2021年12月1日水曜日

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))

寛容の限度

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不寛容な少数派が、合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである。
(b)ただし、寛容は相互性を基盤としてのみ存在し得ることを知らしめること。
(c)民主制の廃絶は、勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるので、民主制の廃絶を訴える政党が、仮に民主的手段によって多数派になるようなことがあれば、われわれは寛容である必要 はない。


 「なるほど、寛容の偉大な擁護者たちのうちの誰も――ロッテルダムのエラスムスも、ジョ ン・ロックも、ジョン・スチュアート・ミルも――こうしたとりわけ不愉快な状況の可能性を見 越してはいなかった。しかしながら、私に言わせれば、ロックとミル、そして彼らに連なる 人々の幾人かは寛容と民主性についての理論を展開して、「この新たな状況下で何がなされね ばならないか?」という問いに最適の答えを与えるまでに至っていた。というのも、彼らには 寛容が無制限ではありえないということがはっきり見えていたからである。  われわれの状況に適用するなら、その答えは――ごく実際的な言葉づかいで言って――こういう ものである。すなわち、「これら不寛容な少数派が合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである」。ただし、われわれは彼 らの注意を次の事実へと、すなわち、寛容は相互性を基盤としてのみ存在しうるのであり、そ して、当の少数派が暴力的に行動し始めるときには、そうした少数派を寛容に遇すべきである というわれわれの義務は終わるという事実へと、引きつけておかなければならない。そこで問 題となるのは、「どこで合理的な議論が終わり、暴力行動が始まるのか?」ということであ る。このことを決定することは容易ではないだろう――というのも、こういう終わりや始まりと は、暴力への煽動や民主的体制の転覆のための陰謀といったような行動から始まるものだから である。もちろん、煽動も陰謀も、比較的許容できる行動形態と容易に区別されうるものでは ない。このことは、しかしながら、そうした行動が法と関わる状況のほとんどに当てはまる。 たとえば、故殺と謀殺、あるいはまた、無能力と手抜きとを区別することはおそらく非常に困 難だろう。  道徳的及び理論的立場は、私に言わせれば、原理的にはつねに明白であった。にもかかわら ず、人々の多くは寛容に対してあまりに深く愛着を感じているために、その違いを見ようとは しない。たとえば、民主的な意味での政党――はずみで過半数を得るにせよ、民主制のルールに 制約されている政党――と、それとは反対に――おそらく部分的には公然と、またはまったく秘密 裏に――民主性を廃する陰謀をめぐらしている政党との間には違いがある。後者のような政党が このことをある程度民主的手段によって行なおうがそうでなかろうが、そのことはさほど問題 ではない。いずれにせよ民主制の廃絶は勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるのであ る。そうした政党に対してわれわれは、仮にその政党が過半数を得てしまったとしても、屈服 してはならない。  そうした政党が寛容に遇されることを要求する権利をもつかどうかという問題に対しては、 民主制及び寛容についての理論がはっきりとした答えを与えているように思う。答えは「否」 である。不寛容ということがまだ危惧であるにすぎないとしても、われわれは寛容である必要 はない。また、その危惧が深刻化している場合には、断じて寛容であってはならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第12章 寛容について ――1981年,pp.252-253,ミネルヴァ書房(2014),松枝啓至(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏 郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)








 





個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会と国家

個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)開かれた社会(目的)
 個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態である。自由や寛容や正義、市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような諸価値に支えられている。

(2)民主的統治形態(目的のための手段)
 (a)国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。
 (b)開かれた社会を、内的あるいは外的な侵害から守るためには、強力な国家、強力な政 府の保護を必要とする。
 (c)国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつもその誤用の危険がある。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。
 (d)必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りである。それは、抑制と均衡のシ ステムであり、「民主主 義」とも呼ばれる。

「この時点で、私は、《社会と国家の区別》を、そしてとくに、開かれた社会と、《民主国 家、すなわち民主的統治形態》との区別をはっきりとさせておきたい。  開かれた社会ということで、私は、ある形態の社会生活と、次のような諸価値を意味してい る。すなわち、自由や寛容や正義や市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような、伝統的にそうした社会 生活において大切にされている価値である。  他方、民主国家ということで、私は一組の制度を意味している。それは、憲法や市民法や刑 法、立法機関と執行機関のようなもの、そして、政府や政府が選ばれる規則のようなもの、そ して法廷、市民サービス、公衆衛生や防衛等々の機関などである。  社会と国家との間に私が設けている区別、あるいは、開かれた社会及びその伝統と、民主国 家(つまり「民主政体」)とその制度との間に私が設けている区別が、それほど鮮明なもので はないことは明らかである。そしてこのことが、おそらく、〔この区別を〕把握するのがそれ ほど容易ではない理由であろう。だが、この区別は、われわれ全員にとって、大変有益なもの であるし、重要なものである。その理由は、人間の自由、及び自由な個人からなる自由な社 会、そしてまた、個々人の解放は、すべてそれ自体価値あるものだと考えられているからであ る。おそらく、究極的な価値としてではないにせよ、とにかく、それ自体価値あるものと考え られているからである。しかし、民主国家――つまり、その憲法、統治制度、選挙制度など―― は、《目的への手段》として考えられるべきだと、私は考える。つまり、それらは、大変重要 な目的への大変重要な手段である。しかしそれでも、やはりそれらのいずれも、それ自体が目 的なのではない。  私は、ここで、次のようなテーゼを提案したい。それは、自由で開かれた社会という考え は、《国家というものが、人間個人のため――その自由な市民と、人々の自由な社会生活のため ――に存在すべきだ》という要求を含んでいるというテーゼである。つまり、国家は、自由な社 会のためにあるのであり、その逆ではないという要求を含んでいるのである。このことが含意 している要求は、国家の機能は、その市民の自由な社会に奉仕し、それを保護することだとわ れわれは定めるべきだという要求である。この機能は最も重要な機能である。そして、自由な 社会においては、国家が、いささかでも危険につながる仕方で、この機能の制限を超えていくことは決して許されてはならないのである。  自由な社会の成員と自由な国家の市民は、もちろん、その国家に忠実であるべき義務をもっ ている。なぜなら、国家の存在は、社会の存続にとって不可欠だからである。そして、市民は 必要が生じたときに、国家に奉仕するだろう。とはいえ、この忠誠心に、ある程度の警戒心 を、そしてときには、国家とその官吏についてのある程度の不信を結び付けることも、市民の 義務である。その国家が、その合法的な役割の限界を超えないことを、監視し、調べることも 彼の義務である。というのも、国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつも その誤用の危険――自由にとっての危険――があるからである。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。そして、結局のところ――市民の側におけるほとんど嫉妬にも近い 用心深さの伝統を含んだ――《自由な社会の伝統》だけが、すべての自由がそれに依存している ところの、市民の点検と制御を提供することによって、国家権力の均衡をとることができるの である。  自由で開かれた社会という考えが、最も難しい政治問題を必然的に生み出すことを理解する ことは、大変に重要かつ必要なことだと私は思う。というのも、もし開かれた社会を、内的あ るいは外的な侵害に屈しないようにしたいなら、相当に強力な国家、あるいは相当に強力な政 府の保護を必要とするからである。他方、開かれた社会は、もしもその国家権力が、あまりに も強くなるならば、屈してしまうだろう。もしも国家権力があまりにも大きなものになれば、 そのとき、チャーチルがかつて言ったように、「われわれの公僕は、われわれの反公民的御主 人様になるだろう」。しかし、開かれた社会は、主人を受け入れてはならない。とくに、その 権力と権威の地歩を固めようとしがちなすべての主人を受け入れてはならない。  こうしてわれわれは、開かれた社会が、政治的には、いつも、そして必然的に、きわめて不 安定な地位にあることが分かる。というのも、それは、強力ではあるが、強力すぎない政府を 必要とするからである。それは、本来的に不安定な一種の政治的な均衡状態を必要としてい る。ほとんどの社会が、この扱いにくい問題の解決を果たさなかったことは、驚くべきことで はない。必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りであり、そして、その芸当をやっ てのけるように設計された政治的制度のシステムは、だから、かなり適切に《抑制と均衡のシ ステム》として描かれるのはかなり適切なのであり、そしてそのシステムがまた、「民主主 義」とも呼ばれるのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と 民主国家――1963年,pp.199-200,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監 訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







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