我々の決意、我々の決断で あって、それが矛盾を避け得るかもしれぬ新しい視点の探索へと我々を向かわせるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「弁証法論者たちは、矛盾は進歩にとって実り豊かであり、多産的であり、生産的であると いう。われわれも、これがある意味では真実であると認めた。だが、それが真実であるのは、 われわれが矛盾を許さず、矛盾を含む理論はすべてこれを変更すると――いいかえれば、矛盾を 決して容認しないと――決意する限りにおいてのみである。批判、つまり矛盾の指摘がわれわれ に理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの〔矛盾を容 認しないという〕決意に発するのである。  もしわれわれがこの態度を変え、矛盾をがまんする決心をすれば、矛盾はただちに一切の実 り豊かさを失ってしまう、ということはいくら強調しても強調したりない。矛盾はもはや知的 進歩を生み出さなくなるだろう。それというのも、われわれが矛盾をがまんする気になってし まっていれば、いくらわれわれの理論の矛盾を指摘されても、もはやわれわれを理論の変更に 向かわせることはできないからである。いいかえると、(矛盾を指摘することにある)批判 は、ことごとくすべて、その力を失ってしまうであろう。批判〔矛盾の指摘〕に対しては、 「なぜそれで悪いんだ」とか、あるいは、ひょっとすると、熱狂的に「そうだ、そうだ」とさ え、つまり指摘された矛盾を歓迎しさえする、返答がなされることになろう。  しかし、これは、われわれが矛盾をがまんする気になっていれば、批判ならびにそれととも にすべての知的進歩は終りにならざるをえない、ということを意味している。  したがって、われわれは弁証法論者にこう告げなければならぬ。君は両てんびんをかけることはできないのだ。実り豊かであるということで矛盾を重視するのであれば、君は矛盾を容認 してはならない。そうでなくて、君が矛盾を容認する気なら、そのときには矛盾は不毛であ り、合理的批判、議論、知的進歩はありえないであろう、と。  それゆえ、弁証法的発展を推進する唯一の「力」は、テーゼとアンチテーゼのあいだの矛盾 を容認しない、あるいは黙許しな、というわれわれの決意なのである。発展を推進するのは、 これら二つの観念のうちにある神秘的な力でなく、それらのあいだの神秘的な緊張関係でない ――発展を促進するのは、ひとえに、矛盾を許さないというわれわれの決意、われわれの決断で あって、それが矛盾を避けうるかもしれぬ新しい視点の探索へとわれわれを向かわせるのであ る。そして、この決意は完全に正当化できる。なぜなら、もし矛盾を容認すれば、いかなる種 類の科学的活動も断念しなければならなくなる、つまり、それは科学の全面的な崩壊を意味す るであろう、ということが簡単に論証できるからである。この点は、《もし二つの矛盾する言 明が認められるとなると、どんな言明でもすべて認めなければならなくなる》、なぜなら、一 組の矛盾する言明からはいかなる言明でも妥当に推論できるからである、ということを証明す ることによって明らかにできる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.585-586,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー(1902-1994)





批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))

批判的合理主義

批判は例外なく何らかの矛盾を指摘することである。さもなければ、おそらくは端的にその理論を否定することである。批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。(a)理論内部の矛盾、(b)受け入れている別の 理論との矛盾(c)理論とある種の事実のあいだの矛盾。(カール・ポパー(1902-1994))


「最も重要な誤解と混乱は、矛盾についての弁証法論者たちの不正確な語り方から生じる。  かれらは、矛盾が思考の歴史において最大の重要性を――まさに批判と同じくらいの重要性を ――もつことを、正しく、洞察している。それというのも、批判は例外なく何らかの矛盾、つま り、批判される理論内部の矛盾か、その理論とわれわれが受け入れる何らかの理由をもつ別の 理論とのあいだの矛盾か、あるいはその理論とある種の事実――もっと正確にいうと、その理論 と事実についてのある言明――とのあいだの矛盾、を指摘することにあるからである。批判はそ のようなある矛盾を指摘することか、さもなければおそらくは端的にその理論を否定すること (つまり、批判はただ単にアンチテーゼの言明であることがありうる)以外には決してなにも なしえない。だが、批判は、きわめて重要な意味において、あらゆる知的発展の主要原動力で ある。矛盾がなければ、批判がなければ、理論を変えるいかなる合理的動機もないであろう。 そこには、いかなる知的進歩もないであろう。  こうして、もろもろの矛盾――とりわけ、いうまでもなく、ジンテーゼというかたちでの進歩 を「生み出す」ところのテーゼとアンチテーゼとのあいだの矛盾――がきわめて実り豊かなもの であり、実に思考の一切の進歩の原動力であることを正しく洞察したあげく、弁証法論者たち は――これから見るように、誤って――これらの実り多い矛盾を回避する必要はまったくないと結 論をくだす。さらにかれらは、矛盾は世界のいたるところに生じるのであるから避けることは できない、と主張しさえする。  このような主張は、伝統的論理学のいわゆる「矛盾律」(あるいは、もっと詳しくいえば 「矛盾排除律」)――二つの矛盾する言明は同時に真とは決してなりえない、あるいは、二つの 矛盾する言明の連言から成る言明は純論理的理由から常に偽として拒否されなければならない、という法則――に対する攻撃となる。矛盾の実り豊かさということを口実にして、弁証法論 者たちは、伝統的論理学のこの法則は棄て去られなければならないと主張する。このように矛 盾律を放棄することにより、結局のところ、弁証法が新しい論理学――弁証法論理学――になる、 とかれらは主張する。これまで私が単なる歴史的理論――思考の歴史的発展についての理論――と して紹介してきた弁証法は、このようにして、まったく別の理論になろうとした。つまり、弁 証法は論理学の理論であると同時に(これから見るように)世界の一般理論であろうとしたの である。  これらはとてつもなく巨大な要求であるが、しかしいささかの根拠もないものである。事 実、それは、不正確で不鮮明な語り方以上のなにものにももとづいていない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第15章 弁証法とは何か,第1節 弁証法の解 明,pp.584-585,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))






カール・ポパー(1902-1994)





原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))

伝統主義と批判的合理主義

原始より人間には、不規則性や変化を恐れ、斉一性を求める傾向があり、自らの行為と他者の行為を、予測可能なものにしようとしてきた。伝統を創造し守ろうとする傾向もまた同じである。批判的合理主義は、この伝統の重要性を理解し、かつ寛容の伝統を基礎に自由な批判によってより良い伝統の創造を主張する。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不規則性や変化への恐れ
 人間は、不規則性や変化を恐れ、逆に、斉一的になるものにしがみつく傾向があ る。

(b)予測可能な行為
 みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいる。
(c)伝統を創造し守ろうとする傾向
 人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。
(d)合理主義と伝統主義
 合理主義者の望みは、伝統主義者の不寛容さとタブー化の態度のかわりに、寛容の 伝統をおき、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くことである。
(e)社会的伝統の批判にも他の伝統が必要
 すべての社会批判やすべての社会的改良というものは、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえない。また、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえない。

「われわれは、社会生活における伝統の機能を、簡単に検討してきた。そこで見出した事柄 は、次に、伝統がどのようにして生じ、どのようにして伝えられ、どのようにして固定されて いくか――これらはすべて人間の行為の意図されざる結果なのだが――という問いに答えるのに、 役立つであろう。人々は、なぜ、自然的環境の法則を学ぼうと(し、それを他の人々に、しば しば神話の形で、教えようと)するのか。それだけでなく、なぜ、社会的環境の伝統をも、学 ぼうとするのか。その理由を、われわれは今や理解できる。人間(とくに未開人や子供)に は、なぜ、自分の生活において斉一的であるものや、斉一的になるものにしがみつく傾向があ るのか。その理由をも、われわれは今や理解できる。人間は神話にしがみつくし、みずからの 行為の斉一性にしがみつきがちである。その理由は、第一に、不規則性や変化を恐れ、した がって、不規則性や変化を起こすことを恐れるからである。第二に、みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいるからである。このように人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。これが、伝統的タ ブーが生じる有様であり、それが伝えられていく有様である。  これは、すべての伝統主義に特徴的な、極度に情緒的な不寛容さというものを、つまり、合 理主義者がつねに正当にも抵抗し続けてきた不寛容さを、部分的に、説明している。しかし、 この傾向の故に伝統そのものに攻撃を加えるようになった合理主義者は誤っていたということ が、今やわれわれにははっきり分かる。われわれは、次のように言ってもよいかもしれない。 合理主義者が本当に望んでいたことは、伝統主義者の不寛容さのかわりに新しい伝統――寛容の 伝統――を置くこと、より一般的に言えば、タブー化の態度のかわりに、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くこと、である。というのは、現存の伝統をよりよい伝統 で(あるいは、よりよい伝統であるとわれわれが信じるもので)置き換えるためには、結果と して現存の伝統を拒絶することになるにしても、われわれはつねに次の事実を意識していなけ ればならないからである。つまり、すべての社会批判やすべての社会的改良というものが、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえないということ、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえないということである。これはちょうど、科学におけるすべての進歩が、科学理論の 枠組みの中で進行せざるをえず、この科学理論の批判は他の科学理論の光のもとで行なわれ る、というのと同じである。  伝統についてここで述べたことの多くは、制度についても述べることができる。なぜなら ば、伝統と制度は、大部分の点において驚くほど似ているからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第4章 合理的な伝統論に向けて,pp.214- 216,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月15日水曜日

理論は、我々が作った思考の道具であることは、間違いない。しかしそれは、実在の一端を捉え得るし、新しい世界を発見し得る。理論は、観察や経験を説明するために作られるが、感覚経験を超えて、新しい世界を発見するに至る。(カール・ポパー(1902-1994))

理論は感覚経験を超える

理論は、我々が作った思考の道具であることは、間違いない。しかしそれは、実在の一端を捉え得るし、新しい世界を発見し得る。理論は、観察や経験を説明するために作られるが、感覚経験を超えて、新しい世界を発見するに至る。(カール・ポパー(1902-1994))


「理論は、われわれ自身がつくり出したもの、われわれ自身の観念である。理論は、われわ れに強いられたものではなくて、われわれ自身がつくった思考の道具である。こういったこと は観念論者が明晰に見てとってきた。しかし、これらのわれわれの理論には実在との衝突をお こしうるものがある。そしてそのような衝突がおこるとき、われわれはある実在が存在してい ることを知るのである。つまり、われわれの観念が誤りうるという事実をわれわれに思い出さ れる何物かの存在を知るのである。そしてこれは実在論者が正しいということの理由なのであ る。  したがってわたくしは、《科学が実在に関する発見をなしうる》という本質主義の見解に賛 成であるし、さらに、新しい世界の発見ということに関しては、われわれの知性の方がわれわ れの感覚経験に対して勝利をおさめるという本質主義の見解にさえも賛成なのである。しかし わたくしはパルメニデスが犯した誤り――この世界において、色彩にあふれ、変化し、個別的 で、不確定で、記述しがたいもの一切に実在性を否定するという誤り――におちいってはいない。  わたくしは、科学が実在に関する発見をなしうると信じているので、ガリレイと同じく道具 主義には反対の立場をとる。われわれの発見が推測的であることをわたくしは認める。しかし このことは地理上の探検にさえもあてはまるのである。コロンブスが自分で発見したものに関 して行なった推測は事実誤りであった。しかし推測がもつこういった要素によって、かれらの 発見したものの実在性が希薄になったり意義が少なくなったりするのではない。  われわれは科学的予測に二種類のものを区別することができる。これは重要な区別である が、道具主義はこの区別をつけることができない。これは科学的発見と関連した区別である。 わたくしが念頭においている区別というのは、一方では日月食や雷雨のような、《すでに知ら れている種類の出来事》の予測と、他方では(物理学者が「新効果」と呼ぶ)《新しい種類の 出来事》の予測、たとえば、無線の電波や零点エネルギーを発見させたり、以前には自然界に は見出されなかった元素を人工的に作り出させたりしたような予測、との間の区別である。  道具主義が第一の種類の予測しか説明できないということは、わたくしには明らかなことに 思われる。つまり、理論が予測のための道具ならば、他の道具の場合と同じように理論の目的 もあらかじめ決定されたものでなければならないと仮定せざるをえない。第二の種類の予測 は、それを発見と見なさないかぎり十分に理解することはできないのである。  さきに述べた例や他の大部分の発見の場合でも、理論が「観察による」発見の結果であるよ りもむしろ、発見が理論に導かれたものである、というのがわたくしの信念である。というの は、観察自体が理論に導かれることが多いからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.187-189,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月14日火曜日

確実に知り得ることは実在的であるけれど も、それだけが実在的だと考えるのは誤りである。我々は全知ではない。科学的な仮説は推論に過ぎないが、実在の一端を捉え得るし、推論が偽の場合には、実在的な事態との衝突があらわになる。(カール・ポパー(1902-1994))

実在とは何か

確実に知り得ることは実在的であるけれど も、それだけが実在的だと考えるのは誤りである。我々は全知ではない。科学的な仮説は推論に過ぎないが、実在の一端を捉え得るし、推論が偽の場合には、実在的な事態との衝突があらわになる。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)より高次のより推測的なレヴェルのほうが、より推測的であるという事実にもかかわらず、より実在的である。
(b)あるいは、偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶべきではないだろうかという反論がある。
(c)しかし、推測であっても真であるかもしれ ず、したがって、実在的な事態を記述しているかもしれない。
(d)また、もしその推測が偽であるならば、それは、それを否定した真なる言明が記述する何らかの実在的な事態との衝突を起こす。

「「実在的(real)」とう語の一つの意味においては、これらのさまざまなレヴェルはすべ て同じように実在的であるけれども、より高次のより推測的なレヴェルのほうが――より推測的 であるという事実にもかかわらず――《より実在的な》レヴェルであると言ってもいいような、 別のもう一つの意味がこれに密接に関連している。理論によるとそのようなレヴェルのほうが より実在的(より安定的たらんとし、より永続的)であるというときの意味は、テーブルや樹 木や星のほうがその諸側面よりも実在的であるというときの意味と同じである。  しかし、理論のまさにこの推測的ないし仮説的な性格のゆえに、理論が記述する世界に実在 性を帰属させてはいけないのではないだろうか。(たとえばバークリーの「存在することは知 覚されることである」は狭量にすぎることがわかっているにしても)偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、《真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶ》べきではないだろうか。こういった問いを提出することによって、道具 主義的見解の検討へ向かうことにしよう。道具主義的見解は、理論はたんなる道具であると主 張し、実在世界というような何らかのものが理論によって記述されるという見解を否定してい るのである。  わたくしは、事態を記述する言明が真であるとき、かつそのときにかぎり、その事態を「実 在的」と呼ぶべきであるとする見解(真理の古典的理論ないし対応説に含まれている見解)を 受けいれる。しかしここから、理論の不確実性すなわち理論の仮説的ないし推測的性格によっ て、実在的なものの記述という理論の暗黙の《主張》がともかくも減殺されてしまうという結 論をくだせば、それは重大な誤りであろう。なぜならば、いかなる言明であれ言明Sは、Sが真 であると主張する言明に等しいし、また、Sが推測であるということに関して、われわれは次 のことを忘れてはならないからである。まず第一に、推測であっても真である《かもしれ ず》、したがって、実在的な事態を記述している《かもしれない》ということ、第二に、もし その推測が偽であるならば、それは(それを否定した真なる言明が記述する)なんらかの実在 的な事態との衝突をおこすということである。さらに、われわれが〔実際に〕推測をテストし その反証に成功するならば、われわれは、ある実在的なもの――その推測との衝突を可能にした 何物か――の存在していたことがきわめて明瞭にわかるのである。  したがって反証は、われわれがいわば実在に触れた地点を示しているのである。そしてわれ われのもっとも新しい最良の理論というのはつねに、その分野で見出されたすべての反証〔事 例〕を、もっとも単純な仕方で――つまり(わたくしが『科学的発見の論理』31-46節で示した ように)もっともテスト可能な仕方で、という意味であるが――説明することによって統合しよ うと試みるものなのである。  明らかに、もしわれわれが理論のテストの仕方を知らないならば、理論によって記述される種類(あるいはレヴェル)のものがそもそも存在するのかと疑うことにもなろう。また、その 理論はテストできないと明確に知るようになれば、われわれの疑いは増大するだろう。われわ れはその理論がたんなる神話やおとぎ話ではないかと疑うかもしれない。《しかし、理論がテ スト可能ならば、それは、ある種の出来事が起こりえないということを含意し、したがって実 在について何らかのことを主張しているのである》。(この理由からわれわれは、理論が推測 的であるほど理論のテスト可能性の程度も高くなければならないと要求するのである。)した がっていずれにしても、テスト可能な推測は実在に関する推測であり、その不確実なあるいは 推測的な性格から導かれることは、その記述する実在に関するわれわれの知識が不確実あるい は推測的だということにすぎない。また、確実に知りうることのみが確実に実在的であるけれど も、確実に実在的であると知っていることのみが実在的だと考えるのは誤りである。われわれ は全知ではないし、われわれの誰も知らない多くのものが実在しているということは疑いはな い。したがって実に、(「存在することは知られることである」という形での)古いバーク リー的な誤りがいまなお道具主義の根底に横たわっているのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.185-187,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳)
カール・ポパー
(1902-1994)









科学的説明とは、未知のものを既知のものへ還元することであると言われることがあるが、若干の注意が必要だ。確かに、応用科学ではそうかもしれない。しかし、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高い別の仮説へ論理的に還元しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))

未知なものと既知のもの

科学的説明とは、未知のものを既知のものへ還元することであると言われることがあるが、若干の注意が必要だ。確かに、応用科学ではそうかもしれない。しかし、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高い別の仮説へ論理的に還元しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))



「《説明》そのものの問題。科学的説明とは未知のものを既知のものへ還元することであ る、としばしば言われてきた。もし純粋科学の意味であるなら、これほど真理から遠いものは ない。逆説に陥ることなく、科学的説明とは反対に既知のものを未知のものへ還元することで ある、と言うことができるのである。純粋科学を「与えられたもの」あるいは「既知」と考え る応用科学に反し、純粋科学にあっては、説明とは常に諸仮説を、もっと普遍性のレベルの高 い別の仮説へ論理的に還元すること、「既知」の事実と「既知」の理論を、われわれのまだほ とんどよく知らない、これからテストされなくてはならない諸仮定へ論理的に還元すること、 なのである。説明能力の程度、まともな説明とまがいものの説明との関係、説明と予測との関 係などの分析は、このコンテクストにおけるきわめて興味ぶかい問題の一例である。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第1章 科学――推論と反駁,補遺 科学哲学に おけるいくつかの問題,(10),pp.83-84,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








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