内的自己満足と後悔
【過去なされた行為による〈善〉と〈悪〉の感受:内的自己満足、後悔(ルネ・デカルト(1596-1650))】意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、わたしたち自身によって過去なされたことが、「内的自己満足」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。また、わたしたち自身によって過去なされたことが、「後悔」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
「わたしたちは現在と同様、過去の善悪の原因も考慮に入れることができる。わたしたち自身によってなされた善は、内的な満足を与えてくれる。これはあらゆる情念のなかで最も心地よいものだ。反対に、悪は、後悔を引き起こす。これは最も辛いものだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六三、p.58、[谷川多佳子・2008])
「後悔は、内的自己満足と正反対であり、何か悪い行動をしたと思うことからくる、一種の悲しみだ。そして、その原因が自分だけにあるので、その悲しみはたいへん辛い。それでもやはり、後悔しているその行動が確かに悪いものであり、かつ、それについて確実な認識が得られているとき、その悲しみはきわめて有益である。これにより、次にはよりよく行なうように促されるからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一九一、p.163)
(索引:内的自己満足、後悔)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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