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2022年2月25日金曜日

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴動の制度化、忌まわしい鏡

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)民主主義的アテネ
 決定的な公的行事とは広場での集会だった。アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた。
(b)権威主義的ローマ 
 (i)決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった。
 (ii)剣闘士競技に関して魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。そこでは、民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義、英雄崇拝、気ちがいじみた情熱。
 (iii)それはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるなら、どのような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。



「暴動の制度化というこの現象が、実際にどの程度国家によって奨励されていたのかという のは、歴史的検討に値する問題だ。もちろん、ここで私が想定しているのは文字通りの暴動で はなく、「忌まわしい鏡」と呼ぶことができそうな何か――つまり、民衆的な意思決定とは暴力 的で混沌としていて恣意的な「暴徒支配」にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化す べくエリート層によって促進され支持された、諸々の制度のことである。こうした制度は権威 主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと、私は思っている。例えば、民主主 義的アテネにおける決定的な公的行事とは広場での集会だったのに対して、権威主義的ローマ における決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処 刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった (Veyne 1976; Kyle 1998; Lomar & Cornelle 2003)。とりわけ剣闘士競技に関して 魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。けれども、アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた――基底をな すのは強制力の原理であり、それが時として恐ろしくも血まみれの決定を可能にしていたとい うことはあるにしても――のに対して、ローマのサーカスはほとんど正反対の機能を果たしてい た。サーカスはアゴラには似ても似つかず、むしろ正規化され国家により主催されたリンチの ようなものだったのだ。民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが――気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義(競いあう戦 車チームを応援する人びとが路上で乱闘するのは日常茶飯事だった)、英雄崇拝、気ちがいじ みた情熱――、ローマの円形闘技場では単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。そ れはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるならど のような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.50-51,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

多数派民主主義とコンセンサスによる意思決定

人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)多数派の決定を強制する手段が存在しない社会
 (a)コンセンサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。
 (b)平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。

(2)強制力を備えた機関が存在する社会
 強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかった。
(3)多数派民主主義の発生条件
 人類の歴史の大部分において、以下の両条件が同時に満たされることは極めて稀であった。
 (a) 人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在する。
 (b)決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在する。
(4)コンセンサスによる意思決定のために
 (a)採決は屈辱、恨み、憎しみを残す
  採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。
 (b)コンセンサスによる意思決定
  (i)コンセンサスによる意思決定とは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。
  (ii)重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて、立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  


「私としては、次のような説明を提案したいと思う。対面関係から成り立っているコミュニ ティにおいては、構成員の大部分が望んでいるのは何かを突き止めることのほうが、それを望 まない少数者の心を変えるにはどうしたらいいかを考えることよりもずっと簡単なのだ。コン センサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。強制力を独占する国家が存在しない場合で あれ、国家が局所的になされる意思決定に無関心であるか介入傾向を持たない場合であれ。多 数派の決定を快く思わない人びとを当の決定に従うよう強制する手段が存在しないのであれ ば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確 実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。現代的な直接行動グループをやっていくためのファシリテーション・トレーニングを受け たことのある活動家であれば誰でも心得ているはずのことだけれど、コンセンサス・プロセス は議会での討論と同じものではなく、コンセンサスを見出すのは投票による採決とはまったく 別のなにかだ。反対に、そこにあるのは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。それはつま り、私たちが普通行っている二つの水準――意思決定とその実施――の区別が、ここではなし崩し になっているということだ。もちろん、誰もが同意しなければならない、ということではな い。コンセンサスの諸形態のほとんどにおいては、程度を異にする不合意の多様な形態が認め られる。重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  言ってみれば、多数派民主主義が発生するのは以下の二つの条件が同時に満たされた場合の みなのだ。  一、人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚の存在、そして  二、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置の存在。  人類の歴史の大部分において、両者が同時に満たされることは極めて稀であった。平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。反対に、強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかったの だ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.45-47,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月21日月曜日

14.富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))

与えることが最高の価値である社会

富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができる場合にのみ、弁明可能になる。そして、社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。 人類は、いずれこのような倫理を持つことが可能である。(マルセル・モース(1872-1950))
















「モースは、自らの実践的結論がどのようなものなのかについて、決して完全な確信に達す ることがなかった。 

ロシアの経験から彼が理解したのは、近代社会において――少なくとも「予 見可能な未来においては」――売り買いをきれいさっぱり廃止してしまうことはできないという こと、しかし市場倫理の廃絶ならできる、ということだ。

労働を協同のかたちで行い、実効的 な社会保障を確立し、そうして徐々に、新しい倫理を生み出していくことができるだろう。新 しい倫理とはすなわち、富の蓄積は、ただそれをそっくり他の人びとに分ち与えることができ る場合にのみ、弁明可能になるというものだ。

結果として生まれる社会で最高の価値となるの は、「公の場で物を与える楽しみであり、美的なものへ気前よく出費する喜びであり、客人を 歓待し、私的・公的な祭宴を催す喜び」である。  

こうした主張のなかには、今日の観点からは恐ろしく素朴に見えるものもあるかもしれな い。けれどもモースの洞察の核をなす部分は、75年前よりも今日――経済学が「科学」を自称し つつ、事実上、現代社会の啓示宗教となってしまった今日――においてこそ、いっそう有効なも のになっている。ともかく、MAUSSの創始者たちにはそのように思われたのだった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.150-151,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






13.人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))

経済学の仮説は自明ではない

人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))






















(a)経済学の仮説は事実ではない
 「科学」を称する経済学が経済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだった。
 (i)人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではない
  人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有、つまり自らにとっての 「効用」を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場の観点から分析することができるという仮説は、事実ではない。
 (ii)最初に物々交換があったというのは事実ではない
  公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明、信用売買、銀行業、 証券取引は、その論理的延長にすぎない。  

(b)贈与経済の存在
 (i)純粋な気前の良さを誇示
  その社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何かを誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。
 (ii)最も多く与え手放すこと
  こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。



「もしもロシア――たぶんヨーロッパで貨幣化の度合いが最も低い国――においてさえ、単純に 法律によって市場を廃止してしまえるものではないのであれば、革命家たちは明らかに、この 「市場」なるものは一体何なのか、それはどこからやって来たのか、そしてそれに対する実行 可能なオルタナティヴはじっさいどのようなものでありうるのか、もっと真剣に考え始める必 要がある。

モースはそのように考えた。そのためには今こそ、歴史学と民俗学の研究成果を活 用しなければならない。  モースがそこから引き出した結論は驚くべきものだ。

まずは、「科学」を称する経済学が経 済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだったとされ る。

昔も今も、自由市場に熱狂する人びとが揃いも揃って想定しているのは、人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有(つまり自らにとっての 「効用」)を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場 の観点から分析することができる、ということだ。

公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明(信用売買、銀行業、 証券取引)は、その論理的延長にすぎない。  

モースがただちに指摘しているように、こうした物語の問題は、物々交換に基づく社会がこ れまでに実在したということを信じられるだけの理由はどこにもない、ということだった。

そ れどころか、人類学者たちは当時、物々交換とはまったく別の諸原理に基づいて経済活動を営 む諸社会を発見しつつあった。

それらの社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何か を誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。

こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。けれどもその場 合、私たちの経済とは正確に反対のやり方でそうなるのだ。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.146-148,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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