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2021年12月10日金曜日

民主主義は、あらゆる権利が依存する基礎であり、また、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しており、民主主義の保護は常に闘いの最優先課題とすべきである。(カール・ポパー(1902-1994))

民主主義を守る闘い

民主主義は、あらゆる権利が依存する基礎であり、また、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しており、民主主義の保護は常に闘いの最優先課題とすべきである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)多数者支配は民主主義の本質ではない
 普通選挙制度が最も重要であるとはいえ、民主主義は多数者の支配として完全に性格づ けられうるものではない。なぜなら多数者が専制政治的に支配することもありうるからである。
(b)民主主義かどうかの認定規準
 支配者、政府を、流血の惨事なしに非支配者によって解職できること。これが民主主義の本質であり、民主主義と専制政治の区別が最も本質的である。それゆえ、権力の座にある者が、平和的変革運動の可能性を少数者に保証する諸制 度を保護しないならば、彼らの支配は専制政治なのである。
(c) 民主主義的憲法の改正限界
 整合的な民主主義的憲法は、法体系の変革のうち一つのものだけは、すなわち、憲法の民主主義的性格を危険にさらすであろうような変革だけは排除すべきである。 
(d)寛容の限界
 民主主義の暴力的転覆を他人に教唆するような者たちに、保護される権利は存在しない。
(e)民主主義を保護する制度
 民主主義を保護すべき諸制度をたてる政策は、いつでも、被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しているという仮定に基づいて進められねばならな い。 
(f)経済的諸利益が依存するもの
 民主主義が破壊されるならば、すべての権利が破壊されることになる。万一、被支配者が或る種の経済的諸利益を享受しているなら、それらは黙許によってのみ存続しているのであ ろう。
(g)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
 民主主義は、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし、この戦場で戦われるすべての個別的戦闘において民主主義の維持が第 一に考慮されないならば、その時には、常に存在している潜在的な反民主主義的傾向は、民主主義の崩壊をもたらすであろう。



「私がこの批判の基礎としているのは、民主主義は主要な諸政党の諸機能についての次のよ うな見解を固守する時にのみ機能しえるという主張である。その見解は以下の如き若干の規則 として要約できるであろう。  1、普通選挙制度が最も重要であるとはいえ、民主主義は多数者の支配として完全に性格づ けられうるものではない。なぜなら多数者が専制政治的に支配することもありうるからである (身丈6フィート以下の者は多数者を構成するが、これら多数者は身丈6フィート以上の者は全 員税金を支払うようにと決定するかもしれない)。民主主義においては、支配者の権力は制限 されねばならない。そして、民主主義〔であるか否か〕の認定規準は、民主主義下であるなら ば、支配者――すなわち政府――は、流血の惨事なしに非支配者によって解職されうる、というこ とである。それゆえ、権力の座にある者が、平和的変革運動の可能性を少数者に保証する諸制 度を保護しないならば、彼らの支配は専制政治なのである。  2、二つの統治形態、つまり、この種の諸制度を有する統治形態とそうでない一切の統治形 態、すなわち、民主主義と専制政治だけを区別する必要がある。  3、整合的な民主主義的憲法は法体系の変革のうち一つのものだけは、すなわち、憲法の民 主主義的性格を危険にさらすであろうような変革だけは排除すべきである。  4、民主主義においては、少数者の完全な保護が、法を暴力で破壊するような者たち、なか んずく、民主主義の暴力的転覆を他人に教唆するような者たちにまで拡張されるようなことが あってはならない。  5、民主主義を保護すべき諸制度をたてる政策は、いつでも、被支配者のうちにも支配者の うちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しているという仮定に基づいて進められねばならな い。  6、民主主義が破壊されるならば、すべての権利が破壊されることになる。万一、被支配者が或る種の経済的諸利益を享受しているなら、それらは黙許によってのみ存続しているのであ ろう。  7、民主主義は、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦 場を提供する。しかし、この戦場で戦われるすべての個別的戦闘において民主主義の維持が第 一に考慮されないならば、その時には、常に存在している潜在的な反民主主義的傾向(これは また、われわれが第10章で文明の圧迫と名付けたものから苦しみを受けている人々に訴えるも のである)は、民主主義の崩壊をもたらすであろう。これら諸原則についての理解がまだ発展 させられていないならば、その発展が闘いとられねばならない。これと正反対の政策は致命的 であることが明らかになろう。すなわち、その政策は最も肝要な戦闘、民主主義それ自体のた めの戦闘の敗北をもたらすであろう。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第19章 社会革命,第5節,pp.150-151,未来社(1980),内田詔夫(訳), 小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月1日水曜日

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))

寛容の限度

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不寛容な少数派が、合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである。
(b)ただし、寛容は相互性を基盤としてのみ存在し得ることを知らしめること。
(c)民主制の廃絶は、勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるので、民主制の廃絶を訴える政党が、仮に民主的手段によって多数派になるようなことがあれば、われわれは寛容である必要 はない。


 「なるほど、寛容の偉大な擁護者たちのうちの誰も――ロッテルダムのエラスムスも、ジョ ン・ロックも、ジョン・スチュアート・ミルも――こうしたとりわけ不愉快な状況の可能性を見 越してはいなかった。しかしながら、私に言わせれば、ロックとミル、そして彼らに連なる 人々の幾人かは寛容と民主性についての理論を展開して、「この新たな状況下で何がなされね ばならないか?」という問いに最適の答えを与えるまでに至っていた。というのも、彼らには 寛容が無制限ではありえないということがはっきり見えていたからである。  われわれの状況に適用するなら、その答えは――ごく実際的な言葉づかいで言って――こういう ものである。すなわち、「これら不寛容な少数派が合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである」。ただし、われわれは彼 らの注意を次の事実へと、すなわち、寛容は相互性を基盤としてのみ存在しうるのであり、そ して、当の少数派が暴力的に行動し始めるときには、そうした少数派を寛容に遇すべきである というわれわれの義務は終わるという事実へと、引きつけておかなければならない。そこで問 題となるのは、「どこで合理的な議論が終わり、暴力行動が始まるのか?」ということであ る。このことを決定することは容易ではないだろう――というのも、こういう終わりや始まりと は、暴力への煽動や民主的体制の転覆のための陰謀といったような行動から始まるものだから である。もちろん、煽動も陰謀も、比較的許容できる行動形態と容易に区別されうるものでは ない。このことは、しかしながら、そうした行動が法と関わる状況のほとんどに当てはまる。 たとえば、故殺と謀殺、あるいはまた、無能力と手抜きとを区別することはおそらく非常に困 難だろう。  道徳的及び理論的立場は、私に言わせれば、原理的にはつねに明白であった。にもかかわら ず、人々の多くは寛容に対してあまりに深く愛着を感じているために、その違いを見ようとは しない。たとえば、民主的な意味での政党――はずみで過半数を得るにせよ、民主制のルールに 制約されている政党――と、それとは反対に――おそらく部分的には公然と、またはまったく秘密 裏に――民主性を廃する陰謀をめぐらしている政党との間には違いがある。後者のような政党が このことをある程度民主的手段によって行なおうがそうでなかろうが、そのことはさほど問題 ではない。いずれにせよ民主制の廃絶は勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるのであ る。そうした政党に対してわれわれは、仮にその政党が過半数を得てしまったとしても、屈服 してはならない。  そうした政党が寛容に遇されることを要求する権利をもつかどうかという問題に対しては、 民主制及び寛容についての理論がはっきりとした答えを与えているように思う。答えは「否」 である。不寛容ということがまだ危惧であるにすぎないとしても、われわれは寛容である必要 はない。また、その危惧が深刻化している場合には、断じて寛容であってはならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第12章 寛容について ――1981年,pp.252-253,ミネルヴァ書房(2014),松枝啓至(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏 郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)








 





個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会と国家

個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)開かれた社会(目的)
 個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態である。自由や寛容や正義、市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような諸価値に支えられている。

(2)民主的統治形態(目的のための手段)
 (a)国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。
 (b)開かれた社会を、内的あるいは外的な侵害から守るためには、強力な国家、強力な政 府の保護を必要とする。
 (c)国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつもその誤用の危険がある。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。
 (d)必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りである。それは、抑制と均衡のシ ステムであり、「民主主 義」とも呼ばれる。

「この時点で、私は、《社会と国家の区別》を、そしてとくに、開かれた社会と、《民主国 家、すなわち民主的統治形態》との区別をはっきりとさせておきたい。  開かれた社会ということで、私は、ある形態の社会生活と、次のような諸価値を意味してい る。すなわち、自由や寛容や正義や市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような、伝統的にそうした社会 生活において大切にされている価値である。  他方、民主国家ということで、私は一組の制度を意味している。それは、憲法や市民法や刑 法、立法機関と執行機関のようなもの、そして、政府や政府が選ばれる規則のようなもの、そ して法廷、市民サービス、公衆衛生や防衛等々の機関などである。  社会と国家との間に私が設けている区別、あるいは、開かれた社会及びその伝統と、民主国 家(つまり「民主政体」)とその制度との間に私が設けている区別が、それほど鮮明なもので はないことは明らかである。そしてこのことが、おそらく、〔この区別を〕把握するのがそれ ほど容易ではない理由であろう。だが、この区別は、われわれ全員にとって、大変有益なもの であるし、重要なものである。その理由は、人間の自由、及び自由な個人からなる自由な社 会、そしてまた、個々人の解放は、すべてそれ自体価値あるものだと考えられているからであ る。おそらく、究極的な価値としてではないにせよ、とにかく、それ自体価値あるものと考え られているからである。しかし、民主国家――つまり、その憲法、統治制度、選挙制度など―― は、《目的への手段》として考えられるべきだと、私は考える。つまり、それらは、大変重要 な目的への大変重要な手段である。しかしそれでも、やはりそれらのいずれも、それ自体が目 的なのではない。  私は、ここで、次のようなテーゼを提案したい。それは、自由で開かれた社会という考え は、《国家というものが、人間個人のため――その自由な市民と、人々の自由な社会生活のため ――に存在すべきだ》という要求を含んでいるというテーゼである。つまり、国家は、自由な社 会のためにあるのであり、その逆ではないという要求を含んでいるのである。このことが含意 している要求は、国家の機能は、その市民の自由な社会に奉仕し、それを保護することだとわ れわれは定めるべきだという要求である。この機能は最も重要な機能である。そして、自由な 社会においては、国家が、いささかでも危険につながる仕方で、この機能の制限を超えていくことは決して許されてはならないのである。  自由な社会の成員と自由な国家の市民は、もちろん、その国家に忠実であるべき義務をもっ ている。なぜなら、国家の存在は、社会の存続にとって不可欠だからである。そして、市民は 必要が生じたときに、国家に奉仕するだろう。とはいえ、この忠誠心に、ある程度の警戒心 を、そしてときには、国家とその官吏についてのある程度の不信を結び付けることも、市民の 義務である。その国家が、その合法的な役割の限界を超えないことを、監視し、調べることも 彼の義務である。というのも、国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつも その誤用の危険――自由にとっての危険――があるからである。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。そして、結局のところ――市民の側におけるほとんど嫉妬にも近い 用心深さの伝統を含んだ――《自由な社会の伝統》だけが、すべての自由がそれに依存している ところの、市民の点検と制御を提供することによって、国家権力の均衡をとることができるの である。  自由で開かれた社会という考えが、最も難しい政治問題を必然的に生み出すことを理解する ことは、大変に重要かつ必要なことだと私は思う。というのも、もし開かれた社会を、内的あ るいは外的な侵害に屈しないようにしたいなら、相当に強力な国家、あるいは相当に強力な政 府の保護を必要とするからである。他方、開かれた社会は、もしもその国家権力が、あまりに も強くなるならば、屈してしまうだろう。もしも国家権力があまりにも大きなものになれば、 そのとき、チャーチルがかつて言ったように、「われわれの公僕は、われわれの反公民的御主 人様になるだろう」。しかし、開かれた社会は、主人を受け入れてはならない。とくに、その 権力と権威の地歩を固めようとしがちなすべての主人を受け入れてはならない。  こうしてわれわれは、開かれた社会が、政治的には、いつも、そして必然的に、きわめて不 安定な地位にあることが分かる。というのも、それは、強力ではあるが、強力すぎない政府を 必要とするからである。それは、本来的に不安定な一種の政治的な均衡状態を必要としてい る。ほとんどの社会が、この扱いにくい問題の解決を果たさなかったことは、驚くべきことで はない。必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りであり、そして、その芸当をやっ てのけるように設計された政治的制度のシステムは、だから、かなり適切に《抑制と均衡のシ ステム》として描かれるのはかなり適切なのであり、そしてそのシステムがまた、「民主主 義」とも呼ばれるのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と 民主国家――1963年,pp.199-200,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監 訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







2020年5月5日火曜日

国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))

自由主義の諸原則

【国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))】
自由主義の諸原則
(1)必要悪としての国家
 (a)人は人に対して狼であるか? 故に国家が必要であるか?
 (b)人は人に対して天使であるとしても、国家は必要である。
  依然として弱者と強者とが存在する。弱者が、強者の善良さに恩義をこうむりながら生きる。これを認めない場合は、国家の必要性が承認される。
 (c)国家は絶えざる脅威であり、たとえ必要悪であるとはいえ、悪であることに変わりはない。
  国家が自らの課題を果すためには、権力を持たねばならないが、その権力の濫用から生じる危険を完全に取り除くことはできない。また、権利の保護に対する代価が高すぎる場合もあろう。
(2)民主主義の本質は流血なしに政府を交換できること
 民主主義においては、政府は流血なしに倒されうる。専制政治においてはそうではない。
(3)何事かをなし得るのは市民
 民主主義は枠組みであり、何事かをなし得るのは市民である。
(4)民主主義は、最も害が少ない
 (a)多数派はいつでも正しいとは限らない。
 (b)民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知る限りでもっとも害が少ない。
 (4.1)開かれた社会の必要性
  闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

(5)制度は善用も悪用もできる
 (a)制度は、いつでも両価的である。善用もできれば、悪用もできる。
 (b)制度を支える良い伝統が必要である。伝統は、制度と個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要である。
(6)制度を支える伝統の力
 (a)法はただ一般的な原理を書き記しているのみであり、その解釈や司法過程は、伝統的な正義や原則によって支えられ、発展させられる。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則についても当てはまる。
 (b)個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ、そして可能なかぎり少なくされる。
(7)自由主義の諸原則は、改善のための原則
 (a)自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則である。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。
 (b)言葉を換えるならば、自由主義とは、専制政治への対抗という点を除けば、革命的であるというよりは、むしろ進化を目ざす信条である。
(8)伝統としての道徳的枠組み
 伝統のうちでも、もっとも重要なものは、制度化された法的枠組みに呼応する道徳的枠組みを形成している伝統である。この伝統により、道徳的感情が育成されている。


 「2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ
1 《国家は必要悪です》。国家の権力は必要な範囲をこえて拡大されるべきではありません。この原則は「自由主義のカミソリ」と呼べるでしょう。(こう呼ぶのは、形而上学的実体は必要以上に増やされてはならないという有名な原則を述べているオッカム〔中世の哲学者〕のカミソリにならってのことです。)
 この悪――国家――の必要性を示すためには、《人は人に対して狼である》(Homo homini lupus)というホッブズの見解に訴える必要はありません。それどころか、《人は人に対して猫である》(Homo homini felis)、あるいは実に《人は人に対して天使である》(Homo homini angelus)――換言すれば、まったくの柔和さ、あるいはおそらく、天使のようなまったき善良さがあれば、どんな人であれ他人を害することはないという見解を受けいれたときでも、この国家の必然性を示すことはできるのです。つまり、そのような世界においても、依然として弱者と強者とが存在するでしょう。そして弱者は、強者によって許容してもらう《権利をもたない》のです。弱者は、ですから、彼ら自身を許容してくれる強者の善良さに恩義をこうむることになります。さて、こうした状態を不満足なものと考え、何ぴとも生きる《権利》をもつべきであり、そして強者の力から保護されるべきであると《要求》する者は、(強者であれ、弱者であれ)、万人の権利を保護する国家の必要性を承認することになります。
 しかしながら、国家が絶えざる脅威であり、そしてそのかぎりで、たとえ必要悪であるとはいえ、悪にかわりないことを示すことは困難ではありません。なぜなら、国家はその課題を果たすべきであるならば、個々のどんな市民よりも、あるいはどんな市民団体よりも、より多くの権力をもたねばならないからです。そうした権力の濫用から生じる危険を決して完全に取り除くことはできません。それどころか、われわれはいつでも国家によって権利を保護してもらうことに対して代価を払わねばならない、しかも税金というかたちにおいてばかりでなく、われわれが耐えねばならない品位の低下というかたちにおいても(「当局の高慢さ」)、と思われるのです。しかし、これらすべては程度問題です。要は、権利の保護に対してあまりにも高い代価を払う必要はないということです。
2 民主主義と専制政治(Despotie)との差は、《民主主義においては政府は流血なしに倒されうるが、専制政治においてはそうではない》という点にあります。
3 《民主主義は、市民にいかなる恩恵を示すこともできませんし(またそうすべきでもありません)》。事実として、「民主主義」そのものは、まったくもって何もできないのでして、何ごとかをなしうるのは、民主主義的国家(もちろん政府を含めて)の市民のみです。民主主義は、その内部で国民が行為しうるような枠組み以外の何ものでもありません。
4 《われわれが民主主義者であるのは、多数がいつでも正しいからではなく、民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知るかぎりでもっとも害が少ないからです》。多数(「世論」)が専制政治を決定したときでも、民主主義者は、そのことをもって、自らの確信を放棄する必要はありません。もっとも、自国における民主主義の伝統が十分強固でなかったことを知らされることにはなりますが。
5 《伝統のなかに根づいていないならば、制度だけでは十分ではないのです》。制度というものは――強い伝統の助けがないならば――意図されていた目的とはしばしばまったく対立するような目的のために機能しうるという意味で、いつでも「両価的」です。たとえば、議会内の野党は――大雑把に言って――多数派が納税者のお金を盗むのを妨げるべきです。しかし、わたくしは、この制度の両価性を説明する、ヨーロッパ東南部の国での小さなスキャンダルを思い出します。それは、多額の賄賂がまさに多数党と野党とのあいだで分配された事例でした。
 《伝統は、〔一方における〕制度と〔他方における〕個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要です》。
6 自由な「ユートピア」――つまり、伝統なき博士(tabula rasa)の上に合理的な仕方で設計された国家――などというものは、まったく不可能です。なぜなら、自由主義の原則は、《個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ》(カント)、そして可能なかぎり少なくされることを要求するからです。しかしながら、われわれはこうしたアプリオリな原則を実際にはどう適用できるのでしょうか。われわれはピアニストの練習を妨げるべきでしょうか。それともその隣人が静かな午後を楽しむことを妨げるべきでしょうか。こうした問題の一切は、すでにある伝統や習慣を引き合いに出して――伝統的な正義の感情、つまりイギリスでは慣習法と呼ばれているものを引き合いに出すことによって――そして、公正な裁判官が正しいと認めるところにしたがって、解決されることになるでしょう。《というのも、あらゆる法はただ一般的な原理を書き記しているのみであって、適用されるためには解釈されなければならないからです。しかしながら、解釈はふたたび日常的実践から得られるようなある種の原則を必要とするのであって、そうした原則は生きている伝統によってのみ発展させられます。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則について、とくにあてはまることです》。
7 《自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則であると述べることができるでしょう。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。言葉を換えるならば、自由主義とは(専制政治への対抗という点を除けば)革命的である(revolutionär)というよりは、むしろ進化を目ざす(evolutionär)信条です》。
8 《伝統のうちでも、もっとも重要なものとして数え上げられねばならないのは、社会の(制度化された「法的枠組み」に呼応する)道徳的枠組みを形成している伝統、つまり、正しさや礼儀正しさについての伝統的感覚を体現している伝統、また、そうした伝統によって達成された道徳的感情の度合です》。こうした道徳的枠組みは、必要とあれば、衝突する利害を、正義にかなった仕方で、そして公正に調停するための土台です。こうした道徳的枠組みは、もちろん変わらないわけではありませんが、比較的ゆっくりと変わるものです。《こうした枠組み、こうした伝統の破壊ほど危険なことはありません》。(ナチズムは、そうした破壊を意図的に目ざしていたのです。)そうした破壊がなされるならば、結局のところ、冷笑的なニヒリズム――あらゆる人間的な価値に対する蔑視とそれらの解体――がひき起こされるにちがいありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第11章 自由主義の原則に照らしてみた世論,2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ,pp.242-246,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:自由主義,民主主義,権利,伝統)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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